第五話 思い出したくない
「ひぅっ……!」
呼吸の仕方を忘れたように息が苦しくなり、跳ね起きるようにして目が覚めた。
夢だと分かっていても見るたびにこうなる。
……この先でアッシュは死んでいた。
神竜が放った呪詛混じりの炎で肉だけを焼かれ、きっと苦しみながら。
どうすれば良かったの——違う私は知っていた。
唇から広がる充足感を。一緒に植えたフォリアイルマを眺めた時間。陛下に疎まれ、それでも折れずに入れたのは誰が隣にいたからなの。
けれど私は彼を突き放した……。
だめ。これはミラディアの記憶。
「——美咲、美咲っ——美咲!」
「——っ! 陽、菜……」
目覚めてなお異世界へと旅立っていた頭が、陽菜の声によって現実世界へと引き戻されてきた。
「突然うなされ出したと思ったら跳ね起きて、何度も呼んだのに天井見つめたままだし。大丈夫?」
「うん、大丈夫。ごめんね……」
部室の壁にかかった時計は一時間ほど進んでいる。
「はい。お茶でも飲みなよ」
「ありがとう」
陽菜はそう言うと、手際よくポットのお湯を急須に注ぎ、お茶を差し出してくれた。
「でさ。さっきの話し何だけど、どうやら同じような夢を見ている人とは、会おうと思えば会えるかもよ」
「ふっ?!」
「ちょっと!」
「ごめん、ごめん、びっくりしちゃって……」
お茶を口に含んだタイミングで切り出さないで欲しかった。
「うたた寝ねねこさんの親戚だそうよ? 男で大学院生だってさ。これ以上の情報はまだ聞いてないけど」
「……そうなんだ」
「あれ? 興味ないの?」
「……興味がないというか、見ず知らずの人に、しかも男の人に会いたくないというか」
陽菜と目を合わせず、中庭の紫陽花を見つめながら言葉を絞りだした。
「えー、やだー、会って話し聞きたいー」
「陽菜だけで進めて」
「いいの?」
「いいわよ。でも、私は会わないからね」
「……美咲の気が変わったらすぐ言ってね。じゃあ今日は終わりってことで。明日は来るの?」
「講義もないし、来ないよ」
「じゃあ次は来週かな。今日は私用事あって寄り道するから先に帰るね。バイバイー」
陽菜は一瞬真面目な顔を私に見せたけど、直ぐにいつもの笑みを浮かべて帰っていった。
私が会いたがらない理由に、無理矢理には踏み込んでこない陽菜の距離感は、とても助かる。
加藤美咲として生きるためにはミラディアの過去は不要だ。
同じ夢を見たという人に会って話したりすれば、夢の内容がより補完され私はますますミラディアに近づいてしまう気がしてならない。
それに、いや……考えるのはやめて早く帰ろう。空も何だか暗いし。
どんよりと曇った空は今にも雨が降りそうだ。本降りになる前に急いで帰り支度をはじめないと。
そう考えながら立ち上がろうとしたけれど……紫陽花から目が離せなかった。
早くしないと、雨が降り出す前に早く。なのにどうしてか、体が動いてくれない。
……ああ、窓に水滴がポツリと弾けた。
「あの時と同じ……」
紫陽花が雨に打たれて揺れている。
きっと今日も夢を見る。それもあの日の夢を。
◆
「姫様っ! お待ちをっ!」
アッシュを突き飛ばし、逃げ出すように外に出た。
ぐちゃぐちゃになった感情が溢れないように大きく息を吸う。
小雨が肌にまとわりついて酷く不快だけれど、手に残る熱でそれどころではなかった。
お願い。追いかけてこないで。聖神様にそう祈った。
「……姫様」
けれど願いは届かなかった。
「早く戻って出立の準備を」
アッシュに振り返りもせず震える声で応える。
「お館様の遺言は違うはずです」
「いいえ、アッシュ。貴方は帝国に行きそこで新たな主を得るの。それが遺言よ」
「お館様が毒杯を飲み干された時、私は直前までお話を聞いておりました」
「……お父様が遺言を違えるはずがない」
高密度魔結晶の採掘を拒み、陛下の不興を買ったことで始まった、政敵からの執拗な攻撃。
ついにはあらぬ罪を着せられた父は、毒杯を自ら飲み干し自死することを条件に、神竜域への不干渉と親族の安全を陛下から取り付けた。
「お館様は最後に『ミラディアを頼む』と、遺言にもそう記したと。姫様、どうか、どうかお考え直しを」
確かに遺言状の最後には『思うがままにせよ』とあった。
けれどそれは私にとってこの国から逃げ出すことを選択させるものではない。
お父様は全て捨てて逃げても良いと、そう取れる遺言は確かになされた。自分が死ぬことで決着がつき、後は自由だと。
でもそれは違う。私は陛下を誰よりも見てきた。だからこれから陛下がなされることが分かる。
陛下は必ず神竜域へと手を伸ばす。国力を高めることに躊躇はされない。ウォード侯爵家の解体が終われば直ぐにでも。
アッシュには言えない。言えば彼は私と一緒に……最後まで。
「アッシュ。私にはこの国で朽ちていく役目があります。ウォードに叛逆の意思はないと、示し続けなければ——」
「——姫様を幸せに致します」
「っ……アッシュ」
どうにか立て直しつつあった心が揺ら揺らとぐらつく。
「私と一緒に。どうかっ……」
アッシュの声は悲痛に満ちていた。
今、私はアッシュに見られてはいけない顔をしている。この顔を見せてしまえばアッシュの心を断ち切れない。
陽が沈み出し小雨が降る中、目の前で咲く紫陽花が雨に打たれて花を揺らしている。
雨が強まり暗がりが濃くなった。
……助かる。この言葉は面と向かって伝えないとだめだから。
「何を勘違いしているのかわからないけれど、私の心は一度、陛下へと捧げたのです。それは貴方も良く知っているでしょう」
「姫様、どうか……私と」
「下がりなさい。それ以上口を開くことは許しません」
私の冷たい声にアッシュの肩が震えた。
「……わかりました」
操り人形のようなぎこちなさでアッシュは去っていく。
お願いアッシュ。どうか私よりも相応しい人と幸せに。
お願い雨よ。もっと強く降って。
振り返るアッシュから、私の姿が見えないように。