第二話 目覚め
「姫様。王城へ向かうお時間でございます」
「……今日は行きたくないの。いいでしょう?」
王都ゼビアの侯爵邸でわたしは登城を渋った。
できないとわかっていても、気持ちがどうにも沈んでしまって身体が動こうとしない。
原因はわかっている。
殿下の態度だ。学園を卒業してからはもう、目すら合わせてくれなくなった。
なぜそうなってしまったのか。侯爵家と殿下の関係性が悪化した、あるいは私に問題があるのか。
父上に聞いても首を振るばかりで教えては下さらない。
「ミラディア様……」
アッシュが気遣うように私の名前を呼ぶ。
「雨ね……」
窓から見える王城は雨のせいで灰色だ。
「私だってもう分かっているのよ」
殿下の心の中に私の居場所はない。
学園の卒業と同時に結婚が本来の予定。前王の崩御により延期とされたけれど、既に季節は変わり、次の月には殿下は王となられるのに……何の進展もない。
「ねえアッシュ。どこから間違えていたの? あの花を、私が綺麗だといったからなのっ?!」
眉間に皺を寄せたアッシュに近寄り、その胸をすがるように叩く。
王都侯爵邸の庭に植えられた、フォリアイルマの花を殿下は嫌いだと言った。私の為にアッシュが植えてくれた花なのに。
そして偶然なのか、その日以降から殿下は私に書状を預けるようになった。
「それとも学園で派閥を作ったからっ!?」
ドンっと音が鳴るほどアッシュの胸を叩く。
正妃は飾りじゃない。侯爵家として掌握すべき人脈を抑えるのは私に課せられた義務ですらある。
でも、殿下はその努力を認めては下さらず、むしろ忌避感をあらわにされた。
「私は悪くない……」
「姫様……」
涙をこらえる私の肩に、そっと優しく置かれた手は大きくて暖かい。
「……支度を」
落ち着きを取り戻した私は、殿下のもとへ向かうことにした。
家中の者たちはその言葉に即座に反応し、ここが働きどころと動きを優雅に加速させ、私を王城へと送り込むための手筈を整える。
息つく間もなく私は馬車の中へと収まり、気づけば殿下とお会いしていた。
「ミラディア。今日も書状を受け取ってくれるか」
「はい、殿下」
深い色を宿す瞳は来客室の入口ばかりを気にしている。
目の前の私のことは、見て頂けないようだ。
胸が押し潰され、心臓が苦しげに拍を打った。
◆
夢、これは夢。ああ、この場所は最後の場所。なら目も覚める……。
『願いを叶えてやろう』
グラバー大陸を統べるといわれる竜。
聖教会の教えの中で、神の代行者とされる神竜カルザクルシュが、山のような巨体を湖畔の淵に横たえ、眼を閉じながら私へと思念を飛ばす。
「……何故でしょう。私は御身の怒りを鎮めるための贄。願いを叶えるなどと」
出会えば瞬時に噛み砕かれるか、丸呑みだと聞いていたのに、言葉を交わすことから始まるなんて。
しかも願いを叶えるなどと。
『気まぐれよ……ままならぬ生に飽いた遊び。解き放たれた者が、どう変わるのか、それとも変わらないのかを知りたいだけだ』
「私の願いはただ一つ。御身の怒りが鎮まることのみ」
『その男と祖国の不始末を取るというのか?』
湖畔の中心へと神竜が注意を向けた。釣られて顔をそちらに向ける。
中心部にある岩場の上に、甲冑を纏った白骨が、片膝を立てた姿勢を保ち剣を持ったままでいる。
「アッシュ……」
アッシュ・ランフォードはミラディア・ウォード侯爵令嬢たる私の騎士……いえ、それだけでは表せない人。
父が政争に破れた結果としての陛下との婚約破棄、修道院送り、そして最後は神竜の生贄として。
『お前がここに来る前に我を殺せばと考えたのだろう。浅はかではあるが、あの目は悪くなかった。人間が持つ感情が全て詰まって輝いていて……その力はもう少しで神に届きうるほど。あの男になら、役目が無ければ殺されてやっても良かったが』
彼は私を守るため、どんな時も常に私の騎士であり続けた……私がそれに応えなくとも。
『立場だ。お前たちは立場に寄って惹かれあい、立場によって互いに線を引いた。言い訳というやつだな』
全てを見透かされた私を嗤うように風が吹き、神竜への捧げ物として髪に飾り立てた、魔法銀製の装飾が飛び散った。
『人は己の願いに気がつけず、見ようとせず。そして竜は己の願いを叶えられぬ……』
神竜の眼が開かれ私へと視線が注がれる。
『だからこそ。お前が見ようとしない、お前自身の願いを叶えよう』
神竜から光が放たれると、体が引き裂かれるような痛みが全身に走り、意識が遠のいていく——。
◆
「——ひゅっ……」
抗うように吸った息の音で意識が覚醒する。
……いつもの夢だ。ベッドの横に置いてあるシンプルなデジタル時計が05:38を表示している。
汗を吸った寝衣と下着が不快でその場で脱ぎながらベッドからおりた。
姿見に映る形。前世らしき記憶と同じような体型だけど、眼と髪の色は黒。顔の彫りは少し浅いが、夢で見る姿との違和感は少ない。
二十歳。死んだ年齢と同じ。最近特に夢《過去》?を見る頻度が高くなったのはそのせいだろうか……。
「そんなわけないって……」
ため息をつきながら独り言。異世界の記憶。幼少期に朧げだったそれは、薄れていって風に散るように消えていくと思っていたのに、十八歳になったあたりからどんどんと夢という形で補完され鮮明になっていく。
加藤美咲は間違いなく私という存在そのものだけれど、ミラディアと呼ばれて振り向かずに入られない程度には記憶がはっきりとしてきている。
「ああーっ……これはかなり憂鬱かも」
貴女の前世は異世界人だと言われても、いやそんな訳ないじゃん、と、なるぐらいには日本人としての感性が私の中には確立されている。
そもそも加藤美咲としての人生は今、モラトリアムを満喫する為にあるべきで、戻ることのない過去を振り返る時間なんてものはないはず。
なぜこんな夢を見るのかがわからない。
「わからないのよね本当に……って、やばっ。今日講義一コマ目だし」
夢見た内容の整理でぼんやりとしていたら、時計はいつの間にか一時間以上進んでいた。
特別に裕福でもない家庭に生まれ、弟もいる長女としては、都内の大学に通う為に近場で一人暮らしという選択肢は取れず、他県からの電車通学一択。
つまり、もう本当に時間がない。
『美咲ー! 遅れるわよー! あなた今日早いって言ってたでしょー』
「すぐ降りるからー」
特徴のない無難な服に袖を通して、二階の自室から一階のリビングへ降り、テーブルに用意されていた朝食の前に座って、手早く口へと放り込む。
「……最近、どうかしたの? 悩みがあるなら聞くわよ?」
母が何気ない様子で尋ねてくる。大学に入学してから私の変化を間近で見ているからだろうか、心配そうな表情をさせてしまっていることに罪悪感が胸から迫り上がってきた。
「何もないよ?」
頭がおかしくなった娘を見たくはないだろうから、相談出来ることはない。コーヒーを流し込み、出来るだけ明るい調子で返す。
「でも最近は毎晩夜中にうなされて……他もたくさんあるけれど、とにかくお母さん心配なのよ」
「……本当に大丈夫だから、もう時間ないし、歯磨きしてくる」
「ちょっと、美咲っ、もうっ……苦しい時はちゃんと言うのよっ」
洗面所に逃げ込む私の背中に、母の声が沁み込むように届く。
分量を間違えてつけた歯磨き粉が苦いせいでむせたのか、少し涙が出た。