第一話 夢か記憶か
「ご覧下さい姫様! フォリアイルマの花がこんなにも美しく咲きっ!……失礼致しました、つい声が大きくなって」
嬉しそうな表情を見つめる私の視線に気付いたアッシュが、照れくさそうに微笑んだ。
「ええ、とても綺麗ね」
フォリアイルマも綺麗だけど、私の護衛騎士であるアッシュも負けずと美しい。
異国の母から受け継いだ、整った顔立ちと褐色の肌、金色の瞳。それらに加え、弛まぬ努力で鍛え上げた細身ながらも力強い肉体から放たれる魅力。
すれ違う令嬢達から、ため息が聞こえなかったことはない。
「母の故郷に咲いていた色合いだそうです。姫様に見て頂きたくて」
そんな私の騎士が、私の為に植えて育てたフォリアイルマ——紫陽花……。
それは日本での呼び名……ああ、そうだ。
これは夢、夢。見たくもない筈の夢。いや、夢ではなくて記憶。
消えて欲しい記憶のはずなのに、どうして私は——
◆
——自分の見ている景色と人が見ている景色が同じではないということに気づいたのがあまりにも遅かった。
特別な力があるだとか、貴族であるということではなく、もっと単純なこと。
綺麗だと思った花はあの方にとっては忌まわしいもので、私はそれに気付かず……。
それだけならまだしも、自分を支えてきてくれた人へ酷い言葉を投げつけて。
せめて、わたしのような愚かな者が出来ることは……。
「ミラディア様」
呼ばれる声に後悔ばかりの思考が途切れ、響いたノックの音にビクリと震えながら、手紙を机の引き出しへ仕舞い込む。
振り返ると、修道院を取り仕切る院長の姿が。
「なんでしょうか、院長様」
「礼拝の時間です。今日はご一緒にいかがかと」
慈愛に満ちたその目から視線を逸らすことは難しく、お断りの言葉を口にできない。
「……ええ、もちろんですわ」
結局、断る理由も思いつかず流されるままに返し、椅子から立ち上がる。
「それではまいりましょうか」
ヴォルデ大陸の東にあるクラバー王国。その僻地に建てられた聖教会修道院の部屋を出て、院長の後を続き礼拝堂へ向かう。
その途中、開け放たれた通路の窓から暖かな陽射が差し込んでいるのが目に入った。
そして、朝露が乾くと共に草花が放つ生命の香りが風に運ばれ鼻腔をくすぐる。
「……」
香りを辿って窓の外に視線をやれば、あの方は嫌いだと言い、わたしを支えてくれた人は好きだと言った花が目に留まり、足が止まってしまう。
……いまさら、どれだけ切望しても。神竜の怒りを鎮める為の道以外、私には残されてはいないというのに。
◆
ウォード侯爵令嬢ミラディアとして、わたしは心躍らせる毎日を過ごしていた。
まるで物語の中で輝くような自らの人生になんの疑念も抱かず、与えられたものをただただ享受する日々。
父母から受け継いだ白金の髪と琥珀の瞳。誰もが振り返る整った顔立ち。なんの不足もなく満ち足りた人生。
影のように側に仕えるわたしだけの騎士も与えられた上に、未来の王妃とくれば……私は夢の中を歩いていた。
そして、はじめてあの方にお会いしたのは王都ゼビアの侯爵邸でのこと。十二歳、デビュタントを翌日に控えた日。
「まもなく殿下がおいでになられます」
わたしの護衛騎士であるアッシュが膝をついて頭を下げる。
アッシュはクラバー王国の宰相であるわたしの父に、領地の困窮を援助によって救われた子爵家の三男で十五歳。既に大人の身体へと成長し、騎士として恥ずかしくない剣技と礼節を備える私の騎士。
同じ家格では誰も専属の護衛騎士など与えられておらず、アッシュは私だけの特別だ。
『おいでになられました』
使用人達の声と共に侯爵邸のエントランスの扉が開き、たくさんの護衛を引き連れた殿下がわたしの前においでになられた。
『ようこそおいで下さいました。ジェイド殿下』
『招待を嬉しく思う』
父の挨拶にわたしも続く。
「はじめてお目にかかります。ウォード侯爵家のミラディアでございます」
『ジェイドだ』
この国の礼儀作法として、初対面でご尊顔を見つめることはできない。
けれど、私は我慢出来ずにこっそりと見てしまい——呼吸の仕方を忘れたように息を止めた。
ジェイド・エル・クラバー殿下が、おとぎ話の主人公のように光り輝いていたからだ。
金の髪と紺碧の瞳は神に愛された者の証
……この方の隣に相応しいのは私だ。
何を根拠にそんなことを考えたのか。その時それは私の中で絶対的な価値を持つものになった。
それからというもの、月に一度はジェイド殿下にお会いし、二人の距離はどんどんと縮まっていった。
……わたしはそう考えていた。
◆
「民は苦しんでいる。この国は変わらねばならない。そうは思わないかミラディア」
お互いに十七歳。殿下に名前を呼ばれるたび大きくなる自尊心に私は何の疑問を抱きもせず、それは当然のことだと考えていた。
「おっしゃる通りでございます殿下」
王城の中庭で語らうひととき。わたしにとって何よりも大切な時間だ。
けれど近頃、殿下はわたしにお会いしても笑ってはくださらないことが増えた。
「そのためには君のお父上の協力が必要だ。またこれを渡してくれるか」
硬質な乾いた声色で差し出された書状を受け取るのは、今回が初めてではない。
父上にその書状を渡すと張り詰めた空気が侯爵邸を包むので、わたしにとっては好ましいものではなく、受け取る手が少しばかり震えてしまう。
「ありがとう。……ところでミラディア、言いにくいのだが、次に会う時はもう少し抑えた装いで……」
「——! 何かお気に障りましたでしょうか?!」
「いや……そういう訳ではないのだが。すまない公務が残っているのでこれで」
殿下は慌てる私を残して足早に去っていかれた。
「アッシュ……」
何かを間違えたのかもしれないと、側に控えていたアッシュに縋るように声をかける。
「姫様……お気になさらず。姫様に落ち度はあられませんし、侯爵領の職人が献上したドレスも、姫様の美しさを引き立たせております」
「ありがとう……」
侯爵領お抱えの服飾師の宣伝にもなると思い身につけたドレスは、流行を先取りしつつも落ち着いたデザインで、王城の中でも派手過ぎず、目立ち過ぎない素晴らしい出来だ。
殿下であれば褒めて下さると思っていたのに、結果はどうも芳しくなく気分が落ち込んでしまう。
でもアッシュが浮かべる柔らかな微笑みのおかげで、沈んで重くなった心が軽くなった。
そしてそれからは、月に一度お会いするたび、殿下は何かを私に告げてその場を後にするということがほとんどになってしまった。
ある時は学園での貴族令嬢たちとの付き合い方や会合にかかる費用について。
またある時はわたしの装いだけではなく、アッシュの身につける装備の装飾についてなど。
殿下は華美なものを好まれず実直かつ機能性を重視されることは分かっていたのだけれど、私にできるのはその場で殿下の言葉に頷くだけ。
でもその度に曇っていく殿下の表情に、私はまるで火に焼かれるような思いを味わった。
そして季節は巡る。