ep 12
深淵の咆哮、死闘の果ての誓い
先ほどのゴブリンたちの喧騒が嘘だったかのような、束の間の静寂。それを切り裂いたのは、まるで大地の怒りのような、地響きを伴う轟音だった。ミルラの村の地面が激しく揺さぶられ、立っているのがやっとの村人たちは、恐怖に顔を引きつらせながら、互いの体にしがみついたり、地面にへたり込んだりした。「じ、地震か!? いや、違う、これは……!?」リュウは、全身の神経を研ぎ澄まし、油断なく周囲を見回した。燃え盛る家々の炎の向こう、もうもうと立ち込める黒煙の中から、それはゆっくりと、しかし圧倒的な威圧感を伴って姿を現した。
巨大な影。それは、先ほどまで村を蹂躙していた矮小なゴブリンたちとは明らかに異なる、異質で、そして絶望的なまでの存在感を放っていた。体長はゆうに5メートルを超え、まるで黒い岩塊がそのまま直立したかのような、見る者を圧殺するような威圧感。全身は、黒曜石のようなぬらりとした光沢を放つ、分厚く硬質な皮膚で鎧のように覆われている。鋭利な牙が剥き出しになった巨大な顎は、あらゆる獲物を容易く噛み砕き、貪り食らう獣そのものだった。そして何よりも特徴的なのは、他のゴブリンよりも遥かに大きく、禍々しくねじくれた二本の角。まさしく、ゴブリン族の王、ゴブリンキング。そのあまりにも異様な、そして強大な姿に、先ほどまで安堵の表情を浮かべていた村人たちの顔から、再び血の気が引き、深い絶望の色が広がった。
「グオオオオオオオオオッ!」
大地を震わせ、夜空を裂くかのような凄まじい咆哮が、村全体に響き渡った。ゴブリンキングは、その巨体に見合わぬ俊敏さで、最も近くにいた村人たちに襲いかかった。凄まじい衝撃音と共に、粗末な小屋が木片のように吹き飛ぶ。阿鼻叫喚の悲鳴が上がり、人々は蜘蛛の子を散らすように逃げ惑う。燃え盛る家屋の陰に必死に隠れようとする者、恐怖で足がすくんで動けず、ただ震えることしかできない者。再び繰り返される絶望的な光景が、リュウの目に痛いほど焼き付いた。
「セーラ! 回復の準備を! 絶対に無理はするな!」
迷っている暇など一瞬もなかった。リュウは腰の鞘から、二本の愛剣"疾風"ともう一本の短剣を抜き放った。冷たく硬質な金属の感触が、彼の闘志を燃え上がらせる。昨夜の悪夢の中で感じた屈辱的なまでの無力感、そして今、目の前で理不尽な暴力に怯える村人たちの姿が、彼の背中を強く、そして熱く押した。
「は、はい、リュウ様! お気をつけて!」セーラは、恐怖で青ざめた顔を必死に上げ、それでもなお、しっかりと聖杖を握りしめた。いつでもリュウを癒せるようにと、震える唇で、しかし途切れることなく回復魔法の詠唱準備を始めた。彼女の澄んだ瞳には、拭いきれない恐怖と同時に、仲間を助けたい、守りたいという強い決意の光が宿っていた。
リュウは、大地を強く蹴り上げた。その体は、巨大なゴブリンキングに向かって、まるで一筋の矢のように一直線に突進した。巨大な敵の影に飲み込まれてしまいそうなほど、リュウの存在は小さく見えたが、その瞳には一点の曇りも、迷いもなかった。
ゴブリンキングは、邪魔な虫けらを排除するかのように、その岩のような巨大な腕を振り上げた。ゴウンッ!という凄まじい風切り音。その一撃は、風圧だけでも周囲の炎を揺るがすほど凄まじく、まともに受ければリュウの体など簡単に肉塊へと変えられてしまうだろう。リュウは、常人離れした反射神経と、スキル「武器使い」によって研ぎ澄まされた戦闘感覚で、ギリギリのところでその薙ぎ払うような攻撃を身をかがめてかわした。そして、一瞬体勢を崩したゴブリンキングの巨大な足首の、比較的皮膚が薄い部分に、体重を乗せて素早く短剣を突き刺した。
「グギャアアアアアアッ!」
先ほどまでの咆哮とは質の違う、甲高い苦悶の絶叫が、ゴブリンキングの口から漏れ出した。苦痛に顔を歪ませ、怒りに燃える血走った赤い瞳が、小さなリュウを憎悪に満ちた表情で睨みつける。攻撃を受けた巨大な足が、邪魔な虫を力任せに振り払うように激しく振り上げられた。リュウは、再び紙一重でその攻撃を回避し、今度はゴブリンキングの背後、その巨躯の死角へと巧みに回り込んだ。そして、躊躇することなく背中の分厚い皮膚の、僅かな関節の隙間に、もう一本の短剣を深く、根元まで突き刺した。
「グオオオオ! ガアアアアッ!」
さらに激しく怒り狂ったゴブリンキングは、全身をブルブルと大きく揺らしながら、盲目的にリュウに襲いかかる。巨体から繰り出される薙ぎ払い、踏みつけ、叩きつけは、どれもが一撃必殺の威力を持っている。リュウは、まるで嵐の中の木の葉のように、しかし確かな意志を持って舞うように身を翻し、両手の短剣を巧みに操りながら、ゴブリンキングの猛攻を紙一重でかわし続けていく。その動きは、先ほどのゴブリンたちを相手にした時とは比べ物にならないほどに鋭く、そして研ぎ澄まされていた。死の淵を何度も垣間見るような、極限の集中力が彼を支配していた。
その間にも、セーラは必死に、そして途切れることなく回復魔法を唱え続けていた。彼女の小さな体から発せられる温かく優しい光が、リュウの体にできた無数の切り傷や打撲傷を癒していく。薄緑色の柔らかな光が、彼の体に触れるたびに、焼けるような痛みが和らぎ、消耗した体力が僅かながら回復していくのを感じた。セーラの存在がなければ、とっくに限界を超えていただろう。
リュウは、ゴブリンキングの猛攻を耐え凌ぎながら、その巨体に更なるダメージを与えるため、そして何よりも、この絶望的な状況を打破するための、わずかな隙を血眼になって窺っていた。巨大な敵の動きは、その圧倒的なパワーと引き換えに、ほんの一瞬だが、攻撃の後に硬直が生まれ、動きが鈍くなる瞬間がある。その刹那の好機を、リュウは見逃さなかった。
ゴブリンキングが、天に向かって怒りの咆哮を上げながら、その巨大な口を大きく開けた、まさにその瞬間。リュウは、腰に下げていた投石棒に、手のひらに馴染んだ硬く、そしてずっしりとした重みのある石を、神業的な速さで乗せた。狙うは、大きく開かれたゴブリンキングの無防備な口腔内、その奥にあるであろう弱点。
「いっけええええええええええええっ!」
魂の叫びと共に、リュウは全身全霊の力を込めて、その石を投げつけた。放たれた石は、夜空を切り裂く流星のように、ゴブリンキングの開かれた口の中へと、寸分の狂いもなく吸い込まれていった。
次の瞬間、ゴウンッ!という鈍い衝撃音と、何かが内部で破裂するような湿った音が響き渡った。ゴブリンキングの巨大な頭部が、まるで内側から強大な力で破壊されたかのように、無残に弾け飛んだ。緑色の体液と、赤黒い肉片が、燃え盛る炎を背景に周囲へと飛び散る。巨獣の王は、もはや声にならない呻きを上げることもなく、その巨大な体がぐらりと大きく傾き、やがて大地を揺るがす轟音と共に、そのまま地面に崩れ落ちた。
「はぁ……はぁ……はぁ……っ」
激しい、そしてあまりにも長かった戦いの後、リュウは両膝に手をつき、肩で荒々しく息をしながら、動かなくなったゴブリンキングの巨体を見下ろした。全身は汗でぐっしょりと濡れ、息も絶え絶えだったが、その表情には、死線を乗り越えた者だけが浮かべることのできる、確かな達成感と、深い安堵の色が漂っていた。
「お……終わりましたの……? リュウ様……!」
セーラは、回復魔法の詠唱をようやく終え、震える足でリュウに駆け寄りながら、まだ信じられないといった表情で尋ねた。彼女の顔もまた、極度の緊張と疲労の色を隠せない。
ゴブリンキングが完全に倒れたのを確認した村には、一瞬の静寂の後、先ほどとは比べ物にならないほどの、心の底からの歓声が遅れて湧き上がった。恐怖から解放された人々は、涙を流しながら、あるいは抱き合いながら、リュウとセーラに向かって、感謝の言葉を何度も何度も叫んだ。
「ありがとうございました! 本当に、本当にありがとうございました! あなたたちのお陰で、私たちの村は、本当に救われました!」
「命拾いしました! あなた方は、私たちの命の恩人です! 本当に、勇敢な冒険者様です!」
リュウとセーラは、互いに顔を見合わせ、ようやく安堵の笑みを浮かべた。「どういたしまして。皆さんがご無事で何よりです。困ったことがあれば、いつでも言ってください」リュウは、まだ息を整えながらも、少し照れくさそうに答えた。
こうして、リュウとセーラの冒険者としての初めての依頼は、想像をはるかに超える強敵、ゴブリンキングとの死闘となったが、二人の勇気と連携によって、なんとか無事に完了することができた。村人たちの心からの感謝の言葉は、疲弊した二人の心に、温かく、そして深く響いた。
しかし、リュウは、このゴブリンキングとの激闘を通して、改めて自分自身の力の未熟さを痛感せずにはいられなかった。二刀流の短剣での攻撃は、確かにゴブリンキングに対して有効なダメージを与えられた。しかし、あの圧倒的な巨体と生命力を完全に仕留めるには、まだ決定的な一撃の威力が足りなかった。最後の投石による口腔内への攻撃は、まさに奇跡的な、そして幸運な一撃だったと言えるだろう。もしあの時、ゴブリンキングが口を開けていなければ、戦いはさらに長引き、あるいは最悪の結果を迎えていたかもしれない。
「もっと……もっと強くならなければ、この世界では生き残れない」
村人たちの喜びの笑顔を背に、リュウは静かに、しかし固く心に誓った。この異世界アースティアで生き抜き、いつかあの悪夢で見た途方もないドラゴンにも臆することなく立ち向かえるほどの、本当の力を手に入れるために、彼はさらに成長しなければならない。
彼の冒険は、まだ始まったばかりなのだから。




