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孤高の闇

魅魎の烙印

作者: たたら


   【一】


「―――やはり、決心は変わらぬというわけか」

 深いため息と共に、長い沈黙を破ったのは、梓些(あずさ)の方だった。

 顔を上げると、寂しげな眼差しが、静かにこちらを見ていた。こんなとき、どんな言葉を返せばよいのか分からず、座句嗣(ざくし)はありきたりの言葉だけを口にした。

「これまで大変お世話になりました。ここでのご恩は決して忘れません。明日の朝には出立しようと思います」

「卒業の儀を終えたばかりだというのに……ずいぶんと慌ただしいのだな」

「以前から決めていたことですので」

 それは六年前、梓些によってこの屋敷へ連れて来られたときに、交わした約束だった。ここを卒業した後は自由に生きていい、そのかわり、ここでの六年間は普通の学生として学業を修めること、それが梓些が出した条件だった。

「そうか……ならばこれ以上、引き止めても仕方あるまい。もしわしがおまえの父親ならば、力づくでも行かせはしないのだがな」

 梓些は口惜しそうにそう言ったが、父親という存在がどれほどの意味を持つのか、座句嗣には分からなかった。誰もがその存在を口に出すことさえ避けているというのに、梓些だけはそうしない。まるで自分に、父親の存在を忘れさせないとしているかのようにさえ感じる。

「ご期待に添えず、申し訳ありません」

「おまえの決心を変えるだけの力が、わしにはなかったということじゃよ……だがひとつだけ、気になることがある」

 梓些は顔を上げると、やや険しい顔をして座句嗣を見た。

阿須(あす)の邑にいる弟はどうするつもりだ?」

 座句嗣は小さく息を呑み込んだ。その話題に触れられることは覚悟していたし、何を言われても自分の覚悟は変わらないことも分かっている。

比壬(ひみ)には、普通の人間として生きてほしいと思っています。あの子には、母親の記憶はありませんし、父方の親戚が幼い頃から面倒を見てくれています。私がいなくとも、あの子なら大丈夫です」

 むしろ自分という存在は、彼が邑で生きていくには障害でしかない。彼の前から姿を消すことが、何よりも彼のためだった。

「たった一人の家族にさえ、何も言わずに行く気なのか」

「はい……それですべて忘れてくれるなら」

 たとえ恨みを買ったとしても構わない。彼が自分を憎むことですべて忘れてくれるなら、それが一番の望みだった。あの邑で幽閉状態だった母が、邑人たちからどんな仕打ちを受けたのか、幼い自分を守るために母がしてきたことを、あの邑で生き続ける彼が知る必要などない。

「すべて忘れることなど、できやしない……それはおまえ自身も同じことじゃ」

「それでも、私の決意は変わりません」

 誰とも深く関わらず、世捨て人になってこの寿命を終えること、それが自分の望みであり、自分に与えられた使命なのだから。

「それでも……おまえが生きる場所はきっとあるはずじゃ」

 絞り出すような梓些の声に、座句嗣は静かに目を閉じた。

「……分かってください、梓些様。これが一番よい方法なのです」

 自分の中に流れる血は、決してその存在を他者に知られてはならいない。この血が今もなお存続すると知られれば、玄武は再び血に狂う一族となり、世界は混乱に陥る。

 梓些は誰よりもその意味を知っていながら、自分を生かす選択をし、そして自分にも生きることを強要する。

「座句嗣……せめて最後にひとつだけ老人の戯言を聞いてくれ。おまえがもし、自分が父親の過ちによって産まれたと思っているのなら―――それは違う」

 梓些の意図を伺うように、座句嗣は相手に視線を向けた。

「そなたの父である玖爾(くじ)は、傍若無人で強引な男であったが、決して愚かな男ではなかった。自分がしたことがどういう結果を生むか……分かっていた」

 何を言わんとしているのか、その意図が分からないままに、座句嗣は答えた。

「分かっていて事を為したのなら、なおさら罪は重いでしょう」

「そうだ、だがあの男にはそうするだけの理由があった」

「理由があれば何をしても許されるわけではありません」

 梓些の口元が小さく笑ったような気がした。

「あの男は許されることなど望んではいない。だがおまえは、あの男がそれを望まない理由を知りたくはないか?」

 一瞬の間をおいて、座句嗣は瞬きをした。何を問われているのか、その真意を知ろうとして、相手の意識の奥深くを覗き見ようとした瞬間、我に返って驚く。

 無意識に力を使ってしまいそうになった自分が恐ろしかった。これが梓些の意図した誘導だとしたら、なぜこんな危険な真似をするのか分からない。

「なぜそんなことを……」

「知りたいと思ったのだろう?」

 知りたければ力を使えとでも言うのだろうか。一歩間違えれば、梓些の心を壊してしまうかも知れないのに。いやそれ以上に、こんな形でこの力を使わせようとした相手に腹が立った。

「いい加減にしてください、梓些様! いくらあなたでも、これ以上は……」

「これ以上は何だ?」

 その声がいつもより低く響いて、座句嗣は言葉を呑んだ。

「忘れるな、座句嗣。いつだって選択肢はおまえにある。おまえが望めば、今ここでわしの記憶を覗き見ることも、息の根を止めることもできる」

「……私を試したのですか」

「まさか、そんな恐ろしいこと、できるわけないわ!」

 それはいつもの飄々とした口調に戻っていて、座句嗣は戸惑いながら息を吐いた。

「梓些様、最後くらいは真面目に……」

「わしはいつだって真面目じゃよ。なに、選択肢は一つではないということだ」

 見上げると、梓些は立ち上がって中庭の方へと近づき、何かを思い出すかのようにその光景を眺めた。

「いつかおまえが父親のことを知りたいと思うときがきたら、その時はいつでもここへ戻ってくるがよい」

 二度と戻る気はないと、そう答えようとしたが、座句嗣はその言葉をかみ殺した。

 今の自分に見えている選択肢は、確かにすべてではないのかも知れない。これから先の未来に、今はまだ見えない道が見えてくるというのなら、そのときは再びここへ戻ってくることもあるかも知れない。

 座句嗣は無言のまま頭を下げて、遠のく恩師の背中を見送った。


   †


 翌朝、座句嗣はわずかな荷物を背負い、日が昇らぬうちに東門へと向かった。

 この時間であれば、まだ宿舎も寝静まっている。誰とも出会わずに出立できるとふんでいたが、宿舎の門前に見覚えのある人影を見つけた瞬間、座句嗣は自分の目論見が外れたことを知った。

 なぜ彼がここにいるのか、大方予想はついたが、最後まで面倒な相手だと内心ため息を吐きつつ、座句嗣はあえて何食わぬ顔で彼の前を通り過ぎようとした。

「―――本当なのか? ここを出ていくって」

 開口一番そう問われ、仕方なく足を止める。

「ああ、そうだ。もう二度とここへは戻らない」

「どうして……せめて理由を教えてくれ」

「おまえには関係のないことだ」

 やや強い口調で拒絶すると、わずかに傷ついた表情を浮かべたように見えたが、この程度で引き下がる相手ではないことは知っている。

「関係なくはないだろう? 君は私の学友だ。心配するのは当然じゃないか」

「心配だって……? 俺は自分の意志でここを出ていく。心配されるようなことは何もないし、おまえに心配してほしいと頼んだ覚えもない」

 ぴしゃりとそう言い返すと、さすがに困惑した顔で口ごもった。

「友人が理由もなく、突然出ていくと言ったら、普通は心配するものだろう」

 それはおまえの生きてきた世界にだけ通用する普通なんだよ……そう言ってやりたかったが、どうせ口にしたところで相手には理解できないだろうし、この理不尽な苛立たしさが消えるとも思えなかった。

「俺がここを出ていく理由は、俺がそうしたいからだ。これで満足か」

「もう戻らないというのも?」

「そうだよ、戻りたくないからだ」

 一瞬、お互いの視線がぶつかり、相手はこちらが本気なのだと理解したようだった。

「……何が不満なんだ?」

 怒りを抑え込んだような声だった。

「不満なんかないさ。ああ、あるとしたらこんな朝早くから待ち伏せされて、勝手に心配されることくらいだな」

 思いつく限りの嫌味を込めてそう言うと、相手の肩が震えているのが見えて、さらに居心地が悪くなる。

「出仕の要請を断ったというのも、本当なんだな……? 主席で卒業したおまえなら、どの部隊を志願しても行けたはずなのに。部隊長にだってすぐになれる。教官からも期待されて、誰もがおまえの実力を認めてる。それなのに、何もかも投げ捨てて、一人で勝手に出ていく気か!」

 彼が感情に任せて言葉を吐き出すのは、今に始まったことではないが、こうも露骨に言葉をぶつけられると、さすがにこちらも困惑する。

「何を勘違いしているのか知らないが、俺は別に主席になりたかったわけでもないし、出仕するために学んでいたわけでもない」

「じゃあ何のためだ? 何のためにあの厳しい訓練に耐えてここまで……」

「他に行く場所がなかったからさ」

 想定外の答えに驚いた様子で、相手はこちらを見た。

「おまえには想像できないだろうな。俺が育った邑には、俺の居場所はなかったんだよ。ここなら宿舎で寝泊まりできるし、大人になるまでの時間稼ぎには都合がよかった。ただそれだけだよ」

 過去のことは決して他人には話さないようにと心に決めていたはずなのに、なぜ最後になってそれを破ってしまったのか、自分でも分からなかった。

「どうして……言ってくれなかったんだ」

「言ったところで何も変わらないだろ」

「そうじゃない、そんなことじゃなくて、ただ……」

「もういいだろ、これで終わりしよう、薙都(なぎと)

 強い口調でその名を呼ぶと、相手はわずかに顔を強張らせた。

 何かために、誰かのために、必死に努力し続ける彼の姿は、自分とはあまりに違いすぎた。彼と自分とはまったく違う道を生きる人間なのだと、いつも思い知らされる。

「悪いが出仕をする気は微塵もない。そんな窮屈な生き方はごめんだ。自由気ままに生きる方が、俺には合っている」

 そう答えると、薙都は黙り込んだまま動かなくなった。

 納得した様子ではなかったが、これであきらめもつくだろうと、背を向けて歩き出そうとすると、再び背後から声がかかった。

「座句嗣……最後かも知れないから言っておく。私はずっと……君と並んで歩きたいと思っていた」

 そんな告白じみた言葉は聞きたくないが、これで相手の気がすむならと、しぶしぶ振り返る。そこには、怒ったような彼の視線があった。

「けれど君は、いつも私の前を歩いていた。どんなに頑張っても追いつけない。誰も君の横には並べなかった。その才能を活かさないなんて、私は絶対に許さない。才能を持って生まれた人間は、その才能を活かす義務があるんだ」

 そんな勝手な理屈を俺に押し付けるなと反論しようとして、座句嗣は言葉をのみ込んだ。この男のまっすぐな感情の刃に、自分は何一つ言葉を返せない。

 そうだ、いつだってそうだった。いつだって、彼の言葉に自分は何一つ勝てない。

 そんな顔をして、そんな言葉を言ってしまえるおまえの方こそ、自分にはない才能を持っている。この感情を、どんな言葉で伝えたらよいのか、自分には一生かかっても分からないだろう。

「俺に才能なんかない。あるのは、ただ……」

 ひどく理不尽で、冷たい牢獄のような呪いだけだ。




   【二】


 自分が生まれる前に死んだ父について、どんな感情も抱いていないと言ったら、それは噓になる。世間で言われている父の人物像と、母から聞いている父の話は、あまりにもかけ離れていて、実際のところ、自分にはどう解釈してよいか分からない。ただ彼が残した事実だけを見れば、彼は間違いなく大罪人だった。

 梓些(あずさ)に引き取られ玄武の屋敷へ来てから知ったことだが、そこでは誰もが父の名を口にすることを暗黙の了解として避けていた。彼は先代の頭領でありながら、当時の巫女候補を懐妊させるという大罪を犯し、現在の頭領である誠珂(せいか)によって討たれた人物だったからだ。

 巫女候補の突然の懐妊で予定していた代替わりが行えなくなり、巫女不在という危機的状況を招いたことは前代未聞であり、それが現役の頭領によって引き起こされた事件だということは、玄武にとっても最大の不祥事だった。


 母である燈伽(とうか)は、とても美しく、そして儚い人だった。いつも誰かに頼らなくては生きていけないほど心が脆く、一人でいると不安で泣いてしまうような人だった。

 燈伽はよく一人で泣いていた。阿須(あす)の邑では保護という名の幽閉状態が続き、ほとんど自由はなかったが、生活はそれなりの衣食住が保証されていた。彼女に会いにくる男たちは途絶えることがなく、そして誰もが彼女に心を奪われていった。

 見知らぬ土地で母子二人が生き抜くためには、燈伽のしたことは必要なことだったのかも知れない。けれどそれが一族に受け継がれた呪われた血の能力なのだと知ったのは、彼女の命が消える直前のことだった。

 弟を懐妊していた頃の燈伽は衰弱がひどく、出産は危険だと言われた。それでも彼女は産むことを決断し、そして新たな命を残して逝ってしまった。彼女の最期の願いは、この呪われた血を終わらせて欲しい、というものだった。

 その後、なぜ自分と母が幽閉されていたのかを知った。自分の父が誰なのか、彼が犯した罪が何なのか、そして自分の一族のおぞましい過去と、父と母がそうであったように、自分にも呪われた血が流れていることを知った。


 比壬(ひみ)の成長を見るのは嬉しかった。自分に託されたこの小さな命を守ることが、自分の生きる理由なのだと思った。新しい家族からどんなに冷たい視線を向けられようと、比壬が笑っているならそれで充分だった。

 けれどその生活も長くは続かなかった。複数の邑人が突如闇落ちするという事件が発生したのだ。昨日まで元気だった人間が一晩で闇落ちすることなどあり得ない。他に何か原因があるはずだと皆が疑った。やがて同じような事件があちこちで発生すると、邑人たちは恐怖と猜疑心に侵され始めた。

 この原因不明の闇落ちの元凶が、自分の中の流れる呪われた血のせいだと噂されるようになるまでに、そう時間はかからなかった。


座句嗣(ざくし)、座句嗣! どこにいるの?」

 遠くで幼い比壬の声が聞こえた。まだ夜明け前だというのに、また寝床を抜け出して、こんな場所まで自分を探しにきたのだろうか。

「ここだよ、比壬」

 人差し指を口に当てて、静かにと身振りで示したものの、比壬はこちらに気づくと息を荒げてこちらにやってきた。

「どうしてこんなところまで? 勝手に抜け出したら、皆が心配するよ」

「だって起きたら座句嗣がいないから……いなくなっちゃったのかと思って」

 泣きそうな顔でこちらを見上げる相手に、座句嗣は困ったように苦笑を浮かべ、その小さな頭にそっと手を置いた。

「いいかい、夜の闇はとても危険なんだ。一人で外に出てはいけないよ」

「じゃあどうして座句嗣はいつも一人でいるの」

 子供だからといって何も気づかないわけじゃない。できるだけ大人たちの視界に入らないように距離を取っているせいで、否応なしに一人になってしまう。大人たちが決して自分を正面から見ようとしないことも、おそらく気づいているのだろう。

「俺は強いから一人でも大丈夫なんだよ」

 適当に誤魔化すと、比壬は腰のあたりに勢いよく抱きついてきた。

「じゃあ俺も座句嗣と一緒にいる」

 自分の側を離れないという意思表示のようだが、さすがにこれでは身動きが取れず、座句嗣はそっと彼の両腕を引き離した。

「だめだよ、おまえは家に戻って皆と一緒にいるんだ」

 相手の顔を覗き込むようにそう言うと、泣きそうな顔でこちらを睨み返してくる。

「やだ、一緒にいる。座句嗣が戻らないなら俺も戻らない」

「そんなことをしたら、皆が心配しておまえを探しに来るぞ」

 そんなことになれば、自分だけでなく座句嗣も一緒に叱られるのだと察したらしく、比壬はしぶしぶ妥協した。

「……じゃあ一緒に戻る」

「俺が一緒だと皆が困るだろうから、おまえ一人で戻るんだ」

 首を横に振って駄々をこねる比壬に、座句嗣は少し怖い顔をして、戻りなさいと口調を強めると、今度は開き直ったように口を尖らせた。

「どうして……一緒じゃだめなの。座句嗣は何にも悪くないのに」

「悪くなくても一緒にいられないんだよ」

 大人たちが自分を気味悪く思うのは仕方のないことだと理解していた。魅魎(みりょう)の力に対して警戒するのは当然だし、原因不明の闇落ちがこの呪われた血のせいだと言われても自分には反論できない。最悪、燈伽と同じように、いつ幽閉されてもおかしくないのだ。

 ただその悪影響が比壬にまで及ぶことは絶対に避けなければならない。自分のせいで、比壬までこの邑にいられなくなったら、自分たちには生きる術がなくなってしまう。

「おまえを守るためなんだ、比壬……いい子だから、言うことを聞いて」

 自分のせいで兄を困らせたくはないという少年の良心につけ込むように懇願すると、比壬は悔しそうに唇を噛み締めた。

「……分かった、一人で戻る。そのかわり約束して。絶対に俺を置いて行かないって。絶対に俺を置いて一人で行ってしまわないって」

 男同士の約束だと、目の前に差し出された小さな拳を見つめながら、座句嗣は静かに目を閉じた。

「分かった、約束するよ―――絶対に置いて行かない」

 そう答えて、その小さな拳に、自分のそれをそっと当てた。


   †


 目が覚めると、昔の夢を見ていたのだと気づく。

 忘れかけていたあの日の約束を、思い出せと言われているようだった。思い出したところで、守れなかった約束を、今さら謝ることも償うこともできないのだけれど。

 周囲を確認すると、そこは数日前に見つけた空き家の屋根裏部屋だった。小窓から見える外の景色は、まだ夜明け前の暗闇が支配している。ずいぶんと早く目が覚めてしまったようだ。

 夢のせいだろうか。幼い比壬の顔や、見慣れた邑の景色が、ひどく脳裏に焼き付いている。なぜだか分からないが、嫌な予感がした。まるで遠くから不穏な空気が伝搬しているような、そんな奇妙な感覚に襲われた。

 出発するにはまだ危険な時刻だったが、この胸騒ぎが杞憂であることを確かめるためにも、座句嗣は素早く荷物をまとめて、小屋を出た。


 麓の村へ降りると、まだ灯りは見えない。特に変わった様子もないことに安堵しつつも、やはり胸騒ぎが止まないことに座句嗣は違和感を覚えた。

 ふと空を見上げると、その違和感が確認に変わる。遠い空の向こう側から、不気味な闇の気配を感じる。意識を集中して暗闇を凝視すると、確かのある特定の方角から、途切れることのない瘴気の流れが見える。

 その方角の先にあるのは―――阿須の邑だ。

 急激に高まる鼓動に、呼吸が浅くなる。どうすべきかを考える前に、すでに体が動いていた。山を駆け下り、最短の転移場所へ向かう。闇祓いとして学んだ知識と経験が、無意識のうちに行動を起こしていた。

 何度目かの転移を経たとき、空が赤く染まるのが見えた。夜明けの光なのかと思ったが、それが赤い炎の色だと気づく。闇夜の空を赤く染めるように、邑全体が燃えていた。

 座句嗣がその場所へたどり着いたときには、すべてが焼失した後だった。


   †


 阿須の邑から巨大な闇が溢れ出し、すべてが焼き尽くされたという惨事は、それから間もなくしてあちこちで噂されるようになった。

 もともと阿須は秘境の里と呼ばれ、容易に部外者が近づけない場所にあった。今回の事件で生き残った邑人がどれだけいるのか、詳細を知る者はほとんどおらず、ただ噂だけが囁かれるようになった。

 座句嗣が邑にたどり着いたとき、そこには彼の知る光景は何一つなかった。それほど慣れ親しんだ故郷ではなかったが、それでもその異様な光景に目を疑った。人の気配も、生活の気配も、かつてそこにあった森や木々でさえ、何一つ残っていない。

 これはただの焼失ではない。間違いなく闇祓いの手によって、穢れの浄化が行われたのだと、座句嗣は確信した。


 あの日、阿須の邑の惨状を見るなり、すぐに玄武の屋敷へ向かった。邑全体の浄化を行うには、強力な炎の術式と、それを封じ込める高度な結界が必要だからだ。そんなことができる人間はそうそういないし、それを命じることができるのは玄武の頭領以外にいないからだ。

 頭では冷静なつもりだったが、実際には不安で気が狂いそうだった。いったい何が起きたのかも分からず、何より比壬の無事を確かめる手段がなかった。

 もし彼が生きていなければ、おそらく今自分もここにはいなかった。彼の姿を玄武の屋敷で見つけたとき、ようやく自分が何をしようとしているのか気づいたほどだった。あのとき正気に戻らなければ、今頃は牢獄にでも監禁されていただろう。

 比壬は無事だった。偶然にもあの日、彼は邑の外にいた。彼は泣き叫ぶように、誠珂(せいか)に会わせろと叫んでいた。彼もまたあの光景を目にして、ここへ駆けつけていたのだ。

 安堵のあまり涙が出た。けれどすべてを捨てた自分が、今更彼に会うことなど許されない。会ったところで、どんな言葉をかけてやればよいのか分からない。こんな状況で自分が姿を現せば、さらに比壬を苦しめるだけのような気がした。

 自分はたった一人の家族が苦しんでいるときにすら、何もしてやれない。側にいてやることもできない。こんな自分に、果たして生き続ける意味があるのだろうか。

 すべてを捨て、すべてを心の外へ締め出し、誰からも必要とされない。そんな人生に意味があるのだとしたら、それは何だというのか。

 締め付けられるような苦しみから逃げるようにして、玄武の屋敷をあとにした。彼の心の傷を癒すことは自分にはできない。自分はこんなにも無力で、そして無意味だ。


『座句嗣、おまえには才能がある』

 そんな言葉を思い出していた。

『悔しいが俺にはないものだ。親方様には、おまえのような人間が必要なんだよ』

 かつて自分を必要だと言ってくれた相手がいたとしても、それはもう昔のことだ。

『その才能を活かさないなんて、私は絶対に許さない。才能を持って生まれた人間は、その才能を活かす義務があるんだ』

 大真面目でそんなことを言う奴だった。残念だが自分に才能などない。あるのはこの身体に流れる呪われた血だけだ。

 その事実を知ってもなお、おまえは同じことが言えるのか―――


   †


「―――久しぶりだな、座句嗣」

 不意に名前を呼ばれて顔を上げると、そこには見覚えのない男が立っていた。

 一瞬、思考が混乱して、過去の記憶の中に潜り込んでいた意識を急速に浮上させる。

 周囲に魔の気配がなかったとはいえ、人間への注意を怠っていたことは完全に油断だった。こんな小さな村の食堂に、自分を知る人間が現れることは想定外だった。

 素早く警戒する視線を送ると、相手の方から答えが返ってきた。

「そんな怖い顔するなよ。おまえは俺のことを覚えていないかも知れないが、俺はよく覚えている。薙都(なぎと)がよくおまえのことを話していたからな」

 その名前を聞いた瞬間、座句嗣は思わず耳を疑った。まるで自分の記憶を覗かれたような気分になる。偶然にしては質が悪いと思ったが、とりあえず相手の顔を確かめると、確か薙都の取り巻き連中の一人に、こんな雰囲気の男がいたことを思い出した。

「顔はなんとなく思い出したが……名前は思い出せない」

「……俺は弥砥(やと)だ。梓些様の命でおまえを探しに来た。悪いが今すぐ一緒に来てくれないか」

 その問答無用の口調に、座句嗣はひどく胸騒ぎがして、睨むように相手を見た。

 放浪中の自分を梓些がどうやって見つけ出したのか分からないが、このタイミングで戻ってこいなどと言うのは相当な面倒事でしかない。

「阿須の邑に関わることなら、俺は何も知らない」

 そう言って席を立ち上がろうとすると、弥砥の切羽詰まったような声が聞こえた。

「待てよ、話も聞かないのか」

「悪いが関わるつもりはないんだ」

 話を聞けば放っておけなくなってしまう。梓些ならそれを見越しているはずだ。

「もう、おまえしかいないんだ!」

 半ば泣き叫ぶような声がして、足を止める。どういう意味かと振り返ると、弥砥の唇が震えているのが見えた。

「頼む……薙都を助けてくれないか」

 一瞬、聞き間違えかと思って座句嗣は相手の顔を凝視した。その青ざめたような顔が、事の深刻さを何よりも物語っていた。




   【三】


 阿須の一件について、弥砥(やと)から聞いた話は、驚くべき事実だった。

 事の始まりは、以前から秘密裏に阿須の邑で行われていた、ある実験だった。それは闇を操る闇飼いと呼ばれる能力者を、意図的に生み出すという、いわば人体実験のようなものだった。

 実験に失敗した場合、その人間は闇落ちし、最悪穢れになる。だから万が一に備えて、周囲と断絶しやすい阿須の邑が実験場に選ばれた。母と自分が隔離のために送り込まれた場所は、そんな危険な場所だったのだと、座句嗣(ざくし)は改めて思い知った。

 闇飼いは穢れを生み出す凶悪な存在だという。なぜそんなモノを意図的に作り出そうとしたのか、その目的は分からないが、実験は成功することはなかった。

 誠珂(せいか)の代になり、実験自体は即時中止となったが、過去の実験による影響は消えることはなかった。あの場所に蓄積された無数の穢れが、徐々に表面に現れ始めたのが、例の原因不明の闇落ち事件だったのだ。

 誠珂はその状況を知りつつも、手を打つことができなかったという。なぜなら当時の巫女には、その闇を祓えるだけの余力がなかったからだ。邑人を避難させるには、彼らを納得させるだけの説明が必要だったし、仮に避難するとしても、闇落ちが発症するかも知れない邑人たちを、受け入れてくれる場所があるだろうか。

 結局、最後まで実験のことは秘密裏にされ、そしてついに邑全体が穢れの発生源となり、あの日の惨劇が起きた。もはやすべてを浄化する以外に道はないと、誠珂は決断を下した。

「浄化とは名ばかりで、実際にやることは、邑の周囲を結界で遮断して……すべて焼き払うことだった」

 弥砥はそのときのことを思い出したのか、歪んだ顔を両手で覆い隠し、苦しそうに言葉を吐き出した。

「本当に……どうすることもできなかったんだ……」

 闇祓いたちが邑に駆け付けたときには、すでに闇の侵食が激しく、邑の中へ入ることすらできなかったという。誰もが恐怖に戦慄し絶望し、その場から一歩も動くことができなかった。自分たちは本当に何一つできなかったのだと弥砥は言った。

 ただひとり、薙都(なぎと)を除いては。


   †


 玄武の屋敷に到着すると、すぐに梓些(あずさ)のもとへ案内された。

 いつもの謁見の間へ通されると思いきや、普段は決して足を踏み入れることが許可されない、屋敷の地下通路へと通された。座句嗣の記憶が正しければ、ここは幾重にも結界が張られていて、外部との接触が完全に遮断されている場所だった。

 通路を進んだ先には扉があり、その扉の前に梓些が待っていた。彼が部屋の外にいるのは、つまりこの中に会うべき人間がいるということだった。

「こんな形で再会したくはなかったよ……座句嗣」

 そう切り出した梓些の声はどことなく沈んでいて、すまなさそうな視線でこちらを見ていた。その視線の意味するところが、この扉の先にある現実への覚悟をしろということなら、もう十分すぎるほどだった。

 ゆっくりと扉を開けると、すぐに視界に飛び込んできたのは、部屋全体を埋め尽くすように張り巡らされた白い糸だった。それはまるで、何かを捕獲するために作られたような、巨大な蜘蛛の巣そのものだった。

「これは……」

 その問いに、梓些は無言のまま、部屋の中央を指さした。そこには、白い糸で作られた繭のような物体が、巣に絡みついて宙に浮いているのが見えた。大きさ的には、人間がすっぽりと収まるくらいの大きさだ。

「まさか、あれが……?」

「そうだ、薙都だ。話は弥砥から聞いていると思うが、今は生命活動を維持するための最低限の栄養だけを供給している」

 そうしなければ、彼が自らの命を絶ってしまうからだ。

 弥砥の話によると、薙都はあの惨劇以降、何度も自身の命を絶とうとしている。それを防ぐために拘束せざるを得ず、食事も一切拒絶しているため、あの繭の中に閉じ込められたという。

「どうしてこんな……」

 あまりに異様な光景を目にして、いくつもの感情が行き場を失って葛藤しているかのようだった。こんな場所に何日も閉じ込められた状態で、あいつは何を思っているのだろうか。生きることが苦しいのに、死ぬこともできないのなら、その苦しみは永遠に続く拷問のようだ。

「薙都は誠珂の命に従い、阿須の邑を焼き払った。そのときの心的外傷により、自刃を繰り返すようになった。普通の人間ならとっくに闇落ちして自我を失うところだが……それもできずに、悪夢だけが繰り返される」

 なまじ玄武の血を強く受け継いだせいで、闇への抵抗力が高いのだろう。あいつの性格なら、闇落ちする前に自ら命を絶とうとしてもおかしくない。

「体の傷は癒すことができるが、心の傷は打つ手がない。目を覚ますたびに自身を追いつめ傷つける。やがて心が苦痛に耐え切れなくなれば……闇落ちするのは時間の問題だ」

 淡々と語られる梓些の声が、どこか遠くから聞こえるような気がして、座句嗣は自分の意識がひどく混乱していることに気が付いた。

「どうしてこんな光景を俺に見せるんだ……」

 喉の奥から吐き出すように言葉を絞り出した。そうしなければ、意識を保っていられないほど、何か強い感情に揺さぶられている気がした。

 いつか二人で親方様にお仕えしようと口癖のように言っていた、そんな馬鹿みたいな夢を抱いていた頃の薙都の顔が、遠い日の記憶と共に蘇る。

「……俺にどうしろと? あいつを救う方法があるとでも?」

 これ以上、思い出してはいけない。過去の記憶はときにひどく感情をかき乱す。こういうときは、すぐに思考を中断して、現実を直視するべきだ。今の自分に、彼を救うことなどできやしない。

「可能性はある。だから、おまえを呼んだ」

 梓些の方を見ると、その疲れ切った顔にさらに悲痛な表情を浮かべて、彼は座句嗣を見ていた。


「―――そこからは私から話そう」

 不意に背後から声がして振り返ると、全身を白と紫の衣で覆った人物が、部屋の戸口に立っていた。

 顔は半分衣に隠れて見えないが、その声を聞き間違うはずもない。

 梓些が礼儀正しく頭を下げると、その人物はゆっくりと歩みを進め、座句嗣の目の前に立った。

「久しぶりだな、座句嗣」

「ご無沙汰しておりました……親方様」

「おまえにそう呼ばれるのは意外だな。私のしたことを、おまえは許しはしまい」

 感情のない口調でそう吐き出された言葉に、座句嗣は思わず相手を凝視した。その言葉を耳にするのはこれで二度目だった。それは問いかけでもあり、確認でもあり、相手を試す卑怯な言葉でもある。こういうとき、先に感情を出した方が負けるのだと、過去の経験から知っている。

 座句嗣はゆっくりと息を吐き出し、反射的に湧き上がる感情を静めた。もう自分はあの頃の子供ではない。どんな事実であろうと受け入れ、余計な感情は排除できるはずだ。

「あなたのしたことを責める気はありません。巫女を守るために阿須の邑を犠牲にするか、巫女が死んでさらに多くの犠牲を出すか、選ぶしかなかったのでしょう」

「言い訳をするつもりはない。すべては巫女を守るため、そのためなら、どんな犠牲も受け入れる」

 どんな犠牲も受け入れる―――その犠牲の中に、阿須の邑が加わったというわけか。

 懐かしさとはほど遠い場所であったが、それでも自分が育った邑だった。その邑が住人ごとすべて消えてしまったというのに、自分は驚くほど正気でいる。比壬さえ無事ならそれでよいとさえ思ってしまう自分がいる。そんな人間に、この男を責める資格なんてありはしない。すべてを捨てて逃げ出した自分に、誰かを責める資格など微塵もないのだ。

 それなのに、なぜそんな言葉を口にしたのか、自分でも分からなかった。

「……だったらなぜ、彼に命じたのです?」

 心の中で渦巻いていた負の感情が、もはや抑えきれずに言葉の刃となって吐き出される。頭の中では止まれと叫んでいるのに、感情は大きなうねりとなってすべてを押し流してしまう。

「どんな犠牲も受け入れるというのなら……あなたがやればよかったんだ。その手で、自分の手で、焼き討ちでも何でもやればよかったんだ!」

 悪意のある言葉は、邪悪な闇を呼び寄せる。強い感情であればあるほど、それは深い闇となって相手の胸に突き刺さる。

 けれど誠珂は、すべてを受け止め、ただ静かに答えただけだった。

「できることならそうしていた」

 感情の読めない口調。いや感情など最初からない。この男には感情を持つことが許されないからだ。

「私の意識は巫女につながっている。だから私自身が動くことができない」

「あんたなら……巫女のためならどんな犠牲も受け入れるあんたなら、どんな感情も消したまま、皆殺しでも何でもできるんじゃないのか」

「座句嗣!」

 梓些の鋭い声が上がる。それと同時に、誠珂が彼を押しとどめるように間に入った。

「……おまえの怒りは当然だ。私がしたことは許されることではない」

 そして許す必要もないと、その目が語っていた。

 目の前の相手が、最初から許されることを望んでいないことも、どんな責苦も受け入れる覚悟だということも、座句嗣は知っていた。それでもなお、いやだからこそ、この腹の底から湧き上がる怒りと悲しみが、行き場を失ってしまう。

「だから贖罪のつもりで、こんなことを?」

 部屋中に張り巡らされたこの白い糸は、白錦糸(しろきんし)と呼ばれ、巫女の生命維持のために使われる貴重なものだ。そんな貴重なものを使ってまで、彼を生かそうとする理由が分からない。

「あいつは死にたがっているんだろう? 死んで楽になりたがってるんだ。だったら死ねせてやればいいじゃないか。こんな状態になってまで、どうして……」

「薙都が望んだ」

 その言葉の意味を確かめるように、座句嗣は誠珂の顔を凝視した。

「薙都がおまえに会いたいと、そう望んだからだ」


   †


 阿須の邑を出て、玄武の屋敷に連れてこられたのは、十歳になる少し前のことだった。ここで闇祓いとしての知識と実技を学ぶようにと梓些に言われたが、実際には一人で生きていくための技術や処世術を学ぶことの方が多かった。ここを卒業したらすぐにでも、放浪の旅に出るつもりだったからだ。

 この場所で過ごした六年間、自分はただひたすら目立たないようにすることだけを考えていた気がする。友人は一人も作らなかった。同期の顔もほとんど覚えていない。それでも、嫌でも目につく相手というのはいるもので、薙都はまさに天敵のような存在だった。

 気づくと彼の姿を追っている自分がいた。薙都は裏表のない人間で、努力家で面倒見がよかったため、彼の周りには自然と人が集まった。彼の存在は、自分とは正反対のような気がして、怖いもの見たさのような興味がわいたのかも知れない。

 そんなこちらの心境を知ってか知らずか、薙都はいつも一人で孤立している自分にも、よく声をかけてきた。こちらとしては、直接的な関わりを持つのは避けたかったので、できるだけ冷たく対応したつもりだったが、最後まで彼には効果がなかった。

『私がここに来たのは、親方様のお役に立てるような、立派な闇祓いになりたいからだ。おまえはどうなんだ、座句嗣?』

 薙都にとって、誠珂の役に立つことがすべてだった。そのために必要な努力ならば、彼は何一つ惜しまなかった。彼が常に成績上位にこだわっていたのも、誠珂の直属の部隊に配属されるためには、成績上位者であることが条件だったからだ。

 彼は次席で卒業した。おそらく希望通りの直属部隊に配属されたに違いない。そして誠珂から下された命令を、ただ一人、最後まで完遂した。たとえそれがどんな命令であろうと、彼は完璧に実行したのだ。


「可能性はあると言ったが、確実ではない―――本当に、よいんじゃな?」

 念を押すような梓些の声がして、座句嗣は顔を上げた。

「……分かっています。もし失敗すれば、最悪、道連れになるということも」

 何度も梓些から説明された言葉を、自分自身で繰り返す。道連れになるというのは、相手の感情に同調しすぎて自我を失えば、自分も相手も闇落ちするという意味だった。

「さらに言えば、たとえ成功したとしても、それが本当に薙都を救うことになるのかは、誰にも分からない」

 これも何度も聞かされたことだった。彼の命は救えても、心は戻ってこないかも知れない。それでもやる覚悟あるのかと、梓些の目が問いかける。

「これは私自身のためです、梓些様。ここを出てから、私はずっと考えていました。意味もなく生きる自分は、死んでいるのと変わらないのだと」

 夢のために生きる人間は、太陽のように輝く。誰かのために生きる人間は、美しい命の輝きを放つ。それらは決して、自分には手に入らないものだった。

「でももし……この力が意味を持つのだとしたら、私自身が生まれてきた意味があるような気がするのです」

 手の届かない何かが、自分にも与えられるような気がした。

「おまえの覚悟は分かった。だがこれだけは言っておく。たとえどんな結果になろうとも、誰もおまえを責めない。だから必ず戻って来い。たとえおまえ一人であっても、必ずここへ戻って来るのだ」

 梓些の強い眼差しが座句嗣の心を射抜くように向けられる。

「……ご心配は無用です。私は心中する気なんてありませんから」

 相手を安心させるようにそう言ったつもりだったが、梓些はただ静かに息を呑み、そして背を向けると部屋を出ていった。


 完全に外部と遮断された小さな部屋には、座句嗣と薙都の二人だけとなった。

 天井を仰ぎ見ると、強力な結界が小部屋全体を覆っている。外からの闇の侵入を防ぐと同時に、内部の闇を閉じ込めるためのものだ。最悪ここで闇落ちしても、影響は最小限に抑えられる。

 視線を部屋の中央へ向けると、大きな白い繭がそこにあった。周囲の糸は断ち切られていたが、繭自体には傷一つない。この中に薙都がいるのだ。白錦糸により生かされ続けているというが、本当に彼はこの中で息をしているのだろうか。

 一瞬、触れるのが怖くなったが、白錦糸はまるで触れられるのを待っていたかのようにうっすらと光を放ち、その繭を自ら解いて中の人の姿をあらわにした。

 思っていたよりも綺麗な状態で、薙都は静かに眠っていた。とても闇落ちしようとしている人間とは思えないほど美しく、命に包まれていた。

 しばらくの間、呆然とその様子に見とれていたことに気づき、座句嗣は自身を叱咤するように拳を握りしめた。

『おまえの魅魎(みりょう)の能力を使えば、彼の記憶を消すことができる。正確には別の記憶で上書きする、ということだ』

 魅魎の力について梓些から受けた説明は、座句嗣にとって初めて聞くことばかりだった。これまで、この力について知りたいと思ったことは一度もなかった。この呪われた力を使うことは、一生ないと思っていたからだ。

『人間の記憶とは曖昧なもので、現実に起きたことを正確には記憶できない。そこには必ず本人の思い込みという偏見がかかる。魅魎の力は、そうした人間の思い込みを闇の力で呼び起こし、既にある記憶を上書きすることができる』

 この力を悪用すれば、他者の意志を自由に操ることも可能になる。それゆえに、この力は玄武の負の遺産とされ、根絶すべき禁忌の力とされた。もし力を持つ者が生まれると、それは呪われた血として処分された。

『上書きする記憶が膨大になるほど、難易度はあがる。すでにある記憶と上書きした記憶との辻褄が合わなくなる可能性があるからだ。もし本人が記憶の矛盾に気づいた場合、魅魎の効果が消失するか、最悪、本人がその矛盾に耐えきれなくなる』

『矛盾なく記憶を上書きするには、術者は魅魎する対象者の記憶を正確に知る必要がある。ただし、あくまで情報として知るだけに留めておくことだ。そうでないと、術者自身も心的外傷を受けてしまう危険がある』

 つまり、薙都の記憶を消すには薙都の記憶を辿る必要があり、その過程で自分が薙都と同じ心的状態に陥れば、共倒れになるということだ。

 梓些はそのことを心配していたが、自分はそうはならないという確信があった。自分と薙都はあまりに違いすぎる。生まれ持った才能も、育った環境も、むしろその違いゆえに、彼の記憶を辿ることが怖いとさえ感じる。

 そっと指先で首筋のあたりに触れる。命の流れが最も集まる場所。そこから力を送り込もうとして、座句嗣は異変に気付く。

 何かが逆流している―――?

 まるで堰を切ったかのように、何かが自分の中へ流れ込んでいる。それはすぐに大きな激流のような勢いとなって、座句嗣の全身を駆け巡った。

 それは闇の瘴気、すでに穢れと化している。わずかに触れた指先は、まるで氷のように冷たく張り付いたまま、そこから離すことはできなかった。

 流れ込み続ける瘴気の渦に堪えながら、座句嗣は眠るような薙都の顔を見た。苦痛の色はどこにもない。ただ静かに眠っているようにしか見えないのに、これほどの穢れを体内に溜め込んでいたというのか。それでもなお、闇落ちできず、死さえも訪れないのだとしたら、それはもう終わらない地獄に違いない。

 彼の抱える穢れをすべて自分の中に取り込んでも、まだ自分は立っていられるだろうかと座句嗣は考えた。だがこの逆流が収まらない限り、彼の中へ入り込むことはできない。いっそ瘴気を外へ放出してしまおうかと思ったが、そんなことをして周囲の白錦糸が全滅したら、薙都の命を維持できなくなるかもしれない。

 冷静に考えられる時間はもう長くはない。意識が途絶え始めたら打つ手がなくなる。そうなる前に決断しなければならない。座句嗣は自由になる方の手で薙都の服を剥がし、胸のあたりに掌を押し当てた。逆流しそうになる瘴気を押し返すように力を放出すると、薙都の顔が苦しそうに歪んだ。

 魅魎の力を意図的に使おうとしたことは一度もなかったが、自分は確かにこの力を知っている。いつも心の奥底に根を張り、心の闇が生まれるたびにざわつくもの。そして、これまで何度も自分の命を守ってくれた力でもある。

 幼い子供がたった一人で生き抜いていけるほど、この世は甘くない。守ってくれる大人がいなければ、子供は食べる物すら手にできない。だから頼るしかなかった。たとえそれが呪われた力であったとしても。

 そうだ、自分はずっと以前からこの力を使っていた。認めたくなくて、見えないふりをしてきただけだ。呪われた力と罵りながら、誰よりもこの力に救われていたのは―――自分自身だったのだと。




   【四】


「なんてことをしてくれたんだ! うちの息子に怪我をさせるなんて」

「おまえの父親は、親方様の命に背いて投獄されたそうじゃないか」

「親が親なら、子も子だね」

 ぼんやりとした光景の中から、悪意に満ちた大人たちの影が浮かび上がり、心無い言葉が投げかけられる。これは子供の頃の記憶だろうか。

「子供同士の喧嘩に大人が口を挟むものではありません」

 凛とした声が聞こえて振り返ると、病床の中から上半身を起こした女性がこちらを見ている。彼女の背後から、悔しそうな顔をした少年が姿を現した。

「ほら、もう大丈夫よ。皆行ってしまったわ」

 けれど少年の顔は晴れず、悔しそうに俯いたまま、拳を握りしめた。

「……父上は親方様の命を破ったりしない。親方様のためにお仕えできることが父上の誇りだって……だから全部嘘に決まってる……そうでしょう、母上?」

 誰よりも尊敬する父親が、なぜそんなことをしたのか、彼にはどうしても納得できない様子だった。喧嘩の原因も、一方的に父親の悪口を言われたからなのだろう。

「父上には父上の理由があったのよ」

「理由って何?」

 女性はそっと少年の頭を撫でて、やさしく微笑んだ。

「いつかあなたにも分かる日が来るわ」

 けれどやがて、病弱だった母親は少年を一人置いて帰らぬ人となった。罪人の父を持つ子供に手を差し伸べる大人は一人もいなかった。

 頼るあてもなく、少年はただ一人歩き続けた。涙を流すことも、声を上げて泣くこともしなかった。彼にとって残された道は、父親に会うことだけだった。

 ようやく玄武の屋敷にたどり着き、父親に合わせてくれと頼むと、彼は牢で自害したと聞かされた。少年は地面に座り込み、そのまま動かなくなった。

 なぜ父が命に背いたのか、なぜ自分を捨てて自害したのか、何ひとつ分からないままだった。ただひとつ確かなことは、いまここで自分が死んでも、誰も悲しまないということだ。それが悲しいことなのか悔しいことなのか、それさえも分からなかった。

 いつか自分にも分かる日が来るというのなら、それは自分が二人と同じ場所に行けば分かるのかも知れない。このまま目を覚まさなければ、父上と母上に会えるような気がして、少年は静かに目を閉じた。


「―――ここで何をしている?」

 不意に声が聞こえた。重たい顔を上げると、大きな影が目の前を塞いでいた。

 虚ろな視線を向けると、一人の男がこちらを見下ろしていた。ひどく無表情な顔だったが、その静かな目に惹き込まれるような気がした。

「……父上と母上のところへ……行きたいのです」

 そう答えると、男は膝をついて、視線を同じ高さにした。

「おまえの父と母はどこにいる」

 なぜそんなことを聞くのかと少年は思ったが、相手はただ静かに答えを待っているようだった。

「ずっと遠くに」

 そう答えると、男は少しだけ目を細めた。

「そうか……ならばそこへ行く前に、私のところに来ないか」

 一瞬、その言葉の意味が分からず相手を見ると、男は静かに手を差し出してきた。

 しばらくその手を見つめていたが、やがてその意味を理解し、少年は戸惑いを隠すように視線をそらした。

「申し訳ありませんが……父上と母上が待っていますので」

「急ぐ必要はない。生きる目的がないのなら、私がその目的を与えてやる」

 まるで心を見透かされたような気持ちで、少年は相手を凝視した。

「生きる目的……?」

「私のために、おまえの力を貸してくれないか」

 目の前の相手が何者なのかも分からないのに、なぜか警戒心はわかなかった。むしろなぜ自分なんかに声をかけたのか、それが不思議だった。

「どうして―――」

 その先の言葉は続かなかった。視界が何かに覆われて、何も見えなくなる。大きな両腕に抱きしめられているのだと理解した瞬間、耳元で囁くような声が聞こえた。

 ―――生きろ

 それがどういう意味なのか、少年には分からなかった。悲しいのか嬉しいのか、何一つ分からないのに、ただ何かが堰を切ったように胸の奥から溢れ出し、理由も分からないまま、少年はその胸の中で泣き崩れた。


   †


「あれが先日学舎に来たっていう部外者だぜ」

 読みかけの本から顔を上げると、数人の学生たちが窓の近くに集まって外を見ている。休憩時間だというのに、やけに教室が騒がしいと思ったら、そういうことかと納得しつつ溜息をついた。

 部外者というのは、玄武の血を引くものが、引かない者たちを区別して使う言葉だった。闇祓いとしての能力は、ほぼその血で決まるため、玄武の血を引かない人間に対しては、いろいろと差別的な扱いをすることが多い。

梓些(あずさ)様の口利きだってさ……確かに能力は高いらしいけど」

 部外者であっても稀に闇祓いとしての素質がある人間がいる。そうした人間は能力を見出された時点で学舎に入ることがあるが、それゆえに周囲からの視線はさらに厳しくなる。

「先日の単独陣形の試験でもすごかったそうじゃないか」

 なんだか嫌な予感がして、早くその場から離れようと席を立ちあがったが、すでに遅かったようだ。窓枠に寄りかかるようにして、弥砥(やと)がこちらを見ている。

「そうだな……初めて実技試験で、薙都(なぎと)の次に高得点をたたき出した」

 その声が明らかに自分に向けられていることは分かっていたが、あえて無視して立ち去ろうとすると、別の声に思わず足が止まる。

「どうせまぐれだろ」

「部外者だから手加減されたとか」

 鼻で笑うような空気を感じ、思わず拳を握りしめる。ここで言うべきか迷ったが、彼らが誤った判断をするのは、良くない気がした。

 大きく息を吐いてから、彼らの方へと向き直る。

「あれはまぐれじゃないよ。単独陣形は個人の能力に大きく依存する。まぐれであれだけの負荷に耐えきれるものじゃない」

 ましてや手加減などされていなかった。むしろ部外者だからこそ、普段よりも強力な闇が結界内に放たれていたはずだ。

「しかも彼は全力じゃなかった。もし彼が全力を出していたら、おそらく私より高得点だっただろうね」

 きっぱりとそう言い切ると、みな決まり悪そうな顔をして黙り込んだ。居心地の悪い雰囲気が教室内に流れたが、弥砥だけは不機嫌そうな顔でじっとこちらを睨みつけている。

「いいのかよ、それで」

「どういう意味だい?」

「これまで不動の主席だったおまえが、その場所を奪われるかも知れないんだぜ?」

 挑発的なその言葉の意図は、おそらく自分を挑発することよりも、部外者が主席になることが気に入らないという意思表示なんだろう。

 周囲の取り巻きたちも、弥砥の意見に賛同するように、こちらを見ている。彼らはそれなりに玄武の血筋を引く者たちだ。彼らにとって部外者は目障りな存在らしいが、自分にとってはそうは思えなかった。

「部外者だろうが何だろうが、優秀な人材が親方様に仕えてくれるなら、玄武にとって利益になるはずだ。そうじゃないのか?」

 そう答えると、弥砥は苛立たしげに舌打ちをして、いつもの言葉を吐き捨てた。

「ほんとうにおめでたい奴だな、おまえは」

 その言葉を無言で受け止めて、そっと教室を出た。

 おめでたい人間―――それは決して正しい評価ではない。自分がここにいるのは、優秀な闇祓いになって、親方様を守れるようになるためだ。そのためなら、どんな努力だって惜しまない。どんな方法だって構わない。もし自分以上に優秀な人間がいるならば、それが何者であろうと、親方様のために利用させてもらう。

 そう考える自分が、おめでたい人間のはずがなかった。


   †


 転入生の名は、座句嗣(ざくし)といった。彼は自分が部外者であると自覚しているのか、できる限り目立つことを避けている様子で、ほとんど会話に参加することはなかった。

 それでも、彼の能力が人並外れて高いことや、熟練された観察力と冷静な判断力を兼ね備えた人物であることはすぐに分かった。だからこそ、どんなに目立たぬようにしても、彼の実力を見抜く者にとっては、目障りな存在でしかなかったのだろう。

 あの事件は、そのことに気づかなかった自分の、完全な失態だった。


 それは、生徒たちだけで取り行う実習訓練のときに、起きた事件だった。

 午後の訓練の開始時刻になっても、数名の生徒が戻らないことに気づき、捜索を始めたところ、裏山の古井戸の近くで、何らかの結界が発動していると報告を受けた。

 急いで現場に駆け付けると、数人の生徒が古井戸を囲むようにして陣形を組んでいた。それは闇除けの結界などではなく、物理的な侵入を防ぐ障壁用の結界だった。井戸の入口を塞ぐように、物理障壁を張っているのだ。

「ここで何をしている?」

 声を上げると、全員の視線が一斉にこちらに向いた。だがすぐに視線は別の方向へと移動し、予想通り、その先には弥砥の姿があった。

「どういうことなのか、説明してくれないか、弥砥」

「どうって……見た通りさ。部外者に立場をわきまえさせているんだよ」

 弥砥は悪びれる様子もなく、あっさりとそう認めた。

 思わず言い返そうとしたが、今は結界の発動を止めることが先決だ。古井戸の中は何が潜んでいるか分からない。生徒たちだけで立ち入ることは禁止されているはずだった。

 発動中の結界を解読して、逆方向に結界を発動すると、数秒ほどで結界は消滅した。井戸の入口を塞ぐ障壁が消えると、そこから人間の腕らしきものが現れた。思わず息を呑んで見守っていると、座句嗣の姿が現れて、彼は軽々と井戸の外へ脱出した。

「大丈夫なのか、座句嗣……?」

 そう声をかけると、彼は怪訝そうな顔でこちらを見た。それから周囲を見回す。おそらく状況を把握しようとしているのだろうが、彼自身は全くの無傷の様子だった。

 とりあえず大事にならなかったことに安堵して、改めて主犯者である弥砥の方へ向き直る。彼は小さく肩をすくめただけだった。

「何か言うべきことはないのか、弥砥?」

「そうだな……先輩としていろいろ教えてやっていたのさ。例えば井戸の中にいる闇を祓う方法とかね」

 そうなのか?と座句嗣へ視線を向けたが、彼自身は何も答えるつもりはないらしく、否定も肯定もしなかった。

「彼は自分から井戸の中へ入ったんだ、そうだろう?」

 弥砥の言葉に合わせるように、取り巻き連中も頷いた。

「だとしても、閉じ込めるような真似をする必要はないはずだ」

「予期せず入り口が塞がれることだってあるだろう? あくまで訓練だよ。助けてくれと叫べば、すぐにでも助けたさ」

 明らかに違反行為だったが、座句嗣自身が何も言わない以上、先に井戸に入った彼自身が罰の対象となる。

「なるほど、訓練だと言うのなら、次は私が入ってもいいか?」

 驚いたような顔をする弥砥を無視して、さっさと井戸に近づこうとすると、不意に腕を掴まれた。振り返ると、いつの間にか座句嗣が立っていた。

「やめておけ、井戸の底には穢れが溜まっている。不用意に刺激するのは危険だ」

 彼は淡々とそう言った。その言葉に、なぜか無性に怒りが沸き上がって、思わず弥砥の方を向き直る。

「弥砥、君はそれを知っていて、座句嗣を井戸の中に入れたのか?」

「そうだとしたら?」

「今後、座句嗣に対する嫌がらせをしたら、君とは絶交だ」

 弥砥は一瞬言葉を失ったように静止して、それから可笑しそうに笑いだした。

「薙都、君は絶交って意味を分かっているのか? それは友達同士でしか意味をなさない言葉だよ」

 可笑しそうに笑う相手を、しばらく睨みつけていると、さすがに相手は呆れたような顔になって、それから興味が失せたようにため息をついた。

「……勝手にしろよ、おまえのおめでたい頭には、もううんざりだ」


 弥砥たちが立ち去ったことを確認すると、薙都は先ほどの古井戸に戻ることにした。念のため、闇除けの結界を張っておくためだったが、すでに先客がいることに気が付いた。

 木陰からそっと様子を伺うと、彼も同じ目的だったらしく、すでに結界を張り終えたところだった。無関心を装っているが、実際はそうではないのかも知れない。

 相手もこちらの気配に気が付いた様子で、ちらりと視線を送ってきた。

「なんであんなこと言ったんだ?」

 座句嗣の声は先ほどと同じく淡々としたものだった。

「それはこっちの台詞だよ。なぜ弥砥の挑発に乗ったりした?」

 彼は少し考えてから、こう答えた。

「無視しても抵抗しても嫌がらせは続くだろうから、相手が期待する反応をしなければ、いずれ興味が無くなるだろうと思ったんだよ」

「訓練でも手を抜いてるのは、そのためか」

 見抜かれたことに驚く様子もなく、彼はあっさりと答えた。

「そうだよ、最初は加減が分からなくて失敗してしまった」

 つまり最初の実技試験で高得点を出したのは、本人にとっては不本意だったというわけか。最初から本気ではないと薄々気づいていたが、日々必死で修練している者にとって、その言葉は残酷だ。

「君のそういう態度は気に入らないな。でも今回の件は私の落ち度だ、申し訳ない」

 小さく頭を下げると、相手は怪訝そうな顔をした。

「意味が分からないな、なぜおまえが謝る?」

「君の実力が私以上だということを、彼らが認めようとしないから、ちょっと口論になったんだ。君に迷惑がかかることを考慮していなかった」

 しばらく無言のまま、座句嗣は何か考えている様子だったが、小さくため息をついてから、表情を緩めた。

「おまえ……変わったやつだな」

「まあ否定はしないが、君に言われるのは心外だ。でもこうして君とじっくり話ができるのは嬉しい」

「嬉しい……?」

「君のことが少し理解できた気がする」

 そう言うと、彼の表情に影が落ちて、口元が歪んだ気がした。

「うぬぼれない方がいい……おまえに理解なんてできないよ」

「理解できなくても、理解しようと努力することはできるだろう?」

「やめておけ、無駄な努力だ」

「それは決めるのは君じゃない。私が君のことを理解したいと思うのは、私の自由だ」

 不可解なものを見るような目で、彼はしばらくこちらを凝視していたが、不意にどこか意地の悪い表情を浮かべてみせた。

「そのために、絶交になってもいいのか」

 一瞬、なぜそんなことを言うのか分からなかったが、それが彼なりの気遣いなのだと気づいて、思わず吹き出しそうになった。

「大丈夫……そうはならないよ。弥砥は口は悪いけど、本当は君の実力も認めていて、だからこそ君のそんな態度が許せなくて、あんなふうに振舞っている。君がもっと真面目に彼らに向き合えば、きっと分かり合えると思うよ」

「もういい」

 座句嗣は言葉を遮って、うんざりしたように大きなため息を吐き出した。そのまま何も言わずに歩き出したので、仕方なく彼の背中を追いかけると、彼の呆れたような声が聞こえた。

「あいつの言っていた意味が少しだけ分かったよ……確かにあんたは、おめでたい奴だ」

 そう言われるたびに、わずかに心が痛んだが、あえて否定はしなかった。

 どんな手段を使ってでも、自分の望む通りの結果になるのであれば、それで構わない。あの方を守るためには、できるだけ多くの優秀な闇祓いが必要だ。そのためには、皆が切磋琢磨できる環境は重要であり、座句嗣からは多くのことが学べるはずだ。

 実際、その後、弥砥たちの嫌がらせはなくなった。


   †


 意識が浮上して、うっすらと視界が明るくなる。

 やがて目の前に横たわる薙都の姿を確認して、ようやくここが現実なんだと再認識する。いつの間にか、彼の体に触れていた手が離れていた。そのせいで、意識が現実に引き戻されたのだろう。

 こんなふうに相手の過去の記憶を自分事のように感じとることができるのも、魅魎(みりょう)の力のなせる業なのだろうか。薙都の幼少期については初めて知った。誰に対しても人当たりが好い彼からは、想像もつかない過去の記憶だった。確かに彼は並外れた努力家だったが、その努力を生み出す根源は、両親を失った理不尽な悲しみと、そこから唯一救い出してくれた親方様への強い思慕なのだ。

 そっと掌を広げてみると、うっすらと瘴気の跡が残っている。これ以上、彼の中の穢れを受け入れるのは危険だと本能を告げていた。彼の感情と自分感情の区別がつかなくなるのは、すでに闇を制御できていない証拠だ。できるだけ早く、消去すべき記憶の分岐点を見つけなければ。

 そっと掌を先ほどと同じ場所に当てる。流れ込む感情の渦に引き込まれそうになるのを懸命に堪えて、ただひらすら強く念じる。阿須の邑を焼き払う直前の記憶を。彼の心がまだ健在であった頃の、最後の記憶を。


   †


 燃え盛る炎の色というのは、こんなにも綺麗だったろうか。

 まるで生きているかのような、その美しい命の煌きに心奪われて、その巨大な炎の触手が周囲を埋め尽くしていくのを、呆然と見つめていた。

 突然耳をつきやぶるような轟音に、薙都は我に返った。

 一気に五感が戻り、全身に瘴気の刃が突き刺さる。どこからか、叫ぶ声が聞こえる。視界を広げると、結界が崩壊したのだと分かった。

「これ以上は無理だ、全員、上空へ撤退しろ!」

 声を上げなら指示を伝える。集められた瘴気が巨大な渦となり、台風のように強い風を生み出している。この暴風の中で広範囲の陣形を維持するのは、到底不可能だった。


「ここまで大量の瘴気が発生しているなんて……」

 何とか全員上空へ避難したが、誰もが絶望的な表情を浮かべて、足元に広がる灰色の渦を見つめていた。

「邑全体が瘴気で覆われていて、どこに人がいるのかも分からない」

「近づくことも祓うこともできない……どうすればいいんだ」

 この絶望的な状況に、誰もが打ちひしがれていた。

 けれど自分は、こうなることは最初から分かっていたのかも知れない。それでも、何とか闇を祓おうと試みたのは、そうしなければ、残された者たちが耐え切れないからだ。

 不意に先ほどの光景が脳裏に蘇る。美しい炎の色だった。あれは無意識に、そうなることを予見していたのだろうか。

「―――やはり、やるしかない」

 そうつぶやくと、皆が薙都の方を見た。その視線が痛いほど伝わってくる。

「本当に……いいのか……?」

「親方様の命令は絶対だ。是非など関係ない」

 揺るぎない決意を示さなければ、この先の道はない。

「邑人たちはどうなるんだ? まだあそこにいるんだろう?」

「俺たちは闇祓いだ……闇を祓うことが仕事であって、邑を焼くなんて……」

 何度も自問自答してきた。きっと親方様も同じだったはずだ。それでもこうするしか道がないのだと、その責苦はすべて自分が負うと、そう言ったあの人の苦しみを、自分も負うのだと決めた。

「そうだな、私たちは闇祓いだ。だから闇を祓うことが使命だ」

 そう言って、皆の顔を見回す。誰もが覚悟を決めたように頷いた。

「だから、その闇が祓えないというのなら……ここから立ち去れ!」

 誰もが一瞬言葉を失って薙都を見た。最初に声を発したのは弥砥だった。

「薙都、おまえ……何をする気だ?」

 その問いに答えるように、懐から鎖につながれた金剛石を取り出す。

「親方様から預かったものだ。この石を使えば、この邑全体を覆う結界が発動する。あとは結界内に浄化の炎を放つだけだ。私ひとりで十分だよ」

「おまえ、何を言って……」

「君たちがここに残る必要はない! むしろ邪魔だ」

 短い詠唱と共に、自分と彼らを隔てる空間に、巨大な物理障壁を構築する。障壁を壊そうとして体当たりした弥砥が、後方へ跳ね飛ばされるのが見えた。

「私なら親方様のためなら何だってできる。知っているだろう? 私の命はあの人に拾われた。これは適材適所というわけだ」

「いい加減にしろ! どうしておまえだけが」

「誰かがやらなければならないことなんだ。大丈夫、私には―――」

 障壁を一気に巨大化すると、その勢いに押される形で、彼らが遠く遠方へ跳ね飛ばされていく。これでいい、この先の光景は、見るべきではない。

 ゆっくりと手の中の金剛石を握りしめる。美しい炎の色が脳裏に浮かぶ。最初から、この邑はこうなることを知っていたのだろうか。誰かがこうなることを、この邑に運命づけたのだろうか。

 だがそんなことはもうどうでもいい。考える必要もない。

 大丈夫、私には―――何もないから。あの日、あの人が差し出してくれた手以外、何も残っていないから。


(だめだ、薙都……!)

 思わず手を伸ばす。それが届かない手であったとしても、届かない声であったとしても、叫ばずにはいられなかった。

 おまえに、何も残っていないはずがない。おまえが俺を利用したとしても、それはいつだって誰かのためだった。何も為そうとせず、ただ無意味に生き続ける俺の方こそ、何もない空っぽの人間だ。

『座句嗣……君はこの先を見てはいけない』

 不意に声が聞こえて振り返る。姿は見えない。けれどその声は、はっきりと耳に響く。

『これ以上先を見たら、君も戻れなくなる。君は現実へ戻るんだ。そして……私の最期の願いを叶えてくれないか』

 これは彼の記憶ではない。記憶の中の薙都の声じゃない。

 だとしたら、この声は―――この聞き覚えのある声は、現実の彼自身が目覚めたのだ。


   †


「やあ……ずいぶんと懐かしい面影が見えるな」

 長い夢から目覚めたように、ぼんやりと焦点の定まらぬ目で、彼はこちらを見ていた。その懐かしい面影は生気を失い、かすれたような声は今にも消え入りそうで、彼が本当に命を絶とうとしているのだと分かった。

「薙都……俺が分かるか?」

 その虚ろな目を覗き込むと、彼は小さく笑ったように見えた。

「……夢でも君に会えて嬉しいよ」

「これは夢じゃない、現実だ」

 そう言うと、薙都は宙を見つめたまま、何かを思い出したかのように、苦し気にその顔を歪めた。

「そうだな……こんな懐かしい夢を見るなんて、許されるはずがない」

 眉を寄せて、薙都は目を固くつぶった。まだ悪夢を見続けているのか、呼吸も苦しげになっていく。

「薙都、行くな、戻ってこい」

 手を強く握りしめると、その痛みに引き戻されたのか、わずかに目が開く。彼の全身には白錦糸(しろきんし)が付着しており、この糸が途切れぬ限り、死ぬことも許されない。

「……お願いだ、もう解放してくれないか」

「だめだ」

「これ以上、自分でいられる自信がない……頼むから」

「だめだ、薙都……俺を見ろ」

 けれど薙都は目をつぶったまま、動こうとしない。それが彼の答えなのだ。生きるという選択肢を、彼は絶対に受け入れない気がした。

「おまえは言ったはずだ、俺と並んで歩きたいと。今もまだそう思っているのなら、もう一度、俺を見るんだ」

「……嬉しいな、そんな約束を覚えていてくれたなんて……でも残念だけど、君と一緒に歩くことは、もうできそうにない……」

 それでも、何とかして彼を引き止めたかった。引き止めるためなら、どんな手段でも構わないと、そう思った。

「本当にここで終わっていいのか? ここで死んだら、大切な人を守れなくなるぞ。命をかけて守ると誓ったんだろう? だったら、その命をこんなところで捨てていいのか?」

 握った手の中で、わずかに指が動く。

「おまえにとって、彼を守ることが命よりも大事な使命だというのなら、使命のために死ぬのではなく、使命のために生きるんだ」

 震える唇から、弱々しい声が聞こえた。

「……座句嗣、最期に君に会えてよかった……君に頼みがあるんだ……」

「ああ、何でも聞いてやる。だから俺を見るんだ」

 けれど彼は視線を伏せたまま、ただ懇願するように声を発した。

「これからは、おまえがあの方を守ってくれないか……」

 本当に最期まで変わらない。死の間際でさえ、おまえの望みは変わらない。その望みのためなら、自身の命を捨てることも、俺を利用することも厭わない。ならばこちらも、それを利用させてもらうまでだ。

「いいだろう……約束してやる。おまえが生きている限り、親方様のために仕えることを約束してやる。だがこれは、おまえが生きていることが条件だ。それを受け入れるのなら、俺を見ろ」

 薙都は静かに目を開けた。宙を彷徨う視線がゆっくりと焦点を結び、そして悲痛な表情を浮かべた。

「……どうして」

「死んだ人間の願いを叶えてやる気はない」

 薙都は何かを言おうとしたが、あきらめたように息を吐き、そしてゆっくりと首を回してこちらを見た。

 二つの視線が交わった瞬間、魅魎(みりょう)の力が発動する。

 相手の目を通して送り込まれた闇は、相手の記憶と連鎖して、過去の記憶に対する認識を恣意的に書き換える。けれど本人が望まぬ記憶の上書きは危険が伴う。強く拒絶されれば、最悪自我が崩壊してしまう。けれど今の薙都ならば、誠珂(せいか)のために生きることを覚悟した彼ならば、この強引な書き換えも受け入れるはずだと思った。

 あの日の悪夢を―――燃え盛る炎の記憶と、その先のすべて記憶を消し去った。




   【五】


「おまえが出仕を望むとは……意外な申し出だな」

 誠珂(せいか)は静かにそう言って、手元にある嘆願書へ視線を落とした。

 出仕の件は事前に梓些(あずさ)を通して伝わっているはずだが、なぜか誠珂が直接話したいということで、今こうして謁見しているというわけだった。

「出仕する条件として、自分の出生は絶対に明かさないことを約束してほしい」

座句嗣(ざくし)、言葉使いに注意するんじゃ」

 傍らに控えていた梓些(あずさ)から、素早く叱咤の言葉が飛んでくる。学舎時代もよく言葉使いは注意されていたが、長い放浪生活のせいでよく思い出せない。

 誠珂は構わぬと梓些を制してから、改めてこちらを見た。

「本当によいのか? 私はおまえの父をこの手にかけた人間だ」

 真面目な顔で、あっさりとそんな言葉を吐くこの相手が、やはり自分は苦手だと思った。

「父親の記憶はほとんどありません。あるのは暴君であったという噂だけ。そして私はこの体に流れる血を憎んでいます」

 薙都(なぎと)の父親は、おそらく父である玖爾(くじ)のせいで死んだのだ。そして自分は、その玖爾を死に追いやった人間に、今から仕えることになるのだ。いったい何の因果だろう。

阿須(あす)の邑を壊滅させよと命じたのもこの私だ」

「私は家族と邑を見捨てた人間です。私があなたを責める資格はない」

「ではおまえは、私に対していかなる負の感情も抱いていないと?」

 一瞬、何と答えるべきか思案する。父親のことも、阿須の邑のことも、自分の中に彼を責める感情は一切ない。けれどひとつだけ、心の奥にどうしようもない感情が渦巻いている。この感情を何と呼ぶべきか、もう自分は分かっているはずだ。

「おそらく私は……あなたに嫉妬している。あなたのために、自分の命を平然と投げ出す人間がいるのです」

 それが誰のことなのか、彼は問うことはしなかった。ただ静かに瞼を閉じて沈黙した。

「おまえが私に仕えるのは、その人間のためというわけか」

「彼が命を落とすようなことがあれば、私もここにはいないでしょう」

 誠珂はしばらく黙ったまま座句嗣を見ていたが、やがて静かに答えた。

「分かった、好きにするがいい」

 そこで謁見は終わった。彼の言葉は短かったが、偽りはなかった。

 その後、出仕はすぐに認められ、希望通りの遠征部隊へと配属された。出仕に関する手続きはすべて梓些が取り計らい、誰からも出生について問われることはなかった。


   †


 遠征部隊というのは、その名の通り、遠方の地で発生した穢れなどの調査や浄化ために派遣される部隊のことで、その多くの時間を遠方の地で過ごすことになる。そのため、屋敷に滞在することはほとんどない。

 座句嗣がこの部隊への配属を希望したのは、これまでの放浪生活の教訓から、長く一か所に留まることを避けるべきだという判断からだった。親しい仲間と長く行動を共にすることは、自分の特殊能力が露見する危険がある。どんなに注意深く隠していても、ふとした気の緩みで魅魎(みりょう)の力は発動する。だからできるだけ人との関りを持たないようにと、できるだけ単独行動が可能な遠征部隊を志願したのだった。


 薙都(なぎと)とは、あの日以来、会うことはなかった。

 会えないからではなく、会わない方がよいと判断したからだ。できるだけ以前と同じ日常を維持した方が、薙都の記憶を混乱させないだろうし、唐突に自分が現れたことの説明もできない。

 代わりに、薙都の容体については、弥砥(やと)から詳細に連絡をもらっていた。

 魅魎(みりょう)の力により、彼の中から、あの日の記憶は確かに失われていたという。けれど心の傷まで消えたわけではなかった。目覚めた直後は、何度も意識を失うほどの発作を繰り返していたと、弥砥は語った。

 少しずつ発作の頻度が少なくなり、体調が戻り始めると、今度は記憶の混乱が彼を苦しめた。大怪我のせいで記憶の一部が欠落していることは彼自身も理解しているようだったが、それでも説明できない記憶の断片が蘇り、その都度、周囲の者たちが口裏を合わせて取り繕った。

 阿須の邑の一件については、悲惨な事故として扱われ、彼を含めた派遣部隊の全員が、何もできずに撤退したという事実だけが語られた。薙都の怪我も、このとき負ったものだとされた。

 さらに誠珂が阿須の一件については詮索不要と命じたため、代々的な原因調査は行われなかった。そのせいで、一部の者たちの間では誠珂への不信感が囁かれたが、事情を知る者たちは誰もが口を固く閉ざしたため、真実が明らかになることはなかった。

 邑人は全滅し、誰一人として真実を知る者はいない―――皆がそう噂し、やがて阿須の惨劇について語ることはご法度なのだと、暗黙の了解となっていく。

 座句嗣が出仕を志願したのは、ちょうどその頃だった。


 薙都との再会は、ちょうど放浪の旅から戻ってきたという形で、屋敷を訪れることにした。

 弥砥に案内されて執務室に通されると、すでに薙都が待っていた。

「本当に久しぶりだな、座句嗣!」

 昔と何一つ変わらぬその声で、薙都は旧友を歓迎した。顔色もよく穏やかな表情に、ひとまず安堵のため息を吐いて、座句嗣は床に腰を下ろした。

「怪我をしたと聞いたが……元気そうで何よりだ」

 一瞬、薙都が驚いたような顔を浮かべたので、何かまずいことを言ってしまったかと警戒したが、薙都はすぐに穏やかな表情を浮かべた。

「ああ、体調はすっかり戻っているよ。ただ記憶の方が戻らなくてね……でも君がそんなふうに心配してくれるなんて予想外だな」

 その言葉に、かつての自分がひどく冷たい態度で彼と接していたことを思い出し、座句嗣は思わず口ごもった。内心、何か気づかれたのではと焦ったが、薙都は疑う様子もなく弥砥と昔話をしている。その懐かしい様子を見て、座句嗣は心底安堵した。

「それにしても、君が出仕を希望するとは、本当に意外だった」

「親方様にも同じことを言われたよ」

「君は誰にも捕らわれず、自由に放浪するのが好きだと思っていたからね」

「いつまでも根無し草ではいられない。俺も少しは大人になったというわけさ」

 今の言葉、信じられるか?と薙都は弥砥と二人で冗談交じりに顔を見合わせた。

「二人して随分な反応だな。そんなに驚くことか」

「むしろ、私は喜んでいるよ。覚えているかい? 私は君と一緒に親方様にお仕えすることが望みだったんだ」

 昔のような無邪気さは消え、落ち着いた大人の口調だったが、そんな言葉を平気で口にできるところは、変わっていない。

「……そんな昔のこと、覚えているわけないだろう」

 思わずそう切り返したが、薙都は気にするふうでもなく、小さく笑っただけだった。

「そうか、でも私は覚えているよ。君がここを去っていった日、いつかまた君がここへ戻って来る日がやってくると、そんな気がしたんだ。私の直感は当たったようだね」

 そんな直感など知らないし、後から主張したところで意味はないと訴えると、君が戻ってくることは周囲にも話していたし、そのことは弥砥が証人だと言い出した。

「言っておくが、俺がここへ来たのは……」

 そこまで言いかけて、思わず言葉を呑み込む。彼自身はあの地下室での約束も忘れてしまっているのだ。なぜ急に出仕することにしたのか、その理由を用意しておくべきだったと後悔したが、弥砥も困ったような顔をしている。

 仕方なく適当に誤魔化そうとすると、目の前にすっと手がさし伸ばされた。

「まあ、理由なんて何でも構わないさ。これからは親方様のために、共に力を尽くしていこう」

 薙都は穏やかな笑みを浮かべて、そう言った。

 座句嗣は一瞬その手を取るべきか迷ったが、すでに伸びかけていた腕を引き戻すのも躊躇われて、そのまま目の前の手を取った。

 それから、薙都はいろいろと屋敷内の案内や規則の説明をした。

 誰にでも人当たりが好く、面倒見がよいところは、昔と変わっていない。学生時代はできるだけ距離と取ろうと無視していたが、今はその必要がないのだということが、こんなにも心地よいのだと、座句嗣は初めて思い知った。


 彼が生きる力を取り戻したとことは何よりも嬉しかったが、一方で、この先もずっと記憶が戻らないという保証はない。いつか自分という存在そのものが、薙都の記憶を呼び戻す原因になるかも知れない。そんな漠然とした不安が、ときどき脳裏をよぎった。

 もし薙都の記憶が戻ったら―――そのとき彼は、どんな感情を抱くのだろうか。怒り、憎しみ、恐怖、嫌悪……いずれにしろ、自分の記憶を消した相手を、快く思うはずがないことだけは確かだ。

 そしてそのとき自分はどうするのだろうか。彼のもとを去るのか、それとも変わらずそばにいるのか、座句嗣の中でその答えが出ないまま、月日は流れていった。


   †


「座句嗣、帰っているなら声くらいかけてくれ」

 戸口の方から薙都の呼ぶ声が聞こえて、すぐにそれに続く足音が聞こえた。

 遠征から戻る日を事前に知らせていなかったので、どうやら機嫌が悪いようだ。襖がやや大きな音を立てて、勢いよく開かれた。

 案の定、不機嫌そうな顔をした薙都が、その場に立っていた。座句嗣はふうっとため息を吐いて、困ったように頭をかいた。

「……今回は急な呼び出しで一時的に戻っただけなんだ。長居をするつもりはない」

 そう言い訳をしながら、途中で手を止めた出発の身支度を続行する。その様子を見た薙都は、大きくため息をついた。

「相変わらず、そっけないな。今夜くらいは泊まっていったらどうだ? 皆おまえの話を聞きたがっている」

 屋敷で内勤している者たちにとって、遠隔地での近況は貴重な情報源となる。だから遠征部門が屋敷へ戻ると、慰労の会と称して情報交換が行われることが多い。

 ちらりと薙都の顔を見ると、いつもにもまして寝不足の顔をしている。こんな状態で、さらに面倒をかける気にもなれなかった。

「やめておくよ……すぐに次の遠征なんだ」

「少しくらい休息も必要だろう?」

「その言葉、そのままおまえに返すよ」

 薙都は疲れた顔に手を当てて、不満げにこちらを見ている。

 最近はいつも多忙そうで、まともに話す時間もない。彼の事務処理能力の高さは誰もが知るところだったが、そのせいでさらに仕事が増えるという始末だった。

 だからこれ以上負担をかけたくないというのも理由のひとつだが、実際のところ、先の遠征を中断してここへ戻った理由は別にある。

「次の遠征は長くなりそうだ。しばらく戻れなくなる」

 身支度をしながらそう伝えると、少し間があってから、そうか、と呟く声が聞こえた。

 何か違和感を感じて振り返ると、薙都は周囲に誰もいないことを確認して、素早く遮音結界を張っていた。疲れ切った顔をさらに険しくしている様を見て、よくない情報であることはすぐに分かった。

梓些(あずさ)様から聞いているかも知れないが、巫女様の体調が芳しくない。すでに各地で予定されていた大規模な儀式が中止になっている」

 それは玄武の中でも一部の者しか知らない極秘事項だが、薙都は誠珂の側近として知り得た情報を、時折こうして知らせてくれていた。

「そうか……今回の急な呼び出しも、長期遠征という口実作りのためか。勘のいい祓い手たちは気づくだろうからな。先手を打ったというわけだ」

 すべては巫女への負担を減らすための偽装だ。闇祓いたちが長期間遠征することで、必然的に儀式の件数が減るからだ。

「十分に気を付けろ。各地で強い瘴気が発生している可能性がある」

 それは危険な兆候だった。多くの闇が野放しのまま蔓延し続ければ、やがて瘴気として被害をもたらし、最悪手に負えなくなる。

「分かった。不穏な兆候がでたらすぐに連絡してくれ。一晩で戻る」

 とりあえずそう答えると、ぐいと腕を掴まれた。

「そうではなくて、おまえ自身、十分注意しろと言っている」

 薙都がここまで強く警告するということは、おそらく事態はかなり悪いのだろう。もしかしたら、藤璃(とうり)先見(さきみ)が現実となるのかも知れない。

「分かった……十分注意しておくよ」

 素直にそう答えると、薙都はその険しい顔をわずかに緩めた。

 玄武最強と称される自分に対して、変わらず注意しろと忠告してくれる相手に感謝しつつ、座句嗣は長い遠征に途についた。


 その後、座句嗣が再び玄武の屋敷へ戻ったのは、巫女崩御の訃報を受けてからだった。


 誠珂という守るべき存在を失い、自分がここにいる理由も失った。けれど再び放浪の旅に出ようとしたとき、薙都によって頭領に任命された。

 その理由を問うたとき、彼は玄武にとっておまえが必要だからだと言ったが、必要なのは俺自身ではなく、この呪われた玄武の血の方だろうと答えると、これは天命だと言って目の前で自害しようとした。

 そのとき自分の中で沸き上がった苛立ちの正体を、今なら分かる気がする。

 いつだって彼が自分を必要とするのは、誠珂のためであり、玄武のためだった。決して彼自身のために、自分を必要としていないことが、子供のように腹立たしかったのだ。

 そしてそれは同時に、自分は彼に必要とされたいと、そう望んでいることに気づいてしまった。誰とも深く関わらず、一生一人で生きていくと決めた自分が、誰かに必要とされたいと望むことが、果たして許されるのだろうか。

 他者の心を支配する力が呪われた力だというのなら、自分自身もまた、その力に呪われてしまったのかも知れない。


   †


「―――おまえは魅魎(みりょう)の力というものを知っているか?」

 いつものように、その日の謁見がすべて終了したという薙都の報告を聞き終えると、座句嗣は肘掛にもたれたまま、ぼんやりと遠くを眺めてそう言った。

 すでに長老たちが退出した謁見の間は、座句嗣と薙都の二人きりで、がらんと静まり返っていた。日没間近のわずかな光の中で、手元の書類に目を落としていた薙都は、ゆっくりと顔を上げた。

「かつて玄武の御三家と呼ばれた吾妻(あずま)の一族が、近親相姦を繰り返して生み出した、呪われた力のことですか?」

 玄武の歴史書からも抹消され、一部の人間にしか知らされない事実を、彼はあっさりと答えてみせた。

「さすが博識だな。皆が怖れる参謀殿だ」

 皮肉交じりにそう返してみたが、特に反応もなく、薙都は書類の片づけをしながら耳を傾けていた。

「ならばこれは知っているか? 先々代の頭領だった玖爾(くじ)は吾妻の一族の末裔だった。そしてもう一人、彼が懐妊させた燈伽(とうか)もまた、同じ血を引く一族の末裔だった」

 薙都はわずかにその手を止めた。なぜ突然そんな話を持ち出したのか問い返すこともせず、ただ無言のままこちらを見ている。

「つまり俺は、その二人の間に生まれた呪われた子供なんだ」

 誠珂がどこまで薙都に伝えたのかは分からない。けれど自分がこの血をひどく憎んでいることを薙都は知っている。

「魅魎の力は、純血が濃いほどその力が強くなると言われている。吾妻の一族はこの力を特化させるために、近親相姦を繰り返し、純血を濃くすることだけにこだわり続けた。そのせいで醜い争いが何度も起きた。この呪われた血を終わらせてほしいというのが、母の最期の願いだった」

 驚く素振りも見せず、薙都は静かに話を聞いていた。


「それで? そのことが、今のあなたとどう関係しているのです?」

 いつもと変わらぬ口調で、薙都はそう切り出した。片づける手を止めて、改めてこちらに顔を向ける。どことなく苛立っているように見えるのは、気のせいだろうか。

「どうって……それは」

「私があなたを頭領にしたのは、その力を利用するためだとでも思っているのですか? それとも、そんな呪われた力を持つ人間は、頭領としてふさわしくないと、いまさら私が思うとでも?」

 彼がどんな反応を返すのか、不安がなかったと言えば噓になる。けれどその不安は、今の言葉ですべて消え去った。座句嗣は内心安堵しつつも、この不安をあまりにあっさりと否定されたことに対して、また不安を感じて、さらに念を押す。

「おまえは俺が怖くないのか?」

「怖い?なぜです?」

 即答だった。薙都に限って、この力の恐ろしさを理解していないはずがない。

「もし俺がこの力を悪用したら、玄武を内部崩壊させることだってできるぞ」

 薙都はわずかに驚いたような顔になって、それから少し思案するように視線を落とした。

「そうですね……暴君ならそんな使い方もするでしょうね。でもそんなことにはなりませんよ」

「なぜ言い切れる? 俺が暴君にならないとでも思っているのか」

 一瞬、自分の身体中に流れる血が、ぞくりと震える。自分の中には、まぎれもなくあの男と同じ血が流れているのだ。

 薙都は小さく息を吐いて、それから真面目な顔つきで言い放った。

「いいえ、そんなことには絶対になりません。なぜなら、私があなたを全力で止めるからです」

「随分な自信だな。俺はおまえよりも強いぞ」

「だとしても、私が全力で止めますよ」

 彼の言う全力という言葉が、命を捨ててでもという意味に聞こえて、一瞬、そんな悪夢が脳裏に浮かびそうになる。

「俺はおまえを魅魎することだってできる」

 思わずそう言ってしまってから、短い沈黙の後、薙都は少し困ったように苦笑した。

「できませんよ……魅魎は同じ相手には効きません」

 彼の言葉が右から左に通り抜けるように流れた。

「正確には、魅魎に対する抵抗力ができてしまうと、二度と魅魎されることはない」

 どれくらいの時間、彼の顔を凝視していたのか分からない。一瞬だったようにも、数分だったようにも感じられ、ようやく相手がすべてを知っていることを理解した。それもずっと以前から。知っていることを悟られることもなく。

「知っていたことを……なぜ黙っていた?」

「知っていたわけではありません……ただ、いくつかの事実から、そう推測しただけです」

「かまをかけたのか」

「いいえ……むしろ逆です。私は黙っているつもりでした。その方が、あなたは私に引け目を感じて、いろいろやりやすいと思っていましたから」

 もし魅魎したことが知られたら、もうこの関係は続かないだろうと覚悟していた自分が馬鹿らしくなるほどに、薙都は普段と変わらぬ態度でそう言った。

「本当に……目的のためなら手段を選ばないんだな」

 いつものようにそう返すと、安堵と苦笑がまざったような、おかしな笑いが込み上げてくる。

 気づくと、彼の顔が手を伸ばせば届く距離にあった。

「私は目的のためなら手段を選びません。だからもしあなたが迷っているのなら、そんな迷いは不要です。この先、私があなたの側にいる限り、あなたはその力を悪用することはできません」

 薙都は握った拳をぐいと座句嗣の胸に押し当てると、その強い眼差しを向けた。

「あなたは、あなたの父上のように道を踏み外すことはしないし、私は、私の父のように使命を放棄することもしません」

 座句嗣はその真っ直ぐな視線の奥を覗き込むように凝視して、そしてゆっくりと息を吐き出した。

「まったく……おまえといると思い知らされるよ」

 怪訝そうな顔をする相手に、座句嗣は両手を上げて降参したい気分だった。

 本当に、初めて会ったときから何ひとつ変わっていない。この男のまっすぐな感情の前では、自分は何一つ言葉を返せない。魅魎の力があろうがなかろうが、彼の言葉に自分は何一つあらがえない。

 もしいつか、言葉を返せるときがくるのなら、この感情を伝えられる日がくるのなら、こんな自分にも、生きる意味があるのかも知れないと、座句嗣は思った。


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