第4章:記憶を喰らう影
焚き火の炎が、小さな輪を描くように揺らめいていた。夜の森は静かで、風の音すら聞こえない。薪をくべながら、ぼんやりと火を見つめる。じんわりとした温かさが手のひらに伝わるが、なぜか落ち着かない。
「シオリ、眠れそう?」エリが隣で毛布を肩に掛けながら尋ねた。
「うん、でも......なんだか少し落ち着かないかな」
私は周囲を見回した。闇が森の奥へと続き、何かがこちらを見ているような錯覚を覚える。手のひらの中に収めた記憶の欠片がかすかに震えている気がした。
「星が見えないね」
エリが空を見上げる。その言葉につられて顔を上げる。木々の隙間から見える夜空は、曇っているわけでもないのに妙に暗い。まるで、何かが光を覆い隠しているかのように。
その瞬間——
ふっと火の揺らぎが強くなり、次いで急に弱まった。まるで、炎が怯えているようだった。
森の中に、異様な気配が満ち始める。
「シオリ......?」エリが不安げな声を漏らす。
風が止んだ。空気が重くなり、肌にまとわりつくような冷気が漂う。それは、じわじわと這い寄る影のように私たちを包み込んでいく。
「エリ、逃げよう!」
急ぎ立ち上がると、エリの手を強く引いた。
背後から、何かが這い寄るような音が響く。
森の木々がざわめき、影が形を持つ。異形の者たちが姿を現した。
「なにあれ......!」エリの息が詰まる。
闇が具現化したかのような存在。それは人の形に見えたが、目も口もなく、ただ黒い霧のような体を漂わせながら、ゆっくりと近づいてくる。
「シオリ、どっちへ——」
エリが言いかけた瞬間、前方の木々の隙間からも黒い影が現れた。
「囲まれた......!」息を呑む。
背後にも、前方にも、闇の使者が迫る。このままでは逃げ場がない。
「エリ、手を離さないで!」
エリの手を引き、右手の暗闇の中を必死に駆けた。背後から迫る闇の気配はますます濃くなり、冷たい瘴気が肌を刺すように漂ってくる。
「シオリ!」
エリの声が悲鳴に近くなる。二人とも息を切らしながら必死に駆けたが、私は木の根に足を引っかけてしまい転倒してしまった。
「シオリ、大丈夫!?」
エリが駆け寄ろうとしたその瞬間、黒い霧のような闇が二人を包み込もうと渦を巻く。逃げ場はない。
だが、その時だった。
「ワシにまかせろ!」
響く声が森にこだました。
次の瞬間、闇を縛るかのような光の鎖が一閃し、黒い霧の動きが鈍る。暗闇の中から、一人の男が現れた。
「おぬしら、大丈夫か?」
白髪交じりの髪を肩まで伸ばし、長い旅路を思わせる風格を纏った男。その瞳は鋭く、だがどこか温かみがあった。
「誰......?」私は乱れた息を整えながら尋ねた。
男はゆっくりと歩み寄り、手の中に光る欠片を取り出した。それはまるで星のように淡い輝きを放っている。
「ワシの名はリオン。おぬしらを助けてやろう。」
リオンの手の中の欠片が淡い光を放った。その瞬間、束縛されていた闇がじりじりと後退する。まるでその光を恐れているかのように、黒い影がうごめいた。
(あれは......記憶の欠片!?)
驚きに息をのむ。言葉を発するよりも早く、リオンはさらに念を込めるように手をかざした。すると、光が鎖のように編まれ、闇を締め上げるように絡みついていく。
闇が軋むような音を立てた。やがて、その黒い塊は弾けるように霧散し、森の中に静寂が戻る。
リオンは手のひらに残るわずかな光を見つめ、深く息をついた。
「もう大丈夫じゃ」
肩で息をしながら、エリと視線を交わす。まだ心臓が速く打っていた。
「今のは......何だったんですか?」エリがかすれた声で尋ねる。
「あれは、忘却の闇じゃ。記憶を喰らい、全てを無にする存在よ。」
「あれが忘却の闇......。あ、助けていただき、ありがとうございます。」
リオンは小さく頷く。
「ねぇシオリ、焚き火の所まで戻ろうよ」
エリの言葉に、私はようやく足元に意識を向ける。闇が消えたとはいえ、ここに長居するのは気が引けた。
「うん、そうだね。リオンさんもどうですか?」
「そうじゃな、ここは落ち着かんからの。ついて行くとしよう」
まだ足元がおぼつかない感覚を覚えながらも、私はエリとともに焚き火の場所へ向かって歩き出した。