ep 27
絶望の淵、紅蓮の誓い
リュウとセーラが、オークリーダーの骸から戦利品を回収し、ようやく安堵の息をつこうとした、まさにその時だった。ゴブリンキングの巨体が転がるその傍らで、先ほどリュウが確かに息の根を止めたはずの、汚れたローブをまとったゴブリンシャーマンが、ありえない、そして悪夢のような光景を繰り広げようとしていた。
「グウウウ……オオオ……」
まるで地の底から絞り出すような、乾いた、しかし底知れぬ怨念のこもった呻き声が、静まり返ったはずの洞窟内に不気味に響き渡った。リュウは、背筋を凍らせるようなその声に反射的に振り返り、そして次の瞬間、信じられない光景に息を呑み、目を見開いた。倒れ伏し、緑色の血を流していたはずのゴブリンシャーマンが、まるで壊れた操り人形のように、ぎこちなく、しかし確かに、よろめきながらもゆっくりと立ち上がったのだ。その両手は、まるで見えざる何かを掴み、天に掲げるかのように虚空へと突き出され、ひび割れた唇からは、もはや言葉とも思えぬ、意味不明な、しかし禍々しい響きを伴う呪文が、途切れ途切れに紡ぎ出されていた。
「我が同胞の……魂よ……! 我が血肉を糧とし……今こそ、この呪われし地に……我が怨念の前に……集結せよォォォッ!」
その絶叫にも似た呪文の詠唱が完了した瞬間、ゴブリンシャーマンの痩せ細り、干からびたかのような体から、まるで内側から溢れ出すかのように、黒く、そして粘りつくような禍々しいオーラが奔流となって噴き出した。そのオーラは、周囲の洞窟の空気をねじ曲げ、空間そのものを歪ませるかのように不気味に広がり、リュウとセーラの肌を刺すような、冷たく、陰鬱で、そして何よりも死の気配に満ちた邪悪なエネルギーだった。
「な……何だ、これは……!? まさか……!」
リュウは、全身の毛が総毛立つような、本能的な恐怖と異様な感覚に襲われ、反射的に両手剣を強く握りしめ、構えた。ウェポンズマスターとしての鋭敏な感覚が、これが尋常ではない、そして極めて危険な事態であることを、彼の脳髄に直接警告していた。
隣にいたセーラも、そのあまりにも異様な光景と、肌を刺すような邪悪な気に、顔面から血の気が引き、蒼白になりながら、震える手で純白の聖杖を胸の前で固く握り締め、必死に防御魔法か、あるいは浄化の魔法の発動準備を始めた。彼女の額には、玉のような冷や汗が滲み、その美しい瞳は恐怖に見開かれていた。
「ガハッ……! グフゥ……!」
ゴブリンシャーマンの最後の呪文が、血反吐を吐き出すような断末魔の叫びと共に、ついに完了した。そして、その痩せこけた体は、まるで全ての生命力を使い果たしたかのように、黒い煙を上げながらゆっくりと崩れ落ち、塵へと変わっていった。
しかし、悪夢は終わらなかった。次の瞬間、リュウとセーラの目の前で、およそこの世のものとは思えない、ありえない、そして絶望的な光景が繰り広げられた。先ほどまで、リュウとセーラの奮闘によって確かに息絶え、無残な骸と化していたはずの、おびただしい数のゴブリンたちの死体が、まるで悪夢の中でゾンビが蘇るかのように、一体、また一体と、ぞろぞろと不気味な音を立てながら立ち上がり始めたのだ。その動きはぎこちなく、関節はありえない方向に曲がり、焦点の合わない濁った目は虚ろな光を宿し、そしてその体からは、強烈な腐敗臭が漂っていた。
「な……!? 死んだはずの奴らが……アンデッドになったというのか……!?」
リュウは、その信じがたい、そしてあまりにもおぞましい光景に言葉を完全に失い、ただただ立ち尽くすしかなかった。死んだはずの敵が、再び、しかもより禍々しい姿となって立ち上がってくるなど、彼のこれまでの常識や経験では、到底想像すらしていなかった事態だった。
ゆっくりと立ち上がったアンデッド・ゴブリンたちは、生前の臆病で卑屈な様子はもはやどこにもなく、代わりに、生者に対する底知れぬ憎悪と、血肉に対する飽くなき飢餓に満ちた、さらに凶暴で、そして不気味な存在へと変貌していた。彼らは、喉の奥から低い、獣のような呻き声を上げながら、その濁った目でゆっくりとリュウたちの方へと向き直った。
そして、そのアンデッド・ゴブリンたちの異様な群れの中心、先ほどゴブリンシャーマンが塵と化した、その背後の空間が、まるで深淵への入り口が開いたかのように、さらに濃密な闇に包まれた。そこから、「グオオオオオオオオオッ!」という、地底の奥深くから直接響いてくるかのような、重く、そして魂を震わせるほどに威圧的な咆哮が、洞窟全体を揺るがすように轟いた。
その闇の中から、ゆっくりと、しかし確実に、その禍々しい姿を現したのは、全身がまるで黒曜石を磨き上げたかのような、ぬらりとした光沢を放つ分厚い漆黒の鎧で覆われた、あまりにも巨大なゴブリンだった。その体躯は、先ほど死闘を繰り広げたゴブリンキングを遥かに凌ぎ、ゆうに三メートルを優に超えるであろう。その巨大な頭部には、天を衝くかのように鋭く尖った、血のような赤黒い巨大な角が二本生え、その双眸は、冷酷なまでの深紅の光を、まるで地獄の鬼火のように爛々と輝かせていた。
ゴブリンエンペラー。その名は、古の文献に、ゴブリン族の頂点に君臨し、数多の国々を恐怖に陥れたという、伝説の魔王として記されている存在だった。
「あ……ありえませんわ……! なぜ、このような場所に、伝説級の魔物が……!」
セーラは、そのあまりにも圧倒的な威圧感と、全身から放たれる絶望的なまでの負のオーラに、完全に足がすくみ、言葉を失った。彼女の美しい顔は恐怖で歪み、もはや聖杖を握る力さえ失いかけ、今にも泣き出しそうに潤んだ瞳で、その絶望的な存在を見上げるしかなかった。
ゴブリンエンペラーは、その手に握られた、並の人間では持ち上げることすら叶わないであろう、禍々しい紋様が刻まれた巨大な黒鉄の棍棒を、まるで玩具のように軽々と持ち上げ、ゆっくりと、しかし一歩踏み出すごとに大地を揺るがすような重々しい足取りで、リュウたちに近づいてくる。「グルルル……我が眠りを妨げし、愚かなる人間どもよ……」その喉の奥から漏れ聞こえる低い唸り声は、獲物を嬲り殺すことを愉しむ、残忍な猛獣のそれだった。
「くそっ……! こんな時に、最悪の相手が出てきやがった……!」
リュウは、腹の底から湧き上がってくる強烈な焦燥感を必死に押し殺し、震える両手で漆黒の両手剣を強く、そして固く握り締め、この絶望的な状況下で、それでもなお巨大な敵、ゴブリンエンペラーに立ち向かうことを決意した。背後には、恐怖で完全に動けなくなってしまったセーラがいる。今、自分が彼女を守らなければ、一体誰が守れるというのだ。
「セーラ! しっかりしろ! 何でもいい、援護を頼む!」
リュウは、ほとんど悲鳴に近いような、必死の思いでセーラに声を張り上げた。
「は……はいっ!」
セーラは、リュウのその切羽詰まった声に、まるで呪縛から解き放たれたかのようにハッと我に返り、震える手で聖杖を握り締め直し、残された最後の魔力を振り絞って、攻撃魔法の詠唱を始めた。
「我が祈り、炎となりて敵を討て! ファイアーボール!」
彼女の掲げた聖杖の先から、赤々と燃え盛る炎の塊が、必死の思いと共にゴブリンエンペラーに向かって飛んでいく。
しかし、ゴブリンエンペラーは、その迫り来る炎の塊を、まるで鬱陶しい羽虫でも払うかのように、手にしていた巨大な黒鉄の棍棒をこともなげに軽く振り上げ、いとも簡単に打ち払ってしまった。炎は虚しく四散し、洞窟の壁をわずかに焦がしただけだった。
「グオオオオオオオオオッ!」
ゴブリンエンペラーは、まるで子供の火遊びをあしらったかのように、再び大地を揺るがすような凄まじい雄叫びを上げ、その巨大な棍棒を、リュウめがけて容赦なく振り下ろした。
リュウは、そのあまりにも速く、そして重い一撃を、辛うじて横に跳んで身をかわしたが、棍棒が地面を叩きつけた際の凄まじい衝撃波は、彼の体をまるで木の葉のように軽々と吹き飛ばしてしまった。「クッ……! がはっ……!」
地面に激しく叩きつけられたリュウは、全身を襲う激しい痛みと衝撃に顔を歪めながら、必死に立ち上がろうとしたが、全身が鉛のように重く痺れて、思うように動かない。
「セーラ! 逃げろっ!」
リュウは、もはやこれまでかと覚悟しながらも、必死の思いでセーラに逃げるよう叫んだ。
しかし、セーラは、目の前のあまりにも巨大で、そして絶望的なまでの力を持つ敵の威圧感に完全に呑まれ、恐怖で体が金縛りにあったかのように全く動けず、ただ震えながら涙を流すことしかできず、もはや魔法を唱えることすらできない。彼女の美しい瞳からは、大粒の涙が止めどなくこぼれ落ちていた。
「グオオオオオオオオオッ!」
ゴブリンエンペラーは、リュウを仕留めたとでも思ったのか、あるいはより弱い獲物から先に始末しようと考えたのか、そのターゲットをセーラへと変え、容赦なく彼女に向かって巨大な足音を轟かせながら突進してきた。
「セーラァァァァッ!」
リュウは、その絶望的な光景を前に、必死に手を伸ばしたが、痺れて動かない体では、セーラのもとへ駆け寄ることすらできず、間に合わない。
その時、セーラは、リュウのその魂からの絶叫に、まるで最後の力を振り絞るように、その潤んだ瞳に強い、そして儚い光を宿し、震える手で聖杖を天高く掲げた。
「聖なる雷よ、我が声に応え、邪を穿て! サンダー・ジャベリン!」
彼女の小さな体から、眩いばかりの、そしてこれまでで最も強力な雷の光がほとばしり、鋭く尖った雷の槍となって、ゴブリンエンペラーの巨体に、吸い込まれるように正確に命中した。
「グウウウウウウウウウッ!?」
ゴブリンエンペラーは、その予期せぬ強力な雷の衝撃に、これまでにはない甲高い悲鳴を上げ、その巨体を大きく揺らし、一瞬だが、確かにその動きを止めた。しかし、そのあまりにも強靭な肉体と、漆黒の鎧の魔力耐性は、渾身の一撃であったはずの雷撃ですら、致命傷を与えるには至らなかった。
そして、セーラもまた、その最後の魔力を完全に使い果たし、まるで糸が切れた人形のように、その場に力なく、そして静かに倒れ伏してしまった。
「セーラァァァァァァッ!」
リュウは、痺れた体を無理やり引きずるように動かし、這うようにして、倒れたセーラの元へ駆け寄り、彼女の華奢な体を優しく、しかし強く抱き起こした。「セーラ……! しっかりしろ! 目を開けてくれ、セーラ!」
セーラは、薄っすらと目を開け、意識朦朧としながらも、リュウの顔を認めると、安心したかのように、そしてどこか申し訳なさそうに、かすかに微笑みかけた。「リュウ様……ごめんなさい……わたくし、もう……力が……」その声は、あまりにもか細く、今にも消え入りそうだった。
「セーラ……! しっかりしろ! 俺が、俺が必ず助けるから! 死なせない!」
リュウは、セーラをその胸に強く、そして優しく抱きしめ、必死に彼女の名前を呼び続けた。しかし、セーラの意識は、まるで風前の灯火、燃え尽きようとしている蝋燭の炎のように、徐々に、そして確実に薄れていくのが分かった。
「くそっ……! くそっ……! 何でだ……! 何で、こんなことに……!」
リュウは、腕の中で冷たくなりつつあるセーラの体温を感じながら、あまりの悔しさに奥歯をギリギリと強く噛み締めた。握りしめた拳で、何度も何度も洞窟の硬い地面を叩きつけた。血が滲み、骨が軋む痛みも、今の彼には全く感じられなかった。
「俺が……俺がもっと強ければ……! セーラを、こんな目に遭わせずに済んだのに……!」
リュウは、自分自身の力の無さ、そして何よりも大切な仲間一人を守ることすらできない、その不甲斐なさに、心の底から深く、そして激しく絶望を感じた。その事実は、まるで鋭い刃のように、彼の心を深く、そして容赦なく抉った。
「セーラ! セーラ! 目を開けてくれ! くそぉぉぉぉぉっ!」
リュウは、完全に意識を失い、ぐったりとしてしまったセーラを、少しでも安全な場所にと、そっと洞窟の壁際に横たえた。そして、ゆっくりと、しかし確かな怒りをその全身に滾らせながら立ち上がり、血のように赤い、憎悪に燃える双眸で、再びゴブリンエンペラーの巨体を真正面から睨み据えた。もはや、彼の心に恐怖はなかった。あるのは、ただ一つ。セーラを守るため、そして彼女の仇を討つため、たとえこの身がどうなろうとも、あの巨大で邪悪な敵を、この手で必ず倒すという、紅蓮の炎のように燃え盛る、ただそれだけの誓いだった。




