新しいコーヒーを召し上がれ 8
「その生意気な口をきけなくしてやる――!!」
メイソン公爵の左手が、イヴの胸ぐらを掴んだ。
いつぞや逆上したダミアンがそうした時とは、比べ物にならない乱暴さで。
さらには、イヴのまろやかな頬をぶとうと右手を振り上げ――
「――口がきけなくなるのは、貴様だ」
しかし、それが振り下ろされることはついぞなかった。
メイソン公爵の右手を、宙で掴んだものがあったためだ。
「イヴに、触れるな」
ぞっとするような声でそう言ったのは、ウィリアムだった。
間一髪駆けつけた彼は、メイソン公爵の左手をイヴの胸ぐらから叩き落とすと、捕まえていた右手を軸に相手の身体を放り投げる。
衛兵が束になって必死に抑えていたものを、片腕一本であっさり制してしまったのだ。
ドッと地響きを立ててひっくり返った巨体に、すかさず衛兵達が飛びついて押さえにかかる。
我に返ったメイソン公爵が喚こうとするが――
「――黙れ」
ウィリアムが鋭く一喝すると、とたんに口を閉ざしてしまった。
「陛下の命に背いたな、メイソン公爵」
「で、殿下……」
ウィリアムはイヴを片腕に抱え、地面に這いつくばった相手を冷ややかに見下ろす。
先ほどまでの威勢はどこへやら、メイソン公爵は小さくなって震え出した。
彼も力のある先祖返りだからこそわかるのだ。
どうあがいても、ウィリアムには敵わないということが。
「イヴに手が届く距離まで近づくな――そう命じられたのを忘れたのか」
「し、しかし……近づいてきたのはその娘の方で……」
「理由の如何を問わず、と陛下は申されたはずだが?」
「うぐっ……」
ここでようやく、先ほど階段を駆け上がっていった衛兵が戻ってきた。
彼がウィリアムに知らせたのだろう。
その衛兵に場所を譲って、ふらりと立ち上がったのはメイソン公爵の長男エリアス。
彼をちらりと一瞥してから、ウィリアムは静かな声で言う。
「私は、個人の主義主張に口を出すつもりはない。メイソン家の純血回帰主義も、悪と断じることはないだろう」
腕に抱き込まれていることで、その声が耳からだけではなく身体を振動して伝わってくる。
彼の温もりが、巨漢にぶたれそうになったことで跳ね上がっていたイヴの鼓動を宥めてくれた。
ウィリアムは返事もできない相手に、しかし、と続ける。
「その主義主張が誰かの犠牲の上でしか成立しないものであるとしたら――私は、看過することはできない」
そうして、衛兵達に下がるように言うと……
「――立て」
メイソン公爵に向かって厳かに命じた。
「振り返らず、口を開かず、このまま城を出て屋敷へ戻れ。貴様への沙汰は、陛下ではなく、新たなメイソン公爵より下るだろう」
その言葉にはっとしたメイソン公爵が、傍に立つ息子を見上げて口を開きかける。
しかし、ウィリアムはそれを許さなかった。
「――去れ。これ以上の無様を晒すな」
これが、最後となった。
メイソン公爵はふらふらと立ち上がると、命じられた通り振り返らず、口を開かず、とぼとぼと城門の方へ歩き出す。
心なしか、その身体はひとまわりもふたまわりも小さくなったように見えた。
ウィリアムは、城門まで付き添い見届けるようオズに命じると……
「エリアス・メイソン」
「……はい、殿下」
呆然と立ち尽くしていたメイソン公爵の息子――いや、たった今、新たなメイソン公爵となったエリアスに向かって言った。
「メイソン公爵家の伝統を否定するつもりはない。しかし、それが産んだ負の連鎖は、誰かが断ち切らねばならない」
「……はい」
「私も――陛下も、それを君に期待している」
「――はい」
悄然としていたエリアスが顔を上げた時、その瞳には光が宿っていた。
彼は一つ大きく深呼吸をしたかと思ったら、憑き物が落ちたような顔をウィリアムと、その腕の中にいるイヴに向けた。
「父の数々のご無礼、代わってお詫びします。誠に、申し訳ありませんでした。それから――イヴさん」
「はい」
「ずっと、あなたにお礼を言いたかった。妹と……ルーシアと仲良くしてくれて、ありがとう。どうかこれからも末長く、あの子と友達でいてやってください」
「もちろんです。どこの馬の骨とも知れない女の子供でも、私が幸せでいられる理由の一端を、ルーシアさんの存在も担ってくださっているんですから」
イヴの言葉に、エリアスは心から嬉しそうな顔をする。
たとえ腹違いでも、彼がルーシアを妹として大切に思っていることがひしひしと伝わってきて、イヴも嬉しくなった。
「いつか、あなたが淹れたコーヒーを飲んでみたいです。ルーシアと一緒に」
「はい、お待ちしておりますね。最高の一杯をご提供できるよう、私も精進してまいります」
エリアスが、深々と頭を下げて去っていく。
衛兵達も安堵の表情を浮かべ、一件落着といった雰囲気になった。
ところが、観衆はまだ解散する気配がない。
なぜなら、彼らは知っていたからだ。このあと、もう一幕あることを。
ウィリアムがイヴの身体を向かい合わせになるよう反転させると、いつになく厳しい表情を浮かべて言った。
「――イヴ、私は君にも怒っているんだぞ」
「ええっ!?」
とたん、両手で口元を押さえてコーヒー色の瞳をうるうるさせるイヴに、彼は苦言を続けるのをくじけそうになったが……
「怒っているのに――ウィリアム様ったら、こんなにかわいいんですか!?」
イヴの危機に駆けつけたウィリアムには、毎度のことながらオオカミの耳と尻尾が出現していた。
モッフモフのフッサフサである。
イヴの目はもちろん、それらに釘付けだ。
「怒っていてもかわいいなんて……ウィリアム様はすごい」
「んんっ……ではなくて! どうして、わざわざメイソン公爵に近づいたりしたんだ! もしも私が間に合わなかったら、どうなっていたか……」
「それは、抜かりありません。ウィリアム様が駆けつけてくださる頃合いをちゃんと図って行動しましたので」
「それはよかっ――いや、よくない!」
胸を張るイヴに、ウィリアムは頭を抱える。
心なしかぺしゃんとした彼のフサフサの耳を、イヴはすかさずモフモフした。
その胸元のリボンが解けてしまっているのに気づいて、律儀に結び直してやっていたウィリアムだったが、やがて囁くような声で問う。
「メイソン公爵に陛下の命を破らせて、爵位を譲らせるため、か?」
「それは結果です。私はただ、公爵閣下にちゃんと知っていただきたかったんですよ。私の幸せを揺るがすなんて、できないってことを」
イヴはお返しするみたいに、両手で殊更優しくウィリアムのオオカミ耳を撫でると、大真面目な顔をして言った。
「だって、こんっっっなに、かわいいウィリアム様が側にいてくださるのに、不幸になんてなりようがないと思いませんか!?」
「んぐっ……」
「あっ、耳……ぴるぴるってしました! かわいい!!」
「うぬぅ……」
いずれ国王となるであろう第一王子が、類稀なるオオカミ族の先祖返りが、巨漢のメイソン公爵を軽々と制したアンドルフ王国の最強が――エプロン姿の少女に大人しく頭を差し出している。
モフモフの耳だけに留まらず、結局頭まで撫で回されている。
かわいいかわいい、されている。
完全に――大きなワンコ。
「やっぱり――ウィリアム様が世界一かわいいです」
ウィリアムのフサフサの尻尾がブンブンと、それはもう喜びを隠しきれない様子で振られているのを見ると、観衆の間には自然と笑みが広がるのだった。
そんな中、途中で行き合ったのか、オリバーとクローディアが王宮の玄関を潜る。
目の前の光景と周囲の人々を見回した彼らは、顔を見合わせてこう言い交わした。
「妹と親友が公衆の面前でいちゃついている現場に遭遇してしまった兄の気持ちを述べよ。六文字」
「爆発しろ」
「正解」
「ご褒美にコーヒーを淹れてちょうだいよー。うーんと苦いやつ!」
代々のフォルコ家当主がコーヒー狂であること。
イヴの記憶力が抜きん出ていること。
それから、『カフェ・フォルコ』のコーヒーがおいしいということ。
これらの事実が広く知れ渡っているのと同様に――
「ウィリアム様、世界一かわいい」
「そうか」
やがて第三十五代アンドルフ国王となるであろう第一王子ウィリアムが、『カフェ・フォルコ』の店長代理の前では〝世界一かわいい王子様〟になることを――この王宮で知らない者はいなかった。




