ep 4
燻る心、森を抜けて
数日が過ぎ、リュウは森での生活にすっかり順応していた。スライムの粘液を避けながら的確に石を投げ込み、俊敏なウサギンの動きを読んで投石棒からの一撃で仕留める。焚火の準備も驚くほど手早くなり、夜になれば自ら狩った獲物で腹を満たし、比較的安らかな眠りを得る。それは、かつての佐々木龍が送っていた息苦しい日常とは比較にならないほど、原始的で、そして自由な日々だった。
しかし、彼の心の奥底では、何かが静かに燻っていた。
「毎日毎日、プニプニした緑の塊を潰すか、ちょこまか逃げ回る角ウサギを追いかけるか……。確かに腹は満たされるし、レベルもほんの少しずつだけど上がってはいる。けれど……」
リュウは燃え盛る焚火の揺らめく炎を見つめながら、知らず知らずのうちに小さくため息をついた。レベルは2になった。ステータスも僅かながら上昇し、「投石術」というスキルも得た。だが、その成長の度合いは、彼が期待していたものよりもずっと鈍く感じられた。何よりも、この単調な日々の繰り返しには、心が躍るような刺激が決定的に欠けていた。
「このままじゃ、本当にただ食って寝るだけの、野生動物と変わらない人生になっちまう。女神様がせっかく新しい世界に、新しい身体と可能性を与えてくれたっていうのに、これじゃああまりにもったいないじゃないか」
前世で抱いていた無力感や閉塞感が、形を変えて再び胸に迫ってくるような気がした。このままではいけない。何かを変えなければ。
リュウは勢いよく立ち上がると、夜空を覆う木々の葉の隙間から見える、遠くの空を見上げた。鬱蒼としたこの広大な森の向こうには、きっと人々の活気ある営みがあるはずだ。物語で読んだような、賑やかな市場、様々な種族が交わる酒場、そして新たな知識や出会いが待っているかもしれない。
「そうだ、街を目指そう! この森を抜けて、人が住む場所へ行くんだ!」
まるで啓示を受けたかのように、リュウはそう決意した。街にはきっと、今の自分が知らない様々な情報が集まっているだろう。武器や防具を専門に扱う店もあるかもしれないし、もっと効率的なレベル上げの方法や、この世界の成り立ちについて知ることができるかもしれない。そして何より、もしかしたら自分よりもっと強いモンスターや、腕の立つ冒険者たちと出会えるかもしれない。その予感が、彼の心を強く揺さぶった。
翌朝、リュウは夜明けと共に目を覚ました。焚火の跡を丁寧に土で覆い、完全に火が消えたことを確認すると、数日分の食料として干し肉を数枚革袋に詰め、腰には愛用となった自作の投石棒をしっかりと結び付けた。スキル「武器使い」のおかげで、投げるための石は道すがら良質なものを選んで拾えばいい。
「よし、出発だ!」
朝日が木々の間から黄金色の光の筋を投げかける中、リュウは未知なる世界への期待に胸を高鳴らせ、意気揚々と森の中を歩き始めた。それは、単調な狩りの日々からの脱却であり、新たな冒険への第一歩だった。
数日が経ち、リュウは森の様相が少しずつ変化していくのを感じていた。木の種類が変わり、獣道のようなものが現れ、そして遠くに鳥の群れが飛んでいくのが見える。人の気配が近づいているのかもしれない。そんなことを考えながら、見慣れない景色の中を慎重に進んでいると、突如、遠くから甲高い、しかし切迫した悲鳴が聞こえてきた。
「今の声は……悲鳴だ!」
リュウは反射的に走り出していた。その声には、恐怖と助けを求める響きが明らかに込められていた。一体何があったのか。もしかしたら、誰かが危険な目に遭っているのかもしれない。前世では他人と深く関わることを避けていた彼だったが、今は違う。自分には、ほんの少しだが、人を助けられるかもしれない力がある。
悲鳴が聞こえた方角へ、木の根や下草をものともせずに駆けつけると、少し開けた場所で、一台の荷馬車が数匹の醜悪な人型の生物に襲われている光景が目に飛び込んできた。緑色の肌、尖った耳、そして手には粗末な棍棒や錆びた短剣を握っている。ゴブリンだ。荷台には様々な木箱や革袋が積まれており、太った商人がそれを必死に守ろうとしているが、震えるばかりで武器らしいものは持っていない。ゴブリンの数は優に五匹を超えており、完全に数で圧倒されていた。商隊には護衛らしき屈強な男が二人いたようだが、すでに地面に倒れ伏し、血だまりの中でピクリとも動かない。
「きゃあああっ!」
荷馬車の車輪の陰に隠れるようにして、一人の若い女性が恐怖に顔を歪ませて震えていた。質素ながらも清廉な印象の白いローブを身にまとっており、首からは聖印のようなものを下げている。その様子から、彼女が僧侶であることが分かった。
「わ、私の後ろに隠れていて下さいませ!」
女僧侶は、腰を抜かして動けない商人を庇うように、か細い体を盾にしてゴブリンたちの前に立ちはだかった。しかし、その手足は恐怖でわなわなと震え、顔は蒼白になっている。
「ヒイイイ! た、助けてくれぇ!」商人は情けない声を上げるばかりだ。
ゴブリンたちは、目の前の獲物を前にして興奮を抑えきれないように、涎を垂らしながら汚らしい黄色い牙をむき出しにして、獣のような奇声を上げた。
「キシャアアアアア!」
数匹のゴブリンが、棍棒を振り上げ、まさに女僧侶に襲いかかろうとしたその時だった。森の奥から、風を切る鋭い音が連続して響いた。
ビュッ!
次の瞬間、先頭にいた一体のゴブリンの額に小さな石がめり込み、まるで熟れたスイカのように頭部が弾け飛び、緑色の体液と脳漿が周囲に飛び散った。
「ギッ!?」
突然の仲間の無残な死に、他のゴブリンたちは驚愕の声を上げ、一斉に動きを止めて辺りを見回した。しかし、彼らが状況を正確に把握するよりも早く、リュウの的確な投石が次々と襲いかかる。
ビュッ! ビュッ! ビュッ!
風切り音と共に放たれる石つぶては、恐ろしいほどの精度でゴブリンたちの眉間やこめかみを打ち抜き、その度に短い断末魔が上がる。抵抗する間もなく、ゴブリンたちは次々とその場に崩れ落ちていった。
最後に残った一匹のゴブリンは、目の前で仲間たちが瞬く間に屠られていく光景に完全に戦意を喪失し、恐怖に引きつった悲鳴を上げながら、尻尾を巻いて森の奥へと逃げ出そうとした。
「逃がすかよ!」
リュウは素早く足元の石を拾い上げると、逃げるゴブリンの背中に狙いを定め、渾身の力を込めて投げつけた。
ビュッ! グシャッ!
石は見事にゴブリンの背骨を砕き、ぐたりと力を失った緑色の体はその場に沈んだ。
血と緑色の体液の匂いが漂う中、絶対的な静寂が訪れた。女僧侶と商人は、目の前で繰り広げられた信じられない光景に、ただ呆然と立ち尽くしていた。数瞬前まで自分たちを脅かしていたゴブリンたちが、あっという間に骸と化している。
「あ……あのお方は……一体……」女僧侶が震える声で呟いた。
夕陽が西の空に傾き始め、木々の間から差し込む茜色の光が、少し離れた場所に静かに立つリュウの姿を照らし出した。逆光となり、リュウの顔の表情は影になってはっきりと見えないが、その引き締まったシルエットはどこか凛々しく、圧倒的な頼りがいを感じさせた。
リュウは静かに商隊の方へ歩み寄り、まずは恐怖で顔面蒼白になっている女僧侶に、できるだけ穏やかな声で話しかけた。
「大丈夫か? 怪我はないか?」
女僧侶は、ハッとしたように顔を上げ、リュウの顔をまじまじと見つめた。まだ幼さの残る顔立ちだが、その瞳には力強い光が宿っている。
「あ……あ、ありがとうございます! あなた様が助けてくださらなければ、わたくしたち一体どうなっていたことか……。心より、感謝申し上げます!」
深々と、そして丁寧に頭を下げる女僧侶。その仕草からは、偽りのない感謝と、目の前の少年に対する畏敬の念が感じられた。
「大変失礼いたしました。わたくし、セーラと申します。この度は、本当に……。突然現れて、私たちを救ってくださった貴方様のお名前を、お伺いしてもよろしいでしょうか?」
「俺か? 俺はリュウって言うんだ」ぶっきらぼうにならないよう、少しだけ意識して答える。
「まぁ……リュウ様、と仰るのですね。なんと……力強く、そして優しい響きのお名前なのでしょう」
セーラは、頬をほんのりと赤らめ、潤んだ瞳でリュウを見つめた。その眼差しには、単なる感謝以上の感情が込められているようにリュウには感じられた。
「ひー、ほ、本当にありがとうございます! この通り、わたくしの命も、大事な荷物も、全て助かりましたぞ!」
商人は、ようやく落ち着きを取り戻したのか、脂汗を額からだらだらと流しながら、何度も何度もリュウに頭を下げた。
「いや、別にどうってことはないさ。(ただ得意な石を投げてただけだし、むしろいい実戦経験になったくらいだ)」リュウは内心そう思ったが、口には出さなかった。
しかし、リュウのその謙虚な態度は、商人にさらなる感銘を与えたようだった。
「なんと……なんと出来たお方だ! 私どもの命の恩人でいらっしゃるというのに、そのご武勇を誇ることもなく、なんと謙虚な!」
「まぁ……本当に、素敵ですわ、リュウ様」セーラがうっとりとした表情で相槌を打つ。
「いや、だからそんな……大したことじゃ……」
二人のあまりの称賛ぶりに、リュウは照れたように少し顔を赤らめ、言葉を濁した。
セーラはにこやかに微笑むと、リュウに優しく話しかけた。「リュウ様、こんな物騒な森の中でいつまでも立ち話をしているわけにもいきませんわ。もしよろしければ、ぜひ私どもの目的地である街までご一緒しませんか? わたくしたちは、この荷物を街のギルドまで送り届ける護衛の任務を受けておりましたの。護衛の方々は……残念なことになってしまいましたが」
「えぇ、えぇ! どうかリュウ様も、ご一緒に! 街に着きましたら、改めてお礼をさせてください!」商人も必死に誘う。
リュウは少し考えた。街に行こうと思っていたのは本当だ。それに、この親切そうな僧侶と人の良さそうな(少し頼りないが)商人となら、道中も少しは安心かもしれない。地理にも疎い自分にとって、道案内をしてくれる存在はありがたい。
「街か。ああ、実は俺も、ちょうどどこかの街に行こうと思っていたところなんだ。それなら、お言葉に甘えさせてもらおうかな。一緒に行こう」
「まぁ、それは本当ですの!? とても嬉しいですわ!」セーラの顔がぱっと華やいだ。「わたくし、セーラと申します。この先のアルクスの街の教会に、しがない神官として勤めておりますの」
「教会か。この世界には、色々な宗教があるんだな」前世では特定の信仰を持たなかったリュウにとって、それは新鮮な響きだった。
「はい、そうですね。アルクスの街には、わたくしの所属する光の女神様を祀る教会以外にも、様々な宗派の神殿や教会がございますのよ。もしご興味がおありでしたら、後ほどご案内いたしますわ」
「それはありがたいな。色々教えてもらえると助かる」
商人は、改めてリュウの前に進み出て、深々と頭を下げた。
「リュウ様、先程は誠に、誠にありがとうございました。あなた様のお陰で、私たちは九死に一生を得ました。つきましては、これは本当にささやかではございますが、わたくしからの謝礼をお渡ししたいのですが、お受け取り願えませんでしょうか」
そう言って商人は、懐からずっしりと重そうな革袋を取り出し、リュウに恭しく差し出した。袋の口から、太陽の光を浴びてキラキラと鈍く輝く金貨が数枚覗いているのが見えた。これが、この世界の通貨か。
「いやいや、これは……! そんなつもりじゃなかったんで、悪いですよ」
リュウは、咄嗟に商人の申し出を断ろうとした。ゴブリンを倒したのは、確かに人助けの気持ちもあったが、自分の力を試したいという気持ちや、単純な義憤から出た行動だ。見返りを期待していたわけでは全くない。
「しかし、それでは……わたくしの気が済みません。どうか、どうかこれをお受け取りください。リュウ様がいらっしゃらなければ、今頃わたくしは……」商人は必死に食い下がる。
セーラも、優しい声でリュウに言った。「リュウ様、ここは商人様のご厚意に甘えて、お受けになられてはいかがでしょうか? これからの旅の資金にもなりますし、何より、こうして感謝の気持ちを表すことで、商人の方もきっとお心が安らぐことと存じますわ」
セーラの言葉に、リュウは少し考えた。確かに、この世界でお金がどのような価値を持ち、どのように使われるのか、まだ全く分かっていない。しかし、これから街で生活したり、何か情報を得たりするには、お金が必要になる場面も出てくるだろう。それに、商人の真剣で懇願するような眼差しを見ていると、これを無下に断るのも申し訳ない気がしてきた。
「……それもそうだな。分かりました。では、ありがたく頂戴いたします」
リュウは、少し照れながらも、金貨の入った革袋を受け取った。ずっしりとした重みが、手のひらにこの世界の貨幣の確かな価値を伝えてくるようだった。
こうしてリュウは、偶然出会った心優しき僧侶セーラと人の良い商人とともに、彼らが目指すという賑やかな街「アルクス」へと向かうことになった。彼の異世界での冒険は、森での孤独なサバイバルから、新たな人々との出会いという、全く新しい局面を迎えようとしていた。その先に何が待ち受けているのか、リュウの胸は期待と不安で高鳴っていた。