コックローチの乙女
昆虫が苦手な方は御注意ください。
初めて君に出会ったのはいつだったっけ。君はまだ翅も生えていなかったから……。そう、確か一年近く前の事だ。
僕は自分の部屋で、明かりを消さないままスマホを片手にベッドの上でうとうとしていた。その時だった。君が天井から落ちてきたのは。いきなり顔に何かがぶつかって、おまけにチクチクするものだから驚いて目が覚めてしまった。そうして飛び起きて、そこで君と目が合ったんだ。
目が合ったのはほんの一瞬だったけれど、僕はその瞬間を絶対に忘れないだろう。
僕の顔から放り出されてひっくり返った君がもがきながら頭を持ち上げた時、君の複眼に僕が映り込んだ気がして。どうしてだろう、僕は……君を助けてあげたくなった。理由も分からないまま君が掴めるよう人差し指を差し出して、君がそれをトゲのあるシャープな3対の肢で掴んで……それでもう理由なんてどうでも良くなってしまった。一目惚れだったって言ったら、君は笑うかな。
もう君が応えてくれることは無いのに、僕はいつもそうしていたように君を手のひらに乗せている。
僕たちが言葉で通じ合うことはなかったけれど、君はいつだって応えてくれた。君の、のびやかな触角が触れるとき、僕は満ち足りていた。
それなのにどうして時の流れはこんなに残酷なんだろう。君はつやめく翅を纏ってたちまち綺麗になって、そうして今はもう僕の手の上で硬くこわばっている。
「早すぎるよ」
僕を置いていかないで。
情けなく声が震える。
違う。君は十分長く生きた。早すぎることなんてない。それくらい分かってる。
だから、本当は逆なんだ。僕の生きている時間が長く引き伸ばされているだけ。
はなから僕たちが一緒になる道など無かったなんて思いたくはないけれど、君と同じ時間を歩みたいと言えなかった自分が腹立たしい。
結局僕は人間で、君の様にはなれない。愛しさと、悔しさと、言葉にできない感情がぐちゃぐちゃに混じった涙が頬をつたって手のひらに落ちていく。
濡らしてしまないようにそっと両手で君を包んで……じきに結局伝えられなかった言葉が溢れてきた。
「大切な時間を、ありがとう」
君のことが大好きだった。愛していた。
……きっと、今もそう。これからも、ずっと。