第七話 選ぶ道
「美咲っ! ……美咲っ! ああっ、ど、どうしようっ」
陽菜の声で突如覚醒した私は、部室の床に倒れ込んでいた自分の体を起こした。
陽菜はまだ私に気づいていない。
「救急車っ……救急車っ」
「陽菜」
「ふぅっ……ふぅ……よし。119……119」
「陽菜」
「なに? 今忙しい——んっ?!」
「ごめん、起きた」
「……はぁふぁっ」
陽菜は私の顔を見て泣きそうな顔をしたと思ったら怒った表情に変化して、またそこから泣きそうになって座り込んだ。
「大丈夫なのぉ……」
「ごめんね。多分大丈夫だから。心配かけてごめん」
陽菜の肩に手を置いて話しかける。
「もう……ほんとっに……良かったけれど、病院は今から行こうよ……ねっ?」
「うん……そうする」
目に涙を溜めてそんなことを言われて断れる筈はない。それに一瞬とはいえ日中に突然意識をなくすなんて、放っておくとまずい気がする。
……あれ? そういえば、どうして意識をなくしていたんだったけ?
夢を見て、いえ、違う……何かを忘れている。
何を忘れているの? 誰のこと——
「——痛いっ」
ブチリと血管が切れるような音と共に、不意に頭痛が走った。
『ウォードに連なる者よ』
そして声が頭の中へと響いてくる。この声、神竜の……。
『お前の願いを叶えよう』
願い? 私の願いは神竜の贄となり、その怒りを収め、国を救うこと。それはもう叶った。
『違う』
「違う? いいえ。私の願いはそれだけ、それ以外に願いなんてっ」
大きな声が出たことに自分で驚き、手に口をやった。陽菜を驚かせてしまったかも。
「ごめんっ、陽菜、びっくりしたよ……ね……っ、えっ?」
陽菜はピクリとも動かない。彫像のように泣き顔のまま固まっている。
そして天気の急変だろうか、部室に差し込む光が一気に失せて、薄暗くなった。
『お前の願いを叶えよう』
大気の震える音が耳に届き、部室の天井に据え付けられたLED蛍光灯が明滅する。
窓から風が吹き込んで、机の上に置かれていた紙の束がパラパラとめくれ、ふわりと散って床に落ちた。
「私はっ! 願ってなんかいないっ!」
込み上げた恐怖から叫ぶように否定すると、陽菜のノートパソコンから電子音が何度も鳴った。
息をのんで、恐る恐る画面を覗き込む。
エラーウィンドウが多数ポップアップし続けている。
「お前は自分の願いを理解した筈だ」
「——神竜っ?!」
頭の中ではなく、耳に届いた声に驚き振り向くと、陽菜が直立したまま、床からほんの僅かにだが浮いていた。
「陽菜……」
「心配するな。何もしてはいない。数多ある異世界の類型を脳に刻み、我が存在をこの場で再現するのに適した者がいたので少し借りたまで。直ぐに終わる。それよりもお前だ」
陽菜の口からは、いつもの幼い声色ではなく、重々しい神竜の声が響いている。
「神竜……なぜここに」
「もう己の願いは気づいたのだろう?」
「……だから何。そんなことを確認するために、わざわざ現れたとでも?」
苛立ちを隠せない自分に苛立った。私は今どんな顔をしているのだろう。
「泣いている。お前は泣いている。自らの愚かさで愛すべき者を死なせたことに」
「だからそれがどうしたの! 願いを叶える? 違う! 叶えて欲しくないのっ! 私はアッシュを死なせたのにっ……」
そんなこと言われなくてもわかっている。会いたいに決まっているし、あの日答えれなかったことをちゃんと答えたい。
「でも、そんな資格なんてないじゃない……だから私はミラディアであったことを忘れようとっ! ……加藤美咲として生きていこうとしたのよっ! もう少しで! あとほんのちょっとで……なのに、どうしてこんな夢を」
どうしようもなく涙が溢れ、嗚咽が漏れた。
「お前は愚かだ。己のことばかりで、相手のことが見えておらん」
全くその通りで、神竜の言葉に何も返せない。私は愚かで、アッシュのことを何も分かっていなかった。
「それに、願いを聞いたのはお前だけではない」
「えっ……?」
反射的に体が強張った。
「彼奴はお前と同じく過去の夢を見てはいるが、記憶は引き継いおらず、以前とは全く別の存在といえる。神に届きうる力を操る者をこちらに送るのは問題が多い故の処置でもあるが……。」
語られる内容に頭が追いつかない。
「ここに送る前、彼奴は笑って言い放ちおった。『姫様を忘れることなど死んでも出来ない』とな……さて、どうやら時間だ」
陽菜の足がゆっくりと部室の床へと吸い付く。
『お前の願いは叶うだろう』
急変した天気が再び晴れ間をのぞかせ、部室に光が染み込むように入ってくる。
光はどんどんと強さを増し、部室を一瞬白く染めた。
そして取り戻した視界の先には、私を見つめる陽菜の姿。
「美咲? どうしたの?」
「陽菜、……何ともないの?」
陽菜は普段と変わらない様子だ。
「何がよ? 美咲こそ頭を打って変なこと言ってない? すぐに病院行こうよ」
「う、うん……」
ついさっきのことが嘘だったかのように、何もなかったことになっている。
窓から吹き込んだ風で飛び散った筈の紙束は、変わらず机の上にあって、ノートパソコンの画面も見慣れたデフォルトの壁紙のままだ。
さっきのは一体なんだというの? 幻だとでも……。
「歩いて行くのはやめてタクシー呼ぼうか。うん、その方がいいわね」
「ええ、そうね……」
呆然としているところにかけられた声に、曖昧に頷いて返事をする。帰り支度を始めた陽菜と、その向こう側が目に入る。
「フォリアイルマ……」
中庭に置かれた紫陽花の鉢植え。私はそれを見つめたまま、誘われるようにフラフラと歩き出した。
何故こんなにも惹きつけられるのかはわかっている。
夢……いいえ、覚えている色とそっくりだから。
中庭に続く部室のドアを押す。通り雨が降ったのか、地面は濡れて私の姿を映している。
靴が汚れるのも構わず、水たまりを揺らして歩き、紫陽花に近づいてしゃがみ込んだ。
花が水滴を纏って太陽の光を反射し、キラキラと輝いている——
「——その紫陽花、綺麗でしょう?」
背後からかけられた声。
聞き覚えのある落ち着いた響きが、記憶を強く揺さぶった。
「……はい、とても」
私は振り向かずに、小さな声で答えた。
「僕が育てたんですよそれ。気に入ってくれる人がいるのって嬉しいなぁ……っと、失礼。声が大きかったですね」
騎士になってから直したけれど、嬉しいことがあった時は、つい声が大きく出てしまうと、照れくさそうに教えてくれた。
「……あの、大丈夫ですか?」
小さな声で返事をしてから、しゃがんだまま動かないことを心配して、彼が私の顔を覗き込もうと横へと回り込んできた。
『美咲ー? どこー?』
帰り支度の間に、私を見失った陽菜の声が中庭にまで届く。
彼の顔が……とても近い。
「立てないなら、手を貸しますよ。どこか腰を掛けられるところで休み——えっ……?」
呆然として私の横顔を見つめるこの人に、私はどうすればいい。
笑顔で挨拶? それともこのまま立ち去る?
……いずれにせよ彼の顔を見れば、見てしまえば、答えは出るだろう。それはわかっていた。
だから私は、紫陽花を見つめたまま動かずにいる。
《了》