ep 6
宿屋の安息と、龍の悪夢
セーラに紹介された宿屋「木漏れ日の宿」は、その名の通り、どこか温もりを感じさせる木造二階建ての素朴な建物だった。アルクスの街の喧騒から少しだけ奥まった場所にあり、落ち着いた雰囲気が漂っている。宿の主人は、恰幅が良く、人の良さそうな笑顔を絶やさない陽気な初老の男性だった。リュウが街の門前で商隊を襲っていたゴブリンの一団を鮮やかに退治したという噂は、すでに彼の耳にも届いていたようで、「いやはや、若いのに大したもんだ!街の危機を救ってくれてありがとうよ!」と何度も肩を叩かれ、感心した様子で宿賃を少しばかり値引いてくれた。
「ありがとうございます、助かります」
リュウは礼を述べ、質素ながらも清潔に掃除された部屋に案内されると、途端に全身の力が抜け、どっと疲れが押し寄せてきた。木の香りがする簡素なベッドに、まるで吸い込まれるように倒れ込む。
「ふぁ〜……疲っかれた……」
慣れない長旅の蓄積された疲労。初めての本格的な対人(対ゴブリンだが)戦闘によるアドレナリンの反動。そして、新しい街と冒険者ギルドという未知の環境に触れたことによる精神的な高揚感。それらが一度にリュウを襲い、彼の意識を心地よい重さで深い眠りへと誘った。窓の外から聞こえてくる夕食の準備の音や、他の宿泊客の話し声も、もはや彼の耳には届かない。リュウは、泥のように深く、そして長い眠りについた。
その夜、リュウは奇妙で、そして恐ろしい夢を見た。
夢の中で、彼は見渡す限りの荒涼とした、生命の気配が一切感じられない荒野に一人ぼっちで立っていた。空は分厚い鉛色の雲に覆われ、太陽の光はおろか、星の瞬きすら届かない。足元の赤茶けた大地は無残にひび割れ、草一本生えない不毛の地がどこまでも続いている。ヒューヒューと乾いた風が吹き荒れ、舞い上がった砂塵が容赦なくリュウの頬を叩き、視界を遮る。
リュウは、その手に固く握りしめられた粗末な自作の投石棒を、どこか虚ろな目で見つめていた。「本当に……本当に、この程度の、ただの石を投げるだけの力で、この途方もなく広大で、危険に満ちた世界を……いや、そんな大それたことじゃなくても、自分自身や、誰かを守ることなんてできるのだろうか……?」
胸の中には、拭い去ることのできない、冷たい霧のような不安が渦巻いていた。レベルは上がったとはいえ、まだほんの駆け出しの存在に過ぎない。本当に、この異世界で通用するほど強くなれるのか、確固たる自信が持てなかった。女神から与えられた「武器使い」というスキルも、今の自分にはまだその真価を引き出せていない気がする。
その時だった。地平線の彼方、鉛色の空とひび割れた大地の境界線から、ゆっくりと、しかし圧倒的な存在感を放つ巨大な影が現れた。それは、闇夜よりもなお深い漆黒の鱗に全身を覆われた、まさしく伝説に語られるような恐るべきドラゴンだった。天を衝くほどの巨躯、鋭く尖った角、そして獲物を捉えて離さないと言われる紅蓮の双眸が、荒野にぽつんと佇むリュウの姿を冷酷に捉えた。世界そのものが震えるかのような、威圧的な咆哮が荒野に響き渡る。
「クカカカ……矮小なる人間よ、よくも我が禁断の領域を侵したな! その羽虫にも等しき弱き力で、この我に挑むというのか!」
ドラゴンの巨大な顎が開き、その奥から、まるで地獄の業火そのもののような灼熱の炎が、轟音と共に噴き出した。それは、周囲の空間すら歪ませ、全てを焼き尽くし、灰燼に帰すかのような、圧倒的な熱量と破壊力を持っていた。
「くそっ! 来るか!」
リュウは、反射的に投石棒を構え、恐怖を振り払うように、持てる限りの力を込めて石を投げつけた。しかし、高速で放たれた石は、ドラゴンの鋼鉄よりも硬質であろう分厚い鱗に、カンッ!と虚しい金属音を立てて弾かれ、まるで傷一つ付けることができない。石は、ただ無力に地面へと落下していく。
「愚かなる人間よ、貴様の矮小な抵抗など、我が前には無意味だと知れ! 我が絶対的な力の前には、塵芥にも等しいのだ!」
ドラゴンは嘲笑うかのように、再びその巨大な口を開き、先ほどよりもさらに強大な業火を吐き出した。リュウは、眼前に迫り来る燃え盛る炎の壁を前に、それでも必死に石を投げ続けた。一つ、また一つと、彼の持てる全ての石が、絶望的な抵抗としてドラゴンに向かって飛んでいく。
だが、どれだけ投げても、どれだけ正確に狙いを定めても、その攻撃は山のように巨大な竜には全く通用しなかった。まるで、吹き荒れる嵐に向かって、一握りの砂を投げるような、途方もない無力感だけがリュウの心を打ちのめす。
「ダメだ……。こんなんじゃ、絶対に……絶対に勝てない……。力が、違いすぎる……」
リュウは、その圧倒的な力の差を前に、なす術もなく立ち尽くし、深い、底なしの絶望に打ちひしがれた。迫り来る炎が、彼の視界を赤く染め上げていく――。
「あああああっ!」
リュウは、ベッドの中で苦悶の声を上げながら、バッと跳ね起きた。心臓が、胸を突き破らんばかりに激しく鼓動している。ぜえぜえと荒い息を繰り返し、額にはびっしょりと冷や汗が滲んでいた。部屋はまだ薄暗く、窓の外からは鳥のさえずりも聞こえない。悪夢の残滓が、現実と混じり合って思考を混乱させる。
「はぁ……はぁ……やっぱり、石ころだけじゃ……無理があるな……」
夢の中のドラゴンの圧倒的な力強さ、そして自分の攻撃が全く通用しなかった絶望的な感覚が、まざまざと蘇ってくる。石では、あの巨体を傷つけることはおろか、注意を引くことすらできなかった。
リュウは、乱れた寝具の中でゆっくりと寝返りを打ちながら、ぼんやりと考えた。「うーん……せめて、接近された時に対応できる近距離用の武器がないと……。片手剣か、あるいはリーチのある槍か……。スキルは『武器使い』なんだから、もっと臨機応変に、色々な状況に対応できないと……石だけじゃ、あまりにも選択肢が少なすぎる」
翌朝、少し寝不足気味の頭で宿屋の食堂へ向かい、簡単な朝食を取りながらも、リュウは昨夜の悪夢のことを思い出していた。焼きたての香ばしいパンと、野菜の入った温かいスープをゆっくりと口に運びながら、彼の思考は武器のこと、そして自分自身の力の限界に集中していた。
「石は、確かに遠距離から安全に攻撃できるのは大きな利点だ。でも、夢の中みたいに接近されたら、どうしようもない。それに、もっと大きな相手、硬い相手には、今の俺の投石じゃ威力も全然足りない。万が一、夢に出てきたようなドラゴンが本当に現れたら、本当に何もできずに終わりだ」
リュウは、腰に下げた愛用の自作投石棒に無意識に手をやった。「これはこれで便利だし、これからも使うだろうけど……もっと、こう、直接的な攻撃手段が欲しい。一撃の重みがあるもの、あるいは素早く連続して攻撃できるものが」
彼の頭の中には、昨日訪れた冒険者ギルドで見た、様々な武器を携えた歴戦の冒険者たちの姿が鮮明に浮かんできた。屈強な戦士が背負っていた重厚な両手剣、身軽な盗賊らしき男が腰に差していた複数の短剣、そして、フードを目深に被った魔法使いが手にしていた、先端に輝く宝石が埋め込まれた神秘的な杖。
「俺のスキルは、ただの『投石術』じゃない。『武器使い』なんだ。その名前の通りなら、石しか使えないなんて、あまりにもスキルを活かしきれていない。もったいない。もっと色々な武器を試してみたい。そして、自分に合った、このスキルを最大限に活かせる武器を見つけたい。でも、どこで手に入れればいいんだろう? やっぱり、街の武器屋を巡ってみるしかないか……」
リュウは、ふと顔を上げた。その瞳には、昨夜の悪夢からくる不安の色は薄れ、代わりに新たな目標を見つけたことによる、かすかな光が宿っていた。まずは、このアルクスの街で武器を手に入れる方法を探そう。そして、自分のスキル「武器使い」を最大限に活かせる武器を見つけ出し、それを使いこなせるように訓練するんだ。
彼の異世界での冒険は、まだ始まったばかり。そして、乗り越えるべき壁は、想像以上に高いのかもしれない。しかし、リュウは一歩ずつでも、確実に前へ進むことを決意していた。