見えない透明人間
レオンの劇的な変化は、瞬く間に学園中の噂となっていた。
「剣聖が笑った」「仲間を守るために盾になった」
そんな噂が飛び交う中、北校舎の特別カウンセリング室にも、少しずつ変化が訪れていた。
「……あの、失礼します」
ドアが細く開き、遠慮がちな声が聞こえた。
私は読んでいた本を置き、顔を上げた。しかし、そこには誰もいない。
いや、違う。
「どうぞ、入って。そこにいるのは分かっているわよ」
私がドアの影に向かって微笑むと、空気が揺らぎ、一人の小柄な男子生徒が姿を現した。
長い前髪で目元を隠した、色素の薄い少年。昨日の模擬戦で、レオンに守られた支援魔術師のニルス・クローバーだ。
「……僕が見えるんですか?」
彼は驚いたように目を丸くしている。その声は小さく、今にも消え入りそうだ。
「ええ。カウンセラーは、目に見えないものを見るのが仕事ですから」
私はソファを勧め、いつものようにお茶の準備を始めた。
ニルスは恐縮しながらソファの端に浅く腰掛けた。彼の存在感は極端に薄い。
気配を消す隠密魔法の使い手であることは知っていたが、魔法を使っていない時でさえ、彼は背景に溶け込んでしまいそうだった。
私は『心のカルテ』をそっと開いた。
そこに見えたのは、今にも霧散しそうなほど淡く、透明に近い色彩だった。
「……レオン君に、ここを勧められたの?」
私が尋ねると、ニルスはこくりと頷いた。
「『あそこに行けば、本当のことが話せる』って。……でも、僕なんかが来てよかったんでしょうか。僕は、ただのお荷物なのに」
「お荷物? どうしてそう思うの?」
「昨日の試合も……レオン君に助けられただけです。僕がもっと強ければ、彼に怪我をさせることもなかった。僕はいつもそうです。いてもいなくても変わらない。誰の記憶にも残らない」
ニルスは膝の上で拳を握りしめた。
隠密魔法の適性が高すぎるがゆえの悩み。彼は幼い頃から、周囲に気づかれず、会話の輪に入れないことが多かったという。
学園でも、彼の支援魔法は地味で目立たない。勝利のスポットライトは常に前衛に当たり、彼には感謝の言葉さえ向けられないことが常だった。
「……僕は、透明人間なんです。誰かに必要とされたいのに、誰にも気づいてもらえない」
その言葉には、深く静かな絶望が滲んでいた。
自己肯定感の欠如。承認欲求の飢餓状態。このままでは、彼は自分自身の存在意義を見失い、本当に『影』となって消えてしまうかもしれない。
私は入れたての紅茶を彼の前に置いた。湯気と共に、柑橘系の明るい香りが立ち上る。
今日のブレンドは『陽だまりのオレンジ』。沈んだ心を温め、存在を肯定する香りだ。
「ニルス君。私は昨日、観客席でずっと試合を見ていたわ」
「……え?」
「あなたが、レオン君が突っ込む0.5秒前に、彼に『加速』をかけ続けたことも。敵の魔導士の視界を、微弱な幻影魔法で撹乱していたことも。最後のレオン君の一撃に合わせて、『硬化』を拳に乗せたことも」
ニルスが顔を上げた。その瞳が揺れている。
「全部、見えていたわ。あの勝利は、レオン君一人のものじゃない。あなたの的確な支援があったからこそ、彼は勝てたのよ」
「で、でも、誰もそんなこと……先生たちでさえ……」
「派手な魔法だけが魔法じゃないわ。あなたの魔法は、水のように隙間を埋め、土台を支える魔法。それはとても繊細で、高度な技術よ」
私は彼の目を見て、はっきりと告げた。
「あなたは透明なんかじゃない。そこにいて、戦っていた。私はちゃんと見ていたわ」
ニルスの目から、ぽろりと涙がこぼれた。
彼は慌てて袖で顔を拭ったが、涙は止まらなかった。
誰にも気づかれないまま積み重ねてきた努力。それを誰かに認められた瞬間、彼の中で凍りついていた何かが溶け出したのだ。
「……悔しかったんです。僕も、みんなと一緒に笑いたかった。勝利の輪に入りたかった……でも、僕なんかが入ったら邪魔になるんじゃないかって……」
「そんなことないわ。レオン君も言っていたでしょう? 『お前の強化魔法が必要だ』って」
「……はい」
「それはお世辞じゃないわ。彼は命がけであなたを守った。それは、あなたが彼にとって『守るべき価値のある仲間』だったからよ」
ニルスは嗚咽を漏らしながら、何度も頷いた。
私は立ち上がり、棚から小さな手鏡を取り出して彼の前に置いた。
「見てごらん」
鏡の中には、泣きじゃくる少年の顔が映っている。
「ちゃんと映っているでしょう? これがあなたよ、ニルス君。泣いて、悔しがって、誰かに認められたいと願う、人間らしいあなた」
ニルスは震える指で、鏡の中の自分に触れた。
「……いますね。僕……」
「ええ。あなたはここにいるわ」
しばらくして、涙を拭い終えたニルスは、少し照れくさそうに紅茶を飲んだ。
その頬には、確かな血色が戻っていた。
心のカルテに目をやると、彼の心の色は、透明な霧から、しっかりとした輪郭を持つ『新緑の色』へと変わろうとしていた。それは、これから芽吹き、成長していく若草の色だ。
「……先生。僕、もっと支援魔法を極めます」
帰り際、ニルスはしっかりと顔を上げて言った。
「誰にも気づかれなくてもいい。でも、仲間にだけは『あいつがいてよかった』って思われるような、最高の影になります」
「ええ。素敵な目標ね。またいつでもお茶を飲みにいらっしゃい。影の努力を誰かが見ていたくなったらね」
ニルスは深く一礼し、部屋を出て行った。
ドアが閉まった後も、彼が残していった『存在感』は、温かく部屋に残っていた。
私はカルテにペンを走らせる。
『患者番号2:ニルス・クローバー。症状:希薄な存在感による自己喪失の危機。処置:具体的行動の承認と、存在の肯定。経過:自己の役割に新たな意義を見出す』
透明人間はもういない。そこには、確固たる意志を持った一人の魔術師がいるだけだ。




