第1章:記憶の欠片
この村には一見何もないように見える。
星詠村。大きな街からはるか遠く、地図にも載っていないような田舎だ。見渡す限り、緑深い山々が連なり、清らかな川が流れ、のどかな畑が広がる。そして、再び山へと続く。村の人々は自然に囲まれ、ゆったりとした暮らしを営んでいる。派手な事件もなければ、刺激的な出来事もない。
でも、私は知っている。
この世界は、本当はもっと広くて、もっと謎に満ちているということを。
風が吹くたびに、まるで山の向こうから、遠くから呼びかけるような、かすかな声が聞こえる。それはまるで、「こっちにおいで」と誘うみたいに。
私はただの村娘じゃない、何かを待っている――そう思う。
「ねぇねぇ、シオリ、またボーッとしてるの?」
ふいに声をかけられ、私はハッとした。目の前には幼なじみのエリが、呆れ顔で腕を組んでいる。
「朝っぱらからこんなところで何してるの?」
「え、あぁ、風を感じてた?」
「また変なこと言ってる。まったく、シオリって昔からそうだよね」
エリはため息をつきながら、私の肩をバシッと叩く。
「そろそろ学校行くよ! 遅れたら先生にまた怒られるって!」
「あっ、待って!」
私は慌ててエリの後を追いかけた。
星詠村の学校は、村の中央にある小さな建物だ。生徒数も少なくて、みんな家族みたいなもの。先生は厳しいけど、授業の合間には昔話をしてくれる。それが大好きだった。
「昔、人の記憶は星になった...」
先生は黒板に絵を描きながら、語り始める。
「大切な思い出や、強い感情が『記憶の水晶』となって、夜空に浮かぶ星になったんだ。そして人々は、夜空に散らばった星々を記憶の星座と呼んだ。でもね、いつからか星は消え始めて、ある日突然、忘却の闇が広がって、記憶の水晶を砕いてしまったんだよ」
「先生、それって本当にあった話?」
エリが手を挙げる。先生はニヤリと笑った。
「さあ、どうかな? でもね、伝説ってのは、案外本当のことだったりするんだよ」
私はじっと先生の話を聞いていた。
――記憶の水晶。
それは、祖母がよく話していた伝説と同じだった。もし本当にそんなものがあるなら、見てみたい。触れてみたい。
放課後。村の子どもたちが野原を駆け回る中、私はひとりで丘に登っていた。風が心地いい。遠くの山々が、淡い夕陽に染まっている。
空を見上げた。この空のどこかに、消えた記憶の水晶があるのだろうか? そんなことを考えていると、ふいに、風がざわめいた。
「......えっ!」
まるで、誰かが私の名前を呼んだような気がした。思わずあたりを見回す。しかし、誰もいない。ただ、草木が揺れているだけ。
私は胸を押さえた。胸の奥がざわめき、心臓が早鐘のように打ち始める。まるで、世界のどこかから、何かが私を呼んでいるような、強烈な予感がした。
その夜。私は眠れなかった。昼間感じた”何か”が、ずっと頭の中に残っていた。
「やっぱり、気のせいじゃないよね......」
そっと家を抜け出した。村の外れにある小高い丘。ここからは、満天の星空が見える。月の光がやわらかく大地を照らし、夜の静寂が広がっている。
風が吹く。その瞬間――。私の耳に、確かに聞こえた。
『シオリ......』
「......!」
息を呑んだ。今のは、風の音じゃない。確かに、誰かが私の名前を呼んだ。ふと、足元に目をやると気がついた。
――何かが、光っている。
月明かりの下、私はじっと足元を見つめた。そこに、確かにあった。地面の上、風に吹かれるように、淡く青白い光を放つものが転がっている。
「.....! なに、これ?」
そっと膝をつき、震える手でそれを拾い上げた。まるで水晶のような、それでいて温かみのある不思議な石。触れると、指先がじんわりと温かくなる。
心の奥底に眠っていた何かが、ざわめき、激しく波打ち始めた。まるで、この石自身が、私に何かを訴えかけているみたいに。
石を拾い上げた瞬間、目の前が眩い光に包まれた。そして、光が収まり、気づけば、私はまったく知らない場所に立っていた。
暗闇。いや、違う。どこまでも深く、透明な青。まるで夜空の中にいるような、そんな感覚が。
「......ここは?」
辺りを見回した。すると、どこからともなく、誰かの声が響いてきた。
『......あの日、私は......』
静かな囁き。その瞬間、目の前に“景色”が広がった。知らない町、見たこともない建物、楽しげに笑い合う人々の姿。そして、人々の輪の中心には、小さな女の子がいた。
長い髪を風になびかせ、まぶしいほどの笑顔で駆け回る少女。
「......誰?」
そう思った瞬間、視界がぶれる。次の瞬間、世界は崩れ、現実に引き戻された。
私は息をのみ、地面に手をついた。心臓がドクドクとうるさいくらいに脈打っている。今のは、なんだったの?
「夢......? いや、違う。あれは......」
手の中で光る石を見つめた。これは、ただの石じゃない。誰かの、大切な記憶が刻まれた欠片なんだ。
「おはよう、シオリ!」
次の日の朝。エリがいつものように私を迎えに来た。
「ねえ、エリ。記憶の水晶って、本当にあったらどうする?」
「え? なんの話?」
「もし、それを見つけたら、世界は変わると思う?」
エリはしばらく考え込んで、それから笑った。
「変わるかもしれないね。でも、シオリなら本当に見つけちゃいそうだね」
「かもね......」
私はポケットの中の光る石をそっと握りしめた。これは、ただの伝説なんかじゃない。本当に、世界には“記憶の水晶”があったんだ。
あの記憶の光景――あれは、きっとほんの一部。もっと、もっとあるはず。ならば、私は探したい。消えた記憶の星座を、もう一度取り戻すために。