先行きの不安
さて、夕方に差し掛かろうかという時間になってきた。
様々なところを見学して回っていた伊織だが、夕食前までは簡単な本を借りてきて部屋で読むことにした。
絵本ほどではないが、この国の伝説を子供向けにかみ砕いた本だ。
字が読めるかが不安だったのだが、書庫で表紙を見た限りではおそらく読めそうだ、ということで借りてきた。なぜ読めるかとか気になることはあるが、とりあえずこの一冊がつかえることなく読めたなら、文字の問題は無いと思ってもいいだろう。書く方はどうかは分からないが。
本をめくりながら今日一日を振り返って、しかしなあ、と考える。
ここで自立するためのビジョンが未だにぼんやりとも見えてこない。
アレクシスの反応を見る限り、支援師としてはいいレベルにあるのだろうが、その対象が限定されているので役には立たない。
かといって何かしらの知識があるかと問われるとそんなこともない。いわゆる一般事務を仕事にしていたので、特別な技能があるわけではないのだ。
――フィクションなんかでいわゆる『知識チート』と呼ばれるものがあるが、一般人ではあんなものはよっぽど遅れた文化レベルの場所で、かつ周囲に使える手駒、あるいは自分に心酔しているか、協力的な権力者がいてこそ発揮できるものだ。
仮にそれ無しでできたとしても、古くからの慣習を廃することを厭う生活様式だったら暗殺まっしぐらだし、「どこでそんなことを知ったんだ?」という当然の問いには、完全な味方以外ならば永遠に嘘を吐き続けなければならない。
そして嘘とは必ずどこかで暴かれるリスクを常にはらんでいるため、どこかに拠点を置くならば人脈という運が必要だし、その人脈が確保できないのならば転々とするほかない。
誰が味方で誰が敵かも分からない中、完全に素性を明かせない・明かしたくないという事情を第一とすると、完全に嘘の土台で生活するには無理があるというものだ。
だったらどうするか。知識チートなど諦め、ほんの少しだけ賢く生きれば良いだけの話だ。
どこの世界でも出る杭は打たれるものなのだから。
(その辺、私は立ち位置としては恵まれてる。恵まれすぎてる。…とはいっても、不便は出来るだけ解消したい。小さい提案はしつつ、今はレベルと知識を蓄える時期か)
紛れもなく自分の為なのだが、「自分の立場の確立のため」ではなく、もっと単純に「自分の生活の為」である。
腐っても地球の現代人、それも先進国と分類された土地に住んでいたのだ。不便はもちろん感じている。
有体に言うと電気の恩恵が全て受けられないのが一番大きい。一番の趣味で息抜きだったゲーム断ちをさせられているので、せめてその他の生活でのストレスは出来る限り軽減したい。
(そのうち麻雀だけはどうにか作ってやる。プレイ人口は…まあ、無理だろうけど)
『知識チート』の中でも遊戯方面ならば定番はリバーシなのだろう。
ルールは単純で生産も単純作業が多いため、それを作るための雇用が生み出せる。ある程度世間に広まれば、アクセサリ職人などと組んで貴族向けなどの高級品を生みだしてひと財産、というのがお約束のルートだろうか。
しかしそんな単純なルールならば、この世界のどこかで生まれていてもいいはずだ。
ならばトランプのようなカードゲームならばどうか。残念ながら地球ではカードゲームは古代エジプトだか古代中国だかで遊ばれていたといわれるので、ご都合中世時代のようなこの地で生まれていないとは思えない。
「イオリ様?難しいお顔をされていらっしゃるようですが…」
「…まあ、そうですね。来年の自分の立ち位置がよく想像できないというか…」
マリアが見かねて声をかけてくる。子供向けの本を、徐々に険しくなる表情で読んでいたせいだろう。
最初考えていたことからずいぶん脱線していたのでちょうどいい、とすっかり集中力も削げてしまった本を閉じる。
15年、いやせめて10年若ければ。
若ければ可能性が多いとは限らないが、それでも今よりも伸びしろはあらゆる方向にあるだろう。
少なくとも、最悪の事態をあれこれ考えて、あらゆる方面に二の足を踏むことはなかったはずだ。
それにサクセスストーリーに描かれる『遅咲きの成功者』などというものは、現実には一握りもいいところだ。実際のところ、34歳なんて年齢は新しく事を興すにはやはり遅いし、仮に成功したとてその成功の要因はすでにその人自身が稀有な経験で得たものだったりする。
少々の変わり者程度が関の山だと自覚している伊織は、今持っているもので大成などは夢見ず、無難に平和に生きるのが一番だと考える。
(ひとまず…半年…楽観的に考えて一年ほどは厄介になれると考えて、その間に何とかしないと)
軽くため息を吐く。就職に苦労をした若いころを思い出して本当に嫌な気分だ。
「イオリ様、差し出がましいようですが、わたくしの話をお聞きくださいますか」
「マリアさん…?」
「アレクシス様に限らず、ヴェラーの方はお身内をとても大切にされる一族です。…ご家族のみに限らず、この家に仕える者にもご配慮が感じられるほどに」
まっすぐと、しかし柔らかい目で見つめてくるマリアに伊織は戸惑う。
ああ、だめだ、これは。
「勿論、わたくしどもも敬意と敬愛をもってお仕えいたしております。そのヴェラー家の方々ならば、イオリ様を悪しざまにはなさるはずもございません」
――甘えてしまうから。
(私に対していい人なのは分かってる。分かってるからこそ…)
「ですので、どうぞアレクシス様がたにご相談ください…というのが模範的な回答でしょう」
「え?」
間抜けな声を出した伊織に対し、マリアはしてやったりとほほ笑む。
「わたくしは焦るべきではないとだけ進言いたします。イオリ様は魔力を得られたばかりだと伺いましたので、できることの可能性はまだ分からないのでしょう?」
「ま、まあ、そうですね…?」
「レベルの伸びしろも十分ありますし、しばらくは何も考えずにお過ごしになられてもよろしいかと存じます。『できる事』や『やりたい事』など、考えていたって分からないものですから」
ぽかん、と間抜けな顔を晒した自覚はある。
仕事が決まらなかった若いころには、そんなことは考えもしなかったからだ。
才ある夢追い人でもあるまいし、まずは早く仕事を決めなければと考えていたはずだし、それが間違っていたとも思わない。
それが許されるというのか。他ならぬ、何も持っていないかもしれない自分が。
「いいんでしょうか…。何も、できないかもしれない、のに…」
「いえ、そもそもの前提が違っているのですよ。イツキ様と同郷であるイオリ様ならば、この世界で仕事を見つけるなどと造作もないことなのです。というか、引く手あまただと思いますよ」
「……それって」
「勿論、異世界人という特異性での需要ではございません。…この世界では読み書き計算ができる時点で、仕事に困ることはないのです」
「嘘でしょ。たった、それだけのことで?」
「イツキ様も同じことを仰いました」
そういうものなのか…?と伊織は首を傾げるが、貴族や平民という身分制度があるならば、識字率にも差が出やすいのかもしれない。平民階級に字が読めないとは断定はできないが、先ほどまで読んでいた本が印刷ではなさそうな点を考えると、あまり高いとは思えない。
量産できないのだから、絵本ですら高価になるだろうし、そんな本を読むにも金と身元の保証が必要になる。紙の値段が安いならばその限りではないかもしれないが。
しかし、最低限必要な能力が思ったほどのハードルではなかったことに力が抜けたのは事実だ。
もちろんヴェラー家の後ろ盾という、確実な身元保証も強い味方だろう。支援スキル方面で何ともならなくとも、まるっきりの役立たずとはならないだろう、という点ではほっとした。
ほっとしたところで、先ほどの一言が今さら気になった。
「…ん?仰ったって」
「うふふ、わたくしとしたことが。わたくし、過去にヴェラー家を訪れたイツキ様をお世話したことがございます」
「え、でもそれ、こっちでは60年前って…」
「わたくし、こう見えて長命種なのですよ。かれこれ70年ほどはヴェラー家にお仕えしております」
「は、えぇ!?」
うふふ、と上品に笑うマリアはしかし、年老いたという風には見えない。伊織は彼女の事を自分よりも少し年上かなと思っていたのだ。
「異世界すごいですね…やっぱ長命種っているんだ…」
「GATEにはどんな種族がいたっけかな」と、すでに記憶から消え去ったゲームを思う。
つい先ほどまで不安感でいっぱいだったとは思えないほどに呑気なものだ。
元々それほど深く悩む質ではなかったのだが、環境が変わったことで神経質になっていたらしい。
この世界での一応の生き方が分かったことで安心して気が抜けたというか、本来の気質を思い出したようだ。
そんな呑気な伊織を、マリアは変わらぬ笑顔で見つめていた。




