表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/64

ep 1

男の名は佐々ささき りゅう、25歳。今日もまた、終電間際の軋むような音を立てる電車に、鉛のように重い体を預けていた。蛍光灯の白い光が、疲れ切った彼の顔を無情に照らし出す。「はぁ……」と、腹の底から絞り出すような深いため息が、湿った車内に溶けていく。朝は薄暗いうちから家を出て、夜は星が瞬く頃までオフィスに縛られる。それが彼の日常だった。

「毎日毎日、一体何のために……」

安月給でこき使われ、休日出勤は当たり前。有給休暇など、都市伝説に近い存在だ。課長の粘着質な笑顔と、嫌味としか思えない「期待しているよ」という言葉が脳裏をよぎるたび、胃がきりきりと痛む。昼食はデスクでかき込むカップ麺かコンビニのパン。それが唯一の息抜きと言えるかもしれないが、もはや味など感じなかった。

「こんな人生、何の意味があるんだ……?」

心の中で自問するが、答えは見つからない。25歳。世間では、将来に夢を抱き、キャリアを築き、あるいは大切な誰かと愛を育む時期なのかもしれない。しかし、龍にはそのどれもが無縁だった。まともな恋愛経験など皆無に等しく、合コンに誘われても、仕事の疲れと自信のなさから断ってばかり。趣味に費やす時間も金銭的な余裕もなく、ただただ目の前の仕事を機械のようにこなし、眠り、そしてまた同じ朝を迎える。そんな無限ループに、彼の魂はすり減り続けていた。

「ああ、本当に、もう……疲れた……」

マンションまであと数ブロックという、人気のない夜道を歩いていた時だった。暗闇の奥から、か細く、しかし切実な鳴き声が聞こえてきた。「ミャア……ミャア……」

龍は無意識に足を止めた。その声は、まるで助けを求めているかのようだった。酒に酔った若者の騒ぎ声や、遠くを走る車の音に混じって、その小さな命の叫びは奇妙なほど鮮明に龍の耳に届いた。辺りを見回すと、街灯の頼りない光が照らす道路の真ん中に、小さな黒い影がうずくまっているのが見えた。子猫だ。生まれたばかりなのか、手のひらに乗るほどの大きさしかない。

「おい、こんなところにいたら……危ないぞ!」

龍が声をかけた瞬間、背後からけたたましいエンジン音と、大型トラックのヘッドライトの眩い光が迫ってきた。運転手は気づいていないのか、スピードを緩める気配はない。

「まずい!」

龍は考えるよりも先に、体が動いていた。錆びついた心臓が、久々に激しく鼓動するのを感じた。もはや自分の人生などどうでもいいと思っていたはずなのに、目の前の小さな命を見捨てることはできなかった。

「ニャアッ!」

子猫の怯えた鳴き声が響く。龍は数歩で距離を詰め、その小さな体を抱きかかえるようにして道路脇へと飛び込んだ。柔らかな毛の感触と、震える小さな心臓の鼓動が腕に伝わる。

しかし、安堵も束の間だった。回避しきれなかったトラックの巨大なフロント部分が、龍の左半身に強烈な衝撃を与えた。

「ぐっ……あ……!」

骨が砕ける鈍い音と、焼けるような激痛。体が宙に舞い、アスファルトに叩きつけられる。朦朧とする意識の中、最後に見たのは、腕の中で無事だった子猫が、心配そうにこちらを見つめる潤んだ瞳だった。「(ああ……よかった、助かったのか……)」それが、佐々木龍の最期の思考だった。

気がつくと、龍は真っ白な、どこまでも広がる空間に立っていた。

「ここは……どこだ……?」

上下左右、全ての感覚が曖昧で、足元には白い霧のようなものが静かに漂っている。痛みも、寒さも、何も感じない。ただ、途方もない静寂だけがそこにあった。

「俺は……そうか、死んだのか……」

トラックに轢かれた瞬間の衝撃と、子猫の無事を願った記憶が蘇り、龍はぼんやりとした思考の中でそう結論づけた。あれだけの事故だ、助かるはずがない。

「はい、その通りです。佐々木龍さん、貴方はお亡くなりになりました」

突然、鈴を転がすような、しかしどこか荘厳で、心に染み渡るような優しい声が響いた。声の主を探そうと龍が辺りを見回すと、いつの間にか目の前に一人の女性が立っていた。

その姿は、まさに神々しいという言葉がふさわしかった。流れるような美しいブロンドの髪は淡い光を放ち、吸い込まれそうなほど深い青色の瞳は慈愛に満ちている。純白のローブを身にまとい、その存在自体が周囲の空間を清めているかのようだ。

「あなたは……?」龍は恐る恐る尋ねた。

「私はこの世界の理を司る者。貴方達の言葉で言うならば、そうですね、『女神』と呼ばれる存在に近いかもしれません」

「女神……様……?」

龍は呆然と目を丸くした。漫画やゲームの中でしか聞いたことのない存在が、今、目の前にいる。信じられない思いと同時に、自分の死が紛れもない事実なのだと、改めて突きつけられた気がした。

「そうか……やっぱり、俺は死んだんだな……」

改めて自分の短い生涯を振り返り、龍は自嘲気味に呟いた。「(結局、何一つ成し遂げられない、つまらない人生だったな。仕事に追われて、誰かを愛することも、愛されることもなく……本当に、何だったんだろう……)」後悔と虚しさが、霧のように心を覆っていく。

女神と呼ばれた女性は、まるで龍の心の内を見透かしたかのように、穏やかに言った。「そう悲観することはありませんよ、佐々木龍さん」

「え……?」

「あなたは、自らの命を顧みず、か弱い子猫の命を救いました。その勇気ある行動と、他者を思いやる優しい心に、私は深く感銘を受けました。それは、とても尊い行いです」

女神は、聖母のような優しい眼差しで龍を見つめた。「ですから、貴方をただ黄泉の国へ送るのではなく、新たな世界で、もう一度生をやり直す機会を与えたいと考えています。剣と魔法が息づく、ファンタジーの世界で」

「剣と魔法の……世界……?それって、まるで……」

龍は目を瞬かせた。それは、疲弊した現実から逃避するために時折夢想した、空想の世界そのものではないか。信じられない提案に、言葉を失う。

「どうしますか?その新たな世界で、第二の人生を歩んでみますか?それとも、このまま魂の輪廻へと還りますか?」

女神の問いかけに、龍は一瞬躊躇した。今の自分に、新しい世界で何かを成せるのだろうか。しかし、すぐにその迷いを振り払うように、力強く頷いた。あの灰色の日々に戻るくらいなら、どんな世界であろうと飛び込んでみたい。

「!行きます!どうか、行かせてください!」

こんな退屈で、何の色もない人生はもう嫌だ。もし本当にチャンスが与えられるなら、新しい世界で何かを見つけたい。何かを掴み取りたい。熱いものが胸の奥からこみ上げてくるのを感じた。

「よろしい。その強い意志、確かに受け取りました」女神は満足そうに微笑んだ。その笑顔は、まるで暗闇を照らす太陽のように温かく、龍の凍てついた心を溶かしていくようだった。「そうですね、異世界での生活に困らぬよう、いくつかギフトを授けましょう。まずは、新しい世界の言語を理解し、話すことができる能力を。そして、いざという時に身を守れるよう、多少の武術の心得も与えておきましょう。それは貴方が子猫を守ろうとした勇気への、ささやかな褒賞です」

「あ……ありがとうございます!本当に、ありがとうございます!」

龍は深々と頭を下げた。夢を見ているかのようだった。いや、夢だとしても、こんな素晴らしい夢なら覚めてほしくない。

「では、佐々木龍さん。あなたの新たな人生が、実り多きものとなることを願っています。良い異世界転生を」

女神の声が徐々に遠のいていくのを感じながら、龍の意識もまた、深く、そして心地よい眠りへと沈んでいった。まるで、温かい光に包まれるように。

【アースティア】

剣と魔法が日常に溶け込み、人々の生活を、そして世界の趨勢を左右するこの世界は、息をのむほどに広大で、美しく、そして同時に底知れぬ危険に満ちていた。

どこまでも続く緑豊かな大森林には、古代の知識を秘めたエルフが隠れ住み、天を突くように険しい山々には、屈強なドワーフたちが鉱脈を求めて槌を振るう。灼熱の太陽が照りつける広大な砂漠の先には、神秘的な獣人たちの集落があり、深く青い海の底には、伝説の人魚たちが歌声を響かせると言われている。

しかし、この世界は牧歌的なだけではない。森の奥には凶暴な牙を剥くモンスターが跋扈し、荒野には盗賊や無法者が蔓延る。数多くの王国や帝国が、領土と覇権を巡って絶えず興亡を繰り返し、それぞれの野望や陰謀が複雑に絡み合い、戦火の絶えない時代が続いていた。人々は生きるために剣を手に取り、あるいは精霊に祈りを捧げて魔法を操り、日々の糧を得ていた。

そんな激動の世界「アースティア」の、とある森の中に、一人の男が静かに降り立った。

「ん……う……」

最初に感じたのは、ふかふかとした柔らかな土の感触と、鼻腔をくすぐる濃厚な草木の香りだった。ゆっくりと目を開けると、頭上にはどこまでも澄み切った青空が広がり、木々の葉の隙間から差し込む陽光がキラキラと輝いている。小鳥のさえずりや、風が木々を揺らす音が、心地よいBGMのように耳に届いた。

「ここは……?」

先ほどまでの真っ白で無機質な空間とは全く違う、生命力に満ち溢れた世界。空気が信じられないほど澄んでいて、深呼吸するたびに胸いっぱいに新鮮な酸素が満たされていくのを感じる。女神の言葉は、本当だったのだ。

「本当に……本当に、異世界に来ちゃったんだ……!」

自分の手を見つめる。少し若返ったような、そして以前よりも僅かに力強さを感じるような気がした。女神が言っていた「多少の武術の心得」とはこれのことだろうか。そして、周囲の音や自然の息吹が、まるで日本語のように自然に理解できる。これが「言語理解」の能力か。

佐々木龍は、ゆっくりと立ち上がった。不安がないわけではない。しかし、それ以上に、胸の高鳴りが止まらなかった。かつての灰色の日常では決して感じることのなかった、未知への興奮と、新たな人生への希望が全身を駆け巡る。

彼の、もしかしたらチート能力を駆使して無双するかもしれない、波乱万丈な異世界での物語は、今、まさにその第一歩を踏み出したばかりだった。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ