#8 静かな祈り
翼の手術当日、僕は学校を休んだ。
教室にいても、何も手につかないことが分かっていたからだ。家で、ずっと時計を見ていた。
手術は午後1時から。何時間かかるのかも、成功率も、
なにもわからない。ただ、待つしかなかった。
ベッドの上でスケッチブックを開いた。
でも、白いページを前にしても、何も描けなかった。
鉛筆を握ったまま、ただ時間だけが過ぎていった。
「また会おう」
病室での翼の言葉が、何度も頭をよぎった。
本当に、もう一度会えるのだろうか。
もし、何かあったら…
そんな考えを振り払うように、僕はページをめくった。そこには、前に描いた翼の絵があった。
夕焼けに包まれて、少しだけ寂しそうに笑う顔。
「これじゃ、まだ終わっていない」
小さくつぶやいた自分の声が、静かな部屋に響いた。
僕は新しいページを開いた。
前と違って、今日はぜんぜん怖くなかった。
人を描くことが。感情が見えてくることが。
むしろ、楽しいように思えてきた。
全部、翼のおかげだ。だから。
髪の流れ。優しい目元。そして、あの言葉をくれた口元。
「おかえりって…言いたいな」
手術がうまくいく保証なんて、どこにもない。
でも、僕にできることは、描くことだ。
翼が戻ってきたとき、「こんな未来が待ってるよ」って見せられるような、そんな絵を。
描きかけでもいい。
今の僕には、この不完全な線が、きっと今できること全てだ。
時計の針が、午後3時を指した。
僕は鉛筆を置いて、深く息を吐いた。
願いを込めた、静かな午後だった。
(#9に続く)




