僕にだけ見えるおじさん
小学校の帰り道、ふとカーブミラーを見上げるとおじさんが映っていた。
振り向くとヨレヨレのスーツを着た草臥れたおじさんが、じっと僕の事を見ていた。
「どうした?」
心配してくれる幼馴染の声に反応すらせず、僕はおじさんの死んだ魚のような目をずっと見つめ返していたんだ。
「⋯⋯無視すんなこら!」
「あいたっ!」
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「ただいま~」
いつも思うけど家に帰ってくるとどうしてこんなに疲れを感じてしまうんだろう。
すぐにでもベッドにゴロンと転がりたくて玄関に靴を脱ぎ捨て、リビングへと駆け出そうとすると、いつの間にか玄関に立っていたおじさんが僕の肩を掴んだ。
「⋯⋯」
ふりかえるとおじさんは靴を指差した。最初は何を言いたいのか分からず、無視するつもりだったけど、僕をじいぃっと見つめる無表情なおじさんの光の無い虚ろな目があまりにも怖くて、僕は脱ぎ散らかしてあちこちに転がっていた靴を並べた。
するとリビングから出てきたお母さんが、
「あら、いつもは靴を脱ぎ散らかしてるのに、珍しい。あ、そうだ、お母さん今から買い物に行ってくるけど、ご褒美にお菓子買ってきてあげる」
と言った。
僕は嬉しくて、さっきまでの恐怖や嫌々靴を並べたことなんてすぐに忘れた。
喜び踊る僕を横目に脱いだ革靴を綺麗に並べたおじさんは無表情で肩をすくめていた。
それから僕とおじさんの奇妙な生活が始まった。
おじさんは無口で、気配もないから時々いるかどうか分からなくなる。戸棚からお母さんお気に入りのお菓子を取り出してもそもそと食べてるのを見かけるけど、お母さんは気にも留めない。僕が戸棚を開けてお菓子を取り出そうとすると、ガミガミと怒り出すのに。
おじさんは僕が小学校に通う時にも側にいる。車道側を歩いてくれるから安心だけど、しょっちゅう通りすがりの人にぶつかられてるけど、みんな僕の方を見て首を傾げるのが不思議で少し面白かった。
僕がおじさんに質問すると、大抵の事は筆記と身振り手振りで答えてくれた。
授業で分からない所や宿題でどうしても解けない問題も分かるように教えてくれる。
授業中に聞いた時なんかは黒板を使って教えてくれるけど、おじさんが版書した長い説明文を先生が首を傾げながら消した時のおじさんの唖然とした表情はなかなか忘れられない。
テストの答えだけは教えてくれなかったけど、おじさんのおかげで成績が良くなってお母さんに褒められた。
だけどおじさんの凄い所はそれだけじゃなかった。
おじさんは会話中に時々カンペを出してくれるんだけど、その通りに話すと何故かクラスで人気者になれたのだ。
隣のクラスの幼馴染以外の誰とも仲良くなれず、教室でひとりぼっちだった僕の学校生活が、すごく楽しくなった。
おじさんはくじ運もすごい。当たり付きの棒アイスなんかを買う時、おじさんが指差すアイスを買うと必ず当たり棒が出て、もう一本食べられる。
朝の出かけ際におじさんに傘を押し付けられた日、お昼休みに僕がふてくされていると、急に土砂降りの雨が降ってきた。
雨が止まないまま放課後になって、皆が雨の中必死になって走ってるのを横目に、僕は大きな傘を差してスキップしながら帰った。
僕はおじさんのことを『おじさん』って呼んでたんだけど、親戚の叔父さんが家に来た時に、僕がおじさんに質問する度に叔父さんは呼ばれたと勘違いしたのか邪魔してきてとても大変だった。だけどあんまり関わったことのない親戚の叔父さんよりも、いつも一緒にいるおじさんのほうが『おじさん』って感じがしたのでおじさんの事は引き続き『おじさん』と呼ぶ事にした。
体育でもおじさんは大活躍だ。例えば鉄棒で苦手な逆上がりをやらされた時なんかは、こっそりおじさんに踏み台になってもらうことで一発で成功して、前みたいに足が上がらないせいで授業が終わるまで延々と逆上がりばっかりさせられずにすむようになった。
他にも勢い良くボールを投げるやり方も教えてくれたし、走る時も一緒に走ってくれるからみんなに置いてかれても寂しくないし、走りながら速く走れるようにアドバイスもしてくれるから、だんだんと足が速くなって、苦手だった体育が苦痛じゃなくなった。
足を押さえてくれるからいつも起き上がれずにいた腹筋も簡単に起き上がれるし、体を支えてくれるからプールにだって浮けちゃう。いつもクラスで一番下だった体育の成績もおじさんがきてからはすごく上がって、お父さんもお母さんも大喜び。ご褒美に車で行きたかった遊園地に連れてってもらえた。
車に乗って遊園地へ向かう時の、置いてきぼりにされたおじさんの顔はすごく可笑しくて、朝の眠気がすっ飛んだ。
笑いが止まらずお母さんに変な目で見られたけど、あれはおじさんが悪い。
遊園地に着いた僕を待っていたのは何故か遊園地のマスコットキャラクターじゃなくておじさんだったこともとても印象に残った。どうして家の前で途方に暮れていたおじさんが、先回りして遊園地にいたのか。不思議でたまらず、ゲートに並んでる間ずっとおじさんに質問したけどおじさんは答えてくれなかった。
そうして迎えた小学校の卒業式。
壇上に上がった僕の隣にはおじさんがいた。おじさんは僕が間違える度に肩を叩いて、手本を実践してくれるので、僕はきっと卒業証書を受け取った卒業生の中で一番だった。幼馴染は呆れていたけど僕はとても嬉しくて、悲しいなんて欠片も思わなかった。
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中学生になって初めての登校日。進学した中学校は最寄りのではなく家から少し離れた進学校。
僕は家から近い方が良かったけど、おじさんが断固として譲らなかったから、僕は渋々従った。
大きな校舎に茫然としてると、誰かに背中を叩かれた。
びっくりして振り向くと、スカートを穿いた幼馴染が頬を染めて照れながら、
「⋯⋯おはよ」
って挨拶してきた。
僕はいつも半袖短パンだった幼馴染の女の子らしい格好に、幼馴染が女の子である事を初めて自覚してショックを受け、それと同時にもしおじさんがこの進学校に通うことをごり押ししなかったら幼馴染とは会えなくなっていたことに愕然とした。
「⋯⋯な、なんだよ。何か言えよ」
僕がショックから立ち直れずにいるのを勘違いしたのか、幼馴染は僕の肩を掴んで揺さぶってきた。
「まままま、待って、しゃ、喋れないから~」
「文句あるなら言ってみろよぉ!」
「や、やめ、うっぷ」
「あ、悪りぃ」
僕が酔って吐きそうになったのに気付いた幼馴染は僕の肩から手を放し、心配してくれた。
「ううん、大丈夫。⋯⋯その、似合ってる」
「⋯⋯お、おう」
「それと、一緒の学校に行けて嬉しい。これからもよろしく」
「⋯⋯こっちこそよろしくな」
様子を見守っていたおじさんは、死んだ魚の目をしながらドヤ顔で満足そうに何度もうなずいていた。
⋯⋯イラッとしておじさんにローキックをかました僕は悪くない。
それから僕はクラスで人気者になることよりも幼馴染と一緒にいるのを優先して生活するようになった。
性別が違っても僕らは親友だ。その想いに嘘はなかった。
だけど、夏休みのある日を境に僕が幼馴染に懐いていた感情に変化が起きた。
その日は街に幼馴染と遊びに出掛ける約束をしていた。
寝坊した僕はおじさんのボディプレスで叩き起こされ、おじさんに手を引かれて家を飛び出した僕は約束の時間ギリギリで待ち合わせしていた駅前広場に到着した。
「まだ待っていてくれるかなぁ。ねぇおじさん、彼女は待ってくれていると思う?」
「⋯⋯」
安心したくておじさんに質問すると、おじさんは黙って指を指し示した。
おじさんの指の先に視線を向けると、コンビニから幼馴染が出てくるところだった。
「お~いっ」
僕が大きく手を振ると、幼馴染はコンビニのビニール袋を振りながら僕の方へ駆け寄ってきた。
「おい、おせーぞ! ⋯⋯まったく、お前が遅すぎるせいで喉が渇いちまったじゃねーか」
約束の時間には間に合ったのに、と文句を言おうとした僕の口は、ほらよと幼馴染がペットボトルを投げてきたことによってタイミングを逃してしまった。
「あ、ありがとう」
文句を言おうとした口から出たのは正反対の感謝の言葉。
僕の隣のおじさんは幼馴染に振り回される僕を指差して笑っていた。どこが面白いのか、まったくイカンである。
「じゃ、行こうぜ」
「う、うん」
いつものように僕の手を握りしめて歩き出す幼馴染。
だけど僕はその手の柔らかさに動悸が止まらなくなってしまった。
買い物も終わり、夕日が射し込む公園で、僕らはベンチに座っていた。
荷物持ちとして幼馴染に振り回された僕は疲れ果てていた。
おじさんも隣で力尽きてるし、未だに元気なのは幼馴染だけだった。
そんな幼馴染を羨ましげに見つめていると、視線に気付いた幼馴染が不思議そうに僕を見た。
「ん? どうしたの?」
夕日に照らされ微笑む幼馴染を見て、僕の心臓は痛い程に激しく脈打った。
「い、いや、何でもないよ」
「そう? ⋯⋯あ、そろそろ門限じゃねーかっ!? やっべぇ、かあちゃ、じゃなかった、お母さんに怒らちま、怒られちゃうっ。じゃあオ、ワタシ先帰るわっ!」
疲労とはまた違うドキドキに僕は戸惑い、熱に浮かされたように去っていく幼馴染の後ろ姿を見つめることしかできなかった。
その日以降、僕は幼馴染とまともに話せなくなってしまった。
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幼馴染を前にすると動悸が激しくなり、体が石像にでもなったかのように固まってしまう。顔は真っ赤になっちゃって、緊張のあまりに目も回る。
思わず避けそうになったけど、おじさんが強引に引っ張って幼馴染の所まで連行してくれたおかげで、幼馴染と疎遠にならずにすんだ。ただ、まともに幼馴染の顔を見れずに挙動不審になってる僕を見て笑い転げるのは許さない。
冬が来て、年明け前にはどうにかしなきゃ、と僕はようやく重い腰を上げた。
この件に関してはおじさんも笑うばかりで話にならず、僕は一人で解決法を模索しなければならなかった。
悩んだ末にたどり着いた方法は荒療治。この前みたいに遊びに行き、今のまごついている状況を無理矢理打破する。知恵熱まで出して考えた僕の作戦に狂いは無かった。
タイミングはクリスマス、のちょっと前。名目はクリスマスプレゼントを買うため、っていうのはどうだろう。
⋯⋯おじさんに確認したら腹を抱えて笑い出したのでドロップキックをくらわせた僕は絶対に悪くない。
幼馴染を誘おうとして一週間。僕は話題を振ることすらできなかった。
そもそも話しかけることすら緊張してできないのにいったいどうしようというのだ。
あの日の僕はバカだった。熱で頭がどうかしてたんだ。
幼馴染には挙動不審な様子を散々からかわれ、僕の顔はタコのように真っ赤になった。
⋯⋯ただ、何故か幼馴染が返事をくれてクリスマスプレゼントを買いに行くことになった。何で?
約束の日、僕はバッチリコーディネートをきめて、格好いいコートを羽織って家を出ようとしたところをおじさんに捕まり、無理矢理地味な普段の格好にさせられた。
シルバーの格好いいけどよく分からない鎖や髑髏の指輪も没収されて、僕はおじさんに怒ったが、おじさんはため息を吐くばかりだった。
結局いつもみたいに約束に遅刻しそうになって急いで出掛けたんだけれど、待ち合わせ場所に着いても幼馴染はいなかった。
おじさんは難しい顔をして腕を組んでいて話しかけ辛く、僕は手持ちぶさたなまま、幼馴染を待ち続けた。遠くで鳴るサイレンの音がやけに耳に残った。
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日が暮れて、僕は病院にいた。
幼馴染のお母さんから幼馴染が事故に遭ったと聞かされた時、僕の目の前は真っ暗になった。
おじさんが支えてくれなければ今頃僕は待ち合わせ場所でアホみたいに突っ立って大声で泣き喚いていただろう。
⋯⋯それにしても、何故おじさんは幼馴染が運ばれた病院を知っていたのだろうか。
おかげでこうして侵入できているのだけれど。
幼馴染の病室を探していると、話し声が聞こえてきた。
⋯⋯幼馴染の両親がお医者さんと話をしている。
「────娘さんはこのまま、目が覚めないかもしれません」
お医者さんのその言葉に僕は固まり、幼馴染のお母さんは崩れ落ちた。
何で? どうして? 僕の頭は意味を成さない疑問でいっぱいになって、気がつけば幼馴染の病室に入っていた。
「────っ」
ベッドに横たわる幼馴染は頭に包帯が巻かれているものの外傷は少なそうで、今もただ眠っているように見えた。
ちょっと肩を揺すれば今にも起きてきそうな幼馴染に、僕は近寄って手を伸ばそうとし、おじさんに止められた。
邪魔をするなと振り向けば、おじさんが険しい表情で僕を見つめていた。
おじさんが何を言いたいのかが分からない。
これまでおじさんとは身振り手振りでコミュニケーションを取っていたけど、こんな表情は初めてだ。
「ねぇ、おじさん」
「⋯⋯」
返事は無い。だけどおじさんは何かを伝えようとしている。僕は何故かそう思った。
おじさんが幼馴染に目を向ける。その目はこれ迄で一番優しい目だった。
「⋯⋯おじさん、僕の大切な幼馴染を助ける方法を教えて」
言うべき言葉はするりと出た。おじさんはそれで良いとばかりに頷くと、
「⋯⋯ああ、助けてやるとも」
と決意を瞳に宿して宣言した。
こんなおじさんは見たことが無かった。これまでおじさんは無気力な顔で死んだ魚のような目をした、草臥れた感じのおじさんだった。だけど、今僕の目の前にいるのは、まるで物語の主人公のような、ギラギラとした光を瞳に灯しながら、どんな困難をも乗り越えてみせるという覚悟を感じ、僕は気圧された。
「良く聞け」
力強いおじさんの声で僕は正気に戻った。
「こいつは普通の手段じゃ目を覚ますことはねぇ。今お前の幼馴染は半分死んでるんだ。だからこのままなら一生植物状態だ」
「そ、そんなっ!?」
「落ち着けって。言ったろ、このままならって。安心しろよ、今はオレがいる。普通じゃない手段を使えばすぐにでも起こしてやれるさ」
「ほんとっ!?」
僕はおじさんの言葉に舞い上がり、小躍りしたい気持ちになったが、次の瞬間冷や水をかけられた。
「お前、こいつのために死ねるか?」
「⋯⋯⋯⋯⋯⋯え」
「これはそう言う話なんだ。もう絶対に死んじまうっていう命を救いたいなら、別の命を犠牲にするしかねぇ。これはそう言う、オカルトでスピリチュアルな話なんだよ」
よくゲームとかしてるんだから分かるだろ?
そう言われて頭が真っ白になった。死ぬ? 誰が? 僕が? 幼馴染を助けるために? ⋯⋯⋯⋯大切な親友を助けるために。
僕は恐怖に震えながらもうなずいた。
「⋯⋯ああ、その顔が見たかった。覚悟するってのは良いことだ。まぁ今回はオレが何とかしてやるって言ったろ? 安心しろよ、死ぬのはお前じゃねぇ」
おじさんはにっこり笑うと僕の頭を撫でた。
「⋯⋯よく聞けよ。これまでお前はオレに頼って、楽して生きてきた。だけどこれからは他のやつらと同じように一人で生きていかなきゃなんねぇ。お前は要領が悪い上にこれまで不相応に高い下駄履いて胡座をかいていたからな、その分周りのやつらよりも遅れてるんだ。だから絶対に苦労する」
「だがな、覚悟があれば乗りきれる。人間死ぬ気になりゃ何でも出来るとはよく言ったもんだ。まぁ、死ぬ気も覚悟も、な~んもなかったオレは簡単に折れて楽な方へと流されちまったが、それでも生きていけたんだ。お前が今の覚悟を持ち続けられるんならやっていけるさ」
おじさんは僕の頭から手を放すと僕の目を見て言った。
「じゃあな、坊主。お前のお守りも案外悪くなかったよ」
突風が吹き、僕は思わず目を閉じた。再び目を開くとおじさんはおらず、僕は茫然と立ち尽くした。
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あれから幼馴染はすぐに意識を回復し、年明けには退院してしまった。
僕もそのあまりにも早い回復力に呆れたせいか、以前のように話せるようになり、一方的に避けていた事を謝ってからかわれたりしながらも仲直りした。
おじさんはいなくなった。
授業で分からない事があっても自分で調べるしかなく、疑問は全ておじさんに聞いて解決していた僕にとっては非常に大変だった。
おじさんに選んで貰えないからクジも当たらなくなったし、おじさんの天気予報も無いからしょっちゅうずぶ濡れになった。
そうしておじさんとの思い出が段々と薄れて行き、僕は大人になった。
家族で車に乗り、イルミネーションを見ながらディナーを食べ、帰りの車内でどこが良かった、何が美味しかったと騒ぐ子供達との会話を楽しみ、帰宅してすっかり疲れて眠ってしまった子供達と眠そうな妻を一緒にベッドに寝かせて、明日の会議で使う資料の確認を始めた。
昔は男の子より男っぽくて、このまま一生親友のままかと思っていた彼女が、今では同僚やご近所さんからもおしとやかで気立ての良い妻だと評判だ。
変われば変わるものだなぁ、と感慨に耽っている間に資料を纏め終えた僕は、寝室へ行く前に歯を磨こうとバスルームへと向かった。
洗面台の前に立って歯を磨いていた僕は、ふと視線を感じた気がして顔を上げた。そして僕は鏡の向こうに、あの日よりも気力に満ち溢れ、生き生きとした瞳のおじさんを見つけた。