第3章:不安と希望を胸に
翌朝、世界がまだ薄明かりに包まれる中、私はそっと支度を整えた。母が用意してくれた食料と温かな毛布、そして父が渡してくれた小さなお守り。それらを鞄に詰め込みながら、胸の奥にじんわりと熱いものが込み上げる。
玄関に立つと、父が優しく私の肩を叩いた。母は心配そうに微笑みながら、そっと私を抱きしめる。
「気をつけてな、シオリ。約束してくれよ」
「大丈夫、必ず帰ってくるから」
そう約束を交わし、ふと振り向くと、祖父母が静かにこちらを見つめていた。
祖父は私の額にそっと手を当てると、目を細めて頷いた。
「お前ならきっと大丈夫じゃ。だが、焦るな。迷ったら立ち止まり、自分の心とよく話すのじゃ」
「はい......ありがとう、おじいちゃん」
祖母はそっと私の手を握り、優しく微笑んだ。
「シオリ、あなたの選んだ道を信じて。無理をしすぎないようにね」
その温かな声に、私は目頭が熱くなるのを感じながら、小さく頷いた。
「うん......いってきます」
家族の温かな眼差しに背中を押されるように、私は一度も振り返ることなく家を出た。外に出ると、まだ薄暗い村の通りに、家族の見送る声が風に乗って届く。その声に励まされるように歩き出した。
村の端に差し掛かったとき、ふと足を止める。そこには、アメリア様が静かに佇んでいた。
「シオリ、来たわね」
「アメリア様......」
彼女は私の顔を見つめると、穏やかに微笑んだ。
「まずはネネの国を目指しなさい。そこにある図書館なら、記憶の伝承に関する手がかりが見つかるかもしれません」
「ネネ......」
「ええ、知識が集まる場所です。あなたの旅にとって、大きな助けになるはず。でも、気をつけなさい。途中のミロキパル森林には、忘却の闇の影響を受けた『影』が現れるかもしません」
「......影、ですか?」
アメリア様はゆっくりと頷き、少しだけ表情を曇らせた。
「今のところ闇の気配は感じませんが、何が起こるか分かりません。気を付けるに越したことはありません」
息をのみ、ぎゅっと拳を握る。
「分かりました、気をつけます」
「ええ、あなたならきっと乗り越えられるわ。シオリ、あなたの旅が無事であることを祈っています」
アメリア様の言葉を胸に刻み、私はもう一度深く頷いた。
そして、再び足を踏み出す。
......とはいえ、一人旅なんて初めてだ。胸の奥で高鳴る期待と、それを押しつぶすような不安。どちらの感情が本物なのか、自分でもよく分からない。
そんな時だった。
「シオリ! 待ってよ!」
後ろから聞き慣れた声が響き、思わず足を止める。振り返ると、息を切らせたエリがこちらへ駆けてきた。
「エリ!? どうしてここに?」
「どうしてって、.決まってるでしょ! 黙って行くなんてひどいよ!」
エリの瞳には怒りと悲しみが入り混じっていた。
「シオリのおばあちゃんから聞いたの。今朝、シオリが旅に出るって。なんで言ってくれなかったの?」
「それは......」
私は言葉に詰まる。心配をかけたくなかった。危険な旅に巻き込みたくなかった。でも、そのどれもが言い訳に思えた。
「シオリ、一人で全部抱え込もうとしないでよ!」
エリは悔しそうに拳を握りしめると、大きく息を吸い込んで言った。
「私も行く。一人でなんて行かせられない!」
エリの真剣な眼差しに、胸がじんとする。
「でも、エリは村に――」
「アメリア様には伝えてあるし、家族にも手紙を書いたから大丈夫! それに......」
エリはいたずらっぽく微笑むと、ぽんと私の肩を叩いた。
「シオリ一人だけが大変な思いをするなんて、ずるいじゃない!」
もう、エリは本当に勝手なんだから。でも、その明るい笑顔に、私の不安は少しだけ和らいでいく。
こうして、私の旅は一人ではなくなった。
穏やかで静かな時間が流れた。せせらぎの音に導かれるように小川沿いの小道をゆっくりと進む。足元の草を踏みしめるたびに、みずみずしい草の香りがふわりと鼻をくすぐる。途中で出会った旅人と何気ない会話を交わすこともあった。
やがて、太陽が西へと傾き始めた頃、目の前にうっそうと茂るミロキパル森林が姿を現した。木々のざわめきが風に乗って囁くように響き、木漏れ日が揺れる。心の奥に小さな緊張が走るが、シオリは深呼吸をして森の中へと足を踏み入れた。
森の奥へ進むにつれ、周囲は次第に薄暗くなっていく。鳥のさえずりが遠のき、代わりに虫の声が静かに響く。昼間とは違う静けさが辺りを包み込み、まるで森全体が夜の準備をしているかのようだった。
適当な場所を見つけると、シオリたちは野宿の準備に取りかかった。落ち葉を払い、平らな場所を確保する。持ってきた薪に火を灯すと、小さな焚き火の炎が暗がりを優しく照らし始めた。ほのかな温もりが肌を包み込み、安心感を与えてくれる。
シオリは鞄から古文書を取り出し、焚き火の明かりのもとで伝承を読み返す。夜の静寂の中、古びた紙をめくる音だけが響いた。
その穏やかさの裏で、心の奥には小さな不安がくすぶり続ける。
「本当に、私にできるのかな......」
星空を見上げ、ぽつりとこぼした独り言。すると、隣で寝転がっていたエリがふいに笑った。
「シオリならできるよ。だって、そういう顔してるもん」
「どういう顔よ」
「うーん、なんていうか......覚悟、かな?」
エリは私の顔をじっと見つめると、ふふっと笑って目を閉じた。その言葉が、なぜか心にじんと染みる。
——覚悟、か。
たしかに、まだ決意しきれていない部分はある。それでも、一歩踏み出した今、もう後戻りはできない。いや、するつもりもない。
私はそっと拳を握る。
大丈夫、きっと私はやれる。
そう、自分に言い聞かせるように、星が瞬く夜空を見上げた。