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猫の夢  作者: 高田 朔実
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四週目③

 あのセリフには聞き覚えがあった。紛れもなく、あのときそこにいたのは私だった。

 もし、話の内容だけに気をとられず、彼がなにか話したがっていることを察して、「なにかあったの?」の一言でも言っていれば、なにか変わっていたのだろうか。それをきっかけに全部話すことまではなかったにせよ。

 しかしまあ、そんなこと言っても仕方がない。当時の私は生まれてから十数年しか経っておらず、ろくな人生経験もなかったのだし、聞いたところで気の利いたやりとりなんてできなかったことだろう。

 だけど、もしもう少し突っ込んだ話をしていれば、完全に気持ちをわかることはできなくても、もう少し彼がどういう人だかわかって、もう少し近寄ることもできたのだろうか。

考えても考えても、当然ながら結論が出ることはない。

 翌日、猫はなかなか起きる気配を見せなかった。前よりも寝ている時間が増えている。こんなことも、この世から遠ざかる過程の一つなのだろうか。猫が起きるまで待っていたかったけど、いつになるかわからないので、駅ビル内の喫茶店へ向かった。

 隣の席の子は受験生なのか、脇目もふらずに数学の問題を解いている。こんなところで勉強するなんて、最近の高校生はお金があるなと思う。

 今更ながら、手帳を見ると猫の命日らしき日から既に四週間が経過していた。ここのところ、あの猫はなんなのか、No2とは何者なのか、今まで以上にわからなくなってきている。彼らの言っていたことなどを逐一記録しておけばよかったのだろうか。しかし、こういう場合はメモを残して一つ一つの事柄にあまりこだわりすぎると、出来事の全貌が掴めなくなってしまう気がする。

 あと四週間残っている。しかし、もう四週間しかないとも言える。試験前にどれだけ勉強できるかで悩む受験生の心境だ。

 組織で従業員として働くからには、勤務日には出社する義務がある。今は、それがありがたい。火曜日になり、定時に出勤可能なぎりぎりの時間に起きて、小走りで電車に乗り込む。何食わぬ顔して席に着けば、ひとまずは普通の暮らしをしていることが感じられる。

 地下の部屋はひんやりしていて、風もない。華やかな図書館のわずか数メートル下にこんな部屋があることを、どれだけの人が知っているのだろう。存在は知っているにせよ、入れるのはごくわずかの限られた人だけだ。そんな偉そうなことを言っても、私はただの非正規職員なのだけど。 

 図書館があれば、必ずそこには書庫がある。たまたま求人案内を見て応募しなければ、ずっと知ることはなかったこの空間では、ちょっとした物音は、幾重にも折り重なった紙と情報との間に瞬く間に吸い込まれていく。町田君の中にも、もしくは私の中にも、こういった空間が存在するのだろうか。

 昨夜の猫の話、高校に入学したばかりの生徒たちなんて、受験勉強から解放されたうれしさとか、新しい友達、学校、制服、新しい街、広がる行動範囲など、どちらかというと、わくわくするだとか、ほっとしているだとか、そういった類のキーワードが似合う年ごろだ。そんな人々に囲まれながら、彼はそうではなかった。

 日々溜まっていくものを、文章を書くことで昇華させたいなどと思ったこともあったのだろうか。思ってみたところで、彼のことだ、自分の家族関係に疑問を持たれるようなことなど公表することはしない。

 お昼のチャイムで我に返る。席に着き、鞄から携帯電話を取り出すと、町田君からメールが来ていた。一瞬ぎょっとしたが、例の猫の寝床はうまく活用できていそうか、という内容だった。他人の猫の心配する前に自分の心配しなよ、と言いたくなる。即答も変なので、「訊いてみるね」と返事をしておく。

 翌日の昼は、西本さんからメールがきた。今度みんなでハイキングへ行くことに決まったようだ。加奈子さんがみんなに会いたがっているらしい。彼女は十二月いっぱいで仕事を辞めて、婚約者の住む遠くの県へと引っ越すことになっていた。参加可能な人だけでも集まって、最後にだんらんの機会を設けようという趣旨のようだ。

 かつて一度だけ文芸のハイキングなるものが開催されたことがあったけど、今から思えば、あれは加奈子さんが町田君に近づくために企画されていたものだったのではないかとの疑念が沸いてくる。今回の目的はなんだろうなどと、つい思ってしまう。

手帳を見るまでもなく、用事はない。猫の言った通り、私の時間はかなり有り余っている。

「なにかあった?」

大沢さんの言葉に、我に返る。

 私の業務はたえず動き回る類のものなので、昼になると同時にお弁当を広げているのがいつも風景なのだ。時計を見ると、時は既には十二時十三分となっていた。

「猫さん、元気にしてる?」

「はい、それなりに」

 しかし、少し考えて、あまり元気ではないことを思い出す。

「最近、寝てばかりいるんです。あまり起きて来ないんですけど、大丈夫でしょうか」

 私は幽霊の話をしていて、彼女は生きた猫の話をしているので、かみ合わないのは百も承知で、こんな話をしてしまう。

「大沢さんの猫は、ずっと寝てます?」

「うちのは、人が帰って来ると起きるみたいよ。やっぱり一匹だと退屈なのかな。でも、家は集合住宅の三階だから猫を外に出せないし、仕方ないんだよね。もう一匹飼えばいいのかな。安藤さんの猫は、寂しそうじゃない?」

 猫の性質どうこう以前に、幽霊なんです、なんて言えない。

「借家で猫飼えるなんて、いいよね」

「実は、ペット禁止なんですけどね……、止む終えない事情がありまして」

「もしかして、親戚の方が入院されて、それで預かったとか? 多いのよ、そうして退院されても飼えなくなっちゃって、そのまま安藤さんが飼い主になってしまうというケースが。もし困ったら私に相談してね。おばあさん猫だと、うちのはやんちゃ過ぎてすぐに合うかわからないけど、うまくいくかもしれないし」

「どうもありがとうございます」

 大沢さんに猫を引きとってもらうことは実現することはない話だけど、こうして断片だけでも猫のことを話せる人がいるのは、ありがたかった。

 家に帰ると、久々に猫が起きていた。ご飯を食べて、お風呂に入って、もう寝るだけという状態にしてから、思い切って質問してみる。

「タミさんに、訊きたいことがあるんですけど」

 猫は顔を上げた。

「この間、町田君のお母さんのお話がありましたけど、彼はそれ以外でもあまりお母さんとうまくいっていなかったんですか?」

――まあ、そうですね。

 猫は即答した。

「思い出したんですけど、町田君がタミさんを助けるために清美ママをみんなの前で罵倒して、そのことでお母さんに嫌味を言われたって、そんなこと言ってましたよね。普通そういう場合って、もう少し自分の子供の心配をするもんじゃないですか?」

 猫はなんと言おうか考えているようだった。

――それでもお坊ちゃまは懸命に、表向きには普通にしようと努力されていたのです。あなたは、お坊ちゃまから、一度でも母親の悪口を聞いたことがありますか?

「ありません」

 それどころか「母親」という単語すら口にしていなかった。

――この間のお話は、たくさんある中のほんの一つに過ぎません。わかりやすい例えなので挙げてみましたが、あんな話は掃いて捨てるほどあるのです。

 奥様もいつまで経っても娘気分の消えない方でしたから仕方ないのかもしれませんが、なにかあると、けっきょくいつも自分を選んでしまうんですね。子供たちにはうまく誤魔化せていると思っているから、始末が悪いのです。確かに、弟さんはあまり気にしていらっしゃらないかもしれませんけど。

 ああ、お坊ちゃま、お可哀想に。お坊ちゃまが敏感で気の利くお子さんであったがために、いつも、いつも……。

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