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この作品には 〔ボーイズラブ要素〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

どっきゅん運命カプリチオ!

作者: ちか

 花の金曜日、都会の星々が姿を消した夜空にも満月は浮かぶ。


「──月光浴びたる我が聖体……昂ぶる、昂ぶる……」


 寂れたテナントビルの三階、夜逃げした雀荘のベランダに佇むのはきらきらと輝くベネチアンマスクを装着し、別珍のマントで全身を隠した男。

 高価な香水でも纏っているのか、はたまたかつて遊女がしたように香木の破片を体のどこかに仕込んでいるのか、男からは不思議な甘く芳しい香りがした。それこそすれ違っただけで振り返らずにはいられず、擦り寄られた男は股ぐらをおっ勃て、女は濡らすような媚香である。

 男は地上を見下ろす。

 飲み屋街でもあるため人々の行き来は多く、そのなかには男が目的とする人種も散見された。

 アルファ。

 バース性のなかでも優れた種とされる社会的上位者たち。

 男がアルファに熱い視線を向けるのは、なにも彼らが有する肩書きに阿り媚びを売りたいがためではない。

 男はオメガであった。

 社会的に弱者とされ、ときに蔑みの対象とさえされる種であるが、男が生まれを嘆いたことはない。

 男は幼少の時分より浪漫主義者であった。


「今宵、姫たる我は運命の王子を迎えんとする」


 ばさりと音を立てて別珍のマントが脱ぎされられた瞬間、地上にいたアルファたちが一斉に視線を元雀荘のベランダに向けた。

 どろりと煮詰めた蜜を全身に纏ったかのように濃厚になった媚香を放ち、ベランダに足をかけるのは全裸の男。

 全裸の男。

 全裸。


「とう!」


 男は三階のベランダから飛び降りた。

 悲鳴を上げるものはいなかった。皆、あまりにも呆然としていたのだ。

 まるで地上に降り立つイヌワシが如き姿態で飛び立った男は、地上に着地するとしゃがみこんで三秒ほど瞼を伏せる。


「右足捻った……」


 三階から全裸で飛び降りて右足を捻るだけで済んでいるのだから、男はなかなかに頑丈な体をしている。


「まあいい」


 男は若干右足を庇いながら立ち上がる。

 ここでようやくアルファ……いや、多くの通行人がざわめきはじめた。


「刮目せよ。そして、賛美と喝采を贈れ。我が運命のみが貪ることを許されし聖体を目にすることができた栄誉に咽び泣くがいい」


 一瞬の沈黙、誰かが悲鳴を上げた。そりゃそうだ、全裸の男が頓痴気なことを言い出してすっぽんぽんを誇示してきているのだから。

 真っ先にその場から退避しようとしたのはアルファであった。彼らは本能で己の、己の貞操と尊厳の危機を悟ったのだ。


「貴様ぁっ! 逃げるとはどういうつもりだ! お捻り代わりに子種置いてく礼儀も知らんのか!! 親の顔が見てみたいわッ!」

「世間に浸透してない理をさも常識であるかのように語るんじゃねえよ! 親の顔が見てえのはこっちのほうだ!!」

「ほう、婚前挨拶に来たいとは殊勝な心がけではないか……」


 アルファはもうクロケット&ジョーンズが片方脱げるのも構わず走って逃げた。

 男が激しく舌打ちし、周囲をぎっと睨みつければ方々に逃げていくアルファたちの姿が見える。

 これでは男の目的、運命の王子様を見つけることができない。あと趣味の裸体を衆目に晒すことも。


「発情期のオメガに理性も手加減もなし! これと決めたアルファの子を孕むためならば手段など選ばぬ!!

 ──ハアアアァァァ……ッ!」

「なんだ? 空気が……」


 逃走していたアルファたちはむわりと湿度が増したかのように重くなった空気に戸惑い、無意識に足を止める。

 それが命取りであった。


「ふぇ・ろ・も・ん・解・放!!!」


 濃度を三倍、四倍にも増した男の媚香──フェロモンは、罪なき無辜のアルファたちに襲いかかった。


「う、うわあああああ!!」

「ちんちんが! ちんちんが勝手に……ッ」


 アルファたちの性的嗜好も恐怖に染まった感情も無視して、彼らの股ぐらは下着にはしたない染みを作った。一部のノーパン派は……残酷なことになっている。


「ふっ、前屈みで私から逃げられるかな……?」

「くっ……オメガのフェロモンなんかに屈して堪るものか! いっそ殺せ!!」

「くくく……簡単に結合抜かずの朝までコースをキメてはつまらん。面白いやつだ、お前が私の王子様なのかもしれんな」


 一人のアルファに近づいたとき、息も絶え絶えな別のアルファが男の足を掴んだ。


「そいつに……触れるな!」

「……ふん、アルファ同士で番っていたか。つまらん。精々ミラーボールと回転ベッドのあるラブホでオリーブの首飾りを流しながらくんずほぐれつするがいい」


 ふいっとアルファたちに背を向けた男は、極至近距離に長身の男、身なりから察するにお巡りさんが立っていたことに瞠目する。

 どくん、と跳ねる男の鼓動がお巡りさんをアルファだと告げている。だが、お巡りさんは男の強烈なフェロモンにちっとも反応を見せない。そういえば、一部の職業ではフェロモンによる業務の差し障りを防ぐために、定期的な処方薬の服用を義務付けられているのであった。


「通報があってきたんだけど……おにいさん、署まで同行してもらえる?」

「……貴殿の名は?」

「野田です。とりあえず、これ腰に巻いて」


 野田が渡してきたバスタオルを、男は胸の位置から巻いた。野田が一瞬だけイラッとした顔をするのを見て、男はなぜか胸がきゅんと痛むのを感じた。


「詳しいことは署で聞くから」

「加入保険と資産額まで話そうではないか」

「いや、そこまではいいよ……」


 男は先程までの花金の浮かれた人々を恐怖に陥れた傍若無人さを引っ込め、温順しく野田に連行された。



「まず、お名前は?」


 どこか眉間に皺を寄せた野田は、目の前の公然猥褻罪を犯した男を見やる。

 最初は野田とは別の巡査が聴取するはずであったのだが、男が「野田さん呼んでください。それまでなんにも喋りません」と頑なに言い張ったため、野田が聴取することになった。丁度見回りもあり、いまは野田しか署に残っていない。

 衣服の一切を持っていない男はバスタオルを体に巻きつけたままパイプ椅子に腰掛け、膝をもじもじさせている。男がいなくなったら座面を雑巾で拭こうと野田は決めた。


「山崎太志だ。野田は?」

「山崎太志さんね? 字はこれであってる?」

「うむ。野田は?」

「で、連絡先なんだけど、迎えに来てくれる家族とかは?」

「絶縁ギリギリ故、嫌がらせに家名と両親の顔に泥を塗りつけることを信条としている。恐らくは連絡しても豚箱通り越して豚小屋に放り込んで豚に食わせろくらい言いかねん。野田は?」


 野田は深い深い溜息を吐く。


「なんでさっきから俺のこと聞くのかな」

「運命を感じた相手のことを知りたいオメガ心。内なる力が暴走し、我を失った伴侶を止めた野田こそ我が王子様よ」

「内なる力ってフェロモンのこと? 遠回しに責任能力なしって主張してるの? あと伴侶じゃないよ。俺、恋人いるから」

「なんて名前? どこ住み? てかSNSやってる?」


 立ち上がり、机にばん、と両手を突いて迫ってくる山崎に、野田は平然と「知ってどうするの」と返す。どうせ恋人など嘘っぱちなのだ。オメガは自分が番になれないと分かれば別のアルファのところへ行く。


「寝取る」

「ねとる」

「オメガにもちんちんはある」


 ほら、とバスタオルを捲ってみせた山崎の頭を野田は反射的にぶっ叩いた。


「あ、す、すみませんっ」

「構わん、野田は……着衣派だったのだろう?」


 バスタオル一枚巻きつけただけで着衣しているつもりの山崎が見せる得意気な顔に、野田はフェロモンで前後不覚になっていたという建前で銃口を向けたくなった。悲しいかな、お巡りさんはフェロモンが効かないようにお薬を飲む習慣があるのだ。


「分かった。野田もアルファだ、男だ。オメガの我に恋人……チッ……を寝取られるのは面白くなかろう。

 ──つまり、野田が寝取られればいいのだ!」


 山崎がバスタオルを脱ぎ捨てた。

 花金を楽しんでいたアルファたちはフェロモンが効くが故に異変に、異常に、危機に気がついた。

 だが、普段は野田を守るフェロモンへの耐性が、今度ばかりは彼を危機に晒す。

 一瞬、たった一瞬呆けた瞬間に山崎は飛び立つイヌワシのように机を越えて、野田に飛びかかった。


「さあ、ちんちんを出せ!」

「やめろ馬鹿!!」

「我が薔薇の蕾は椅子をぬるっとさせる程度に準備万端、あとは野田のちんちんがやる気を出せばよい!!」

「てめえ、うちがオンボロ備品をどんだけ酷使してると思ってんだ、予算少ねえんだぞ! やめろ! 離せっ、ベルトを抜くな!!」


 お巡りさんの顔を投げ捨て野田は必死に抵抗するが、山崎は止まらない。オメガにしては理性のあるほうであったが、元々発情期だったのだ、アルファを前にしてこうなってしまうのも仕方がないのかもしれなかった。それにしても肉食系であるが。

 山崎が某大統領に某愛人が歌ったように甘ったるくも場違いなハッピーバースデーを歌いながら野田のジッパーに手をかけたとき、見回りに行っていたふたりのお巡りさんが戻ってきた。


「──運命を引き裂くものに我は屈しはせん、屈しはせんぞ!!」


 山崎は逮捕された。

 野田は今回の出来事を教訓に、薬に頼らないフェロモン耐性をつける訓練と、狂人と接触しなくて済むよう現場から遠ざかるべくアルファの本領発揮とばかりに出世街道へと足を踏み出した。

 裁判所を札束で引っ叩いてきた山崎が、マンションのベランダで煙草を吸っていた野田に「いい夜よな」と全裸で隣のベランダから声をかけるのは、少し経ってからのことである。

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