プロローグ 目覚め
――ピッ――ピッ――ピッ――ピッ……
無機質な空間に電子音が反響している。
ガラスとも金属とも言えない素材でできた壁が囲むその空間に、明かりはなく、空間の中央に置かれた石棺とも言うべき直方体の大きな箱が異様な存在感を放っていた。
箱の向かって右奥には何かの操作用端末。左奥には二人がけの小さなソファ。
部屋の入口に掲げられたプレートには「生体培養室」の文字が刻まれていた。
箱には小さな小窓と画面がついている。ところどころ表示が欠けてしまった画面には残り時間と思しき数値が表示され、音が鳴るのに合わせて一ずつ数値が減っていく。
その小窓から見える内部は、薄い緑色の液体で満たされていた。
――起床シークエンスヲ開始シマス
残り時間がゼロを示した瞬間、無機質な音声アナウンスが響いた。
同時に、低く重い唸りとともに部屋全体が微かに震え出す。
――タンク内培養液ノ排水ヲ開始シマス
ゴボゴボ……と水圧に押し流される音。薄緑の液体がホースを伝って外へ抜け落ちていく。
箱の中で揺れる影は、徐々にその輪郭を露にしていった。
――排水完了――培養槽カバーヲ開放シマス
しばしの静寂。やがて「プシュッ」という圧力が抜ける音がして、前面のカバーが軋みながらゆっくりと持ち上がる。
冷たい蒸気が白く立ちのぼり、閉ざされていた内部が初めて外気に触れた。
――対象ノ意識レベルヲ覚醒状態ヘ移行シマス
――B.N.I.C Type-Sノ正常稼働ヲ確認シマシタ
――培養プロセスヲ完了
――本システムノ動作モードヲ変更シマス
そのアナウンスが響いた直後、生体培養室の壁際、足元に青白いラインのような光源が灯り、ほとんど漆黒の室内に、かろうじて見渡せる程度の光がもたらされた。
ほどなくして箱の中に横たわっていた人影の胸が微かに上下する。
黒髪の整った顔立ち。年の頃は二十歳ほどだろうか。スラリと細身ではあるが均整の取れた肢体。
蒼白な顔の唇から、初めての呼気が震えるように漏れ出した。
瞼がわずかに震え、長い眠りの底から引き上げられるようにして、碧色の瞳があらわになった。
青白い光を受けて、潤んだ瞳が世界を映し出す。
それが《彼》の最初の目覚めだった。
◇◇◇
「はっ……はっ……はっ……」
息を吸う。ごく浅い呼吸しかできず、うまく吸えている感じがしない。
気管の奥、肺の隅々まで空気を取り込む感覚と、まだ少し体表に残る培養液の這う感覚が、低い体温を引き下げようとするが、意識してできるだけ深く呼吸する。
視界はまだ暗いし、身体も冷たく重い。
繰り返す呼吸が、肺が、鼓動が、酸素を取り込んで身体を巡る感覚が、揺蕩う意識を強く叩く。
少しばかり経って、視界が暗がりに慣れ始め、不明瞭な視界に映る世界が、次第に像を結び始める。
周囲に視線を巡らせると、自分が何か大きな箱の中にいることがわかった。
右手を箱の縁に伸ばして手を掛ける。
同時に左手を少し引いて箱の底を押さえ、腕に力を込め、上体を起こす。
「うぅ……くっ……」
思うように力は入らないが、ガクガクと両手を震わせながら、なんとか上体を起こすことに成功した。
「はぁ……はぁ……はぁ……」
肩で大きく息をしながら、再度周囲を見回してみる。
鮮明な視界を取り戻した瞳が、薄暗い空間の床を走る青白い線状の光源を捉えた。
その一方で天井は仄暗いまま。
左手に「操作パネル」、正面に「デスク」と「椅子」、右手に「ソファ」……
部屋の中に配置されている物品の名前はスラスラと出てくるが、そこで奇妙なことに気がついた。
名前も、年齢も、何もかも、目覚めるより前のあらゆる「思い出」といわれる記憶が、一切思い出せない。
自分にかかわることだけがきれいに抜け落ちている。頭にズキリと鋭い痛みを感じ、左手でこめかみを押さえた。
深く呼吸を続け、頭痛が収まるのを待つ。落ち着くのを見計らったのか、唐突に機械的な質感をまといつつもどこか優しげな女性の声が聞こえてきた。
『おはようございます。気分はいかがでしょうか。気持ちが悪い、身体が痛い、などの違和感はありませんでしょうか。』
こちらの体調を気遣う声。上体を起こした姿勢のまま、問われたことに答える。
「おはよう《アリス》。まだ少し頭が痛いのと気怠さ、あとは身体が自由に動かせるほど力が入らない。それ以外は特に問題ない感じかな。」
意識することなく自然と出てくるアリスの名前も、彼女の言葉に回答することも、それがさも当たり前に感じる。違和感など微塵も感じない。
『特におかしな自覚症状はないようですね。私のことをちゃんと《A.R.I.C.E》と呼んでくれましたので、記憶の定着も問題なしと判断します。また外部スキャンでも問題は検出されませんでした。よって生体培養プロセスは問題なく完了したものと判定します。』
何やら穏やかでない内容が語られているような気がする。
『それでは改めまして。私は《A.R.I.C.E》と申します。この《ラボ》の管理システムです。どうぞ気軽に《アリス》と呼んでください。目覚めて間もないところ申し訳ないのですが、貴方のことから少しずつ説明していきますね。』
「俺の……こと……」
名前すら知らない自身のこと。
これから何をアリスが語るのか。
――恐怖は常に無知から生じる――
どこかの思想家の言葉が、今の自分の気持ちを驚くほど正確に表していた。




