ep 19
月影の潜入、眠り草とオークの王
オークたちが住まうという森の奥深く、リュウとセーラは月の光も届かぬような鬱蒼とした木々の間を抜け、息を殺して粗末な木材で組まれた小屋の陰にその身を隠した。小屋は、まるで獣の巣穴のように不格好で、壁の所々には大きな隙間が開いており、そこから漏れ出す焚火の揺らめく微かな光と、獣じみた低い唸り声や、時折響く野太い笑い声が、小屋の中に複数のオークがいることを明確に示唆していた。
小屋の入り口には、月明かりにシルエットを浮かび上がらせながら、予想通り体格の良いオークが二体、それぞれ肩に担いだ粗末な棍棒を手に、周囲を絶えず警戒するように歩哨に立っている。彼らの目は、夜行性の獣のように爛々と光り、時折大きく鼻をひくつかせ、周囲の匂いを執拗に嗅ぎ取ろうとしているようだった。その姿からは、ゴブリンとは比較にならないほどの油断のならなさが感じられた。
「見張りがいるな……しかも、かなり用心深いタイプだ」リュウは、すぐ隣に屈むセーラの耳元に、まるで夜風が囁くかのように声を潜めて囁いた。彼の声は低く、周囲の虫の音や風の音に紛れるように、細心の注意を払って発せられた。
セーラは、リュウの言葉にこくりと頷き、その美しい顔には緊張の色が浮かんでいた。「はい、リュウ様。わたくしたちが近づいていることに、すでに薄々気づいているのかもしれません。思ったよりもずっと警戒が厳しいようですわね」彼女は、リュウの腰に下げられた二本の短剣の柄に一瞥を送り、わずかに眉をひそめた。正面から力押しで突破するには、あの屈強な見張りのオーク二体だけでも、かなりの苦戦を強いられるだろう。
リュウは、木の幹に身を寄せながら、小屋の構造と見張りのオークたちの動きを、瞬きもせずに冷静に観察した。二体のオークは、小屋の入り口を挟むようにして立ち、互いに背を向ける形で、一定の範囲をゆっくりと巡回している。時折、短い、しかし意味ありげな唸り声で言葉を交わし、周囲のわずかな物音――木の葉が風に擦れる音や、遠くで小動物が動く気配――にも、敏感に反応し、鋭い視線を向けていた。
(正面からの奇襲は、どう考えても避けたい。下手に音を立てれば、この小屋の中にいるであろう集落全体のオークに一斉に気づかれる可能性がある。そうなれば、ゴブリンキング戦の二の舞だ)リュウは、心の中でそう状況を分析した。先ほどの投石による陽動作戦は、森の外縁部にいた数体のオークをおびき出すのには成功したが、この厳重な警戒態勢の中では、二度も同じ手が通用するとは思えなかった。
「セーラ、何か良い案はないか? お前の知恵を貸してほしい」リュウは、再びセーラに小声で問いかけた。彼女の持つ薬草の知識や、あるいは未知の魔法が、この膠着した状況を打開する鍵となるかもしれないと、彼は期待していた。
セーラは、リュウのその言葉に静かに頷くと、ゆっくりと目を閉じ、両手を胸の前でそっと組んだ。まるで祈りを捧げるかのように、深く、そして穏やかな呼吸を繰り返しながら、全神経を集中させているようだった。微かにそよぐ夜風の音に耳を澄ませ、周囲の気配、空気の流れ、そして森の生命の息吹を注意深く探っているかのようだった。やがて、彼女はゆっくりと目を開き、その澄んだ瞳でリュウに向き直った。
「リュウ様、わたくしにほんの少しだけ、お時間をいただけますでしょうか? もしかしたら、あの方々を眠らせることができるかもしれませんわ」
リュウは、セーラのその真剣な表情と、自信を秘めた声の響きに、彼女が何か特別な策を思いついたことを察し、力強く頷いた。「ああ、構わない。お前に任せる」
セーラは、リュウの信頼のこもった言葉に小さく微笑むと、腰に下げていた小さな革袋をそっと取り出した。中には、旅の途中で彼女が集めていた、様々な種類の乾燥した薬草が丁寧に分類されて入っている。彼女は、その中から数種類の、細かく刻まれた緑色や紫色の葉を選び出し、それをそっと白魚のような掌の中に取り、両手で優しく、しかし丹念に揉み始めた。すると、微かに甘く、そしてどこか心を落ち着かせ、抗いがたい眠気を誘うような不思議な香りが、周囲の夜気の中にふわりと漂い始めた。
「これは、『眠り草』と呼ばれる特別な薬草です。その名の通り、ごく微量であれば、この香りを吸い込んだ者を深い眠りに誘う効果がございますの」セーラは、その香りを掌で優しく扇ぎながら、リュウに小声で説明した。「この夜風に乗せて、あの見張りのオークたちの鼻にこの香りを届けられれば……きっと……」
リュウは、セーラのその巧妙な提案に、思わず目を輝かせた。「なるほど! それは素晴らしい考えだ! 風向きは……」彼は、顔に当たるわずかな空気の流れを感じ取ろうと、意識を研ぎ澄ませた。「……うん、風は、ちょうど小屋の方へ向かって吹いている。だが、本当に微かな風だ。この程度の風で、果たしてうまくオークたちの鼻まで届くだろうか?」
「ご心配には及びませんわ、リュウ様。わたくしが、ほんの少しだけ風を起こす魔法を使います。ごくごく弱い、そよ風のようなものですが、この香りを運ぶ手助けにはなるはずです」セーラは、そう言うと、小さく息を吸い込み、両手をそっと小屋の方へと差し出した。彼女の繊細な指先が、祈りを込めるように、微かに淡い緑色の光を帯び始めた。
「頼む、セーラ」リュウは、彼女の肩にそっと手を置き、静かに、そして全ての信頼を込めて言った。
セーラは、リュウのその温かい手に勇気づけられるようにこくりと頷くと、そっと息を吐き出すと同時に、微弱な風の魔法を慎重に発動させた。目には見えないほどの小さな風の渦が、セーラの掌から生まれ、まるで意思を持ったかのように小屋の方へとゆっくりと流れていく。それと同時に、彼女が丹念に揉んでいた眠り草の甘く芳しい香りが、その優しい風に乗って、静かに、そして確実に広がっていった。
見張りのオークたちは、最初は何も気づいていないかのように、相変わらず周囲を警戒していた。しかし、数呼吸もしないうちに、一体のオークがくんくんと鼻をひくつかせた。何かいつもと違う匂いを感じ取ったのか、怪訝そうな表情で周囲を見回したが、特に変わった様子は見当たらない。もう一体のオークも、何やら大きな欠伸のようなものを漏らし、無意識に瞼をこすった。
徐々に、そして確実に、オークたちの動きが鈍くなってきた。それまで規則的だった歩哨の足取りは目に見えて重くなり、互いの短い会話も途切れがちになった。瞼が鉛のように重そうに何度も瞬きをし、立っているのが辛そうに、肩に担いだ粗末な棍棒にぐったりと凭れかかるオークも現れた。
「……効いてきたようだ」リュウは、オークたちのその変化を見逃さず、セーラに小さく、しかし確信を込めて頷いた。
セーラは、額に滲む冷や汗をそっと手の甲で拭いながら、「はい、リュウ様。ですが、あのオークたちの体格を考えますと、完全に深い眠りに落ちるまでには、もう少し時間がかかるかもしれませんわ」と、冷静に状況を分析して答えた。
リュウは、見張りのオークたちが完全に意識を失い、抵抗できなくなるのを辛抱強く待つことにした。焦りは禁物だ。ここで僅かでもしくじれば、全ての努力が水泡に帰す。慎重に、そして確実に事を進める必要がある。
息詰まるような数分が、永遠のように長く感じられた後、ついにその時が来た。二体のオークは、まるで張り詰めていた操り糸が同時にぷつりと切れたかのように、ほとんど同時にその場にぐらりと崩れ落ち、地面にドスン、ドスンという鈍い音を立てて倒れた。深い鼾のような寝息が、静かな夜の森に微かに響き渡る。
「今だ!」リュウは、セーラに鋭く合図を送ると、まるで影のように音もなく、しかし素早く小屋に向かって駆け出した。セーラもそれに続き、足音を極限まで殺しながら、慎重に小屋へと近づいた。
小屋の入り口に辿り着いたリュウは、地面に大の字になって倒れている見張りのオークたちを一瞥し、彼らが完全に眠り込んでいることを確認すると、素早く古びた木の扉に手をかけた。油も差されていないであろうその扉は、ギィィ……と、神経を逆なでするような軋む音を立てながら、ゆっくりと内側へと開いた。
中には、外の月明かりが届かず、焚火の頼りない光だけが揺らめく、薄暗く、そして獣臭い空間が広がっていた。部屋の中央には、粗末な丸太を組み合わせただけの椅子に、他のオークたちよりも一回りも二回りも大きな体躯のオークが、ふんぞり返るように座り、大きな骨付きの肉を貪欲に、そして汚らしく貪り食っている姿があった。その頭部に生えた、禍々しくねじくれた大きな角は、他のオークたちとは明らかに異なる、指導者としての威圧感を放っている。間違いなく、あれがこのオークたちのリーダー、オークキングだろう。
リーダーのオークは、扉が開いたその軋む音に、食事の手を止めて鋭い視線をリュウに向けた。その血走った小さな目は、不意の侵入者を捉える獰猛な獣のように、冷酷で、そしてギラギラとした危険な光を宿していた。
リュウは、抜き身の二本の短剣を静かに、しかし隙なく構え、音もなく小屋の中へと滑り込み、沈黙の中でオークたちのリーダーに相対した。ついに、このオークたちの巣窟の最深部で、正念場の戦いが始まろうとしていた。




