第三話 加藤美咲
「美咲ー」
呼ばれた声に振り返り、「お疲れ」と返しながら手を振る。高校から一緒の坂本陽菜が屈託のない笑顔を私に向けてくる。
「講義、全然頭に入らなかった。どうしよう」
「陽菜……毎回同じこと言ってるわよ」
「だって入ってこないんだもの」
大学の講義を終えて、私達が所属している文芸部の部室に入ってきた陽菜と話し始める。
「はいはい」
「えー冷たい。もっと励ましてよー」
「いっつもそんなこと言ってるけど、レポート評価悪くないじゃない。割と厳しい先生多いのに」
文芸部は私達の他にもいるけれど、ここにはあまり訪れず、二人きりのことが殆どだ。
「それでも励ませー」
「ちょっと! 重いってばっ」
陽菜が椅子に座る私の膝へと座り抱きついてきた。こうなったら頭を撫でるまで動かない。仕方なくため息混じりに撫でる。
背が低くて幼い顔立ちだから、まるで子供をあやしている気分になる。
「うん。励まされた」
「どうやって励ましたのか、身に覚えがなさすぎるのよ」
「美咲は元気出た?」
疲れが顔に出ているのか、陽菜が心配そうに私を見ている。
「……出た。ありがとう」
「夢を見たの?」
私から離れた陽菜は、机上のノートパソコンへと視線を送った。
「うん……」
「書いた?」
「書いたけど……」
「どのあたり?」
「今日のは修道院での暮らしとか、かな……」
夢を見たあとは自分が加藤美咲だという意識が薄れ、ミラディアとしての意識が強まってしまう。
そのまま放置して何日か夢を見続けていると、思考の大半は過去の憧憬や後悔へと費やされるようになり、日常に支障をきたす。
そうならない為、私は夢で見た出来事を書いて俯瞰的に捉えることで、自分を取り戻すことの一助にしている。
この作業を勧めてくれたのは陽菜だ。夢にうなされる私の解決策として、夢日記を提案してくれた。
「今日の書いたところ、読んでもいい?」
「いいよ」
返事をするなり陽菜は、ノートパソコンを手元に引き寄せ、画面を食い入るように見つめる。
「くぅー修道院といえば院長! シスター……何? 美咲っ!」
「メルルーザ院長。本当はシスターっていう言葉よりも神の下僕が合ってると思う。修道院も概念として近しいからそう書いたけど、こっちでいう慈善活動のイメージとかはそれほどなくて、神様と人間を繋ぐ為の儀式を取り仕切るのがメインの団体かな」
「権威はあったの?」
「それなりに。王族の言うことに真っ向から刃向かったりは出来ない程度だけど」
「なるほど。それで続きは……へー、なるほど、はー。……浮かんできた」
陽菜は私の夢日記を原案として小説を書いている。最初は嫌だったけれど、試しにやってみると、記憶の供養とでもいうのか、夢に引きずられる度合いが日記を書くだけよりも軽くなったので許可した形だ。
あわせて、結末はハッピーエンド保証と陽菜は約束してくれている。
ミラディアの人生はバッドエンド。ならせめてこちらの物語ではハッピーエンドにしたっていいと思う。
自分のノートパソコンへと猛烈な勢いで打鍵する陽菜の姿を見ることも、加藤美咲としての意識を確かなものにしてくれる。
家族には言えないことを受け止めて、共有してくれる陽菜。私の話を本当に信じていようといまいと、その存在は今の私には欠かせない。
「ここは……こうして」
陽菜が独り言を呟きだした。執筆の邪魔をしたくないのでそっとしておく。
さて、私はどうしうようかと、一階にある部室の窓へと視線を移した。中庭の鉢植えが並ぶ場所だ。
季節の花が咲いていて、眺めて時間を潰すのには丁度いい——
「——フォリアイルマ……」
……思わずその名を口にした。
「何か言った?」
陽菜がノートパソコンから顔を上げてこちらを見ている。
「紫陽花が中庭にあるから気になったの。昨日はなかったのに」
「あそこは環境学科の人が研究用の花とか置くみたいよ? それでじゃない?」
「そうなんだ……」
「もうすぐ終わるからもうちょっと待って。一緒に帰ろ」
「うん、時間もあるからゆっくりでいいよ」
本当にゆっくりでいい。私もあの花をもう少し眺めていたいから。
……違う、これはミラディアの……ダメなのに。視界から外そうとしても顔がそちらに向いてしまう。
分からない……いえ、そうじゃない。
同じ色だから。彼が育てたあの花と。
だからこんなにも魅入られている。
◆
「アッシュ。貴方の任を解きます」
「……」
「返答を。貴方の主として最後の命令です」
「……姫様。ご再考を」
「なりません。貴方は今日よりウォード侯爵家との縁を切り、アドラ帝国へと士官すべく此処を発つのです」
「お断り致します」
「紹介状はここに。父の遺言書と一緒にありました。流石はお父様です」
「これからも姫様をお守り致します」
アッシュの視線が私を射抜く。けれど私は強い意思を持って、揺らぐことのない言葉を紡いだ。
「貴方はもう当家と関わりのない騎士。剣を捧げる相手はもういません」
「いえ。私は姫様の剣。如何なる困難からもお守りすると誓いました……一緒に逃げて下さい」
「……それで逃げた先に幸せがあるとでも?」
殿下、いえ陛下の推し進める南進政策に異を唱え続けた父は、陛下の不興を買い失脚。そしてついには自死にまで追い込まれた。
発端はウォード領の南部、神竜域と呼ばれる場所に産出した高密度魔結晶。陛下はそれを国に捧げよと命じられた。
しかし父は我が家に伝わる神竜伝承を守り、陛下に逆らった。
神竜域を侵せば神竜は怒り、その口から放たれる炎は大陸を焼きつくす。その怒りを鎮めるための義務をウォード家は持っていると。
父の訴えを陛下は御伽話とした。
けれど私は父を信じている。父が死んでからというもの、頭に直接、声が聞こえるからだ。
『ウォードの義務を果たせ』と。私の頭がおかしくなったのではない。当主になると聞こえるのだ。ウォードが伝承してきた書物にも、そう記されている。
アッシュにはこのことは伝えていない。
だからこそ何も知らないまま生きていける。私はアッシュに生きていて欲しい。
陛下の不興をかってからというもの、心折れずに入れたのはアッシュのおかげ……フォルアイルマの花が咲いたと笑う貴方の——
「——っ?!」
思考のふいをつかれ、いつの間にかアッシュの手が私の手を包み込んでいた。
アッシュの端正な顔が私の視界を埋め尽くす。
「離してっ!」
手を振り払って突き飛ばそうと——
◆
「——あっぁぁっっ! ……っ」
目が覚めた。
カーテンの隙間から入った本当に微かな光。夜明け前。
時計を見ようとして、両手を伸ばしたままの姿勢でいることに気付く。
「もう終わったことなのに馬鹿ね……」
涙を拭いながらそう呟いた。