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勇者学園の戦わない保健室 〜傷だらけの英雄たちに、とびきりのハーブティーを〜  作者: 伝福 翠人


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3/12

見えない透明人間

レオンの劇的な変化は、瞬く間に学園中の噂となっていた。


「剣聖が笑った」「仲間を守るために盾になった」


そんな噂が飛び交う中、北校舎の特別カウンセリング室にも、少しずつ変化が訪れていた。


「……あの、失礼します」


ドアが細く開き、遠慮がちな声が聞こえた。


私は読んでいた本を置き、顔を上げた。しかし、そこには誰もいない。


いや、違う。


「どうぞ、入って。そこにいるのは分かっているわよ」


私がドアの影に向かって微笑むと、空気が揺らぎ、一人の小柄な男子生徒が姿を現した。


長い前髪で目元を隠した、色素の薄い少年。昨日の模擬戦で、レオンに守られた支援魔術師のニルス・クローバーだ。


「……僕が見えるんですか?」


彼は驚いたように目を丸くしている。その声は小さく、今にも消え入りそうだ。


「ええ。カウンセラーは、目に見えないものを見るのが仕事ですから」


私はソファを勧め、いつものようにお茶の準備を始めた。


ニルスは恐縮しながらソファの端に浅く腰掛けた。彼の存在感は極端に薄い。


気配を消す隠密魔法の使い手であることは知っていたが、魔法を使っていない時でさえ、彼は背景に溶け込んでしまいそうだった。


私は『心のカルテ』をそっと開いた。


そこに見えたのは、今にも霧散しそうなほど淡く、透明に近い色彩だった。


「……レオン君に、ここを勧められたの?」


私が尋ねると、ニルスはこくりと頷いた。


「『あそこに行けば、本当のことが話せる』って。……でも、僕なんかが来てよかったんでしょうか。僕は、ただのお荷物なのに」


「お荷物? どうしてそう思うの?」


「昨日の試合も……レオン君に助けられただけです。僕がもっと強ければ、彼に怪我をさせることもなかった。僕はいつもそうです。いてもいなくても変わらない。誰の記憶にも残らない」


ニルスは膝の上で拳を握りしめた。


隠密魔法の適性が高すぎるがゆえの悩み。彼は幼い頃から、周囲に気づかれず、会話の輪に入れないことが多かったという。


学園でも、彼の支援魔法は地味で目立たない。勝利のスポットライトは常に前衛に当たり、彼には感謝の言葉さえ向けられないことが常だった。


「……僕は、透明人間なんです。誰かに必要とされたいのに、誰にも気づいてもらえない」


その言葉には、深く静かな絶望が滲んでいた。


自己肯定感の欠如。承認欲求の飢餓状態。このままでは、彼は自分自身の存在意義を見失い、本当に『影』となって消えてしまうかもしれない。


私は入れたての紅茶を彼の前に置いた。湯気と共に、柑橘系の明るい香りが立ち上る。


今日のブレンドは『陽だまりのオレンジ』。沈んだ心を温め、存在を肯定する香りだ。


「ニルス君。私は昨日、観客席でずっと試合を見ていたわ」


「……え?」


「あなたが、レオン君が突っ込む0.5秒前に、彼に『加速ヘイスト』をかけ続けたことも。敵の魔導士の視界を、微弱な幻影魔法で撹乱していたことも。最後のレオン君の一撃に合わせて、『硬化エンチャント』を拳に乗せたことも」


ニルスが顔を上げた。その瞳が揺れている。


「全部、見えていたわ。あの勝利は、レオン君一人のものじゃない。あなたの的確な支援があったからこそ、彼は勝てたのよ」


「で、でも、誰もそんなこと……先生たちでさえ……」


「派手な魔法だけが魔法じゃないわ。あなたの魔法は、水のように隙間を埋め、土台を支える魔法。それはとても繊細で、高度な技術よ」


私は彼の目を見て、はっきりと告げた。


「あなたは透明なんかじゃない。そこにいて、戦っていた。私はちゃんと見ていたわ」


ニルスの目から、ぽろりと涙がこぼれた。


彼は慌てて袖で顔を拭ったが、涙は止まらなかった。


誰にも気づかれないまま積み重ねてきた努力。それを誰かに認められた瞬間、彼の中で凍りついていた何かが溶け出したのだ。


「……悔しかったんです。僕も、みんなと一緒に笑いたかった。勝利の輪に入りたかった……でも、僕なんかが入ったら邪魔になるんじゃないかって……」


「そんなことないわ。レオン君も言っていたでしょう? 『お前の強化魔法が必要だ』って」


「……はい」


「それはお世辞じゃないわ。彼は命がけであなたを守った。それは、あなたが彼にとって『守るべき価値のある仲間』だったからよ」


ニルスは嗚咽を漏らしながら、何度も頷いた。


私は立ち上がり、棚から小さな手鏡を取り出して彼の前に置いた。


「見てごらん」


鏡の中には、泣きじゃくる少年の顔が映っている。


「ちゃんと映っているでしょう? これがあなたよ、ニルス君。泣いて、悔しがって、誰かに認められたいと願う、人間らしいあなた」


ニルスは震える指で、鏡の中の自分に触れた。


「……いますね。僕……」


「ええ。あなたはここにいるわ」


しばらくして、涙を拭い終えたニルスは、少し照れくさそうに紅茶を飲んだ。


その頬には、確かな血色が戻っていた。


心のカルテに目をやると、彼の心の色は、透明な霧から、しっかりとした輪郭を持つ『新緑の色』へと変わろうとしていた。それは、これから芽吹き、成長していく若草の色だ。


「……先生。僕、もっと支援魔法を極めます」


帰り際、ニルスはしっかりと顔を上げて言った。


「誰にも気づかれなくてもいい。でも、仲間にだけは『あいつがいてよかった』って思われるような、最高の影になります」


「ええ。素敵な目標ね。またいつでもお茶を飲みにいらっしゃい。影の努力を誰かが見ていたくなったらね」


ニルスは深く一礼し、部屋を出て行った。


ドアが閉まった後も、彼が残していった『存在感』は、温かく部屋に残っていた。


私はカルテにペンを走らせる。


『患者番号2:ニルス・クローバー。症状:希薄な存在感による自己喪失の危機。処置:具体的行動の承認と、存在の肯定。経過:自己の役割に新たな意義を見出す』


透明人間はもういない。そこには、確固たる意志を持った一人の魔術師がいるだけだ。

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