第六話 願い
「美咲? 最近眠れてる?」
「……あんまり眠れてない」
文芸部の部室で机に頬を押し付けた姿勢のまま答えた。
あの夢の後から、夜にぐっすりとは眠れない状態が続いている。眠れたと思ってもすぐに目が覚めてしまう。
その影響で、講義を受けても目を閉じて開けたら終わってしまっていたなんてことも多い。
一年ほど前にも同様の夢を見たけれど、眠れなかったのは一日だけ。それが二日、三日と続いて、今日はもう五日目。
記憶の補完が進んだ結果、ミラディアとして味わった感情がより鮮明になり、今の私の心と体に影響を及ぼしているせいだろうか。
日中に短い時間を眠ることで、どうにか耐えているけれど、そろそろ限界だ……。
「目のクマ酷いよ」
「コンシーラーじゃ誤魔化せないかー」
「美咲……」
心配を掛けないよう、なるべく明るい声で答えたけれど、陽菜の声はやや暗い。
机から顔を上げ、陽菜の顔を見た。
「……しんどそうな所で本当に申し訳ないんだけど……ちょっと報告があってさ」
「どうしたの?」
「うたた寝ねねこさんと話しを続けていて、色々分かってきたことを話したくて」
「……話してみて」
余計な心配をさせてしまったかと思ったけれど、そっちだったかと少し安心した。
「例の同じ夢を見ている人なんだけど、どうもこの大学の院生みたいなの……」
「えっ?」
けれど、安心したのも束の間。
椅子に座っているはずなのに、沈み込みような感覚に襲われる。私は動揺していた。
「環境学部の研究室なんだって。向こうの敷地だから、普段は会うこともないだろうけれど、学祭とかではもしかしてすれ違っているかも」
褐色の肌と金の瞳が思い浮かぶ。
そんなはずはない。私の願いがそうであるはずがない。私がそんな願いを抱くと?
私はアッシュと会う資格がない。
あれだけ支えられたのに応えることなく、立場を優先して彼にしたことは?
帝国に逃げろ? 想いの強さも知っていたくせに、それで止まると?
陛下が私だけに全てを任せると思い込んで、保険を掛けることすら想像もせずに。
……違う。違う、これは違う。
私は加藤美咲。これはミラディアの想い。過去の物——視界が……歪、む——頭が痛い——
「美咲っ?! ちょっと!」
◆
——小径を半日かけて進み、神竜の住まう湖のほとりまではあと少し。
そこで生贄となり、私は死ぬ。
思い残すことはもう何もない……。
そのまましばらく歩くと、伝承通りに薄らと光を放つ水辺が見えてきた。もう少し先には光り輝く湖が姿を現す筈で、その中央部にある孤島の祭壇とされる場所に行けば……。
私はゆっくりと進みながら——おかしな事に気がついた。
「何故、人が……」
湖の中央にある祭壇へ渡るのは、湖の水面に少しだけ沈んでいる、一本の細い道を使って渡るのだが、その道へと入る手前の砂浜から足跡が続いているのだ。
一体誰が。こんな所に人はこない。まさか。そんなことがある筈が……。
ヨタヨタと歩きながら進むと、孤島の祭壇で蹲る甲冑が見えた。
「嘘……あっ……う……」
嫌な予感に突き動かされ、孤島に続く道へと駆け出す。
が、直ぐに足を止めた。
道に入る手前に大きな皮袋が落ちていたからだ。
ウォード侯爵家の紋章が刺繍されたもので、私がアッシュに贈った物に間違いない。
吸い寄せられるように皮袋に近づいて拾い上げる。軽い。中身を確かめてみた。
「手紙……」
皮袋の中には一通の手紙が入っていて……宛先は私。
そのまま手紙を開いて読み進め……自分の愚かしさに打ちのめされた。
帝国へと発つ直前、陛下から私が生贄になることを聞いたアッシュは、クラバー王家に伝わる神殺しの剣を借り、神竜討伐を請け負ったと、経緯が記されている。
……陛下は神竜伝承を信じなかった訳ではなく、殺せる手段があると信じていたという事だ。
手紙には剣に選ばれたとあり、これは運命だとアッシュは書き綴っている。
そして最後の一文は、『必ず貴女を救う』……とても力強い筆致だった。
私はどうしようもない愚者だ。陛下のことも、アッシュのことも。分かったつもりで何一つ分かってなどいなかった。
立っているのが難しく感じるほどに脚から力が抜けていく、事実を受けとめきれずに心が割れてしまったのか、泣き叫ぶ衝動も起きない。
何も考えることが出来ないまま、手紙を握りしめて、私はフラフラと歩き始めた。
「アッシュ……」
孤島の中に蹲る騎士の姿が徐々に鮮明になる。見覚えのある鎧、大きな剣。これは手紙に書かれていたクラバー王家の剣だろう。
そして、アッシュは……死んでいる。
鎧の中身は白骨だ。
神竜が放つ呪詛の炎は肉だけを焼く。
こんな愚かな女の為に、アッシュは伝承通りの姿となってしまった。
もうそれ以上、近寄ることすら出来ずに座り込んだ。見上げた夜空はどこまでも輝き、湖は煌びやかに光りを放って美しいのに、何一つ心を動かさない。
早く死のう。せめて最後は神竜の贄としての役割を。
虚なまま、私は待った。
それからどれくらい経っただろう、神竜の気配は唐突に背後に現れ。
『ウォードに連なる子よ。何用だ』
私へと問いを発した。
「私は……」
私は何? 違う。こんなことを思い出したくない。私は美咲——