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痴漢を殴りにいったら、痴漢にされた

作者: はりはら

痴漢を捕まえにいったら痴漢にされてしまったバカな男と、とても賢い女性のお話。

「おい、ちょっと痴漢されてくれないか?」


 俺がそう声を掛けると、そいつは美しい顔で露骨にイヤな表情を作った。まあ、そういう反応をされるとは思った。俺の言い方も良くないのだろうけど、俺はひとにモノを頼むときは率直に要件を言うことにしているんだ。


「先輩、なんなんですか? セクハラで訴えますよ」


 そいつは、あからさまに侮蔑を含んだ口調でそう言った。彼女は俺の大学の一年後輩で、美人で有名。しかも、とても頭が良い。あるとき、街で言い争いをする彼女を見かけて止めに入ったのだが、それからときどき話をする仲になった。俺は女性の美しさがどうとかいう話はよくわからないのだが、彼女がとても美しいというのはわかる。だから「痴漢されてくれ」と頼んでいるわけだ。


「……へえ、なるほど。大学の生活相談SNSに痴漢被害のお悩みが来ているのですね。それを防犯委員の先輩が解決したいと……」


 俺は、彼女とともに学食に場を移し、「痴漢されてくれ」と頼んだ理由を説明した。頭の良い彼女はすぐに理解してくれた。


「……だから、私が『痴漢されて』、先輩がそれを捕まえると」


「そうだ。痴漢被害の報告は決まった時間の電車車両に集中している。そこに乗り込んで、おまえが痴漢されたところを俺が取り押さえる」


 彼女は美しい顔をあきれた表情にして、ふっと息を吐いた。


「それって、おとり捜査みたいなものですよね? 違法行為ですよ、わかっていますか?」


 彼女は本当に頭が良い。これまでに何度も話しているのでわかっている。だから、そう言われるのも想定済みだ。


「わかっているよ。でもな、犯罪をわざわざ起こさせるわけじゃない。現に起こっている痴漢行為をやめさせるためにやるんだ。痴漢を捕まえて二三発ぶん殴ってやれば、痴漢などやめるだろ」


「先輩が暴行傷害で捕まるかもしれませんけど」


「そんなの、覚悟のうえだ」


 彼女はまたあきれた顔になり、


「この、正義バカが」


 と、顔をそむけて小さな声で言った。そして、正面に顔を戻すとニコニコと笑いながら、


「その計画ですと、私は痴漢に触られなければなりませんよね? それについてはどうお考えなのでしょうか?」


 と言った。


「それは……すまないと思うけど……今、被害に遭って、それで傷ついている女性がいるんだ。助けてやらなきゃダメだろ? おまえが痴漢に触られたらすぐに助ける。だから、ちょっとだけ、ちょっとだけ我慢してくれないか?」


 俺はそう言って、頭を下げる。


「なるほど。先輩は『ちょっとだけ』なら、私が痴漢に汚い手で触られても構わないとおっしゃるのですね?」


「いや、まあ……ホントに、ホントにちょっとだけだ。俺がすぐに助けるからさ」


 俺がそう言うと、彼女はまた顔をそむけて、


「……バカ」


 と、さっきより小さな声で言った。


「どうか頼むよ。この通りだ」


 俺は女神に祈る気持ちで、彼女に向かって両手を合わせた。


「やめてくださいよ、みっともない。じゃあ、ひとつ教えて下さい。どうして私に頼むのですか? 防犯委員にだって女性はいるでしょ?」


「だって、おまえ美人だろ? 痴漢が喜んで食いつきそうじゃないか」


 俺がそう答えると、彼女は眉を吊り上げ、


「発想が下劣ですね。それに先輩は考え違いをしています。私は痴漢にあったことはありませんよ」


 そう言って、冷たい笑みで俺を見た。


「え、そうなのか?」


 予想外の言葉に俺が首をかしげると、彼女はスッとイスから立ち上がった。立ち去るつもりなのかと思い、あわてて止めようとしたが、


「先輩ほどじゃないですけど、私って背が高いでしょ? 痴漢は背の高い女性は相手にしないんですよ」


 立ち上がった彼女は、座っている俺を見下ろしてそう言った。


「えっ、なんでだよ?」


「痴漢っていうのはですね、小柄でおとなしい女性の体を触って、嫌がったり、怖がったりするのを見たいんですよ。自分より弱そうな人間を見つけて支配したつもりになりたいんです。イジメと同じ心理ですよ」


「そうなのか……なんて、卑劣な」


「今さらなにを言っているんですか」


 彼女はそう言うと、ドスンと腰を落としてイスに座り直した。


「まあ、とても強い人間の先輩には理解できないでしょうけどね。というわけですので、私は痴漢される役には、不適任なのですよ」


 それを聞いて俺はガックリと肩を落とした。


「……なるほど、そうなのか……わかったよ。無理なことを頼んですまなかったな。でも、おまえの話はとても参考になった。ありがとう」


 彼女に謝り、俺は少し考え込んだ。すると、


「私、引き受けますよ、痴漢される役」


 彼女がそう言った。驚いて彼女を見ると、探るような眼で俺を見ている。


「……だっておまえ、不適任だって自分で言ったじゃないか」


「先輩は、今の私の話を聞いて『じゃあ、小柄でおとなしい女性に、痴漢される役を頼もう』って考えていますよね?」


「ああ、うん、まあな。痴漢は止めなければならんし、他に方法を思いつかないから……」


 俺がそう言うと、彼女はものすごい眼で俺をにらんだ。


「先輩は、どこまで単純バカなのですか? 小柄でおとなしい女の子は、先輩みたいな大男から頼まれたら、怖くて断れないですよ。それで、いやいや引き受けて、痴漢に触られて……どれだけ傷つくかわかっているんですか? そんなこと、絶対させられません。だから、私が引き受けます」


「え――、だっておまえ、痴漢に相手にしてもらえないんだろ?」


「言い方!」


「おまえが自分で言ったんじゃないか。だいたい、痴漢が食いついて来ないのに、どうやって捕まえるんだよ」


 俺がそう言うと、彼女はイスの上で姿勢を正し、


「先輩、少し冷静に考えてください。痴漢を捕まえる必要はないでしょ? これから女性が痴漢被害にあわなければいいだけです。それなら、防犯委員の先輩が被害の出ている電車車両に乗って監視すればいい。大男で怖い顔の先輩がにらんでいれば、一定の効果はありますよ」


 真剣な口調でそう言った。

 ふん。「怖い顔」は余計なお世話だが、彼女の言う事はもっともだ。俺は痴漢被害者の書き込みを読んで、気持ちが熱くなり過ぎていたな。


「わかった。俺一人で痴漢被害の報告があった電車に乗るよ」


 俺が言うと、


「いいえ、私もつきあいますよ」


 と、彼女が言った。


「なんでだよ、別にいいよ」


「私、先輩が信用できません。私の言うことを聞かないで、小柄で可愛い女の子を痴漢される役にして、一緒に電車に乗られたりしたら困りますから」


「そんなことしないって」


「信用できません。そもそも、この話は先輩から言ってきたことですよね? それなのに『別にいいよ』ってなんですか? 私、絶対一緒に行きますからね。先輩から頼んだことなのだから、報酬もお願いしますよ。私のわがままをひとつ聞くこと。いいですね?」


 「わがまま」ねぇ……今までに、こいつのわがままは何度も聞いてやった気がするし、今まさに、わがままを言われてると思うのだけど……まあ、仕方がない。こいつの言う通り、頼んだのは俺の方だし。


「わかった、一緒に来てくれ、頼むよ。わがままでもなんでも聞くから」


 そう言うと、彼女はニッコリと笑い、


「はぁ~い、お任せください。『痴漢される役』頑張りますよ~。大女が好みの痴漢さんもいるかもしれませんしね。でも私、初体験なので痴漢されたら泣いちゃうかもしれません。先輩、しっかり護ってくださいね」


 と、おどけて言った。からかわれているんだろうけど、怒るのも面倒くさい。


「ああ、わかったよ。任せておけ」


 そう答えると、彼女はつまらなそうに唇を尖らせた。



 その翌日から、俺たち二人は「痴漢出没注意」の電車に乗ることにした。

 最初の日、彼女は待ち合わせの場所に普段よりずっと地味な服装と化粧で現れた。計算高い彼女のことだから、痴漢を挑発するような派手な格好をして来ると思っていた俺が、その姿に驚いていると、


「ミニスカートでも履いて来ると思いましたか?」


 と彼女に笑われた。痴漢は「おとなしそうな女性」を狙う。だから、格好はなるべく地味に、というのが彼女の計算らしい。


「先輩がお好きなら、ミニスカートで来ますけど」


 彼女にからかわれたが、服のことなど俺にはわからないし、どうでもいい。痴漢が食いついてくれればそれでいいんだ。

 そして、いよいよ電車に乗り込んだ。もちろん、互いに他人のふりをして。目立たぬように彼女を見守る俺は、彼女の言ったことは間違いで、俺の最初の考えが正しいのでは思った。地味な格好をしていても彼女をチラチラと見る男は多い。これなら痴漢も食いついてくるに違いない、そう思ったんだ。

 

 数日が過ぎ、俺は自分の考えが間違いだと知った。彼女を見る男は多いが、近寄ってきたり、声をかけたりする者はまるでいない。背が高いから、だけじゃない。俺はふだん彼女と近くで接しているから気づかなかったが、離れて他人のふりをして見ていると、彼女には人を寄せつけないオーラのようなものがある。これでは痴漢が食いつくはずもない。

 もう、今日で終わりにしよう。あれから、痴漢被害の訴えは来ていないし。彼女の言う通り、痴漢は俺の怖い顔で逃げたのかもしれない。それに、今日、待ち合わせ場所で彼女に会ったとき、


「痴漢される役、大変じゃないか?」


 と、あいさつ代わりに聞いたら、


「いいえ、楽しいですよ。先輩と一緒だもの」


 にこりと笑って答えてくれた。もちろんそんなはずはない。「一緒」と言っても、お互いに他人のふりをしているので、言葉も交わせない。それで、なにが楽しいものか。彼女は俺に気を使って、そんなことを言ってくれたのだ。そんな気づかいができる女性を、俺は一人きりで立たせて、痴漢に触られるのを待っている……今さらながら気がついた。俺は最低だ。こんなこと今日で終わりにして、彼女に謝ろう、と考えていると……


「先輩、ちょっと」


 いつの間にか近づいていた彼女が、俺の耳元にささやいた。反射的に「なんだよ、他人のふりしてなきゃダメじゃないか」と言いそうになった……いやいや、違う違う。もういいんだ、そんなの。俺だって彼女を見守るのを忘れて考え事していたんだし。

 ところが――


「静かに私について来てください」


 彼女は緊張した様子で周囲をうかがいながら、小さな声で俺に言った。どうしたんだろう……なにかあったのか? 俺は黙って彼女に従い、静かに乗客の間をすり抜け、車両の隅の方へと移動した。

 座席が置かれていない壁に、小柄な女性が呆けたように青白い顔で寄りかかって立っている。制服を着ている。女子高生だ。その隣に、ごく普通のビジネスマンに見える男が立っている。二人の体は少し離れているが、男が左手に持っている不自然に大きな薄いビジネスバッグが女性の下半身の一部を隠し、男の右手がその陰で動いているように見える。車両内の死角を巧みに使っているので周囲の乗客は誰も気づいていないようだ。男はまったくの無表情で、蒼白な女子高生の顔を見つめている。そんな眼を俺は今までに何度か見たことがある。自分より弱い者を見つけ、いたぶって喜ぶ、どす黒いのにギラギラと輝くおぞましい眼だ。

 こいつか? こいつが報告にあった痴漢なのか! はじめて見る薄汚い光景で溜まった嫌悪感が、湧き立つ怒りにかき消されていく。

 前にいた彼女の手が、俺の腕をとても力強く握った。

 わかっているさ。あんなヤツ、俺がすぐに取り押さえてやる。


「痴漢です! 誰か警察を呼んでください」


 彼女が、毅然としたよく通る声で叫んだ。車両中に響き渡り、乗客の視線が一斉に集まった。

 そして、俺は――――呆然としていた。彼女は、俺の腕を握った手を高く掲げて、そう叫んだんだ。


「……いや、違う。俺は痴漢じゃない。痴漢はそっちの――」


 一瞬の呆然自失から抜け出した俺が、本当の痴漢をにらみつけながらそう言うと、彼女は俺の襟首をつかみ、ごく間近で俺の顔をにらみつけて、


「黙れ!! この痴漢が」


 鋭い口調で言った。それから、俺の耳元に唇を寄せると、


「先輩……少しの間、ホントに黙っていてください」


 と、ささやいた。俺はまた、わけがわからず立ちつくしてしまったが、すぐに気がついた。いや、本当の痴漢を捕まえないとダメじゃないか。すると――


「ねぇ、あなた。私があの男に触られるの見ましたよね? 一緒に警察に行って、証言してください。お願いします」


 彼女は俺のことを指してそう言った。「本当の痴漢」の腕をつかんで。


「……なにを言っているんだ。私は知らない。なにも見ていないよ。手を放しなさい」


 痴漢はそう言って、彼女の手を振り払おうとする。ああ、なるほど。よくわからないが、本当の痴漢はちゃんと捕まえるんだな。俺は痴漢に近づくと、その腕をぐっと握り、


「おいアンタ、アンタはなにも見ていないんだよな? 俺が痴漢したなんて、見てないよな、嘘だよな。だったら、警察にそう言ってくれ、頼むよ。このままじゃあ、俺が痴漢にされてしまう」


 痴漢の顔をにらみつけながらそう言うと、彼女が驚いた顔で俺を見た。痴漢がビクビクと震えて顔を伏せ、なにも言わなくなると、彼女は俺に一瞬だけ笑顔を見せた。そして、本当の痴漢被害者の女子高生にすり寄ると、また、俺を指して、


「ねぇ、あなたはあいつが私のこと触ったの見たわよね? 一緒に警察に行って話してくれないかなぁ? お願いよ」


 やさしい口調でそう言うと、女子高生に向かって両手を合わせた。


「いえ……あの……わたしは……」


 女子高生が固い表情のまま、なにかを言おうとすると、


「いいのよ、今は無理に喋らなくても。私が急に大きな声出したから、びっくりしちゃったわよね。少し落ち着いてから、話してくれればいいからさ」


 彼女はそう言うと、ニッコリと微笑んだ。



 彼女が「警察を呼んで」と叫んですぐに誰かが警察に連絡してくれたらしい。次の駅で緊急停車した車両に駅員が乗り込んできた。


「この人が痴漢です。私のこと触ったんです」


 俺のことを指して彼女が言うと、駅員がおびえた顔で近づいてきて俺に電車から降りるように言った。逆らうつもりなどない。彼女になにか考えがあるのだろうし、痴漢を警察に引き渡すのが優先だ。俺は痴漢の腕を握ったまま、電車から降りた。コイツが逃げようとしたら、駅員がどんなに止めようと、殴り倒してやるつもりだ。

 そして、もちろん彼女も女子高生といっしょに電車を降りたのだが――


「だからねぇ~、その時のライブパフォーマンスがすっごくってさぁ。映像が残っているから、あなたにもぜひ観て欲しわぁ~」


 彼女は女子高生を相手に、なにやらアイドルグループの話をしている。電車を降りてからずっと、芸能人の誰がどうしただの、先週のテレビドラマが面白かっただの、くだらない話をし続けている。よくもまぁ、こんな時に……緊張感のないヤツだ。

 駅の事務室に入ると、俺と彼女は、かなり距離をおいてイスに座らされた。なにせ、痴漢とその被害者ということになっているからな。俺は、本当の痴漢の腕をつかんだまま。まだ放す気はない。彼女は、本当の被害者である女子高生にしきりに話しかけているが、ときおりうなずくくらいで、青白く固い表情のままで黙り込んでいる。

 少しして、パトカーのサイレン音が聞こえてきて、すぐ近くで鳴りやんだ。間をおかず、駅事務室に二人の男性警察官と一人の女性警察官が入ってきて、男性警察官は痴漢役の俺に、女性警察官は被害者役の彼女に歩み寄った。男性警察官二人は、俺をはさむようにして立ち、つかんでいた本当の痴漢の腕を放すように言った。俺は黙って従う。もう彼女が本当のことを言ってくれるだろうと思ったからだ。彼女は女性警察官と話しているが、なにを話しているかは聞き取れない。やがて、二人の話は終わり、女性警察官がすごくいや~な目で俺をにらんだ……ああ、俺はまだ痴漢役を続けなきゃならないのか……

 

 そして、俺と本当の痴漢、彼女と本当の痴漢被害者の女子高生は、別々のパトカーに乗せられ、警察署へと連れて行かれた。

 警察署に着くと、俺は一人だけで、薄暗くて汚れた狭い部屋に入れられた。刑事ドラマに出てくる「取調室」そのものという感じだ。小さめの机をはさんでイスが向かい合わせに置かれ、俺はそのひとつに座らされている。こんな場所で、いかつい男の刑事に怒鳴りつけられたりするのかなぁ……そろそろ、彼女が本当のことを話してくれると信じてはいるんだが、薄暗い中に一人にされ、さすがに不安になる。

 と、部屋に誰か入ってきた。ドアを閉めると、右手に持ったリモコンらしきものを操作する。照明の光が強くなり明るくなると、この部屋が思ったよりも広く、清潔に整えられていることがわかった。そしてその人は、左脇に抱えていたノートパソコンを机の上に置くと、俺と向かい合わせのイスに座った。ノートパソコンを開き、不機嫌そのものといった顔を俺に向ける。駅の事務室で俺をにらんだあの女性警察官だ。


「聞いたわよ。アナタ、あのひとの大学の先輩なんですってね?」


 女性警察官がそう言った。どうやら、彼女は本当のことを話してくれたらしい。ホッとしていると、


「どういうつもりなの? 知り合いの女性をおとりにして痴漢を捕まえようだなんて。痴漢に襲われそうな場所に女性を一人だけで立たせるのがどんなにひどいことか、なんで気づけないのかしら?」


 にらみつけられた。いや、それについては、ひどいことだと俺も気づいたんですよ。今日になってやっとだけど。でもそれは言い訳にもならない。俺は、ひたすら頭を下げて、反省と後悔の言葉をならべた。そのあとも、お説教をはさんだ女性警察官の事情聴取は長々と続いた。


「あの人はね、アナタのことをかばっていたのよ。アナタが『一人で電車に乗る』って言ったのに、自分から『痴漢される役』をやるって言って、強引について行ったんだなんて、ありえないウソまでついて……」


 いや、それはウソではないのですけれど……と言っても、信じてもらえるわけないよな……


 長い事情聴取が終わり、女性警察官が部屋を出ていくと、一人残された俺は大きく息を吐いた。疲れた。痴漢を捕まえられたのはよかったし、事情聴取でお説教されたのは俺が悪いから仕方ないけれど、やってもいない痴漢にされたのはやはりキツイ。他の乗客からの視線が痛かった。とはいえ、彼女を責めることなどできるわけがない。痴漢を見つけてくれたのは彼女だし、俺を痴漢にしたのはもちろん理由があるのだろう。それに、俺は彼女にひどいことをしていたのだ。とにかく、彼女と一緒に帰って、しっかり話をして、ちゃんと謝ろう、と心に決めた。

 そこに女性警察官が戻って来てドアを開けた。


「はい、もう帰っていいわよ」


 事務的な口調でそう言われ、俺は部屋を出て、彼女の姿を探した。しかし、見当たらない。


「あの……俺の後輩はまだ聴取中ですか?」


 女性警察官に聞くと、


「あのひとならもう帰ったわよ」


 そう答えた。ああ、俺を待っていてくれなかったのか……やはり、怒っているのかなぁ、と思っていたら、女性警察官が言葉を続けた。


「女子高生の子がほとんどしゃべれないような状態でね。『送っていく』って言ってくれたから、お願いしたのよ」


 そうか……被害者の子を送っていってくれたのか……やはり、彼女についてきてもらったのは正解だったな。それじゃあ、俺も帰るとするか……おっと、その前に、


「あの痴漢の取り調べは、どうなってますか?」


 俺がそう聞くと、女性警察官はいやぁ~な顔になり、


「……あの方も、もうお帰りいただいたわよ」


 と言った。なに?! なんでだよ! 本当の痴漢が、なんでウソの痴漢の俺より先に帰ってんだ?


 「そんな! だってアイツ、現行犯じゃないですか!」


 俺が興奮してそう言うと、女性警察官は落ち着いた口調で、


「アナタ、事情聴取で、『手がバッグに隠れていて、触っていたのは見えなかった』って言ったわよね? アナタの後輩も同じように言ってたわ。それじゃあ目撃証言にはならない。そして、女子高生は証言できる状態じゃなかった……今のところなにも確証がないわ。これじゃあ、長時間の取り調べなどできない。身分証明書を確認して、お帰りいただいたわ」


 と言った。俺がさらに興奮して、


「そんな……あの女子高生の顔を見たでしょ? アイツはあの子をあんな顔にして、それをジッと見ていたんですよ!」


 と言うと、女性警察官はうんざりとした口調で、


「あの方は言っていたわ、『私のカバンが女子高生に当たってしまって、誤解されたのかもしれない』ってね。『女子高生の顔色が悪かったので、心配で見ていたんだ』とも言っていたわよ」


 と言った。

 あの野郎! おとなしく警察署までついて来たから、自供すると思っていたのに……そんな言い逃れをするつもりだったのか……


「くそっ。あんなヤツ、ぶん殴ってやるんだった!」


 抑えきれずに俺がそう叫ぶと、


「冗談じゃない、いい加減にしてよ!」


 女性警察官が鋭い口調で言った。


「そんなことして、どうなるっていうの? 正義の味方のパンチ一発でなにかが解決するほど、世の中は簡単じゃないの!」


 そう言った女性警察官は、慌てて首を振った。


「……ごめんなさい。言い過ぎたわ。そんなこと、アナタだってわかっているのよね、ここまで何もしないでアイツを連れてきてくれたんだもの。アナタとアナタの後輩にはとても感謝しています。本当よ。だから、あとは私たちに任せてちょうだい。お願いだから」


 そう言うと女性警察官は真剣な顔になり、敬礼をして、


「本日はご協力ありがとうございました」


 と俺に言った。



 翌日、俺は大学のキャンパスで彼女の姿をさがしていた。昨日、警察署を出てから、何度か彼女に電話したのだが、出てくれなかったり、話し中だったり……返信も来ない。やはり、怒っているのかな……直接会って、話をしたい。謝りたい。不安な気持ちで彼女をさがしていたのだが、わりと簡単に彼女を見つけることができた。

 俺と彼女がよく会う場所に彼女はいた。昨日までの地味な格好ではなく、華やかな普段どおりの姿で楽しそうに電話をしている。俺の姿を見つけると、ニッコリと笑って手を振ってくれた。ホッとした……いや、嬉しくてたまらない。


「うん、それじゃあねぇ。絶対にいっしょに行こ~ね。約束よ~」


 彼女はそう言って通話を終えると、俺に笑いかけた。


「先輩、きのうはお疲れ様でした~」


 いつも通り。いつもと変わらない彼女だ。俺もいつものように話さないと。


「お疲れ様じゃないぞ、ひとを痴漢にしやがって!」


「あらぁ? 先輩は、傷害罪で捕まるのも覚悟のうえ、って言ってたでしょ? 痴漢なんて、傷害よりゼンゼン罪が軽いんだもの、いいじゃないですか」


 屈託のない笑顔、からかうような口調、いつも通りだ。まったく、コイツはこれだから。


「ああ、確かに俺はそんなこと言ったよ。だからって、なんであんなことするんだよ。痴漢を捕まえるためだって、他にやり方はあったろ?」


 俺がそう言うと、彼女の笑顔が消え、驚いた顔になる。


「え? 先輩、わかってくれたんじゃないんですか。私のお芝居に合わせてくれたじゃないですか。とっても嬉しかったのに……」


「お芝居に合わせた? ああ、俺が痴漢のふりをしたやつか……あれはとっさにだけど……」


「とっさに……ですか。そうでした。先輩は野生のカンで動く人でしたね。忘れてましたよ」

 

 彼女は、本当に残念そうに肩を落とす。そして、静かな口調で、


「ねぇ先輩、なんであの子がおとなしく痴漢に触られていたかわかりますか?」


 と聞いた。「あの子」って……昨日の痴漢被害者の女子高生のことだよな?


「そりゃあ、痴漢が怖かったからだろ」


 俺が答えると、


「もちろん、それもあります。でも、それだけなら、声を出して助けを求めるか、逃げ出すかすればいいですよね。あの子は『恥ずかしかった』んです。痴漢に触られていることをまわりの人たちに知られたくなくて、我慢してしまったんです。そんな子の前で痴漢を取り押さえたら、被害者のあの子にも視線が集まりますよね。それに、あの子が耐えられると思いますか?」


 彼女は、悲しそうに言った。

 そうか……それで、「痴漢です」と声を上げて、俺に視線を集めたのか……いや、彼女の方が、俺よりももっと多くの視線にさらされたはずだ……

 俺はなにも言えなかった……彼女のしたことを、痴漢にされた俺は怒るべきだ……怒ったふりをするべきだ。でも言葉が出ない。情けない。二人の間の沈黙がとても重い。それを振り払ってくれたのは、やはり彼女だった。

 彼女は嬉しそうな笑顔で、明るい声で、言った。


「私ね、あの子と友達になったんですよ。それでね、今、約束したんですよ『いっしょにスイーツビュッフェに行こーね』って」


 え? なんだ? 「スイーツビュッフェ」って……いやいや、そっちじゃない。そんなことより、彼女は、痴漢被害者の女子高生と友達になったと言ったんだよな……それならば、


「おまえ、あの被害者の女子高生と友達になったんだな? それなら、あの子に『被害届』を出すように頼んでくれよ。そうすれば、あの痴漢を罰することができるかもしれない」


 俺がそう言うと、彼女は――


「いやですよ」


 笑顔のままでそう言った。


「だって、おまえ、それじゃあ……」


「先輩、わかっていますか? 『被害届を出す』ってことは、昨日のことをすべて思い出さなきゃならないんですよ。それで、裁判になったら、そのたびにまたすべて思い出さなきゃならない……なんで、あの子がそんなに苦しめられなきゃならないんですか?」


「でも……アイツがまた痴漢をして、誰かを傷つけるかもしれないんだぞ」


「そんなの知りません。私、わがままですから。自分の弱さを認められなくて、平気で他人を傷つける。そんな人間はいくらでもいるし、いくらでも湧いてくるんです。いちいち相手にしてられませんよ」


「でも……おまえが協力してくれて、やっと痴漢を捕まえられたのに……」


「……先輩、私ね、昨日あの子とずっと話をしていたでしょ? あの子、一度だけ笑ってくれたんですよ。ケーキの話をした時にね。とっても、やさしくて、素敵な笑顔でしたよ。私、あの笑顔がもう一度見たいんです。だから、あの子といっしょに『スイーツビュッフェ』に行くんです。先輩、約束しましたよね? 私のわがままをなんでもひとつ聞く、って。これが私の『わがまま』です。約束は守ってくださいね」


 彼女は笑顔で言った……なんというか……「とっても強い笑顔」で。こんなの逆らえるわけがない。でもなぁ……


「うん、わかったよ。おまえの言うとおりにする……だけどそれって、おまえのわがままじゃない、あの子のためだろ? おれは、おまえのわがままをなんでも聞く、って約束したんだ。だから、おまえのわがままを言ってくれよ。頼むから」


 俺がそう言うと、彼女はぷいっと顔をそむけ、


「なにを言ってるんですか先輩は。ホントにバカなんだから……」


 と言った。ああ、もう! メンドくさいやつだなぁ。わかったよ、わかりましたよ。


「あ―――あの……昨日さ、おまえすごく頑張ってくれたよな。だから特別に、もうひとつ追加でわがままを聞いてやるよ。なんでも言えよ」


 すると彼女は、パッと正面に顔を戻し、嬉しそうに笑った。


「うわぁ、先輩、太っぱら~。私、先輩のそういうとこ好きですよ~。じゃあね、ラーメンいっしょに行ってくださいよ。行ってみたいお店があるんですよ~」


「ラーメン? そんなのでいいのか? ラーメンなんて一人でも食いに行けるんじゃないか?」


「え――。私が一人で行ったら、ジロジロ見られちゃって、落ちついて食べれないですよ」


「はぁ? なんでおまえのことジロジロ見るの? みんなラーメン食いに来てるんだろ? おまえがラーメン食ってるの見て、なにが楽しいんだよ?」


 俺がそう言うと、彼女は驚いた顔で固まった。なんなんだよ一体。


「……先輩って、本当にバカなんですねぇ……でも、私、先輩のそういうところ嫌いじゃないですよ」


 彼女はそう言って、とても楽しそうに笑った。

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