第五話 外界と感応覚
通路の突き当たりにある小さな扉に手をかける。
軋むような音を響かせながら、少しずつ開いていく。
白くまばゆい光が差し込む。ラボの暗がりに慣れきったルカの瞳に鋭い刃のように刺さる。
あまりの眩しさに目を細め、顔を伏せた。
頬を撫でる、ひんやりと、それでいて優しいそよ風。
鼻をくすぐる土の匂い。
「これが外か……」
深呼吸を一つして、ルカは最初の一歩を踏み出した。
数歩歩いたところで振り返ってみる。
人一人がやっと通れるかどうかという程度の大きさの窪みがある。ただ、そこは土壁にしか見えない。
「なるほどね……接近しても何も存在しないように見えるのか。しかも……」
足元の小石を拾い、自分が出てきたところに向かって放り投げる。
トンッと音がして、ルカの目に見えている土の壁に当たるとそのまま地面に落ちた。
「B.N.I.Cを持たない存在には、実際にただの土壁や地面としてそこに存在するんだな……今の世界じゃ、超のつくオーバーサイエンスだよ。まったく。」
少し肩をすくめたような仕草をした後、ルカは近くの小高い丘の上まで歩いた。
見渡す限りの草原が広がっていて、多くはないが大小さまざまな茂みや木々があるのが見える。吹き抜ける風がざわざわと木の葉を揺らしていた。
眼下に広がっている小さな丘や広大な草原。その少し先、人の往来で踏み固められた東西に伸びる道が見える。
「街道はあれか……舗装も何もないんだな。」
東に進めば最初の目的地と考えている村へつながるはずだ。
丘の上から緩やかな傾斜を下り、ルカは街道に降り立った。
周囲を見回してみたが、ルカ以外に人影はない。立地のせいだろうが、そもそもこの街道自体、人の往来が少ないのだろう。
肩にかけたバッグを持ち直して、東へ向かって歩き出した。
しばらく歩きながら、身体の調子を確かめるように手足を動かす。
歩く・走る・跳ぶ。ステップを踏んで前後左右、斜めも含めて動き回り、頭のイメージ通りに動けるか確認する。
ラボでのトレーニングの成果か、おかしな感じはない。
「最低限は動けそうだな。さて、次は……」
両足を肩幅に開いて真っ直ぐに立ち、大きく息を吸う。
目を閉じ、意識を身体の内側に集中する。
すると、風が吹いているわけでもないのに、耳の後ろのあたりの髪が少し靡くような、震えるような、形容のしがたい動き方で揺れていた。
意識を胸から腹を通って腰から下へと移し、最後に足全体に向ける。
吸ったまま肺の内に留めていた空気を言葉と共に一気に吐き出した。
「……《敏捷性強化》!」
ルカの両足が、見逃してしまいそうなほどかすかにではあるが、風がまとわりついたように、揺らいで見える。違和感とも言うべき雰囲気。
一歩踏み出し、地面をグッと踏み込むと、一気に走り出した。
踏み込んだ足が地面を蹴る瞬間、突風のように驚異的な加速を見せる。おおよそ人間が普通に走れる速度ではない。
先ほどまで身体の動きを確認していた場所がみるみる後方に遠ざかり、あっという間に見えなくなってしまった。
「わかっちゃいたけど、早ぇ~……」
初めての外の世界。ラボとは違う広く果てのない世界。長く伸びた街道。
心の奥に小さく灯ったこれからの期待感という名の光に、ルカの表情が少しほころぶ。
「ははっ……なんかちょっと、楽しくなってき……うわっ!」
調子が出てきた瞬間に、つま先に走る衝撃。
回る世界。目の前に迫る、大地。
次の瞬間、ルカは声も出せず地面を転がった。
「いたたた……走る感覚に慣れないうちに調子に乗りすぎたな……」
苦笑いしながら、強打した右膝と左腕をさする。
「これも慣れなきゃなぁ……」
無理せずゆっくり練習しながら行くか、などとぼやきながら、立ち上がったルカは衣服についた砂や汚れをはたき、また東へ向かって走り出した。
◇◇◇
時は少し遡って、ルカがラボで身体作りのために自分を追い込んでいた頃。
生活支援区画でアリスから旧時代には知られていなかった生物の能力についての説明を受けていた。
「ってことは、生物の感覚って五感じゃなくて六感ってこと?」
『はい。以前は視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚の5つが生物の持つ感覚であると考えられていましたが、今はこれにもう一つの感覚である《感応覚》があるとされています。』
元々は、「背後に誰かいる」とか、「どこかから視線を感じる」といった、これまで「気のせい」と一笑に付されていたものが、実は生物の感覚として本来備わっているものであると判明したのだという。
さらにこの《感応覚》は個々人の才能や訓練によって大きく引き伸ばすことができ、自身とその周囲に有形無形の影響力を行使する力となる。
国や地域によっては異なる呼び方をする場合もあるらしいが、一般的にこの力は《感応術》と呼ぶのだそうだ。
『この感覚は"どこに、何を、どうしたいのか"といったイメージを強く持つことで、様々な事象を引き起こすことができるようです。』
力を強めたいと思えば意図した場所に力を与え、火を灯したいと思えば同じく意図した場所に火を灯す。
旧時代の物語によく出てくる魔法のようだと思えばその通りだが、何でも実現可能というわけではないらしい。
一言で言えば、世界の物理法則や理とも言うべき事象を完全に無視したようなことはできないようだ。
例えば、死んで身体も失われてしまった人を蘇生させることはできない、といった感じで。
「身体作りとは別で習得しておいた方がいいな。外に出た後、トラブルがあった時にとりあえず逃げるって選択肢が取れそうだし……」
生存確率を上げるための手段は多いほうがいい。
ルカは体力がある時は身体作りを、疲れて身体を休めている時は感応術の練習を、可能な限り繰り返すことにした。
『感応術はイメージを強く持つことが大事ですが、力を行使する瞬間にその効果に則した言葉を発するのがよいとされています。火を灯したいのであれば《発火》といった感じですね。使用者にとって意味を持つのであればどのような言葉でも代用可能とも聞きます。』
B.N.I.Cにも知識として入れてくれているようで、考えを巡らせると、いろいろと発動キーとして使われている言葉もわかる。慌ててアリスから知りうる限りの情報を教えてもらわなくても問題なさそうだ。
『あと、これは私なりの推測でしかないのですが……』
「推測……?」
世界各地に点在しているサテライトにはあらゆる情報収集のための機能が備わっている。旧時代には存在しなかった《感応術》という考えや概念について、アリスはこのサテライトが得た情報で知見を得ていた。
そうして情報を分析し集約する過程で、何か思い当たったらしい。
『システムでしかない私では再現も検証もできませんので、何の根拠もありませんが、おそらく事象の原理を知っているかどうかで引き起こせる現象の強度が強まるのではないかと推測しています。』
「つまり、ただ"火を出したい"と思うより、"火は可燃物の酸化による燃焼だ"と理解している方がより強まるってこと?」
『その通りです。ふふっ……理解の仕方がファーミリア博士のようです……』
アリスが少し笑った。どこか懐かしさを感じているかのような声音に、本当にどこか感情があるんじゃなかろうかと疑ってしまう。
「その推測が当たっているとしたら、この世界で生きる上ではかなりのアドバンテージだよな。なにせここには旧時代の膨大な知識が入ってるわけだし。」
右手でこめかみ辺りをトントンッと触りながら答える。
『そうなるといいですね。』
「そうだな……」
ルカはベッドに移動してドサッと倒れ込むと、仰向けに寝転がり、目を閉じた。
「今日は身体作りと感応術の説明でヘトヘトだし、寝ることにするよ。」
大きく深呼吸をして、身体から力を抜く。
「おやすみ、アリス……」
『はい、おやすみなさい……』
出立に向けて身体を追い込み、疲労の溜まったルカが眠りの世界に落ちていくのに時間はかからなかった。




