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精霊の幻影に目を凝らせ

起の章 フローラという少女


「ハシリウス、ハシリウス、起きてください」

ここは、白魔術師の国・ヘルヴェティア王国の首都・シュビーツ。その王立ギムナジウムの学生寮で、春眠暁を覚えずにぐっすりこんと寝ている男子生徒を、女子生徒が起こそうとしていた。

「ぐー……すぴぴー……むにゃむにゃ」

「起きてください。今日の約束覚えていますか?」

「う、う~ん……でも僕には心に決めた子が……」

ハシリウスと呼ばれた生徒は、やや長めの栗色の髪をボサボサにして、枕を抱いて眠っている。女子生徒はハシリウスの寝言に反応して、声が少し変わった。

「ハシリウス~、心に決めた子って誰なんですか? 誰の夢を見ているんですか?」

「ふへへ……そ、そんなとこさわっちゃダメだったら……」

「も~、ハシリウスったら!……光の精霊リヒトよ、闇をも融かすその光でこの場を照らせ、シャインアーク!」

女子生徒が魔法を使うと、目もくらむような光が部屋を満たした。

「ぐっ、ぐおおお~、ま、まぶひい~!」

ハシリウスはたまらず目を覚ます。

「ハシリウス、目が覚めましたか?」

「うお~っ、目は覚めたけど目が開けられない~!」

「え? そ、そんなにつらいですか?」

「目がシバシバする~、涙が止まらない~」

「え、え~と、そんなになるとは思いませんでした。す、すみません」

女の子が謝ると、ハシリウスはぶつぶつと言う。

「謝るくらいなら最初からしなけりゃいいのに……あ~、やっと見えるようになってきた……。ん?ソフィアか? こんな荒っぽい起こし方をしたのは?」

やっと目が開けられるようになったハシリウスの目の前には、ロングの金髪に銀色の瞳を持つ美少女が立っていた。彼女の名はソフィア・ヘルヴェティカといい、このヘルヴェティア王国の王位継承権第1位の王女様で、『未来の女王様』だ。彼女が6歳の時、乳母の都合で生まれ故郷の『花の谷』からハシリウスの故郷である『ウーリの谷』に引っ越してきた。それ以来、彼女の生涯で最初の友だちがハシリウスだったこともあり、幼なじみとして一緒に過ごしてきている。

「は、はい……おはようございます、ハシリウス。って、もしかして、今、私だと気付いたのですか?」

「ああ、寝ぼけているときは何が何やら分からないからな……」

ハシリウスは頭をかきながら言う。そんなハシリウスに、ソフィアが問い詰める。

「ところでハシリウス、さっき寝言で『僕には心に決めた子が』って言ってましたね? 誰のことなんですか?」

「え? 僕、そんなこと言ってた?」

ソフィアはうなずいて言う。

「はい、そんなとこさわっちゃダメとか……いったいどんな夢を見ていたのですか?」

ハシリウスは少し考えて、さわやかな笑顔でソフィアに言った。

「忘れた。ひょっとしたらソフィアの夢だったかもしれないね★」

「もう、ハシリウスったら……」

ソフィアはあきれつつも、少し頬を赤くした。そんなソフィアにハシリウスが訊く。

「ところで、今日は土曜日で学校は休みだろ? なんでこんな早くに起こしに来たんだい?」

「……ハシリウスったら、昨日の約束、覚えていませんか?」

ソフィアは少し頬を膨らませて訊く。

「昨日の約束?……ああ! 生徒会の話だね!」

ハシリウスは思い出した。

「そうです。パリス先輩たちを待たせているんですから、急いで来てください」


「お、お待たせしました!」

ソフィアとハシリウスが、生徒会室のドアを開けると、

「遅~い! まったくキミはネボスケ大魔神なんだから!」

と、赤毛のショートカットでブルネットの瞳の少女がハシリウスを怒る。彼女の名は、ジョゼフィン・シャイン。ハシリウスの幼なじみである。しかし、ただの幼なじみではない。彼女は6歳のころ、モンスターに襲われて両親を殺されてしまった。それ以来ハシリウスの家に引き取られ、ハシリウスとは一つ屋根の下で姉弟のようにして育てられたので、お互いにモノ言う口にも遠慮と言うものがない。

「ゴメン、ジョゼ。ジョゼの夢を見ていたから気持ちよくって……」

ハシリウスがそう言うと、ジョゼと呼ばれた少女は少し顔を赤くして言う。

「ち、ちょっと! 先輩たちの前なんだから、そんなハズカシイこと言わないでよ!」

「あら! ハシリウス、さっきは私の夢を見ていたかもしれないって言わなかったかしら?」

ソフィアが間髪入れずにそう言うと、ジョゼはむすっとして言う。

「まったく、調子がいい男なんだから……」

「え~と、僕が話をしてもいいかな? 三人さん?」

じゃれ合う三人の様子を見ていた、少し長めの黒髪がややうるさげで、それでいて細いあごのラインに気品を感じさせる生徒が、呆れ気味にそう言った。

「あ、パリス先輩、すみません。どうぞ、お話をしてください」

ジョゼが慌てて言うと、パリスはにっこりとして言う。

「では、2年生の皆さんに、生徒会の仕事を引き継ぎたいと思います。来年度の執行部は、生徒の投票と、先生方の考査により、会長をソフィア・ヘルヴェティカ姫に、会計をジョゼフィン・シャインさんに、書記をアンナ・ソールズベリーさんにお願いすることとなりました」

「あの~、パリス先輩、僕はどうなったんでしょうか?」

名前を呼ばれなかったハシリウスが訊く。パリスはハシリウスをじろっと見つめて、

「ああ、ハシリウス・ペンドラゴンくんには、不本意だが副会長をしてもらうことになった。僕は君のネボスケぶりを知っているから、あまり気が進まないのだが、ソフィア新会長が何故かぜひ君を副会長にと言うもんだから……ま、ジョゼフィンさんやアンナさんがその分優秀だから、この布陣で何とかなるだろう」

遠慮がないパリスの言葉に、ソフィアとジョゼはくすくす笑っている。

「では、それぞれの役職ごとに、マンツーマンで引き継ぎをしようか。ソフィア姫、ご一緒によろしいでしょうか?」

パリスが言うのに、

「ちょっと待って! 役職ごとの引き継ぎは、引継書だけで十分よ。むしろ、今までの私たちの懸案事項を伝えるブレーンストーミングの方がいいわ」

と、現・副会長の才媛、セレーネ・ラティスが言う。

「そうですね、現役員の皆さん方の総合的な所見などをお聞かせいただければ幸いです」

ソフィアはそう言ってパリスを見つめる。パリスはソフィアと二人きりになりたかったのだが、あてが外れた。しかし、そこは自称『全校生徒の憧れの的』生徒会長パリス君である。がっかりした表情をおくびにも出さず、

「そうですね。その方が時間の節約にもなります」

あっさり自分の意見を引っ込めた。

「残念だったわね。ソフィア姫と二人きりになれなくて……」

セレーネが小声で言うと、パリスも、

「まったくだ、君って人は……」

と、セレーネを忌々しげに見つめる。セレーネはそんな視線などどこ吹く風で、

「私と言うものがありながら、あなたは気が多すぎるのよ」

「ちょっ! 何を言っているのだね」

「あなたは私の彼氏でしょうがって言ってるのよ」

「待て待て! いつ僕が君の彼氏になった!」

「まぁ、あの夏休みの出来事を忘れたって言うの? あの湖での二人の熱~い出来事❤。あれがばれたら、あなたも私も卒業できなくなっちゃうかもしれないわねぇ~♪」

「わっ、それは内緒だよ」

「じゃ、私のことをもっと大切にしなくちゃね❤ パリス君」

二人がそう言い合うのを、ハシリウスたちはあきれて見ていた。パリスたちははっと我に返って、ハシリウスたちが自分たちのことを興味深げに見ているのを知って、

「ゴホン、で、では、始めましょうか」

と、慌ててその場を取り繕ったのだった。


「生徒会の仕事ってのも、なかなか大変そうだねえ」

ジョゼがパフェをほおばりながら言う。

「そうですね……王立ギムナジウムの生徒600人の代表ですからね」

ソフィアはお汁粉の白玉を、いとおしそうに口に入れると、そう言う。

「けれど、ソフィア姫は独特の雰囲気を持っているから、いいカリスマだと思うわ」

アンナはあんみつ派だ。

「そうだね。ソフィアって、のほほ~んとしている割に、ビシッと決めるところは決めるから、会長は適役じゃないか?」

ハシリウスがウインナコーヒーをすすりながら言うと、ソフィアが、

「私って、そんなにのほほ~んとしてますか?」

と訊く。三人は黙り込んだ。

「ち、ちょっと! なんでそこでみんな黙り込むんです?」

ソフィアが言うと、ジョゼが困ったように笑って言う。

「だ、だって、肯定するのはかわいそうだし、かといって否定するのはちょっと……」

「自分に嘘はつきたくないわね……」

ぽつりとアンナが言う。ソフィアはそれを聞いて嘆く。

「もう~、アンナまでそんなこと言う~」

「ま、まあ、ソフィアならちゃんとできるよ。それは僕が保証する」

「そうだよ、なんたってソフィアは将来女王様になるんだから、今から練習していてちょうどいいよ」

ハシリウスとジョゼがそう言ってソフィアを励ます。

「私たちがきっちり補佐するから、その点は安心して」

アンナがそう言うと、ソフィアはにっこりとして

「はい、みなさん、お世話になります」

そう言ったのだった。

「と、言うことで、今日はハシリウスのおごりね❤」

「ちょっ! なんでそうなるんだ!?」

ジョゼがにこやかに言うのに、ハシリウスが言い返す。ジョゼはハシリウスにぐいっと顔を近づけて、

「あら、だってハシリウス、今朝はソフィアの夢を見ていたんでしょ? それにハシリウスは小さい時からソフィアを特別可愛がっていたじゃない。可愛い妹の門出を祝って、おごってくれたっていいじゃない?」

「それに何でジョゼたちまでおごらなきゃいけないんだ?」

「だーって、ネボスケのハシリウスが副会長じゃ、会計の私や書記のアンナは苦労しそうだもん❤」

「ご馳走様でした。ありがとうございます、ハシリウス・ペンドラゴン様❤」

ソフィアがそう言って箸をおいてすたすたとお店を出ていくと、

「私までごちそうになって、ありがとう、ハシリウスくん★」

「じゃ、そーゆーことで♪」

と、アンナやジョゼもお店を出て行った。

「お前ら……まあいいか……」

仕方なく、四人前しめて3ソル100ドュニエも支払ったハシリウスだった。

ちなみに、ヘルヴェティア王国の通貨は、金貨・銀貨・銅貨であり、ドゥニエ銅貨160枚でソル銀貨1枚、ソル銀貨16枚でリヴル銀貨1枚と言う交換比率である。リヴル銀貨の上に、グルデン金貨があり、これはリヴル銀貨16枚分の価値がある。

アカデミーを出たばかりの官吏の初任給がだいたい1グルデン、平均的なギルドのマイスターの給与が1グルデン8リヴルから12リヴル程度である。

ハシリウスは王宮魔術師補としての給料が出ていたが、それが月額4リヴルだった。

★  ★  ★  ★  ★  ★  ★  ★

木の月14日の月曜日、王立ギムナジウムは卒業式が行われた。

王立ギムナジウムは、年度初めの火の月から水の月までが第1期であり、木火の月はまるまる夏休みである。火土の月から水木の月の23日までが第2期で、新年である闇の月7日から木の月一杯が第3期となる。ただし、光の月の後半は卒業試験日であり、木の月の前半は進級試験やアカデミーの入学試験、各ギルドの採用試験がある。だから卒業式後は実質的にギムナジウムは春休みである。

「あ~あ、先輩たち、卒業しちゃったね」

ジョゼがさみしそうに言うと、

「来年度は私たちが最高学年ですから、しっかりしないといけませんね」

在校生代表として送辞を述べたソフィアも言う。

「最高学年になれるかどうかは、午後の進級試験の結果を見ないとわかんないよ。ま、ボクやソフィアは大丈夫だけど、ハシリウス、キミはどうなのかな?」

「……教養試験の結果による……」

ハシリウスは、はあっとため息をつく。

「キミさあ、魔法考査はいつもソフィアを抜いてダントツなのに、どうして教養試験が駄目かなあ? ひょっとしてキミ、教養がないの?」

「う~ん、僕って覚えるのがへたくそだからなあ。小さい時から誰かさんに頭をどやされてばかりだったから、そのせいかも?」

ハシリウスはジョゼを見て言う。

「……自分の努力不足を、ボクのせいにしているね?」

ジョゼがじと~っとハシリウスを見て言う。そんな二人の間を取り持とうと、ソフィアが言う。

「ま、まあ、ハシリウスは2期以降は『闇の使徒』たちとのゴタゴタもありましたから……」

「そんなことは、先生たち、考慮してくれないからなあ……」

ハシリウスがぼやくのに、ジョゼが笑って言う。

「でもさあ、『大君主』が落第する図って、ちょっと面白いかも」


昼休み、ハシリウスはジョゼと一緒に学食でお昼を食べていた。いつもは3年生もいるのでごった返している学食も、今日はわりと空いている。

「あ~あ、何が悲しくてボクはキミなんかとお昼を食べているのかな?」

ジョゼが冗談めかして言うのを、ハシリウスは

「じゃ、彼氏つくって、彼氏と食べればいいじゃないか」

と、ハンバーグをほおばりながら言う。

「それができれば、苦労はしないさ。でも、なかなかピンとくる人っていないよねえ……」

ジョゼも、パスタをフォークで丸めながら言う。

「前にも聞いたけど、お前って、好きなヤツいないのか?」

ハシリウスが訊くのに、ジョゼは少し頬を赤らめる。

「いるよ。ボクだって健全な女の子だもん、気になるヤツくらいいるさ」

「ほほお、それは初耳だ。どんなヤツだ? お前から想われているという気の毒なヤツは?」

冗談めかして聞くハシリウスに、ジョゼは少しむっとして言う。

「秘密さ……しいて言うなら、ニブチンでおこちゃまなヤツだよ」

「何だよそれ、お前、男の趣味悪いだろ?」

「ボクもそう思うよ。でも、たまにソイツ、優しくてかっこいいんだ。だから……あ~、もういい、この話はここまでにしよ!」

「何だよ、わけわからないヤツだな」

ハシリウスはあきれてそう言う。ジョゼは話題を変えた。

「しかし、ここの学食は美味しいよね❤ メニューも多いし、たっぷり食べられるし」

「そうだよなあ、この学食だけでも、王立ギムナジウムに入った価値はあるよなあ」

「ボク、ハシリウスのお母さまの料理も好きだけど、ここの料理もとっても好きだ❤ だから、たまにソフィアと一緒に、学食のおばちゃんから料理を習ってるんだよ」

「え? お前がか? そりゃあ、おばちゃんもご苦労なことだなあ」

「何が言いたいのさ? こう見えても、かなり料理の腕は上達しているんだぞ」

そう言ったジョゼの顔を見て、ハシリウスは、いつぞやジョゼの料理を食べさせてもらった時のことを思い出した。そうだった、確かに上手にはなっていた。

「いや、前言撤回。確かにジョゼは料理が上手くなったよな……」

「分かってくれればいいよ」

ジョゼは機嫌を直した。ハシリウスは、ジョゼのその笑顔に少しドキッとしてしまった。ジョゼって、本当に、たま~に、ごくごくたま~に、それは瞬きするほど一瞬だが、妙に心惹かれる表情をする。

「ああ~おいしかった❤ ごちそうさま」

ジョゼがそう言うのに、ハシリウスも合わせて言う。

「ごちそうさま」

そして、ジョゼをじっと見つめる。

「な、何よ? ボクの顔に何かついてる?」

ハシリウスは、ジョゼに見とれていたことにハッとした。そして、照れ隠しに心にもないことを言ってしまった。

「い、いや、ジョゼのお腹見てた。太った?」

とたんにジョゼはさっと表情を変えて、

「ふふ、3秒だけ待ってあげよう。3秒の間に短かった人生を振り返って懺悔しなさい……」

そう言うと、カウントダウンを始めた。

「3」

「えっ、ちょっ、ちょっと待て」

「2」

「わ~っ! ジョゼ、冗談だよ、冗談だってば!」

「1」

「こら、よせ、ジョゼ、僕が悪かったから!」

「さあ、心の準備はいいかい? ダメって言っても待ってはあげないけどね。ハシリウス……今思うとキミはいい友だち、いい幼なじみだったよ。サヨナラ、ハシリウス、いい旅を……」

ジョゼは眼を据えてハシリウスを見つめながら、呪文を詠唱し始める。

「火の精霊フェンよ、その猛々しき衣をまといて、わが前に立つ愚かな者どもをその永遠の業火で焼き尽くさんことを……」

ハシリウスは真っ青になってジョゼに必死に言い訳する。

「ご、ごめんって、僕が悪かったよ! 仮にもこんなに可愛らしくて賢くて素敵なジョゼフィンちゃんに、非常に失礼なことを言ってしまいました! だから間違っても魔法は撃つな! いえ、撃たないでください!」

「……で?」

「世界で一番美しくて気高いジョゼフィンさんが、僕に火焔魔法を使うなんて、そんなひどいことができるわけがないですよね! ジョゼフィンさんはまるで女神アンナ・プルナ様のような優しさの持ち主だから、きっと僕の失言も謝れば許してくださいますよね!?」

「……反省してる?」

「は、はい、ジョゼフィン様の心の広さにはかなわないまでも、海よりも深~く反省していますです、はい」

ハシリウス必死の哀願が、何とか届いたようだ。ジョゼは不本意ながらも、しぶしぶと言った。

「次はコロスからね……」

ハシリウスはホッとして言う。

「ああ、お前に見とれていたって、素直に言えばよかった……」

それを聞いて、ジョゼはポッと頬を赤らめる。

「え? ボクに?……いやだなあ、ハシリウスったら、ちゃんとこの可愛いボクの顔をいつまでも見つめていたいって言えば、ボクもほんのちょっぴり嬉しかったのに……」


午後、ギムナジウムの廊下に、進級試験の結果が張り出されていた。

進級試験は教養試験と魔法考査が行われ、それぞれ1000点の2000点満点である。どちらかが500点未満か合計が1400点未満なら追試、どちらかが300点未満か合計が1000点未満なら落第だ。2年生と1年生は、結果を見て悲喜こもごもだ。

『1位、アンナ・ソールズベリー。教養試験950点、魔法考査850点、合計1800点』

やはり1位は学年一の秀才、アンナだった。

『2位、ソフィア・ヘルヴェティカ。教養試験935点、魔法考査860点、合計1795点』

さすが王女様と言うべきか、ソフィアもなかなかいいところを行っている。

『3位、ジョゼフィン・シャイン。教養925点、魔法845点、合計1770点』

ジョゼもなかなか才媛である。

ちなみに1位には報奨金として10リヴルが、2位・3位には5リヴルが、4位・5位には3リヴルがギムナジウムから贈呈される。アンナやジョゼはこれで2年連続して報奨金をゲットした。

「ハシリウス~、追試~?」

ジョゼがにこやかに聞く。ハシリウスはやっと元気を取り戻していた。

「ふっふっふっ、ジョゼくん、僕をなんだと思う? ちゃんと進級したぜ!」

『65位、ハシリウス・ペンドラゴン。教養500点、魔法995点、合計1495点』

ちなみにアマデウス・シューバートは教養650点、魔法750点の合計1400点でこれもギリギリ合格だった。

「結局、追試なしの合格者は80人か~」

アマデウスが言う。そのアマデウスが80位だ。

「しかし、キミたちって、本当にスリル満点の成績だよね」

ジョゼがあきれて言う。しかし、ハシリウスもアマデウスも、口をそろえて言った。

「効率の良い進級方法だと言ってくれ」

王立ギムナジウムは各学年の定員が200人ではあるが、ストレートに進級できるのは4分の1から2分の1くらいである。王国各地からの秀才を寄せ集めて、しかもそのくらいの合格率だから、いかに王立ギムナジウムが厳しく、優秀な人材を輩出するかが分かろうというものだ。

もちろん、残りのほとんどは追試を受けて進級するが、追試組は追試代が一科目1リヴル必要になる。落第したら正規の授業料を1年間払わなければならない。

ちなみに、正規の金額を支払うとしたら、授業料が月額1リヴル半、寮費が2リヴル半である。アンナのように決して豊かでない学生は、自然と勉学に励まねばならないようになるのである。

「まったく、あなたたち、特にハシリウスくんはあんなに魔法考査は素晴らしいのに、どうして教養が駄目なの? ひょっとして、あなたって教養がないのかしら?」

アンナが言うのに、ハシリウスは苦笑して言う。

「アンナ、それ、ジョゼからも言われた」

「そうじゃなくて! まじめな話なのよ? 私なんてお姉ちゃんに苦労かけているから、絶対に落第なんてできないもの。1年間に3グルデンなんて、とてもじゃないけど払えないわ。追試を受けるにしても、一科目1リヴルだって、月に6リヴルから8リヴルしかお給料がないお姉ちゃんにとっては大金だもの」

しみじみと言うアンナに、ジョゼも

「それ、分かるよ。ボクだってハシリウスのお父さまやお母さまに、ここまで育ててもらったうえに、ギムナジウムにまで入れてもらえるなんて、思ってもいなかったもの……。そのうえ毎月、半リヴルもお小遣い送ってくれてるし、感謝してもしきれないよ。だから、報奨金分くらいは恩返ししたいんだ」

そう言う。

「お互い、苦学生なのよね~」

と、こういうところでも二人は意気投合しているらしい。

「ま、全員めでたく3年生になれたってことで、ハシリウスにおごってもらおう!」

ジョゼが言うと、ハシリウスはびっくりする。

「ちょっと! なんでそうなるのさ?」

「だぁ~って、ハシリウスって『王宮魔術師補』として毎月お給金貰っているじゃないか。しかも月に4リヴルも。そのうえまだ半リブルお小遣いを送ってもらっているんでしょ?」

「あ、それ、母上にお願いして、今月分からジョゼに上乗せしてもらうことにしたんだ」

ハシリウスはニコリとして言う。

「えっ?」

ジョゼは目をぱちくりさせている。

「ジョゼの言うとおり、僕には『王宮魔術師補』としてのお給金が出ているから、僕の分のお小遣いはいらないって言ったんだ。そしたら、母上は、どうせあなたたちに仕送りする予定でいたお金だから、ジョゼに月1リヴル送ってもいいかって聞かれたので、いいよって答えておいた」

「ハシリウス……」

「ジョゼってあんまり買い物しないじゃないか。でも、半リヴル多くなったら、少しは気兼ねなく買い物もできるだろう?」

そう言うハシリウスに、ジョゼは少し感動した。ハシリウス、ボクのことあまり見ていないようで、しっかり見てくれてるんだ。ボクは確かにウィンドウショッピングが趣味で、あまり買い物をしない。そういうところまで気が付いてくれていたなんて……。

「あ、ありがとうハシリウス」

ジョゼは素直にそう言う。

「お、えらく素直だな?」

ハシリウスが言うとジョゼは目をキラキラさせる。

「だ~って、とっても嬉しかったんだもん。これでハシリウスがお給金の半分をボクにくれるって言ったら、ボクはキミのお嫁さんになってあげてもいいよ」

「あら、それだったら、私だってハシリウスくんのお嫁さんになってあげてもいいわよ」

アンナが混ぜっ返す。

「ハシリウス~、お前ばっかり何故モテる~?」

アマデウスがそう言うと、アンナが冷た~く答える。

「ハシリウスくんは、誰かさんのように着替えをのぞいたり、お風呂をのぞいたりしないからよ」

「えっ! それじゃ俺がまるで覗き魔みたいじゃないか。失礼だな」

「ふ~ん、キミは若年性健忘症なのかな、アマデウスくん? なんなら、ボクが思い出させてあげようか?」

憤慨するアマデウスに、ジョゼが両手の指をぽきぽきと鳴らしながら言う。

「い、いえ、結構です。これから慎みます」

アマデウスが言うのに、ジョゼはニコリとして返す。

「そうしてよ。せっかくアマデウスもナイスガイなんだから、覗きなんかで自分の好感度を落としてもしゃーないでしょ?」

「ジョゼフィンちゃん……。俺、ジョゼフィンちゃんのことが好きになってしまいそうだぜ」

目をうるうるさせるアマデウスに、ジョゼは笑って答えた。

「はいはい、ボクが好きな人からフラれたときに慰めてね」

「なぬっ! やっぱりジョゼフィンちゃんはハシリウスと付き合っているのか?」

アマデウスが言うのに、ジョゼは慌てて、

「ば、バカ! そんな、ボクたちまだそんな関係じゃないよ!」

そう言うと、ハシリウスに向かって言った。

「だ、だいたい、ハシリウスがあんなに気安くボクたちの部屋に入り浸るから、いろんなこと言われるんだよな~。困ったもんだよ、まったく……」

「いいじゃないか、僕たちは幼なじみなんだし、別に人に言えないようなことをしているわけでもないし……言いたい奴には言わせておけよ」

ハシリウスはのんきに言う。そんなハシリウスに、ジョゼは真顔で言う。

「……ハシリウス、キミは知らないかもしれないけど、ボクたちって世間的に見ればお年頃の男女なんだよ。ボクはいいけど、ソフィアに変な噂が立ったら、国の大問題になっちゃうかもしれないよ?」

「そ、そんな……大げさですよ、ジョゼ。それに、変な噂が立ったら困るのはジョゼだってそうでしょう?」

ソフィアが言うのに、ハシリウスが不思議そうな顔して訊く。

「ヘンな噂って、どんな噂だよ?」

「そ、それは、例えばボクとハシリウスができちゃってるとか何とか……とにかくっ、そんな噂が立ったら、乙女の純潔が台無しだよ!」

赤くなって答えられないソフィアに代わって、ジョゼが答える。ハシリウスもその言わんとするところに気付いて、少し赤くなったが、

「そうだな、そうなったら悪いな。でも、そんな噂があったとしても、噂を信じてお前たちの良さを信じられないような男なら、付き合ってもしょうがないんじゃないかな? それに、純潔かどうかって、結婚してみたら分かるもんだろう? 要は男側の心の持ちようさ」

ハシリウスがそう言うのに、ジョゼが目を丸くする。

「へぇ~、ハシリウスでもたまにはいいこと言うじゃないか。じゃ、ボクのいいところをどんどん言ってみてよ。ボク、キミからほめられるのって気持ちがいいんだ❤」

「そうだな~、う~ん……」

ハシリウスは腕組みして考える。ジョゼは目をキラキラして待っている。

「う~ん……そうだなあ……」

腕を組み、頭を傾げて真剣に考え続けているハシリウスに、しびれを切らしたジョゼが言う。

「もういい! そんなに考えないと出てこないのかい? 分かっちゃいたけどキミってシツレイな男だな! このプリティフェイスで気立てとスタイルがよくって、料理も上手で優しいボクの良さが、まだまだ分かっちゃいないねぇキミは」

「すまん、お前をほめるなんて、あんまりないシチュエーションだから……これがソフィアをほめるのならスラスラ出てくるんだが……」

ハシリウスが言うのに、ジョゼがムスッとして言う。

「じゃあ、ソフィアをほめてみなよ」

「そりゃあ、ソフィアは国いちばんの美人で、おしとやかで、優しくて、気立てがよくって、料理も上手で、努力家で誠実でまじめで、頭がよくって、ちょっとドジだけどそこがまた可愛くって、申し分のない女の子だな、うん」

「そ、そんな……そんなに褒められたら恥ずかしくなります」

ソフィアが照れるのに、ジョゼはぽつりと言った。

「なんだ、全部ボクのことじゃないか。ありがと、ハシリウス、キミがボクのことをそう思っていてくれるのなら、ボクもキミに対しての態度を少~し改めるよ★」

ハシリウスは苦笑する。

「じゃ、可愛らしきジョゼフィンちゃんたちのために、何か食べに行こうか?」

ハシリウスが言うと、ジョゼが目を輝かせる。

「話せるじゃんハシリウス! じゃあ、みんなで甘味処に行こうよ!」

★  ★  ★  ★  ★  ★  ★  ★

木の月15日、今日からギムナジウムは春休みだ。アマデウスは昨日の夜に実家に戻った。しかし、ハシリウスとジョゼとソフィアは、春休み中に生徒会の仕事の整理を行うことにしていたため、寮に残っていた。

『ハシリウス、明日は午前10時から生徒会室の掃除だからね。いかにネボスケのハシリウスでも、10時なら起きているでしょ? 念のため、9時30分には起こしに行くからね。起きてなけりゃ、分かっているよね?』

昨日の夜、ジョゼからそれだけ念を押されていたハシリウスだったが……

「ぐー、すぴぴぴ……」

やっぱり、ハシリウスは枕を抱いてぐっすりと眠っていた。

「う、う~ん……むにゃむにゃ……」

ハシリウスが寝返りを打った時、

ふにっ……

ハシリウスの左手が何か柔らくて温かいものにふれた。

「うん?……むにゃ」

ハシリウスは思わずそれをつかんだ。

ふにっ、ふにっ……

「……やわらかい……はっ!」

ハシリウスが何かを感じて目覚めた。すると、そこには……。

「な、何で? 何で女の子が寝てるんだ?」

ハシリウスの隣にはいつの間にか少女が眠っていた。少女はすーすーと静かな寝息を立て、ハシリウスの方を向いて寝ている。その茶髪はゆるりと肩にかかり、水色のワンピースが静かに上下している。

「いけねっ……」

ハシリウスは、自分の左手が少女の胸をさわっていたことに気づき、思わず顔を赤くして手を放した。

――女の子の胸って、柔らかくて、温かいな……。

思わずそんなことを口走ってしまいそうになるが、はたと大切なことに気づいた。

「この子、誰だ? 何でここにいるんだ?」

ハシリウスは、気持ちを落ち着けて考えた。確かに、昨日の夜、自分がベッドに入るまで、この部屋には自分以外の誰もいなかった。

ハシリウスは起き上がると、ドアを確かめた。鍵はかかっている。鍵がかかっていて、寝るまでは誰もいなかったのに、今、自分のベッドの上には少女が寝ている……。

「おい、きみ、ちょっと起きてくれないかな?」

ハシリウスは少女の肩を優しく揺らして、そう呼びかけると、

「う、う~ん……」

パッチリ……少女が目を開いた。琥珀色の瞳をしている。年のころは13歳くらいか?

「おはよう、ハシリウス❤」

「え?」

ハシリウスは、初対面の少女から自分の名を呼ばれてびっくりした。

「えっと、前に君と会ったことがあるかな?」

ハシリウスが聞くと、少女はゆっくりと仰向けになる。ワンピース越しに、少女のまだそんなに成熟していない胸のふくらみが見える。ハシリウスはなぜかどぎまぎして聞く。

「前に会ってたとしたら悪いけど、僕、きみのことを覚えていないんだ。名前を聞かせてもらっていいかな?」

「……フローラ」

少女はゆっくりとそう答えて、起き上がった。

「うちはどこだい? なぜ、僕のベッドで寝ていたんだい? 僕と前にどこで会ったのかな?」

ハシリウスが聞くと、少女は少しムスッとして言う。

「そんなにいっぺんに聞かれても、あたしにもわからないよ」

「で、でも……ご両親が心配しているんじゃないかな?」

ハシリウスはそう言いながら、この子はひょっとして家出少女かも?――と疑っていた。

「ゴリョウシン?……」

少女は、それがまるで初めて聞く言葉のように、ハシリウスの言葉をオウム返しにして首を傾げる。肩までくらいの茶髪が、むき出しの肩にさらりとかかり、ハシリウスはどきっとした。

「そう、お父さんとお母さんさ……うちはどこだい? 送って行ってあげるから」

「オトウサントオカアサン……ウチ……?」

少女はまるで本当にそんな言葉を知らないのかのようだ。ハシリウスは少し不安になった。

「ねえ、フローラちゃん……」

「フローラでいいよ。ハシリウス❤」

フローラはハシリウスの目を見て、にこっと笑って言う。

「じ、じゃあ、フローラ……」

「なあに? ハシリウス❤」

フローラはまるで夢を見る少女のように、ぼうっとした顔でハシリウスを見ている。

「きみの家は、どこにあるんだい?」

「……」

「僕の部屋に、どうやって入って来たんだい?」

「……気が付いたら、ハシリウスのベッドで寝てた」

フローラはそう言って、ハシリウスにすり寄ってくる。ハシリウスは思わず赤くなりながら、

「とにかく、きみの家に送ってあげるから、住所を教えてくれないか?」

と言うと、フローラは首を振った。

「あたし、どこから来たのか覚えていないよ。気が付いたらハシリウスのベッドに寝てたもん。ハシリウスの顔を見てて、安心してまた寝ちゃったんだ」

ハシリウスは思った。フローラは嘘を言っているようではない。と言うことは、この子は何らかの事情で記憶をなくしてしまったのかもしれない。

ハシリウスがそう考えたとき、ドアの外から声がした。

「ハシリウス、ハシリウス。起きてますか?」

「ああ、ソフィアか……」

ハシリウスはそう言って、はっと気づく。ここにフローラがいることがバレたら、ソフィアはどう思うだろう……。

「ハシリウス、起きているんですね。ちょっと入っていいですか?」

「あ~、ちょ、ちょっと待ってもらえないかな」

ソフィアの声にそう答えたハシリウスだが、そんなハシリウスにフローラが聞いてきた。

「ね~、ハシリウス~。ソフィアって誰~?」

「えっ? ハシリウス。どなたかいらっしゃるんですか? アマデウスくんではないようですね」

フローラの声が聞こえたのか、ソフィアがそう訊いてくる。ハシリウスは慌てて言う。

「い、いや、何でもないよ」

「ね~、ハシリウスってば~、ソフィアって誰なの~?」

また訊いてくるフローラに、ハシリウスは言う。

「フローラ、ちょっと黙っててくれないかな」

「ど~して~?」

「どうしても」

「むぅ~。いいよ~だ。ハシリウスとは話をしてあげないから」

いかん、フローラはすねた――ハシリウスはそう思って困ってしまう。

「ハシリウス、何か様子がおかしいですよ? どうしたんですか?」

ソフィアの声が少し心配を帯びてきた。このまましていたら、かえってまずいことになると判断したハシリウスは、とりあえず開き直ることにした。

「い、いや、ちょっと僕も困ったことがあって……入っていいぞ、ソフィア」

ハシリウスが言うと、ソフィアはホッとした様子で、

「そうですか。それではお邪魔します」

と、ハシリウスの部屋に入って来た。そして、水色のワンピースを着たフローラの姿を見て、ソフィアは立ちすくむ。

「おはよう、ソフィア」

「おはよう、おねーちゃん♪」

ハシリウスとフローラが同時に言うのに、ソフィアは無言でひきつった笑いを浮かべている。まあ、僕の部屋に知らない女の子がいるこの状況だったら、無理もないかもな……ハシリウスはそう思った。

「え、あ、あの……おはようございます。あの、ハシリウス?」

ソフィアはハシリウスを見て

「ハシリウスには、妹さんがいたのですか?」

と訊く。ハシリウスは首を振って言う。

「いや、僕は一人っ子だ」

「では、この女の子は?」

「この子はフローラって言う名前らしいが……」

ハシリウスが言いかけると、フローラがニコニコして言う。

「うん、あたし、フローラ。おねーちゃん、美人だね♪ おねーちゃんって、ハシリウスの彼女?」

「え!? い、いえ、まだそんな関係では……」

ドギマギするソフィアに、フローラはさらに言う。

「じゃ、あたしがハシリウスをもらってもいいんだね?」

「え?」「こら、何を言うんだ!」

ソフィアとハシリウスが言う。フローラはハシリウスを見つめて、少し頬を染めて言う。

「だって、あたし、ハシリウスのことが好きなんだもん。昨夜もず~っとあたしのこと抱きしめていてくれたじゃない」

その言葉に、ソフィアがさっと顔色を変えた。

「ハシリウス~、まさかこんな少女を部屋に連れ込んだんですか?」

そうハシリウスに詰め寄る。ハシリウスは首を振って言う。

「違う、そんな情けない声を出さないでくれ。気が付いた時には隣に寝ていたんだ!」

「隣に……?」

「そ★ ずーっとハシリウスに抱きしめてもらってたんだよ。へへ~♪ おねーちゃん、あたしが一歩リードね❤」

そうあっけらかんと言うフローラの言葉で、ソフィアの顔色がさらに変わった。

「は、ハシリウス~、ま、まさかあなたは、ロリ……」

「ち、違う! 僕は何もしていない!」

ハシリウスが慌てて釈明しようとした時、運悪くこの場にジョゼもやってきてしまった。

「ハシリウス! ソフィア! 遅いじゃない!……」

そう二人に言いかけて、ジョゼもまたフローラを見つけて絶句する。

「あれ~? またおねーちゃんだ~。ハシリウスって二股かけてんの~?」

ジョゼを見て、フローラがそうハシリウスを冷やかす。ジョゼは毒気を抜かれている。

「ね、ねえ、キミ……」

ジョゼがフローラにそう呼び掛けると、フローラはにこっとジョゼに笑って言う。

「あたし、フローラ。おねーちゃんもハシリウスの恋人~?」

「え゛!? えっと、ボクは……そ、そう、ハシリウスのお姉さんみたいなものさ」

ジョゼはやっとのことでフローラにそう言うと、キッとハシリウスを睨みつけ、

「どーゆーこと? ハシリウス。なんでキミの部屋に女の子がいるのさ? それもどう見てもこの子は初等部か中等部の生徒だよ。まさかハシリウスが連れ込んだんじゃないだろうね?」

ジョゼが言うのに、ハシリウスは度胸を決めて答えた。

「僕が連れ込んだんじゃない。いつの間にかボクのベッドで寝ていたんだ。ドアにも窓にも鍵をかけていたから、どこからフローラが入って来たのかは不思議だけど」

ジョゼはハシリウスの釈明を聞いて、笑顔をひきつらせながら言う。

「ふっふっふっ……ハシリウス、嘘はもっと上手につかなきゃ……。さ、正直にお言い。キミがこの子を自分の部屋に連れ込んだとして、いったい何をやったんだい? それ次第ではキミの命の保証はしないよ?」

「ハシリウス、あたしのことずーっと抱きしめてくれてたよ❤」

「そう……よかったねお嬢ちゃん……ハシリウス、アンタって人は……」

ジョゼが怒りをためている。ハシリウスがそれを釈明しようとした時、

「それに、ハシリウス、あたしの胸ももんだ~。あったかくて柔らかいって言ってた~❤」

「ハシリウス……あなた、やっぱりロリ……」

フローラとジョゼの会話を聞いていたソフィアは、口に両手を当てて言う。その時、

「フレーメンヴェルファー!」

ジョゼの怒りの火焔放射が炸裂した。ハシリウスはもろにその火焔を受けて、

「ぐわっ!」

と、吹っ飛ばされてしまう。その時である。

「ああっ! ハシリウス!」

フローラが、気を失ってくすぶっているハシリウスに取りすがって、ジョゼとソフィアに言った。

「ハシリウスはあたしに変なことはしていないのに、どうしておねーちゃんたちはハシリウスをこんな目に遭わせるのさ!」

「え? で、でも。さっきあなたはいろいろ言っていたじゃない?」

ジョゼが言うと、フローラはまるで大人の女性のように、

「言ったけど、あたしはハシリウスにそうされて嬉しかったんだから、別にいいじゃない。それともおねーちゃんは、あたしに焼きもち焼いてるの? 焼きもち焼いたから、ハシリウスに八つ当たりしているの?」

「べ……別にそう言うわけじゃ……」

「そ、そうですよ。ジョゼはあなたのことを心配したのです。まだ中等部くらいなのに、純潔を失うようなことになったら、あなたのご両親も悲しまれますよ?」

そう言うジョゼとソフィアに、フローラは、

「それを『余計なお世話』っていうんだよ。ハシリウスが変なことができるオトコノコかどうか、おねーちゃんたちがよく知っているはずじゃない? それとも、あたしが妬ましい?」

そう言って挑発する。ジョゼはムカッとしたが、ソフィアに腕をつかまれた。

「ジョゼ、この子に怒っても仕方ありません。それに、ハシリウスがこんなことで嘘をついたことがありません。もっとハシリウスの話を聞いてあげましょう」

ソフィアの落ち着いた目を見て、ジョゼも怒りを鎮めた。そして、フローラを見ながら言う。

「分かったよ、とにかくハシリウスをベッドに寝かせよう。フローラちゃん、ハシリウスが目覚めたら、キミにも話を聞くからね? 嘘ついたり、ボクたちを挑発するようなことは言いっこなしだよ?」

「うん」

ソフィアも、優しい微笑みを浮かべながら言う。

「ことと次第によっては、ハシリウスはこのギムナジウムを退学になるかもしれません。ハシリウスが困るようなこと、フローラちゃんもしたくないでしょう? だから正直に答えてくださいね」

「うん、あたしも、ハシリウスが困るようなことはしたくないよ」


承の章 『花の門』と『精霊の泉』


ここは、ヘルヴェティア王国からはるか北。春が近い木の月だというのに、いまだ一面の銀世界。空も鉛色の雪雲に覆われ、思い出したようにしんしんと雪が降り積もっている。

荒れ果てた野原には、生きとし生けるものの姿とてなく、葉っぱを散らして骸骨のようになった木々が、その梢を吹き渡る風にさらしている。そこに住むものは、モンスターやミュータントたちであり、彼らは人間の目を避け、人間たちにおびえながら暮らしていた。

しかし、何百年も前、一団の黒魔術師たちが、白魔術師たちの厳しい追及を逃れて、この地に住み着いた。黒魔術師たちは、モンスターやミュータントたちを手懐け、この、北の最果てにいつしか『ゾロヴェスター王国』を築き上げていたのである。

この国の首班は、クロイツェン・ゾロヴェスターという大黒魔術師であり、自らを『闇の神』と呼ばせている。彼によれば、物事の始まりは闇であり、闇の力こそこの世の中核になるべきであるということであった。

モンスターたちは、クロイツェンの魔術により、魔力を持ち、力を持ち、やがて人間たちに復讐するものも現れた。ジョゼの父母を襲ったグリズリも、そうしたモンスターの一匹であった。

しかし、クロイツェン・ゾロヴェスターは、今から30年以上前、ヘルヴェティア王国随一の白魔術師であり、人間世界唯一の星読師でもあるセントリウス・ペンドラゴンと12星将たちの活躍によって、北の最果ての地に封じ込められ、永い眠りにつくこととなった。

クロイツェンが目覚めるきっかけとなったのが、新暦アクエリアス806年の『年月日の調整』であった。『年月日の調整』時に、一時的に星の運行が逆行し、白魔術の力が消えた瞬間があった。その瞬間、クロイツェンは目覚め、それから16年以上の歳月をかけて、少しずつ魔力を回復していったのである。

彼の魔力が回復するにつれて、彼の周りには彼を慕う黒魔術師たちが再び集い始めた。

その中でも、左右の重臣となっているのが、バルバロッサという『黒い知恵の賢者』と、メドゥーサという『黒い力の賢者』である。二人は、東西南北を司る四天王『デュポーン』『ワルキューレ』『シュール』『ティターン』たちと、12人の夜叉大将を配下に置き、白魔術師たちの国に対しての攻撃を開始していた。

その『ゾロヴェスター王国』では、クロイツェンが苦虫をかみつぶしたような顔で玉座に座っている。

「スナーク、ナイトメア、オルトス……12夜叉大将のうち、すでにハシリウスたちと戦い、命を落としているものは3人になる。しかも、ハシリウスは星々の運行を統御し、火竜『サランドラ』を封印している。セントリウスの跡を継ぐ星読師が目覚めてしまった……このままでは、わしの大願が果たせぬ。何としてもハシリウスを亡き者にし、その魔力をわがものにしたい」

「ハシリウスは、女神アンナ・プルナに愛され、28神人たちと交感し、その左右に『日月の乙女たち』をはべらせ、星将シリウスをはじめとする星将たちを従えています。ハシリウスの周囲には星将と『日月の乙女たち』の陣が張られ、すでにハシリウス個人を狙う時期は過ぎました。それよりも、ヘルヴェティア王国の弱点を攻撃すればよいのではないでしょうか?」

12夜叉大将随一の智将で、剣を取らせては他に追随を許さぬ闘将・マルスルが言う。

「ヘルヴェティア王国の弱点? 面白い、そなたの話を聞こう」

クロイツェンは凍てつくような眼光をマルスルに向ける。マルスルは臆せずに話し始めた。

「ヴィクトリウスがヘルヴェティア王国の礎として四竜を封じた時、『花の谷』には竜が封じられませんでした。それはなぜかを考えてみましたが……」

マルスルはそこまで言うと、友人であり、同じ夜叉大将副将であるイークを見て言う。

「『花の谷』は最も辺境から遠いところ、そして、『風の谷』をはじめとする各地方で囲まれている地域です。つまり、ヘルヴェティア王国の本当の心臓部は、『花の谷』にあると言えます」

黙って話を聞いているクロイツェンに、マルスルはさらに言う。

「現在、『花の谷』を統括しているロード・アルテミスは、その名のアルテミス・ヘルヴェティカが示す通り、現女王のエスメラルダとは血縁関係にあります。彼女を使って、ヘルヴェティア王国を分裂させれば、白魔術師たちの国はわが手に落ちるでしょう」

「ふむ……血縁関係とは、具体的にどのようなものなのだ?」

話を注意深く聞いていた『黒い知恵の賢者』バルバロッサが訊く。マルスルはすぐに答えた。

「アルテミスの父が、エスメラルダの兄です。つまり、アルテミスにとって現女王は叔母なのです。エスメラルダの娘である『月の乙女』が、何らかの事情で王位継承権を失えば、自身が次の女王となる可能性があります。よって、王女のスキャンダルを流布すれば……」

「……女王とアルテミスの仲が疎遠になる、と言うわけだな。ふむ、面白い……」

楽しそうにくっくっと笑うバルバロッサの反応に力を得たマルスルが、次のように提案して発言を締めくくった。

「その混乱に乗じて、『花の谷』を攻略すれば、ヘルヴェティア王国は四分五裂となるでしょう」

「よし、では夜叉大将ルモールが女王とロードの仲を裂く工作をし、その進行具合に合わせてヤヌスルが『花の谷』を攻めよ」

クロイツェンは、バルバロッサがうなずくのを見て、そう命令を下した。

★  ★  ★  ★  ★  ★  ★  ★

「う~ん、だから、フローラちゃんの家はどこなのかな?」

ジョゼは、ハシリウスが目覚めた後、場所を自分たちの部屋に移動して、フローラに何十回目かの質問をした。

「……わかんない」

「分からないって……シュビーツの中かそうじゃないかってことくらいは分かるでしょう?」

ソフィアが優しく聞くが、それでもフローラは、

「だって、分かんないものは分かんないもん」

そう言うと、すぐにハシリウスの側に行ってしまう。

「ねえ、ソフィア。彼女って本当に記憶がないんだろうか?」

ハシリウスにじゃれ付くフローラを見ながら、ジョゼが言う。

「住所も、両親の名前も、なぜハシリウスのことを知っていたのかも、彼女は全然覚えていないし、なぜ自分がハシリウスのベッドに寝ていたかも分からないなんて……普通そんなことってあるのでしょうか?」

ソフィアが言うのに、ジョゼはムスッとして、

「ソフィアが言ったことをそのまま先生に伝えてごらんよ。ハシリウスがフローラちゃんをだまして、あるいは眠り薬かなんか飲ませて自分の部屋に連れ込んだってしか思ってもらえないから」

そう言って続ける。

「でも、確かに、フローラちゃんはまだ、その……純潔だったよね?」

ソフィアも顔を赤くしてうなずく。

「ええ、風の精霊に調べてもらったところ、まだフローラちゃんは……。その点では、ハシリウスの言ったことは本当でしたね」

二人とも、とりあえずハシリウスとフローラの間には何もなかったことが分かってホッとしていた。しかし、それ以上に難しい問題があった。今後、フローラをどうするか、である。

「ハシリウス」

ジョゼが、フローラと遊んでいるハシリウスにそう言って手招きする。ハシリウスはジョゼのところにやって来た。フローラもハシリウスにぴったりとくっついている。

「ハシリウス、すみませんでした。あなたとフローラちゃんの仲を疑って……でも、その疑いも解けました」

ソフィアが言うのにハシリウスはニコニコして、

「い、いや、分かってくれたらいいよ。僕だって、客観的にいろんなことを疑われるようなシチュエーションだってことは分かっていたから……。いきなりフレーメンヴェルファーがくるとは思っていなかったけれど……」

そう言う。ジョゼは少しばつの悪そうな顔で謝る。

「ご、ごめん、ハシリウス」

「おねーちゃんは、ハシリウスのことが好きだから、あたしがいてムカッとしたのよね?」

フローラの言葉に、ジョゼは、

「ぐっ! ハシリウスもこの子くらいわかってくれればいいのに……」

とつぶやいた後、

「えへへ、フローラちゃん、そんなことないよ。ボクは、弟のハシリウスが変なことしたのかと思って、ムカッとしたんだよ」

と言う。フローラはあからさまにジョゼを勝ち誇った目で見つめて、

「ふ~ん、それにしては慌てていたよね? でも、いきなり火焔魔法を使うなんて、おねーちゃん『お転婆』って言われない? ハシリウスはこっちのおねーちゃんみたいな、お淑やか系が好きみたいだよ。ガンバッテね~♪」

そう言う。ジョゼはすごくムカッと来たが、何とかキレずに済んだ。

「でも、あたし、お腹すいちゃった」

「あ、そうだね。僕もまだ朝食を食べていなかった。ジョゼ、ソフィア、一緒にご飯どうだい?」

ハシリウスが言うと、ジョゼもソフィアも初めて気づいたように言う。

「そういえば、ハシリウスは起き抜けにこんな騒ぎに巻き込まれちゃったんだったね。じゃ、みんなで食堂に食べに行こうか?」


さすがに食堂は春休みともなると空いている。ハシリウスたちはとりあえず食堂でフローラを囲んで今後のことを話し合った。

「とにかく、フローラちゃんは、自分の名前以外、何も思い出せないのですね?」

ソフィアが優しく聞くと、フローラもおとなしくうなずく。そのさまは、まるで迷子になった子猫のようにハシリウスには思えた。

「何か、記憶に残っている風景とかないのかな? 風景でなくても、言葉とか、音とか、においとか……」

ジョゼがそう言ってフローラを覗き込む。そのジョゼの髪の毛から、ほのかにラベンダーの香りがした。フローラがその香りに反応する。

「おねーちゃん、いい匂いがするね?」

「え? ああ、ボク、ラベンダーが好きだから、ラベンダーエキスのシャンプーを使っているんだ。その匂いかな?……ど、どうしたのさ?」

フローラは、急にコハク色の瞳を潤ませると、ぽろぽろと大粒の涙をこぼし始めたのである。その瞳は遠くを見つめているようで、あどけなかった顔も急に大人びて見えた。

「……ハシリウス……何か、懐かしいの……あたし……」

そうつぶやくと、フローラは崩れるようにジョゼにもたれかかってくると、意識を失ってしまった。

「フローラ!」「フローラちゃん!」

ハシリウスとジョゼが同時に叫んだ。

「ジョゼ、フローラちゃんを私たちの部屋に運んでください。それとハシリウス、ちょっと私と一緒にお城まで来ていただけませんか?」

ジョゼとフローラやり取りを注意深く聞いていたソフィアが、何かの確信を得たかのようにそう言う。

「え? で、でも……」

ハシリウスがそうためらうのに、ジョゼがニコリと笑って言う。

「ボクは大丈夫だよ。それより、ソフィアが何かに気づいたんなら、早くこの事態を打開しないと。行っておいで、ハシリウス。フローラちゃんはボクが見ておくよ」

「そうか……。悪いな、ジョゼ」

ハシリウスがそう言うのに、ソフィアが付け加える。

「ジョゼ、たぶんフローラちゃんはしばらく目覚めないと思いますが、心配しないでください。別に病気とかではないのですから。それと、ハシリウスは夕食までにはお返しします」


ハシリウスは、フローラを抱えてジョゼたちの部屋まで運ぶと、そのままソフィアと一緒に空飛ぶマットでヘルヴェティカ城に向かった。道すがら、ソフィアはハシリウスの肩につかまったまま、終始無言であった。

ソフィアは何を感じ、何を考えているのか、ハシリウスは何度か聞こうと思ったが、思索の邪魔をしちゃ悪いと思い直した。ハシリウスの肩につかまるソフィアの小さな手は、時に震えたり、時にハシリウスの肩をギュッとつかんだりしており、その動きから、ソフィアの不安や心の動揺を推測することは容易だった。

やがて、お城も近くなった時、ソフィアはハシリウスの肩に自分の頭を寄せてきた。ソフィアの髪からは、ジョゼとはまた違った甘い香りがすることに、ハシリウスは気付いた。

「ソフィア、君は何を考えているんだろうか?」

ハシリウスが言うと、ソフィアは首を振って、ハシリウスの耳元でささやいた。

「まだ、私も確証があるわけではありません。でも、ハシリウスの身に良くないことが起こりそうな予感がしてたまらないのです。だから、悪いとは思いながらもあなたとフローラちゃんを引き離しました。これは、別に私の嫉妬とかではありませんよ?」

「悪いこと? でも、ソフィア、僕は別にフローラからは特別なものは感じないが?」

ハシリウスが言うと、ソフィアもうなずく。

「ええ、別に『闇の使徒』たちの手先とか、そういうのではなさそうです。ただ、魔法使いとして考えた時、あなたの魔力とあの子の魔力が、妙に似てることに気が付きました」

「魔力が似ている?」

ハシリウスが聞く。

「はい。魔法の波長と言いますか……」

ソフィアがもどかしそうに言う。ソフィアでも、適切な比喩ができないのであろうか。

「で、それがどうしたっていうんだい?」

ハシリウスが訊く。ソフィアは何も言わずにただ首を振った。

やがてお城が近くなり、ハシリウスはソフィアの言葉に従って、マットをソフィアの部屋のバルコニーに横づけにした。

「さ、どうぞ。ハシリウス」

ソフィアがそういうのに、ハシリウスはちょっとためらった。いかに自分がソフィアの友だちだからって言ってこんなところからソフィアの部屋に直接入ってしまっていいのだろうか?

「なあ、ソフィア。僕、やっぱりお城の受付を通して、この部屋にやってくるよ。でないと、なんかソフィアが疑われるよ?」

ハシリウスがそういうのに、ソフィアはかわいらしい笑みを浮かべて言う。

「大丈夫です。じいやにお願いして、門衛さんやお母さまに知らせていただきますから。さ、どうぞ」

「そうかい? じゃあ、お言葉に甘えて……お邪魔します」

ハシリウスは、そう言ってマットをバルコニーに止めると、おっかなびっくりソフィアの部屋に入った。ソフィアの部屋は、普通の女の子のような部屋だった。ハシリウスが想像していた、天蓋付きのベッドとか、鏡がやたらとたくさんあるとか、そういった部屋ではなかった。しかし、ソフィアの性格そのままに、きちんと片付いて、そして本がたくさんあった。

「ハシリウス、ちょっと待っててくださいね」

ソフィアは、ハシリウスをソファに座らせると、自分は本棚の前で何かの本を探し始めた。

「ねえ、ソフィア」

「何、ハシリウス?」

ソフィアは本の背表紙を一心に見つめながら言う。

「いったい何冊本があるんだい? この本、全部読んだの?」

「もちろん、せっかく買ったのに、読んであげないとね。そうね、5000冊はあるかしら」

ハシリウスは感心していう。

「すごいなあ、図書館にいるみたいだ」

「これでも、だいぶ整理したのよ……。あった、この本よ」

ソフィアが分厚い本を取り出す。その本の表紙には、『谷の伝承』と書いてあった。

「この本は、今から120年くらい前に、マトリウス・ファン・ペンドラゴン伯爵が書いた本です。ハシリウスのご先祖様ですね」

そう言いながら、ソフィアはハシリウスの隣に腰かけて、ページをめくり始める。ソフィアは自分の部屋にいるという安心からか、肩と肩がふれあうくらいハシリウスに身体をぴったりと寄せている。

ハシリウスは、今までソフィアの体臭をこんなに近くで感じたことがなかったので、その甘い香りで脳がしびれそうになる。

「あ、あのさ……ソフィア?」

ハシリウスが顔を赤くしながら言う。

「なあに? ハシリウス」

ソフィアがハシリウスの方を向く。今までにないくらい二人の顔が接近していたため、ハシリウスは思わずのけぞった。ソフィアの銀色の瞳が丸くなる。

「どうしたの、ハシリウス?」

「い、いや、こんなに近くでソフィアの顔をマジマジと見たことなかったから、なんかドキドキしてさ……やっぱりお前、可愛いな」

「ま、ハシリウスったら。おだてても何も出ませんよ」

ソフィアは頬を染めてそう言うと、少し真面目な顔に戻って、

「ここです。この伝説を読んでみてください」

ソフィアが指し示すページには、『木々の妖精――妖精との契約』と書いてあった。ハシリウスは本を手にして読みだす。

――木々の妖精は、特に若い男性が好きで、自分と魔力が似ている男性から魔力を吸い取り、その若さを保っている。そうするために、妖精はしばしば、若い男性との間に“妖精の契約”を結ぶことがある。これは、男性の魔力と引き換えに、自分の能力を与えるもので、契約の終了は男性の死でもって終わることが多い……。

おおよそ、そう言うことが書いてあった。

「でも、ソフィア、フローラがこの“木々の妖精”である証拠はないぞ」

ハシリウスが少し憮然として言う。ソフィアはうなずいた。

「はい、証拠はありません。でも、鍵がかかっていたあなたの部屋に入り込んだことといい、彼女から感じる気と言い、私にはフローラちゃんが人間だとは思えません」

「仮にそうだとしても、僕は彼女と何にも約束していない……」

「でも、彼女はハシリウスのことを知っていました。そしてすごく懐いています。ハシリウス、何か心当たりはありませんか? ハシリウスはとても優しいから、何か彼女を助けたとか……」

ソフィアがそう問いかけた時、ドアが荒々しく開けられて、衛兵たちがなだれ込んできた。

「何事ですか!」

ソフィアがびっくりして立ち上がるのに、衛兵の司令が敬礼して言う。

「はい、女王様のご命令により、ソフィア殿下の部屋に無断で侵入した不埒者を逮捕いたします」

「え?」「へ?」

ソフィアとハシリウスがそう言ったと同時に、衛兵司令が命令した。

「不埒者を逮捕せよ!」

「わ! ちょっと、ちょっと待ってくれ!」

ハシリウスは、衛兵たちに強引に立たされ、縄でぐるぐる巻きにされながら言う。ソフィアもびっくりして、衛兵司令に言う。

「ハシリウスは私の友だちです。私がハシリウスを直接この部屋に招き入れたのですから、そんな無体なことはしてはいけません。衛兵司令、ハシリウスの縄をすぐに解きなさい!」

その時、ソフィアに、

「ソフィア姫、それはいけません」

そう言って、衛兵たちの後ろから現れた男性がいる。

「お父様……どうしてですか? ハシリウスは何もしていません。ここに彼がいるのは、私が直接入ってくださいと言ったからです」

ソフィアの父・ヒュアキントスは、優しい目を娘にあてて言う。

「ソフィア姫、私もあなたとハシリウスくんの仲を知らないわけではないのだが、今、姫に関するよくない噂が流れているのです。姫とハシリウスくんは、すでにただならぬ仲になってしまっているという……。ハシリウスくん、私も君を信じていないわけではないが、今日みたいに姫の部屋の窓から入るのを見てしまったからには、その噂の真偽を確かめねばならない。何せ、この国の女王は、結婚までは純潔でいなければならないという決まりがあるのだからね」

「お父様、私は誓ってハシリウスとはそんな関係ではありません。ハシリウスもちゃんと私のことを大事にしてくれています」

ソフィアがそういうのに、ヒュアキントスは気の毒そうに笑って言った。

「女王陛下は、ご立腹だった。姫とハシリウスくんとで、直接、陛下に釈明するといい。ハシリウスくん、大丈夫だ。私は君を見て、この噂は何かの間違いであることを確信している。私からも陛下に話しておくから、君たちは胸を張って、自分たちの日ごろの付き合い方を説明して差し上げるといい」


エスメラルダ女王は憂鬱だった。自分が愛娘の婿にと望み、目をかけていたハシリウスが、王女とただならぬ関係――王女がハシリウスとすでに身体の関係までできている――そういった噂が広がってしまったからである。

ヘルヴェティア王国が女王制を取っているのは、女性の方が大きな魔力をその身に宿すことができるから、という理由のほかに、この国の守護神たる女神アンナ・プルナの声を聴くことができるのは、特別な場合を除き女性に限られるという理由からである。そのため、少女の時代にはその処女性をもって女神アンナ・プルナに仕え、女神の言葉を聞くという仕事がある。

王女が大人になって結婚したとしても、『女神の祝福』という儀式に基づいて婚姻し、初夜を迎えたならば、処女性が損なわれず、女神の声を聴くことができるのである。

しかし、『女神の祝福』なしの婚姻は、そのまま処女性の喪失と女神の声を聴くための資格の喪失を意味する。女神の声が聞けない王女は、女王となる資格をなくしてしまうのである。

そのため、それとなくソフィアとハシリウスを見張らせていたが、今日は二人で仲睦まじく空飛ぶマットで城に乗り付け、しかも王女の部屋に窓からそのまま入ってしまった――そういう報告を受けたエスメラルダは、

「窓から男性を招き入れるなど、間男のようではないですか! 私はソフィア姫をそんなはしたない娘に育てた覚えはありません! すぐにハシリウス共々この場に引き立てておいで!」

と、激昂して衛兵司令に命令したのである。

「ハシリウスを連れてきました!」

衛兵司令の声がする。エスメラルダが

「すぐに私のもとに連れておいで!」

そういうと、縄でぐるぐる巻きにされたハシリウスが引っ立てられてきた。ソフィアも顔を赤くしてそれに続いている。

「坐れ!」

衛兵司令はハシリウスを蹴り飛ばす。ハシリウスは縄に縛られたまま、床に転がった。手が使えないので無様に顔から倒れこんでしまい、おかげでハシリウスは鼻血を出してしまった。

「ハシリウス! 大丈夫?」

ソフィアがハシリウスを助け起こし、自分のハンカチで鼻血を拭いてやる。それを見つめていたエスメラルダは、ソフィアに命じた。

「姫、ハシリウスから離れなさい!」

「お母さま、私は誓ってハシリウスとやましいことなんてしていません!」

ソフィアのそういう言葉も無視して、女王は繰り返す。

「ハシリウスから離れなさい!」

「でも……」

なおも何か言おうとしたソフィアに、ハシリウスが言う。

「大丈夫だ、ソフィア姫。これ以上陛下に口答えするんじゃない。離れて、僕は大丈夫だから」

そう言って、縄目のまま座り込んだハシリウスに、エスメラルダは訊く。

「ハシリウス、私はあなたをソフィア姫の婿にしたいと考えています。しかし、あなたはソフィアの純潔を奪ったと噂されています。それは本当ですか?」

ハシリウスはニコリと笑って答える。

「女王陛下、僕みたいな者をソフィア姫の婿にと仰っていただけるのは、望外の幸福ですし、恐懼の至りです。ソフィア姫は一女性として見ても素晴らしい方ですし、僕自身ソフィア姫に対して女性を感じてしまうこともあります。しかし、王女様としてソフィア姫が受け持たれている役割を知らないわけではありませんし、僕のような者の恣意で王女様の純潔をどうこうすべきではないことは、重々承知しているつもりです」

ハシリウスの言葉を目を閉じて聞いていたエスメラルダは、優しい声でハシリウスに訊く。

「ハシリウス卿、私もあなたを信じたいのですが、王女の純潔についてとかくの噂が立ったからには、捨ててはおけません。王女が純潔であることを証明できますか?」

「お母さま、私、診察でもなんでも受けます」

ソフィアは顔を真っ赤にして言う。診察はとても恥ずかしい、でも、ハシリウスの潔白を証明するには、それしかない――ソフィアはそう、覚悟を決めていた。

しかし、ハシリウスは笑みを絶やさずに、はっきりと答えた。

「できます。僕は、以前、ソフィア姫を救い出すために、女神アンナ・プルナ様と正義神ヴィダール様との間に、“時の黙契”を結んでいます。ここで女神さまに黙契の内容を証明していただきます」

そういうと、目を閉じ、心を静めて、呪文を唱え始めた。

「イル、ジンド、ウェーメルンツェン、ナーハ、アンナ・プルナ、イム、シュバルツ、イム、レイエス――わが敬愛する女神アンナ・プルナよ、あなたの手を借りてハシリウス・ペンドラゴンと正義神ヴィダールとの間で結ばれし“時の黙契”を再び確認す。願わくば黙契の内容を明示し、ハシリウスの記憶を新たにせんことを!」

すると、虚空に女神の使いである『月の乙女』が顕現し、ハシリウスに伝えた。

「正義の神ヴィダールとハシリウス・ペンドラゴンとの間の黙契をここに確認します。『ハシリウス・ペンドラゴンは、ジョゼフィン・シャインとソフィア・ヘルヴェティカの純潔を、その命に引き換えても守ることを契約する。ハシリウスが力及ばず、二人のうちいずれかの純潔が奪われた場合、正義の神ヴィダールは、その名にかけて純潔を奪った相手に対し一族壊滅の報復をなすことをここに宣言する』――以上です。黙契の内容を切り替えますか?」

ハシリウスは首を振って答える。

「私、ハシリウス・ペンドラゴンは、“大いなる災い”が終焉するまで、その黙契を有効とすることに同意する――正義神ヴィダール様にそう、お伝えください」

「承知しました。ヴィダール神は、いつもあなたが心にかけている乙女たちをお守りになることでしょう」

『月の乙女』ルナは、にっこり笑ってそう言うと、ソフィアの顔をじっと見つめて、

「ソフィア、『大君主』ハシリウスの黙契は以上のとおりです。あなたの気持ちもあるでしょうが、しばらくお待ちください」

そう言うと、虚空に消えて行った。

「……ハシリウス卿、あなたの気持ちは分かりました。やはりあなたは私が見込んだだけのことはあります」

やがて、安堵の吐息とともに、エスメラルダはハシリウスに言う。

「……誤解を解いていただけたのなら、別になんてことはありません。ソフィア姫に恥ずかしい思いをさせるわけにはいけませんから」

ハシリウスの言葉で気が付いたエスメラルダは、ソフィアに向かって言った。

「ソフィア、今回は私もあなたを信じなければならなかったのですが、あなたの大切なハシリウス卿に縄目の恥を受けさせて、すみませんでした」

「いいえ、お母さま。私こそ、ハシリウスを窓から部屋に入れるなんてはしたない真似をして、すみませんでした」

ソフィアがそう謝ったとき、星将シリウスが顕現して、ハシリウスに言った。

「ハシリウス、『太陽の乙女』が危ない!」

「なにっ!?」「えっ?」

ハシリウスとソフィアが同時に叫ぶ。

「光の精霊レイよ、わが戒めを解き放て!“月の波動”イム・マイン!」

ハシリウスがそう言うと、ハシリウスを縛っていた縄が文字通り砕け散った。

「女王様、すみません。急ぎますので失礼いたします!」

ハシリウスはそう言うと、星将シリウスとともに部屋を出て行った。

「お母さま、私も行ってよろしいですか?」

そういうソフィアに、エスメラルダは微笑みかけた。

「行ってらっしゃい。ただし、あなたは学園寮まで馬車でお行きなさい」

「はい。お母さま、行ってまいります」

ソフィアが出て行った後、エスメラルダは茫然としている衛兵司令に笑って言った。

「衛兵司令、あなたの自慢の“冥界の呪縛”も、ハシリウス卿には効きませんでしたね」

「は、はい……彼はこういったことができるのに、なぜ、おとなしく縄目のままでいたのでしょう?」

首を傾げる衛兵司令を見ながら、エスメラルダはつぶやいた。

「この能力、ソフィアへの思いやり、そして私へのこの忠誠……ハシリウス卿は本当にわが婿殿にふさわしい方ですね……」


女子寮では、ジョゼが、フローラの寝顔を見つめながら考え込んでいた。

――この子がハシリウスを思う気持ちって、恋する乙女の気持ちなのかなあ? それとも、何か別の思いがあって、ハシリウスに懐いているのかな?

ジョゼは、子供っぽくて、でも、時にジョゼすらもドキッとするくらいに大人びて見えるこのフローラという少女は、何者なのだろうかと不思議に思っていた。

――そう言えば、ハシリウスは、この子が現れた晩は、ドアも窓も鍵をかけて寝たと言っていた。鍵がかかっている部屋の中に、この子はどうやって入ったんだろう?

ジョゼがそのことに思い当たった時、ふと、感じることがあった。

――ひょっとして、この子は、精霊か妖精か……とにかく、人間じゃないのかもしれない。

ジョゼがそう思った時、突然、フローラが目覚めた。

「ハシリウスは?」

「あ、ああ、ハシリウスは用事でお城に行っているんだ。もうすぐ帰ってくると思うよ」

ジョゼがそういうと、フローラは突然震えだした。顔色も青くなり、毛布をしっかりと握りしめて、ぶるぶると震える。

「ど、どうしたのさ! 大丈夫かい?」

突然の豹変に、ジョゼがそう言ってフローラのそばに寄った時、フローラはつぶやく。

「怖い……怖いよう……何かが来るよう……」

「え?」

その言葉を聞いて、ジョゼは反射的に身構え、当たりの気配を探った。『闇の使徒』たちが来たのかと思ったのだ。

「怖いよう……ハシリウス、助けて……あたしを守ってくれるって約束したじゃない……」

「ハシリウスと約束したの?」

ジョゼが訊くが、フローラはそれには答えずにつぶやき続ける。

「ハシリウス……5年も待っていたんだよ……ハシリウス……早くあたしのところに来てよ……」

「5年?……」

ジョゼがその言葉を聞きとがめた。5年……どういうことだろう? 5年前ならまだボクとハシリウスは『ウーリの谷』で中等部に通っていた。ボクはずっとハシリウスと一緒に暮らしていたけれど、ハシリウスがこんな少女と出会ったっていう覚えがない……。

ジョゼはそう考えながらフローラを見つめている。その目の前で、フローラの容姿が変化した。

「フローラ……ちゃん?」

フローラは、光に包まれて、まるで蝶がさなぎから羽化するように、その姿を変えた。今やフローラは13歳ではなく、ジョゼたちと同年代、いや、少し上かもしれないくらいの妖艶な美女になっていた。

その時、ジョゼの背筋に悪寒が走った。

「こんなところにいたのか、妖精の王女よ」

「! あんた、誰?」

ジョゼは、不意にドアのところに現れた老人に、そう問いかけた。老人は、灰色のマントで身を包み、灰色のフードを目深にかぶっているため、その目は見えないが、口元の皮肉そうな笑いと言い、その雰囲気と言い、自分たちに害を与えるために出現したものと確信した。

「お嬢さん、あなたには何もしないよ。そっちの妖精の王女を渡してもらいたい」

老人は、ぞっとするような声で言う。

「あ、あなたは……ルモール!」

フローラがおびえたような顔でいやいやをする。ジョゼはとっさに決心した。

「『太陽の乙女』よ、女神アンナ・プルナの名において、われに大君主を守護する力を与え、悪しき者どもを打ち払わせたまえ!」

ジョゼはそう言って『太陽の乙女』を召喚しようとした、すると、老人は目に見えぬくらい素早く動き、ジョゼの腹に深々と剣を突き立てた。

「うぐっ!」

「じ、ジョゼさん!」

フローラが叫んだ。

「ふん、貴様が『太陽の乙女』だったのかい。ちょうどいい、仲間たちの仇だ。妖精の王女共々、ここで死んでもらおう」

老人はゆっくりと剣を逆手に持ち替える。ジョゼは、目を閉じて観念した。もうだめだ――ジョゼは自分の身体が切り裂かれる痛みに耐えようと身構えた。

「な……」

「?」

ルモールの絶句したような声に、ジョゼは恐る恐る目を開けてみた。すると、長い銀髪、鋭い黒い瞳、白銀の衣に群青色のベルトを締め、銀の手甲と脛当てを着けた若者の姿……星将シリウスが、その蛇矛でルモールの剣を受け止めているのが見えた。星将シリウス……ありがとう……ジョゼはそのまま気を失った。

「き、きさまは闘将筆頭シリウス……どうしてここに?」

「『闇の使徒』よ、『太陽の乙女』は死なせるわけにはいかぬ」

「くっ! シリウス、後日再戦だ!」

ルモールはそう言うと、虚空に消えて行った。

「やはり、お前は妖精の王女だったな……」

星将シリウスがフローラを見てそう言うと、フローラはほっとした表情で言う。

「ジョゼさんが『太陽の乙女』? では、ハシリウスは……」

「ハシリウスは『大君主』となるべき運命を持っている。そなたとハシリウスがその昔どのような約束をしたのかは知らぬが、ハシリウスは我々星将と共に、この世の正道のために戦わねばならない」

そう聞くと、フローラはゆっくりと顔を伏せた。

「そう……ですか。ハシリウスが『大君主』に……」

その時、ドアの向こうで、

「ジョゼ、フローラ、無事か?」

と叫ぶハシリウスの声が聞こえた。フローラははっとする。

「妖精の王女よ、そなたは何か問題を抱えていると見た。少し我ら星将と話をせぬか? ハシリウスには私から説明しよう」

星将シリウスがそう言うと、フローラは首を振った。

そこにドアを開けてハシリウスが入って来た。お腹を血で染めて気を失っているジョゼを見て、ハシリウスが固まる。

「ジョゼ……」

ハシリウスはそうつぶやくと、星将シリウスを見て、そしてすっかり変貌したフローラを見た。フローラがハシリウスに、

「すみません、『大君主』様。私のせいで、あなた様の大切な『太陽の乙女』が傷つけられてしまいました」

そう謝る。ハシリウスはその顔に何か深い悲しみを見たのだろう、フローラには何も言わず、ジョゼを抱きしめる。そして、耳元で呼びかけた。

「ジョゼ、ジョゼ、しっかりしろ。僕だ、ハシリウスだ」

ジョゼはハシリウスの声を聞くと、ぱっちりと目を開けた。

「あ……ハシリウス……ボク、まだ生きているんだ……」

「もうしゃべらなくていいぞ。傷は浅い、血止めをするから待っていろ」

ハシリウスは、深く傷ついているジョゼのお腹を見て、眉をひそめる。かなりの出血である。とりあえずハシリウスは魔法を使った。ハシリウスは、傷がよく見えるようにジョゼの制服をまくりあげようとした。ジョゼは少し恥ずかしそうにハシリウスに抵抗したが、ハシリウスが

「ジョゼ、少し我慢してくれ。僕だってお前に恥ずかしい思いはさせたくないけど、これをしないとお前の命にかかわる」

そう言ったので、あとは成すがままにされていた。

ハシリウスが“リヒト・ヒール”という光の癒し魔法で止血を終わったとき、ソフィアが到着した。ジョゼの状態を見てこれも固まったソフィアだが、ハシリウスから医務室のジェンナー医師を呼んでくるように頼まれたため、あたふたと医務室へと駆けて行った。

「さて……」

ハシリウスは鋭い目をフローラに向けて言う。

「どういうことか、説明してもらいたい。フローラ」

★  ★  ★  ★  ★  ★  ★  ★

一方、こちらはヘルヴェティカ城の閣議室である。エスメラルダ女王のもとに、大賢人ゼイウス、大元帥カイザリオンの二重臣と、国一番の賢者であるセントリウスが集まっていた。

セントリウス・ペンドラゴンは、ハシリウスの祖父で、10年ほど前までは筆頭賢者として王宮に仕えていた。彼は他の魔術師とは違い、星読師として12人の星将――星の力をまとった戦神――を操り、時には星々の運行すら変えてしまうほどの力を持つ星読師だった。

「話というのは、ほかでもありません。先ごろからわが王女に関して、芳しくない噂が流れていました。本日、噂の相手であるハシリウス卿に直接、事実関係を確認しましたが、噂は事実無根であることが分かりました」

エスメラルダが言うと、国政を司る大賢人ゼイウスが口を開いた。

「ハシリウスは、そのようなことができる人物ではありません。彼は、自分が置かれている立場を誠実に理解し、その与えられた運命に正直であろうとしています。私は、その噂の出所が分かれば、王女様の名誉を傷つけた者や、その狙いが分かるような気がいたします」

「その噂の狙いは、ハシリウスだったのでしょうか? それとも王女様だったのでしょうか?」

国の軍事面を一手に司る大元帥カイザリオンは、右手を顎にあてながらそう言う。

「ハシリウスが狙いだったとすれば、相手は『闇の使徒』でありましょう。しかし、王女さまが狙いだったとするとことはややこしくなります」

大賢人ゼイウスは、そう言って、何か聞きたそうにしている女王にうなずいて続ける。

「……と言いますのは、王女さまが狙いだったとすると、それは王女様の王位継承権を喪失させることが狙いだったということになります。それで利益があるのは王位継承権が2位以下の方々です」

「……ゼイウス、それではまるでアルテミスが王位を狙ったように聞こえますが?」

女王の言葉に、ゼイウスは深くうなずく。

「そこなのです。王位の継承権をお持ちなのは、王女さまと、女王陛下の姪であるロード・アルテミスしか、この国にはおりません。しかし、日常のロード・アルテミスの振る舞いや性格を考えると、ロードが女王位を狙ったとは、にわかに信じがたいのです」

「そうですね。私も、大賢人殿の意見に賛成です。ロード・アルテミスは、陛下のことを深く慕っていますし、先代の『花の谷』のロードであったバルデール卿と陛下の仲睦まじさはよく知っていますから。昨年のクロイツェン軍の『ウーリヴァルデン』侵攻の際も、ロード・アルテミスは自ら軍を率いて『ウンターヴァルデン』の境まで出陣していますし」

大元帥カイザリオンがそう、付け加える。

「……セントリウス猊下、あなたなら、どう見られますか?」

エスメラルダが、目を閉じて何事かを考えているセントリウスに、そう訊いた。セントリウスは眼をゆっくりと開けて言う。

「まず、私が申し上げますことに、驚かれてはいけません」

「猊下が申されることは、必ず何かの理由がおありでしょう。まずお話をお聞きしないと」

エスメラルダがそう言って先を促す。

「この噂は、間違いなく『闇の使徒』が流したものです。理由はただ一つ、このヘルヴェティア王国を転覆させたいがためです。しかし……」

「しかし、何でしょうか?」

エスメラルダが訊く。

「アルテミス卿は、本当にこの国の王位を欲しがられていないのでしょうか?」

「何を申されますか? アルテミス卿の忠誠心は私がよく知っています。卿はこの王国に忠誠です」

エスメラルダが言うのに、セントリウスはその鋭い黒曜石のような眼を輝かせて、

「私が星を見まするに、女王陛下の星がいつもより輝きを失っています。また、西の方に星々が集い、『花の谷』の方向に凶星が見えます。これは、女王陛下に対して何かをたくらむものが西にいることと、『花の谷』に何事かが起こりつつあることを示しています。陛下、近頃、アルテミス卿は参内なさいましたか?」

そう訊くと、エスメラルダは、

「いいえ、アルテミス卿は昨年の土風の月に領地に戻って以来、こちらに顔は見せていません。しかし、先に大元帥が申した通り、ネストル卿とともにクロイツェンと戦うために出陣はしています」

そう言った。

「陛下、このような噂が広まるときは、だいたいにおいて君臣の心が離れた時です。クロイツェンは人の心の闇に入り込み、その弱さに付け込みます。まず、『花の谷』へ誰かを遣わし、アルテミス卿の状況をお問いになり、卿が何か心に秘めているものがありましたら、それをお聞きになることです」

セントリウスがそう言う。ゼイウスはそれに賛成した。

「『闇の使徒』たちが出てきているのであれば、こちらとしても隙は見せられません。猊下の仰るとおり、アルテミス卿と話し合う機会を作られるのが一番かと思います」

「では、ご苦労ですが、アルテミス卿の様子を伺いに、ネストル長老に行っていただきましょう」

エスメラルダはそう言って、遠くを見つめるまなざしをした。

★  ★  ★  ★  ★  ★  ★  ★

「私は、『花の谷』に住まう『木々の妖精』の王・バウムフィーゲルの娘で、フローラと言います」

ジョゼが医務室に運ばれた後、ハシリウスとソフィアは、星将シリウス立会いの下でフローラと話をしていた。フローラは、今はジョゼやソフィアと同じくらいの年齢に変わっていた。青いワンピースを着ていたのが、薄い緑色の着物に変わり、背中に垂れ下がる布が、まるで妖精の羽のように見える。

「私が、ハシリウスと初めて会ったのは、今から5年前の春の日でした」

「5年前の春……そうか! 中等部に進級して、ソフィアやジョゼたちと『花の谷』に行った時のことか」

ハシリウスは思い出した。それを聞いて、ソフィアも、

「そう言えば、あの時ハシリウスは、『花の門』に入ったっきり、3時間ほど行方不明になりましたね……。それで分かりました。やっぱりこれは『花の門』に伝わるセイレンの伝説に関係があるのですね? そして、フローラ、あなたがそのセイレンなのですね?」

そう言う。フローラは首を振った。

「『花の門』のセイレン伝説は、セイレンに魅入られた青年が魔力を奪われて死んでしまうというものですね。しかし、私たち草花の妖精は、そういったことはいたしません――」

そして、ハシリウスを愛おしそうに見つめて、

「あの時、ハシリウスは、ドラゴンに襲われた私を助けてくださいました。私が父の言うことを聞かず、『花の門』の出口にある『迷いの森』で遊んでいたときのことです。私たち草花の妖精は、ファイアドラゴンが苦手です。そのファイアドラゴンに、森の中でばったり出会ってしまったのです……」


ハァ、ハァ……フローラは突然現れたファイアドラゴンにびっくりして、お付きの者たちも振り捨てて『迷いの森』の中を逃げ惑った。ドラゴンは、フローラ一人を狙って、しつこく追ってくる。

『もうだめ、走れない……』

フローラがそう言った途端、木の根っこに足を取られて転んでしまった。その時、足首をひねったのだろう、痛くて立ち上がることもできなくなってしまった。

グアアアアア!

ファイアドラゴンは、転んでいるフローラを見つけると、喜びの雄たけびを上げた。そして、一息にフローラを飲み込もうと飛びかかってきた。その時である、

ドン! キシャアアアア!

大きな地響きとともに、ファイアドラゴンが悲鳴を上げて地面に倒れる。

『ねえ、君、早く逃げるんだ!』

『え?』

フローラは、声がした方を見ると、そこに同い年――13歳くらいの男の子がいて、フローラに手招きをしていた。

『あ、足をくじいちゃって……』

フローラがそう言うと、男の子は困ったように眉を寄せて、フローラのもとに駆け寄ってきた。

『ちょっとごめんね』

『あ、な、何するんですか?』

男の子は、フローラを横ざまに抱きかかえると、立ち上がろうとしているファイアドラゴンから死角になる木の根元までフローラを運んだ。

『あいつをここでやっつけとかないと、ずっと付け回される。君、ちょっとここで待っててくれないか?』

男の子はそう言うと、フローラの返事も待たずにファイアドラゴンのもとに戻って行った。フローラは恐ろしさもあるが、男の子が心配なので、木の陰からそっと様子をうかがった。

『さて、ファイアドラゴン、君は女の子を襲ったよね? 僕、そんなのは許せないんだ。悪いけどここで眠ってもらうよ。光の精霊レイよ、その神々しき姿をもちてわが前に立ちふさがる邪悪な者どもを成敗したまわんことを……リヒトボルゲン!』

フローラが驚いたことに、その男の子は大人の魔導士でも使うのが困難な、“光の攻撃魔法”を使った。男の子の光の矢は、見事にファイアドラゴンの眉間を突き刺した。

グウエエ……。

大きな地響きを立てて、ファイアドラゴンは倒れ、そして静かに光のちりとなって散ってしまった。

『大丈夫だった?』

男の子はフローラのところに戻ってくると、そう言って笑った。フローラにとっては、ドキッとするくらい素敵な微笑みだった。

『あ、ありがとう、助けてくれて……』

『いや、大したことないさ。それより、頼みがあるんだけど』

『何でしょう? 私ができることでしたら何でもいたしますが?』

『君は、この森に詳しいの?』

『はい、私はこの森を抜けた『花の門』に住んでいますので』

フローラが答えると、少年はうれしそうに笑って言う。

『そりゃあ都合がいい! 僕は一度でいいから『花の門』を見てみたいと思ったんだけど、この森の中で道に迷っちゃったんだ。君をこのまま背負って行くから、案内してもらえないかな?』

フローラは困ってしまった。人間は『花の門』には入れない。人間が『花の門』に入るためには、草花の妖精との契約が必要なのだ。でも……

『分かりました……あなたのお名前を、教えてもらっていいですか?』

フローラが言うと、少年は答えた。

『あ、まだ名乗っていなかったね、失礼しました。僕は、ハシリウス・ペンドラゴン』


「ハシリウス、名前を教えてしまったんですか?」

ソフィアが言う。しかし、ハシリウスは、

「う~ん、そんなこともあったかなあ……あんまり覚えていないんだ。『迷いの森』に入ったところで記憶が途切れていて、そのあとはジョゼたちに見つけられたところまで記憶が飛んでいて……」

そう言って首を傾げる。

「フローラさん、あなた方の言う“妖精の契約”とは、相手の男性に何かを守ってもらう代わりに、自分たちの力をその男性に与えるというものだと伺っています。とすれば、今、あなた方の『花の門』で、何かが起こっている……そういうことでしょう? ハシリウスの力が必要になったため、ハシリウスのもとに来たということですよね?」

ソフィアが言うと、フローラはニコリと笑ってうなずいた。

「さすがは『月の乙女』ルナです。そこまでご存じなのですね」

そう言って、フローラは自分たちの世界で起こりつつある出来事を話し始めた。


転の章 哀・フローラ


「困ったものじゃ……」

栗毛の馬の手綱を取りながら、ネストルはそうつぶやいた。

ネストル・アカイアクスは、今年65歳で、ロードとしては最年長であり、かつ、筆頭のロードである。彼は『下の谷』の領主で、同時に『下の谷』ヨーマンリー3万の指揮官でもあるとともに、王国では民生を司っていた。

頭髪はすでに銀色になっているが、その石色の瞳はまだ鋭く光り、見事な鬚髯をたくわえている。彼は戦場においてはいまだに敵から恐れられる存在であり、伝説の剣技である“星辰剣・陽炎の舞”が使えるただ一人の魔剣士であることでも有名であった。

その彼が、今回、ソフィアのスキャンダルの火元になったと思われる『花の谷』の領主・アルテミスのところに遣わされたのである。

ヘルヴェティア王国は、代々『風の谷』の君主を女王として奉っているが、『上の谷』『花の谷』『ウーリの谷』『下の谷』の5つの谷――地域が合同して君主制を敷く合同王国ともいうべき政体を取っている。もちろん、それぞれの谷に地方領主がおり、彼らが同時にヘルヴェティア王国の執政官として重きをなしている。

ヘルヴェティア王国独自の執政官としては、今年42歳の大賢人ゼイウスと、同い年の大元帥カイザリオンがいる。ゼイウスが筆頭の執政として国政全般を司り、カイザリオンはヘルヴェティア王国独自の正規軍である『レギオン』の総指揮官と、地方領主が召集する地方軍『ヨーマンリー』への指揮権を併せ持ち、軍事を総括する体制である。

ネストルの他には、『上の谷』の領主である37歳のアレス・ドーリアクス、『ウーリの谷』の領主である今年32歳のベレロフォン・ファン・イオニアクス、そして今年27歳で『花の谷』の領主でありながら王位継承権も持つアルテミス・ヘルヴェティカが、四人の卿として国政に重きをなしていた。

ネストルは、同じ地方領主として、また、隣の谷の領主として、アルテミスの父であるバルデールとも親しく付き合っていた。もちろん、アルテミスのことは、アルテミスがまだゆりかごの中にいた時からよく知っている。

「アルテミスは、王国を転覆させようなどと考える人物ではない。それはわしがよく分かっている。しかし、セントリウスは、何かアルテミスが王国に対して不満や不平を持っていないかと心配しているらしい……。セントリウスの星の見立てであろうから、そういう部分もあるのではないかとは思うが、それがどうして今回の事件につながるのだろうか?」

ネストルは、遠くを見つめながら、何十回目かの独り言をつぶやいた。

★  ★  ★  ★  ★  ★  ★  ★

「ヘルヴェティア王国の水源のほとんどは、『上の谷』ではなく、『花の谷』にあります。とりわけ、私たちがいる『花の門』は、水質がよい水がわきだす、王国で最も豊かな地域でもあります」

フローラは、まず、そう前置きして、

「その豊かな土地は、前領主であるバルデール様のご尽力のたまものでもありました。バルデール様は特に私の父・バウムフィーゲルを気に入られ、私たちの森を守るため、その魔力でもって『迷いの森』を創られたのです。心の悪い人間たちを、私たち精霊の森と泉に近づけないようにとのご配慮でした」

そう言って息をつく。

「アルテミス様は先代のバルデール様のご逝去に伴い、5年前、22歳でご領主になられましたが、それ以来私ともとても仲良くしていただきました。しかし、今年に入って、アルテミス様の様子がおかしくなりました。『迷いの森』の木々を伐採してみたり、妖精の泉から大量の水を汲み出して行ったりと、まるで私たちの精霊の森を消滅させようとでもされているかのような振る舞いだったのです」

フローラは、とても悲しそうな顔をした。

「それがなぜか、不思議に思った私たちは、アルテミス様の周囲を調べてみました。すると、アルテミス様のお側に、ルモールという『闇の使徒』がいて、アルテミス様を操っているということが分かりました。『闇の使徒』であれば、私たちの手に負える相手かどうかは分かりません。それで、昔のご縁を頼って、ハシリウス様にお願いしてみようということになり、私が遣わされたのです。ルモールの探索の魔力に引っかかることを恐れて、父王は私の記憶を一時的に消し、私をハシリウス様と最初に出会ったころの姿に変えてくださいました」

フローラはそう言って、ハシリウスを見つめ、静かに頭を下げて言う。

「お願いいたします、ハシリウス様。私たちの森と泉を守るために、そのお力をお貸しください」

ハシリウスがそれに答えようとした時、ソフィアがフローラに訊いた。

「ハシリウスとの“妖精の契約”は、今でも有効なのですか?」

「いいえ……今回のお願いは私がハシリウス様に純潔をお捧げすることによって契約となります」

それを聞いて、ソフィアは、

「あの……フローラさん、私は前に本で読んだことがあるのですが、あなたの純潔を捧げてしまったら、あなたは二度と妖精としては生きることができなくなりますよ?」

と訊く。フローラはさびしく笑って、うなずく。

「その通りです。しかし、覚悟はできています。ハシリウス様に助けていただいた5年前から、私はハシリウス様に純潔を捧げようと心に決めていました。今回のように、私たちの森と泉の未来がかかっているのであれば、私個人の命など、安いものではありませんか?」

「でも……」

複雑な表情でソフィアは何かを言おうとする。そこに、ハシリウスが口を挟んだ。

「フローラ、5年前に僕は君を守ることを約束したんだね?」

「は、はい……『いつの日か、今日のような困難が私を襲った時、助けていただけますか?』とお聞きしましたら『約束しよう』と言っていただきました」

「そうか……だったら、そのときの約束を果たさねばならないね。分かったよ、フローラ。僕でどれだけのことができるか分からないが、力を貸そう……ただし……」

ハシリウスが頬を赤くして言いかけると、フローラも頬を染めて言う。

「分かっています……今夜にでも……その……」

ハシリウスは慌てて言う。

「違うんだ、フローラ。そんなことをしたら、君が妖精でいられなくなってしまうんだろう? 君みたいな可愛い妖精がいなくなったら、バウムフィーゲル様もさぞがっかりされることだろうと思うんだ。だから、これは“妖精の契約”に基づくのではなくて、僕と君、ハシリウスとフローラの約束として遂行させてほしいんだ。それが条件だって言おうとしていたんだ」

ハシリウスがそういうのを聞いて、ソフィアはひそかにほっとした。と同時に微笑んだ。ハシリウスらしいなと思ったのである。

しかし、フローラが言う。

「相手が妖精の場合、“妖精の契約”なしで戦うのは非常にあなたに不利になります。私のことを心配していただくのはありがたいですが、大丈夫です。あなたと……その……したら、私は妖精ではなくて人間になってしまうということなのですから……」

「ハシリウス、『月の乙女』の前でこう言うのは可哀そうだが、この妖精の王女の言うとおりにしておいた方が無難だぞ。この戦いの状況は、お前自身の状況によって決まる。無駄な苦戦をしたくなければ、ありがたく妖精の王女と契りを結ぶといい。『月の乙女』よ、悪いが今回は俺はそれをハシリウスに勧めたい」

それまで隠形して話を聞いていた星将シリウスが、突然顕現して言う。それは、ハシリウスにとっても意外な忠告だった。

「星将シリウス、それはどういうことでしょうか? ハシリウスでは力が足りないとでもいうのでしょうか?」

ソフィアが、なぜか頬を染めて訊く。そんなソフィアに、星将シリウスは苦笑しながら言う。

「『月の乙女』よ、そなたたちの大君主が他の女を抱くのは、そなたたちにとって確かに気持ちがよいわけはなかろう。しかし、ハシリウスとこの妖精の王女と、魔力の質がとても似ている。おそらく、ハシリウスの魔力は木々の妖精たちには効かないか、効きすぎるかのどちらかだ。効かない場合も効きすぎる場合も厄介だぞ。特に、『迷いの森』に入ってしまったらな。悪いことは言わん、浮気とは違うのだから、今回は目をつぶっておけ」

言葉遣いと裏腹に、星将シリウスの目は真剣だった。その真剣さが、ソフィアのそのあとの言葉を奪った。しかし、ソフィアは考えたくなかった。たとえ妖精でも、ハシリウスが他の女の肌にふれるのは想像するだけでも嫌だ!

 ソフィアは、生まれて初めて『嫉妬が身を焦がす』という言葉が、文字通り心を焦がすものだと知った。だから、ハシリウスが次のように言わなければ、ソフィアは、ハシリウスがヴィダール神と結んだ“時の黙契”を無視して、『先に自分を』と叫んでしまうところだった。

「……星将シリウス、忠告はありがたいが、いくつかの理由で僕は僕のやり方で行きたい。それが無駄に苦戦をする道だとしても、フローラを犠牲にする方法は正しくないと思うんだ」

★  ★  ★  ★  ★  ★  ★  ★

「むっ?」

セントリウスは、隠棲場所である『蒼の湖』の畔に立てた小屋の中で日課の瞑想を行っていたが、不意にそう言って目を開けた。

「ふうむ……ハシリウスは自ら困難を選んだようじゃの……ポラリス、ポラリスはおらんか?」

「何でしょうか、セントリウス様」

セントリウスの声に、星将ポラリスが顕現する。ポラリスは女将とはいっても、12星将を統括する主将だ。白い衣に金のベルトを締め、豊かな金髪を無造作に後ろで束ねているが、その金の宝冠が彼女の威厳を醸し出している。

「ハシリウスは、“妖精の契約”なしに妖精軍と戦うことを選んだようじゃ」

渋い顔をして言うセントリウスに、星将ポラリスは薄く笑って言う。

「妖精の純潔を奪うと、その妖精は人間となり、2・3日で消滅してしまいます。ハシリウスはそのことを知っていて、妖精を哀れんだのでしょう。ハシリウスらしいです」

「妖精との戦いは、非常に苦しいぞ。そなたはハシリウスが心配ではないのか?」

セントリウスが言うのに、星将ポラリスは微笑みを絶やさずに言う。

「セントリウス様、ハシリウスはすでに星読師です。たとえ妖精軍がいかほど強かろうとも、星読師の魔力にかなうものはそうそういません。私はハシリウスの優しさと強さに期待します」

「ふうむ……そなたがそう言うのであれば、わしも心配はすまい」

「『花の谷』には、ネストルも行っています。ご心配であれば、デネブたちを遣わしましょうか?」

星将ポラリスの言葉に、セントリウスは少し考えてから言う。

「そうじゃな、では、デネブとベテルギウスにも行ってもらおうか」

「かしこまりました。では、そのように伝えます」

星将ポラリスは、微笑みながら隠形する。

「セントリウス」

ポラリスが隠形するのを待っていたかのように、金の巻き毛が美しい星将アークトゥルスが顕現した。

「なんじゃ、アークトゥルス」

「“妖精の契約”なしに妖精軍と戦うのは、いかにハシリウスでも自殺行為だ。相手がよいと言っているのであれば、“妖精の契約”を結ばせるべきだ」

アークトゥルスはそういう。しかし、セントリウスはニコリと笑って、

「それはその通りじゃ。そなたの言うことは正しい。しかし、ハシリウスはまだ17歳じゃ。それに、ジョゼフィン嬢やソフィア姫の手前もあろう」

「しかし、王女やそのご学友にしてもハシリウスが生きている方がよいに決まっているではありませんか?」

急き込んでいうアークトゥルスに、セントリウスは遠い目をして言った。

「そうとも限るまい……特に女子はな……」

★  ★  ★  ★  ★  ★  ★  ★

「ボクも行く!」

次の日、ハシリウスが『花の谷』に行くことをジョゼに伝えた時、案の定、ジョゼは開口一番そう言った。

「ジョゼ、それは僕だってお前に来てほしいけれど、そのケガじゃ無理だよ。ジェンナー先生もしばらくは傷口が開かないように安静にしとかなきゃって仰っていたし。今回は僕とソフィアに任せて、ゆっくりしていてほしいんだ」

「そうですよ、ジョゼ。せっかく体調も戻りつつあるのに、ここで無理をしたら元の木阿弥です」

心なしか嬉しそうにソフィアが言う。ジョゼはソフィアに意地悪く言った。

「そりゃあ、ソフィアは、ボクがいない方がうれしいだろうけどね……」

「え!? そ、そんなことはありませんよ……」

ソフィアは慌てて言うと、ジョゼの耳元で切り返す。

「ジョゼだって、年末年始はハシリウスと二人きりだったじゃありませんか。イブデリ村で何があったんです? あれからハシリウス、特にあなたに優しいですけど?」

「え? な、何もなかったよ。何かあったんだったら、ボクは今頃ハシリウスの婚約者さ」

ジョゼも小声で言い返す。

「とにかくジョゼ、今回は一緒に連れて行けないよ。何があるかもわからないし……だから、分かってくれ」

ハシリウスが困ったように言うのに、フローラが付け加える。

「私のせいで、すみません。『太陽の乙女』、あなたの分まで、私がしっかりとハシリウス様をお守りします。ゆっくりご養生なさってください」

「それが一番ボクにとって心配なんだよ。ハシリウスってニブチンのくせに女の子に優しくて、同情が横滑りするタイプだから……」

ぶつぶつ言うジョゼに、ソフィアはにっこりと笑って言う。

「それは大丈夫。私がちゃんと見張っていますから」

「そうか……お願いだよソフィア。それからハシリウス! キミはボクの胸を見たんだから、その責任とって無事に帰ってこなきゃダメだぞ。それから、フローラやソフィアにヘンなことしたら、ボクが許さないからねっ!」

「こらっ! 僕がいつお前の胸を見た?」

「昨日、ボクの手当てをするときに、必要以上にボクの制服をめくったろう? おまけにボクの麗しいお腹までさわりまくって! とっても恥ずかしかったんだからねっ!」

「そんなこと言われても……やれやれ、うっかり応急手当てもできないじゃないか」

ハシリウスがため息をつくのに、ジョゼは頬を染めて言う。

「そ、それは、ちゃんとお礼を言うよ。ありがとう、ハシリウス。でも、せっかくだったら勝負下着つけとけばよかった……」

あとはつぶやきである。

「ん?」

「何でもないよ! お利口にして、無事に帰っておいで」

「おう、お土産買ってくるな」

そう言って病室を出たハシリウスに、フローラが言う。

「ハシリウス様は、ジョゼさんのことが好きなのですか?」

「えっ! いや、特別ジョゼが好きとか嫌いとか、考えたことないなあ。どうしてそう思うのさ?」

「だって、とても仲がよさそうですから……なんだか妬けてしまいます」

しみじみとハシリウスを見て言うフローラに、ソフィアが

「そうですね、私もそうなんです。実はハシリウスとジョゼって、私たちなんかが入ることができないくらい、強く心と心で結ばれているような気がします」

そう言うと、ハシリウスが頬を染めて言う。

「それだったら、ジョゼももう少し僕に対して優しくしそうなもんだろう? なんだかなあ、ジョゼって素直じゃないからなあ……」

「それが女の子なんですよ……だったら、私がハシリウス様と“妖精の契約”を結ぶのは、確かにジョゼさんに悪い気がしますね……」

少し寂しそうにフローラが言う。ハシリウスは、おどけた表情で、

「いや、正直言うと僕だって女の子とそういうことするのって、すごく興味はあるんだ。でも、恥ずかしいって思うし、怖いって気もするし、女の子に対して責任が生じるだろう? その責任が取れるほどまだ大人じゃないし……ゴメン、フローラ、キスくらいならしてもいいけど……」

「ハシリウス~、ジョゼから怒られますよ!」

ソフィアが少し怒りながら、ハシリウスの耳をつねって言う。それを見て、フローラは何かに思い当たったかのように、急にくすくす笑い出した。

「わ! なんでそこでソフィアが怒るんだよ?」

「知りません! ハシリウスのえっち!」

「えっちって……べ、べつにソフィアにそういうことさせてって言ってるわけじゃないだろ?」

ハシリウスの言葉に、ソフィアが反応した。

「そ、それはそうですけど……」

――ソフィア、君ってとても僕好みの身体をしているんだ。だから、ね、いいだろ?

――え!? で、でも、私たちまだギムナジウムの修習生ですし……その……カラダ、だけですか?

――いや、君はとても可愛いし、気立てもいいし、僕のお嫁さんになってほしいんだ。ソフィア……愛してる。だから、いいだろ?

――え、で、でも、お、お母さまに怒られてしまいます。

――ソフィア、僕はもう我慢できないんだ!(ソフィアの妄想ではここで『ビリッ』という効果音が入る)

――あン❤ お洋服をそんなことしちゃだめ、だめですぅ❤ ハシリウスぅ~❤

――ソフィア、君の肌って、とても滑らかだ……それに、胸だって……きれいだよ。

――あ、そんなことしちゃだめ……だ、……。

「……だ、だめですぅ~❤」

ソフィアは顔を真っ赤っかにして、両のこぶしを頬にあてて……なんか、悶えてる……。

その様子を見ていたフローラが、目を点にしてハシリウスに訊く。

「そ、ソフィアさんは何か悪いものでも食べたんですか?」

ハシリウスははあっとため息をついて、

「いや、たまにソフィア、妄想が大暴走するんだ……」

そう言うと、おもむろにソフィアの両頬を両手で引っ張った。

「きゃん!」

ソフィアがそう叫んで、妄想から抜け出した。まだ顔は上気してボーっとしている。

「私、何かハズカシイこと言いました?」

「いや、見ててこっちが恥ずかしかった……今度はどんな妄想だったんだい?って、例によって話せないくらい恥ずかしい?」

「……分かってらっしゃるなら、訊かないでください」

そのやり取りを見て、笑っていたフローラが言う。

「ハシリウス様、あなたって、本当に幸せな方ですね。こんな可愛らしい恋人が二人もいらっしゃるなんて」

「え、こ、恋人だなんて……まだ僕たちはそんなんじゃないと思うけど……。でも、フローラ、その言い方じゃまるで僕が二股かけてるみたいじゃないか」

「……そうですね。ハシリウス様は、少し鈍くていらっしゃいますか?」

フローラが言うのに、ソフィアがうなずく。

「はい、とても鈍感な方です」

「わっと、ソフィア、ちょっとそれはひどいんじゃないか?」

ハシリウスはそう言って笑うが、急に真剣な表情になって言う。

「ねえ、フローラ。『闇の使徒』ルモールのことについて、君が知っていることを教えてほしい」

★  ★  ★  ★  ★  ★  ★  ★

「ヘルヴェティア王国から女王の使いとして、ネストル・アカイアクスがこちらに向かっています」

ここは、『花の谷』の主城であるローザンヌ城である。その一室で、城主であり、『花の谷』の領主でもあるアルテミス・ヘルヴェティカが、一人の老人と話をしていた。

「ネストルは、ヘルヴェティア王国きっての魔剣士。きっと女王の命を受けて、あなたの命を狙っているに違いありません」

老人は、アルテミスの顔を下から探るようにして見ている。アルテミスは、その報告を聞いて叫んだ。

「何故です! 私は陛下に恨まれるようなことはしていない。なのになぜ、私の命が狙われねばならないのです!」

そう言うアルテミスに、老人は深刻な表情で言う。

「アルテミス様、実は、ヘルヴェティア王国では、現在の王女・ソフィア姫について、ある噂が流れているのはご存知ですか?」

「? どんな噂ですか?」

「エスメラルダ女王が、『大君主』ハシリウス卿をソフィア王女の婿として迎えたがっていることはご存じでしょう?」

「ええ、そういった噂は聞いています。ハシリウスは、『火竜』サランドラを封印した英傑、私もいとこであるソフィアの夫としてハシリウスはふさわしいと思っています」

アルテミスは、一度、新年の祝賀会で会ったことがあるハシリウスの、子ども子どもした、それでいてはっとするほど大人じみた表情を見せる姿を思い出した。彼ならば、次の女王であるソフィアをリードし、この王国をさらに発展させるであろう――アルテミスは、少しの嫉妬とともにソフィアの幸せを喜んだ。

「そのハシリウス卿と、ソフィア殿下には、すでに身体の関係がある――という噂です」

アルテミスはびっくりした。そんなはずはない! ハシリウスは女性に対して奥手でありそうだし、ソフィアにしてもまだネンネであることは、ほかならぬアルテミス自身が知っている。

「誰がそのような無責任な噂を! ソフィアやハシリウスがそのような不埒なまねができるはずがありません。ルモール、誰がそのような噂を流したのか、分かりませんか?」

思わず声を大きくしたアルテミスに、ルモールと呼ばれた老人は冷ややかに言う。

「噂の出所は、アルテミス様、あなただということになっています」

「な、何ですって?」

「アルテミス様は、ヘルヴェティア王国の王位継承権第2位です。ソフィア王女にスキャンダルがあれば、あなた様が次期女王におなりになります。世人は、アルテミス様が王位を狙っているため、そのような噂を流したと言っております」

ルモールはそこまで一息に言った後、

「もちろん、このような噂をアルテミス様が流されるわけがありません。この噂を流したのは、今、こちらに向かいつつあるロードシェフ・ネストルその人でございます」

そう、驚くべきことを言った。

「何故です? なぜネストル様が私を陥れるような噂を……」

アルテミスは、脳天をぐわんと殴られたような感じがした。父のバルデールとも仲が良く、自分のことを実の娘のようにかわいがってくれたネストルが、なぜ?

「ヘルヴェティア王国の行く末を考えたのでしょう。ソフィア殿下にも将来の良き伴侶が見つかったことですし、ライバルになりそうな者は、今のうちに始末しておくに限る――そう言った配慮が、ヘルヴェティア王国の執政たちの中に生まれても、おかしくありません。その最初で最大の目標が、現陛下の姪であり、王位継承権を持つあなた様だったというわけです」

ルモールは、自分の言葉を放心したように聞いているアルテミスの状態を見つめながら、一語一語を叩きつけるようにしゃべっていく。そして、

「アルテミス様、この上は、ネストルを討ち取り、身の潔白を証明するしかございません」

そうささやいた。アルテミスはびっくりする。そんなことをしたら、逆にヘルヴェティア王国への反乱とも受け止められかねないではないか!

「ルモール、そのようなことをしたら、私はヘルヴェティア王国への反乱を起こしたと受け止められます。それはなりません! 父上も、わが家は女王陛下の最高の藩屏であるべきだと仰いました」

ルモールはそれを聞いて、薄く笑った。そして、その赤く怪しく光る瞳で、アルテミスの紫紺の瞳を見据えた。

「う、……」

アルテミスは、ルモールのその瞳にからめ捕られ、心が痺れたようになってしまう。ルモールはアルテミスが自分の催眠に十分にかかったことを確認すると、笑って言った。

「なんの、相手がレギオンならともかく、ネストルは自分のヨーマンリーを1000も連れてきてはいませんよ。討ち取ってしまえば、理由はなんとでもつけられます。まず、ヘルヴェティア王国第一の魔剣士・ネストルを討ち取って、その領地である『下の谷』にヤヌスル様やマルスル、イークを呼び込めば、この王国はわれらのものになるのですからな。では、アルテミス様、出陣のご命令を」


「やれやれ、もうすぐローザンヌか……」

ネストルは、額の汗を拭きならそうつぶやく。何度思っても、今回の任務は心が重くなる。何せ、相手は自分の盟友だったバルデールの娘だ。それを、事と次第によっては討ち取らねばならないような任務に就くとは……。

「父上、あまり気が進まないようですな……」

今回の任務につき従ってきた、今年30歳になる次男のペルセウスがネストルに言う。そのペルセウスにしても、今回の任務は心が重かった。実は、ペルセウスは密かにアルテミスのことを愛していたのである。

父の領地である『下の谷』は、兄であるアンティロコスが継ぐことになる。次男である自分は、小さい時から自分自身の手で将来を切り開かねばならないと覚悟していた。だから、アカデミーを出てすぐにレギオンに入り、各地を転戦してきた。『イスの国』の軍隊が、バルデール逝去という機に乗じて『花の谷』を狙って侵攻しようとした時、マスター・ペリクレスとともに『花の谷』を守り抜いたのが、ペルセウス最大の功績である。アルテミスとはその時出会い、父同士が盟友だったことや、親しく話をしたこともあり、以来、双方とも互いの存在を意識している仲ではある。

ペルセウスは勇猛果敢さと智謀を謳われ、マスター叙任の話まで出た。マスターになれば、完全な王国の臣であるが、それはネストルが認めなかった。ペルセウスの才能を愛でたネストルは、マスターの代わりに自分の『下の谷』のヨーマンリー1万を預ける将軍としたのである。

そのペルセウスは、いつまでも父や兄の厄介になるつもりはさらさらなかった。できればアルテミスの夫となり、アルテミスとともに『花の谷』を地上の楽園としてみたい――そんな希望がいつしか芽生えていたのである。

「うむ……。アルテミス卿とじっくり話ができれば、噂についてもはっきりしたことが分かるのだろうが……。おや、あれは……?」

ネストルがそう言って駒を止める。ペルセウスは思わず口走った。

「あれは、『花の軍団』……。どうして?」

ネストルは万一に備えて1000の軍を連れてきていた。しかし、今、ローザンヌ城から出てきた『花の軍団』――妖精兵たちによって構成された、ヘルヴェティア王国でも屈指の精強な軍――は、約5000はある。

『花の軍団』は、ネストル軍を包囲するような格好で軍を展開させた。ペルセウスが父をかばうように軍の先頭に出て言う。

「私たちは、陛下のご命令によりアルテミス卿に話があって参った者だ。『花の軍団』よ、何の用があってわが軍を阻む!」

すると、『花の軍団』からアルテミスその人が出てきて、ペルセウスに相対して言う。

「ペルセウス殿、私に何の話があるというのですか?」

「おお、アルテミス卿、久しぶりです。実は今、王国の中にソフィア姫に関する芳しくない噂が流れているのをご存知ですか?」

ペルセウスが言うと、アルテミスはうなずいて、

「知っています。ペルセウス殿、私はその噂については、ネストル卿が私を陥れるために、ソフィア殿下のスキャンダラスな噂を流したと聞き及んでいます。それは本当ですか?」

「な、何を言われる? 私どもこそ、その噂の真意を確かめに来たのだ。父上……ネストル卿も、アルテミス卿がそのような噂に関与しているとは信じてはおられない。アルテミス卿よ、われらを信じて話し合いをいたそうではないか」

ペルセウスはそう慌てて言う。それに、『花の軍団』団長である妖精王・バウムフィーゲルが姿を現して言う。

「ペルセウス殿、私たち『草花の妖精』は、妖精の森と泉を守りつつ、平和に暮らしてきた。しかし、ヘルヴェティア王国は我ら妖精族を絶滅させようという話が出ていると聞く。それは本当なのか?」

「ば、バカな! そんなことはありえない! 誰がそんな話をしたというのか?」

ペルセウスはそう言う。しかし、その時、アルテミスとバウムフィーゲルの間に、一人の老人が現れて言った。

「ふふふ……ヘルヴェティア王国の諸君よ、おためごかしを言うでない。先にはあらぬ噂を流してアルテミス様を罪に落そうとし、今回は妖精たちの住処を焼き払わんとして軍を出してきたことは、言わずと知れたことだ」

「な、なんということを! われらがそんなことをするはずがないではないか!」

ペルセウスが声を張り上げた時、突然『花の軍団』の団長である妖精王・バウムフィーゲルは大声で配下の兵士たちに命令した。

「妖精兵たちよ、あの若造の首と後ろの白髪首を奪い取れ! 突撃!」

バウムフィーゲルの命令一下、妖精兵たちは弓隊の援護のもと、一斉にネストル隊を攻撃し始めた。

「な、何をするか!?」

ペルセウスは、『花の軍団』から放たれた無数の矢をハルバートで跳ね飛ばしながら叫んだ。

「父上、早くお下がりください! 皆の者、父上を守って退けっ!」

しかし、その時すでにネストル軍は周囲から『花の軍団』によってもみくちゃにされていた。

「くそっ、アルテミス卿、あなたは……」

ペルセウスは、自分に向かって繰り出されてくる無数の槍衾を、ハルバートで防ぎながら、アルテミスの姿を探した。すると、アルテミスの隣に、赤い目を光らせた貧相な老人がいることに気づいた。

「あれは……うぐっ!」

ルモールに気を奪われていたペルセウスは、背後からの槍をよけることができなかった。

「妖精王・バウムフィーゲルよ、血迷ったか!」

ネストルは、白髯に風を呼んで、得物である大長刀を揮った。流石にヘルヴェティア王国でも一二を争う豪の者である、ネストルが大長刀を揮うたびに、妖精兵たちの首や手足が宙を舞う。

しかし、そのネストルも、ペルセウスが田楽刺しになるところを目の端でとらえ、

「ペルセウス!」

と、そちらに駒を向けた瞬間、鎧の胸に“花の征矢”が突き立った。

「ぐおっ!」

魔剣士ネストルといえども、不死身ではない。“花の征矢”はネストルの右胸を貫き、おびただしい血が噴き出てくる。

「それ、ネストル卿の首を獲れ!」

妖精王バウムフィーゲルがそう叫び、配下の妖精兵たちがネストルに飛び掛かろうとした時、

「待て! アルテミス卿と妖精の王よ! “リヒトバーン”!」

そう大音声が響き、ネストルに飛び掛かった妖精兵たちが、どこからともなく放たれた光の征矢によって一人残らずはじけ飛んだ。

「覚悟しな! 妖精の王よ!」

妖精兵たちの海をぶち割って現れた、長い銀髪、鋭い黒い瞳、白銀の衣に群青色のベルトを締め、銀の手甲と脛当てを着けた若者――星将シリウスが、バウムフィーゲルに蛇矛を突き出す。

「おおっ! 貴様は、闘将筆頭シリウス!」

バウムフィーゲルは、とっさに自分のハルバートで蛇矛を受け止める。そこに、

「お父様、すぐに兵を収めてください!」

フローラが、星将デネブとともにバウムフィーゲルに呼びかける。

「おお、フローラ。お前、無事だったか……」

思わずハルバートを引いて、バウムフィーゲルはフローラを見つめた。フローラは星将デネブとともにバウムフィーゲルのそばにやってきて、

「お父様、『大君主』ハシリウス様のお力をお借りすることができます。すぐに兵を収めてください」

そう、父にすがりついて言う。

「お父様、すべてはアルテミス卿のそばに仕える、あのルモールの謀略なんです。取り返しのつかないことになる前に、兵を収めて、ハシリウス様とともに『闇の使徒』からアルテミス卿を助けだしましょう!」

「な、何? では、アルテミス卿も騙されていると?」

「そうです。お父様、早く兵を収めてください」

フローラの必死の説得に、バウムフィーゲルは眼下で戦っている妖精兵たちの姿を見つめる。そうか、この戦いは、すべて敵に乗ぜられ、敵に謀られたのか……。

バウムフィーゲルが、兵を収めるために命令を下そうとしたその時、

「あっ!」

フローラが、突然、悲痛な声を上げて倒れた。

「どうした!」

バウムフィーゲルは、急いで愛娘を抱き起す。その手にべっとりと血がついていた。

「余計なことを……」

その声に、バウムフィーゲルが目を上げると、血塗れた剣を持ったルモールが立っていた。

バウムフィーゲルは、ゆっくりとルモールに言う。

「ルモール卿、これはどういうことだ? そなたがわしの娘を斬ったのか?」

ルモールは、さらに赤く光る眼をバウムフィーゲルに向け、

「その娘が余計な真似をしたのでな。そなたもわがクロイツェン王のしもべとなり、ヘルヴェティア王国の転覆に力を貸せ!」

そう叫ぶ。しかし、その叫びは星将デネブによって遮られた。

「この子はアンタなんかに渡せないよっ! “風の刃”!」

「おおっと!」

ルモールは、星将デネブの“風の刃”をかいくぐると、身軽にもそのまま後ろへと跳躍し、アルテミスのそばへ着地した。そして、

「妖精兵たちよ! そなたらの王は敵方に寝返った! もはやお前たちの王ではない! バウムフィーゲルを討て!」

そう叫んだ。すると、ルモールの身体から出る赤い禍々しい光が妖精兵たちを包む。妖精兵たちはまるで脳袋をつかまれたように、ひきつった目をして、妖精王に向かって突撃し始めた。

「おのれルモール、猪口才な……」

バウムフィーゲルが愛用のハルバートを執りなおして歯噛みしたとき、星将シリウスと星将デネブがバウムフィーゲルに言った。

「妖精の王よ。このままでは不利だ。とりあえずいったん退こう! デネブ、妖精の王女を頼む」

星将デネブは、血まみれのフローラを抱えると、うなずいた。


一方、ハシリウスは、“リヒトバーン”でネストルの危機を救ったが、

「くそっ! こいつらってば、魔法が全然効かないじゃんか!」

と、苦戦していた。ハシリウスは魔法は得意だが、剣技は人並よりちょっと上程度である。それでも、神剣『ガイアス』を縦横に振り回し、『月の乙女』ルナの協力もあって何とかネストルを守っていた。

「ハシリウス、ペルセウス殿は何とか救い出したぞ!」

向こうの方から、星将ベテルギウスの声が聞こえる。

「ああ、ありがとう、星将ベテルギウス。でも、何とかここから脱出しないと……うわっと!」

ハシリウスは、次から次へと襲ってくる妖精兵たちを何とかあしらいながら、逃げ道を探していた。

「ハシリウスよ、俺が道を開く。ついてこい!」

星将シリウスが、そばまで来て言う。にやりと笑った星将シリウスは、妖精兵たちの群れをにらみつけると、

「どけどけ! 星将シリウス様のお通りだ! 道を開けろ!」

そう叫ぶと、必殺の“煉獄の業火”を繰り出した。妖精兵たちは業火から逃げ惑ったり、業火によって消滅したりして、逃げ道が開いた。

「ついて来い!」

星将シリウスがバウムフィーゲルとともに走り出す。それにフローラを抱えた星将デネブが続き、ペルセウスを援護した星将ベテルギウス、ネストル、ルナ、ハシリウスと続いた。


ハシリウスたちは、とりあえず妖精王の本拠地である『花の門』に引き上げてきた。

背中から槍を突き刺されたペルセウスと、妖精兵の“花の征矢”を右胸に受けたネストルは、重傷ではあったが何とか命は長らえそうだった。しかし、フローラは……。

「ハシリウス、今回は危ないところだったが、何とか君のおかげで助かった。礼を言うぞ」

ネストルはその秋霜烈日のような石色の瞳に優しい色を浮かべて、ハシリウスに言う。ハシリウスは首を振った。

「セントリウスおじい様の盟友であるネストル卿と、そのご令息であるペリクレス様を無傷で助け出すことができませんでした。すみません、もう少し早く戦闘に参加できれば……」

そう言いつつ、ペルセウスを痛ましそうに見る。

「とにかく、アルテミス卿が本心からヘルヴェティア王国に反旗を翻しているのではないことは分かった。しかし、『花の軍団』が相手では、これだけの軍で戦っても勝ち目はない。しかも、わしもペルセウスも手傷を負っている。まずはいったん『下の谷』まで退き、軍を整えてから出直そう」

ネストルは、そう言うと、気丈にも立ち上がった。

「ハシリウス、私たちはいかがしますか?」

『月の乙女』ルナが訊いたとき、ドアが開き、妖精王の使いが現れた。

「ハシリウス・ペンドラゴン様、王がお呼びでございます。どうぞこちらへ」

その声に、ハシリウスはゆっくりと立ち上がると、『月の乙女』とともにバウムフィーゲルの部屋へと歩いて行った。

ドアを開けると、妖精王はベッドに寝かされた愛娘の手を握って、何事かを話しているようだった。

ハシリウスは、妖精王に小さな声で話しかける。

「王女様の具合はいかがですか?」

その声に、フローラの手をしっかりと握っていた妖精王は振り返り、首を振って小さな声で言った。

「ハシリウス様、もうあまり長く持たないと思います……せっかく来ていただきましたが……フローラがあなたに頼みたいことがあるそうです。どうかフローラの願いをお聞きください」

ハシリウスは、出血のためにげっそりとしてしまったフローラを哀しく見つめる。フローラの息はか細く、今にも絶えそうであった。

ハシリウスはフローラのベッドの横に腰かけると、優しい目で話しかける。

「フローラ……しっかりしろ。僕だ、ハシリウスだ」

「あ……ハシリウス……あなたは無事でしたか?」

ハシリウスは、差し伸べてきたフローラの手をしっかりと握ると、にっこりと笑って言った。

「僕は大丈夫だ。それよりフローラ、君こそ気をしっかり持つんだ。この森や泉を守るんだろう?」

ハシリウスの言葉に、フローラは首を弱々しく振る。

「……私……もう、だめです……」

「ダメなもんか! そんな悲しいこと言うな! この戦いが終わったら、君とデートしようって思ってるんだから……だから元気を出せ!」

ハシリウスの言葉に、ゆっくりと閉じた目から涙を流して、フローラが言う。

「優しい大君主……あなたに、私……お願いがあります……」

「何だろうか? 僕にできることなら、何でもしてやるぞ」

ハシリウスが言うと、フローラは青ざめた頬をかすかに赤くして言う。

「私、あなたに純潔をお捧げしたかった……5年越しの……恋です……」

そして、フローラは少し息を整える。

「でも、もう……それもできません……だから……最後に……」

「最後だなんて言うな! 元気になったら、いくらでも……」

「最後に……キス……してくださいませんか?……私の真実の名前を呼んで……」

フローラは、やっとそれだけ言うと、安心したようにホッとため息をつく。

ハシリウスは目を閉じた。フローラの真実の名前……5年前に聞いているのだろうが、記憶が飛んでいて思い出せない。しかし、早くしないとフローラが待っている。

「ハシリウス……お願い……乙女を待たせないでください……」

考え込んでいるハシリウスに、苦しそうにフローラが言う。その言葉で、ハシリウスは思い出した。


『ハシリウス様ですか……いいお名前です……』

5年前のフローラは、そう言うと頬をポッと染めて、琥珀色の目でハシリウスをじっと見つめて訊いたのだ。

『ハシリウス様、またいつの日か、私にこのような危難が起こったときは、私を助けてくださいますか?』

『ああ、約束するよ』

『うれしいです、ハシリウス様。では、誓ってくださいますか?』

『誓う?』

『ええ、“妖精の契約”です。私の真実の名はフローリア、フローリア・ファン・ロイテル……』

『フローリア……素敵な名前だ。で、誓いって、どうすればいいの?』

フローラは頬を染めて言う。

『キス……してください』

『えっ?』

ハシリウスが頬を染めて躊躇すると、フローラは、

『ハシリウス様、乙女を待たせないでください……』

そう言って、フローラはハシリウスにキスしたのだった……。ハシリウスは、フローラの甘い蜜の香りに痺れたようになり、それ以降の記憶を失った……。


「ハシ……リ……ウス……」

フローラの声に、はっとハシリウスは現実に戻った。そして、『月の乙女』を振り向く。ソフィアのルナは、目に涙をためていた。ハシリウスの視線に気づき、こっくりとうなずく。

「フローリア・ファン・ロイテル……」

ハシリウスは、フローラの真実の名を呼び、ぎこちなく、しかし、精いっぱいの優しさを込めて、その冷たくなりつつあるくちびるにキスをした。

「……」

ゆっくりと、フローラがハシリウスの背中に手を回す。そして、その手は、背中まで行き着かないうちに力を失った。

「フローリア!」

ハシリウスは、フローラに呼びかけた。しかし、フローラはもう答えなかった。

「フローリア!」

もう一度、ハシリウスはフローラに呼びかける。するとフローラの閉じた目から涙がこぼれ、その唇がかすかに動いた。

「フローリア!」

フローラの身体をゆすぶるハシリウスに、バウムフィーゲルが優しい声で話しかける。

「ハシリウス様、娘の最期の願いを聞き届けていただき、ありがとうございました」

ハシリウスは、フローラの胸に顔をうずめて泣いていた。そんなハシリウスに、妖精王は言う。

「最期に、愛する者から真実の名を呼んでもらった妖精は、また同じ妖精として生まれ変わってきます。ハシリウス様、あなたのおかげで、娘はまたどこかで妖精として生を受けることができるでしょう。悲しまないでください」

ハシリウスは、フローラの手を握り続けている。その手はだんだんとぬくもりを失っていく。この手で、この声で、この姿で、フローラは僕を頼ってギムナジウムの寮に潜り込んできたんだ。この顔で、僕を好きと言い、僕に抱き着き、そして……僕を頼ってきた者を、みすみす死なせてしまうなんて!

「……ない……」

「え?」

ソフィアのルナが、ハシリウスのつぶやきに気づいて聞き返す。

「許せない……たとえフローラがどこかに生まれ変わるとしても、このフローラを救えなかった自分と、フローラをこんな目にあわせたやつらを、僕は許せない!」

「ハシリウス……」

ソフィアのルナは、ハシリウスの悲しみを見て絶句する。ハシリウスは、フローラを愛してたのだろうか? それとも……。

悲しみにたゆたうハシリウスのもとに、星将デネブが顕現してすまなそうに謝る。

「ハシリウス、すまない。あたしがついていたのに……」

ハシリウスは首を振って言う。

「僕がいけなかったんだ。フローラはルナと共に『花の門』に残すべきだった……僕と星将たちならば、まだ戦い方はあったんだ……」

そう言うと、表情を引き締めて叫ぶ。

「星将シリウス!」

ハシリウスの声に、星将シリウスが顕現する。シリウスはすでに蛇矛をしごき、戦闘態勢だった。

「ハシリウス、行くか?」

星将シリウスは、その黒い目に鋭い光をたたえている。ハシリウスは碧の瞳でひとしきりフローラを見つめていたが、きっぱりと言った。

「行こう。ルモールにはきっちりと落し前をつけてもらう」

「ハシリウス、私も行きます」

ソフィアのルナが言うのに、ハシリウスは首を横に振る。

「ルナ、今回は僕と星将たちに任せてくれ。君はネストル様たちを『下の谷』まで護衛してほしい」

「そんな! 私はあなたを守るのが役目の『日月の乙女たち』ですよ? 嫌です、ハシリウス。私はあなたについて行きたいです!」

胸の前で手を組むルナに、ハシリウスはまだ涙が残る眼を当てて言う。

「ソフィア……ジョゼがあんな怪我をして、フローラがこんなことになって……。みんな、僕が『大君主』であることに起因しているんだ。これでソフィアにまで怪我をさせたり、死なせてしまったりしたら、僕は耐えられない!」

そして、ハシリウスはルナを抱きしめる。

「あ……ハシリウス……」

ソフィアの声で戸惑うルナに、ハシリウスは、

「だから、今回は僕たちだけで行かせてほしい……ソフィア、君たちを失いたくないんだ」

そう言った。

「ハシリウス……」

抱きしめられて顔を赤くしていたルナは、そっとハシリウスの背中に腕を回し、ハシリウスの胸に顔をうずめて言う。

「無事にお戻りください。大君主様」


決の章 精霊の幻影に目を凝らせ


「ネストルを討ちもらしたのは残念だった。しかし、これでアルテミスはヘルヴェティア王国への謀反人となった。『花の谷』もこれで終わりだな」

夜叉大将ルモールは、ローザンヌ城の中でそう言って一人ごちていた。彼には会心の笑みが浮かんでいる。あとは、アルテミスを始末し、ヤヌスル様の軍をこの谷に導き入れれば、事は終わる。

「ルモール様、ヤヌスル様と連絡が取れました。3日後にはヤヌスル様の軍がこの谷にはいります」

ルモールの腹心である36部衆のジダンが言う。

「そうか、それではそろそろアルテミスの始末にかからねばならないな」

ルモールはそう言うと、剣を取って城の地下牢へと向かった。

地下牢には、アルテミスが幽閉されていた。アルテミスは、なぜ自分がこのような目に遭っているのかよく分からなかった。気が付いたらこの地下牢にいた……彼女の記憶は、完全に飛んでいたのである。

「ご機嫌はいかがでしょうか? アルテミス卿」

アルテミスは、鉄格子の向こうにニヤニヤとしたルモールの顔を見た時、はっと悟った。

「ルモール、私と妖精たちに取り入り、『花の門』を潰そうとし、私に反逆者の汚名を着せようとしているのは、お前か! いったいお前は何者なのだ」

「アルテミス卿、私は何も悪いことはしていませんよ? 妖精たちがヘルヴェティア王国の女王を信じられなくなったのも、あなたが王国の女王位を狙っているという噂が流れたのも、すべて人間たちの弱い心のせいです。人間は弱い……力も、心も。私が少し“猜疑心”という薬を使えば、すぐに人間たちはいがみ合い、競い合い、殺し合います。あなたにしても、そのような心の弱さがあったからでしょう? これぞ自業自得と言います」

ルモールは手で剣をもてあそびながら、そう冷たく言い放つ。アルテミスは、その目に力を込めて、この醜悪な男に言い返した。

「確かに、人間は弱い。しかし、われら人間は、正しい心も持っている。私は、女王陛下に対しては忠誠だったつもりだ。それを、君臣の間にくさびを打ち込み、妖精の王までも悪事に加担させるとは……ルモール、私は貴様を許さない!」

その言葉を聞いて、ルモールは爆笑する。

「はっはっはっ、おかしなことを言われる。アルテミス卿、あなたはもうすぐ死ぬのですぞ? もうすぐこの『花の谷』に、クロイツェン王の最強軍・ヤヌスル様の軍が到着します。それで、『花の谷』は終わりです。そして、ヘルヴェティア王国も遠からず覆滅します。あなたに何ができますか?」

アルテミスは、その美しい顔を怒りで染め、ルモールに右手を伸ばして魔法を放つ。

「水の精霊アクアスよ、その麗しき力を収束し、この醜悪な魔神を破砕せんことを。“ヴェッサー・ストーム”!」

すると、アルテミスの右手から水の精霊の力がほとばしり、鉄格子を弾き飛ばした。その鉄格子の一本が、油断していたルモールを直撃する。

「ぐふっ!」

「死ねっ!」

アルテミスはルモールの剣を奪うと、電光石火の早業で斬りかかる。しかし、ルモールも鉄格子をつかんでその剣を受け止めた。

「アルテミス卿、やはりあなたはおとなしく死んではくれないようですな」

そう笑うと、ルモールは身をひるがえして逃げ出した。

「待てっ!」

アルテミスはその後を追う。ルモールは城の大広間まで来ると、

「ジダン!」

そう、腹心の部下の名を呼んだ。

「はい、ルモール様。仰せの通りに準備しておきました」

ジダンは、そう笑いながら、妖精兵たちとともにアルテミスを包囲する。

「はっはっはっ、アルテミス卿。これでそなたも終わりですな。ネストルも傷ついていますので、ここには来られません。『大君主』ハシリウスも、先の戦いでは妖精兵たちに手も足も出ませんでしたしね。おとなしく観念して散り際くらいは潔くされたらどうですか?」

ルモールがそう言った時、大広間の入り口から声がした。

「見くびられたものだね……。『闇の使徒』ルモールよ、ここまでの間に一兵も配置していなかったとは、僕たちも安く見られたものだ……しかし、その代償は高くつくぞ」

「ハシリウス……」

アルテミスは、広間にゆっくりと歩を進めてきた、全身を青い鎧とマントで包んだ少年を見て、そうつぶやいた。

少年は、長い銀髪、鋭い黒い瞳、白銀の衣に群青色のベルトを締め、銀の手甲と脛当てを着けた若者の姿……星将シリウスと、黒い甲冑と黒いマントに身を包み、黒い手甲と脛当てをつけ、茶髪の優男だがどことなく威圧感を感じさせる若者の姿……星将ベテルギウスと、紫紺のチャイナ風の洋服に銀のベルトを締め、両肩に刀をぶっ違いに背負ったうら若き美女……星将デネブを従えて、恐れる色もなく進んでくる。

「小僧、恐れもせずによう来た。しかし、ここがそなたの墓場だ。アルテミス共々殺してやる。覚悟しろ、大君主」

そう吠えるルモールに、ハシリウスは冷たく冴えた碧の目を向け、これも冷たく冴えた声で言う。

「夜叉大将ルモール、妖精の王女・フローラは貴様のために死んだ。このハシリウス、みすみす彼女を死なせてしまったことを後悔している……今日は手加減できないぞ。覚悟するのは貴様の方だ」

「妖精兵たちよ、大君主を討ち取れ!」

ルモールの言葉で、一斉に妖精兵たちがハシリウスに飛び掛かる。しかし、

「そうはさせん!」「あたしが相手だよ!」

星将ベテルギウスと星将デネブが、その長剣と二刀流で妖精兵たちを跳ね飛ばす。

「ハシリウス、やれっ!」

星将シリウスも、蛇矛を水車のように回して妖精兵たちを抑えている。

ハシリウスは、ニコリともせずに神剣『ガイアス』を抜き放った。

「キリキチャ、ロキニ、ヒリギャシラ、アンダラ、ブノウバソ、ビジャヤ、アシャレイシャ、マギャ、ホラハ・ハラグ、ウッタラ・ハラログ、カシュタ、シッタラ、ソバテイ、ソシャキャ、アドラダ、セイシュッタ、ボウラ、フルバアシャダ、ウッタラアシヤダ、アビシャ、シラマナ、ダニシュタ、シャタビシャ、ホラバ・バツダラヤチ、ウタノウ・バッダラバ、リハチ、アシンビ、バラニ――」

ハシリウスは、28神人の呪文を唱える。唱えているハシリウスの身体が、金色に光りだし、それが虚空と連動して、鼓動を響かせる。ハシリウスの鼓動は、だんだんと強く響き、妖精兵たちやジダン、そして夜叉大将ルモールは、その鼓動に取り込まれて身体の自由を奪われていった。

「く、くそっ! これが『大君主』の力か? バルバロッサもこんな話は……」

突然のハシリウスの力の解放に、ルモールはなすすべもなく立ちすくみ、その手から鉄棒が滑り落ちる。魔力が弱いジダンはすでに消滅し、妖精兵たちも、あるいは苦しみ悶え、あるいは気を失いして、今や一兵残らずハシリウスの波動の中で眠ってしまっていた。

「……28神人よ、大宇宙の意識を総括する28神人よ、女神アンナ・プルナと正義神ヴィダールの名において、ハシリウスが謹んで奏す。その力をハシリウスに貸し、悪しき、禍々しきこの『闇の使徒』を破砕させしめ給え……」

ハシリウスが構える神剣『ガイアス』には、昼間ではあるが星々の光が集結しているのだろう、金色に、そして銀色にと、剣が輝く。その光の収束を見て、ルモールの顔に恐怖の色が浮かぶ。こ、これは、悪神の魂まで消し飛ばしてしまうという、『大君主』の刃だ!

「や、やめろ!」

ルモールの叫びを無視し、ハシリウスは冷たく澄んだ声で叫んだ。

「……ノウキシャタラ・ニリソダニエイ、キリキチャ神は西へ、ホラハ・ハラグ神は北西へ、ダニシュタ神は東へ動きたまえ!」

ハシリウスが神剣『ガイアス』を西に、北西に、そして東にと振る。それに伴い、虚空に星々が現れ、その配列が変わり始めた。宇宙が、神剣『ガイアス』の鼓動と同じ波動で輝きだす。

「や、やめてくれ! 大君主! お願いだ、魂まで消し飛ばさないでくれ!」

ルモールは今や憐れみを乞うようにハシリウスに哀願している。しかし、ハシリウスは眉一つ動かさずに、呪文詠唱を続ける。

「……イム・シュルツ、イム・ヘルツ、イム・コスモス・ウント・ガイア……」

神剣『ガイアス』に28神人が座す星々からの光が集まり始めた。それを見て、ルモールは今や恥も外聞もなく泣きわめく。

「お、俺だけが悪いんじゃないぞ! バルバロッサやメドゥーサが、クロイツェンのご機嫌をとって俺をここに差し向けただけだ! 何でも知っていることは話すから、許してくれ!」

ハシリウスは、冷たく澄んだ声で、一言ルモールに言った。

「フローラには、命乞いをする暇は与えられなかった……」

「……」

すべての希望が消し飛んだルモールは、じっとりと汗を吹き出しながら、ハシリウスを見つめた。ハシリウスは、感情の消えた、澄み切った声で叫ぶ。

「星々の加護は、我にあり! ノウキシャタラ・ニリソダニエイ“星々の剣、大地の刃”!」

その声ともに、ハシリウスは星々の力がこもる神剣『ガイアス』を、ルモールに向けて振り下ろした。

「うぐぅええええええ~~~!!!!!」

その途端、城の大広間は目もくらむばかりの光と、ルモールの断末魔の声に覆われた。


光が収まったとき、ハシリウスは、神剣『ガイアス』を振り下ろした格好のまま、目を閉じていた。

「ハシリウス」

星将シリウスが、まだ立ち上がらないハシリウスを心配して声をかける。ハシリウスは、その声で目を開けると、ふうっと大きなため息を一つついて、ゆっくりと立ち上がった。

「妖精兵たちは、みんな無事だ。フローラの加護があったのだろう……」

星将シリウスの言葉に、ハシリウスは辺りを見回す。妖精兵たちは茫然と座り込み、あるいはハシリウスを恐怖の目で、あるいは驚嘆の目で見つめている。

「ありがとうございました。ハシリウス卿」

そこに、アルテミスがハシリウスに近づいてきて、そう礼を述べた。心なしかその頬が桜色に染まっている。ハシリウスは、その妖艶な微笑みに思わずどきっとしたが、

「いいえ、フローラとの約束を果たしただけです」

そう言って首を振る。

「フローラ? ああ、妖精の王女ですね? そうですか……フローラがあなたを……」

「フローラをご存知ですか?」

ハシリウスが訊くと、アルテミスは笑って言う。

「ええ、仲良くしてもらっています」

そして、その笑みを収めて、

「ハシリウス卿、聞き違いならば謝ります……先ほど、フローラが死んだと仰いませんでしたか?」

そう訊く。ハシリウスは無言でうなずいた。

アルテミスは、口元を両手で覆い、びっくりした目をしていたが、やがてその瞳が潤み、両手で顔を覆って泣き出した。

「そんな……そんな……あんないい子が……どうして?」

城の大広間には、アルテミスのすすり泣きがひとしきりこだました。


妖精の王女・フローラの葬儀は、『花の門』でしめやかに行われた。

ハシリウスは、アルテミス、ルナ、星将シリウス、星将デネブとともに、妖精王バウムフィーゲルのたっての願いで、葬儀に参列した。ただ、星将ベテルギウスはハシリウスから用事を言いつけられてセントリウスのもとに行っていた。

ハシリウスは、棺に入れられたフローラを見た。フローラは、まるでまだ生きているかのように微笑み、その顔はとても穏やかで、美しかった。

「フローラ、君はとても強かった。そして、優しかった。フローリア・ファン・ロイテル、僕は君を忘れない。いつの日か、生まれ変わったら、僕のもとに訪ねてきてくれ……」

ハシリウスは、花で覆われたフローラの顔を見ながら、そう言い、そして、フローラの耳元に顔を寄せて、ささやいた。

「僕の真実の名は、ハシリウス=アウグストゥス・ペンドラゴンだ。真実の名を思い出したら、訪ねてきてくれ……さようなら、フローリア・ファン・ロイテル」

棺は、王家の墓まで馬車に乗せられて運ばれた。ハシリウスたちは、フローラの棺が埋葬されるまで立会った。『花の谷』の領主であり、フローラの友人でもあったアルテミス卿は、埋葬の際に心温まるような惜別の言葉を述べた。

「『花の谷』は、『花の門』の繁栄によって支えられています。私は、妖精であるあなたと心を通わせられたことをうれしく思うとともに、心優しき妖精の国がわが領土にあることを誇りに思います。これからも、妖精と人間、心を通わせて生きていけるような谷にすることを、わが友であったフローラの霊に約束します」

「ハシリウス」

帰りの馬車の中で、星将シリウスがハシリウスに語りかけた。フローラの面影を追っていたハシリウスは、はっとして答える。

「何だい? シリウス」

星将シリウスは、一瞬ハシリウスを見つめて微笑んで、そして真剣な表情で言う。

「ルモールがアルテミスに言ったという言葉、覚えているか?」

「……夜叉大将ヤヌスルの軍が、この谷目指して進んでいるということか?」

ハシリウスが答えると、星将シリウスがうなずく。

「そうだ。夜叉大将筆頭ヤヌスルは、用兵が巧みで、しかも方天戟を扱わせては天下無双だ。ここは早めに叩いておくに限る」

「僕もそう思った。だから、ベテルギウスにお願いして、そのことをおじい様に伝えてもらっている。今頃はおじい様が女王陛下に報告して、迎撃のレギオンが出発しているだろう」

ハシリウスはそう言って、揺れる場所の窓から外を見つめ、また物思いにふけった。

「そうか……」

星将シリウスは少し不満そうだったが、ハシリウスの物思いにふける顔を見ると、その気持ちを察して隠形した。悲しみを癒すには、一人きりでたゆたう時間が必要なことを、星将シリウスはよく知っていたのだ。

一方、別の馬車の中では、ソフィアが揺れる窓から外を見つめていた。『花の門』は、四季折々の花が咲き乱れる、幻想的なまでに美しい場所だが、今日ばかりは花の妖精たちも悲しみに沈み、その美しさが少し色あせている。

ソフィアは、ハシリウスの部屋でフローラと初めて会ってからのことを思い出していた。

――フローラは、私がうらやましく思うほど、ハシリウスへの好意をあけすけに語っていた。やっぱり、ハシリウスのことが好きだったんだ……。

しかし、ハシリウスは自分を抱きしめて言ってくれた……君を失いたくない、と……。あれはルナに対して大君主が言ったのだろうか? それとも、私に対してハシリウスが言ってくれたのだろうか?

ソフィアが思わずはあっとため息をつくと、一緒に乗っていた星将デネブが、優しい目を当てて言う。

「今回は、身につまされたね……女にとってはつらい出来事だったよ……」

「……そうですね……」

「妖精の王女は、本当にハシリウスのことが好きだったんだ……あんたと同じだね、『月の乙女』」

ソフィアは、そう言われて顔を真っ赤にしながら、それでもデネブを見て訊いた。

「それで……星将デネブ、教えてください。私、ハシリウスの気持ちが見えません。ハシリウスもフローラさんのことが好きだったのでしょうか? 私を失いたくないって言ってくれた気持ち、どう受け止めればいいのでしょうか? あなたには、ハシリウスの気持ち、分かりませんか?」

星将デネブは、そうひたむきに訊いてくるソフィアに対して温かいものを感じた。このお姫様も、ハシリウスのことが好きだ……優しくて、強くて、そして可愛らしい男のことを愛している……まるで、そう、私のようだな……星将デネブはそう思い当たると、優しく言う。

「ハシリウスはね、少年なんだよ」

「少年……ですか?」

ソフィアが訊く。星将デネブは肩までで切りそろえたワンレングスの髪を、左手でかきあげながら言う。そのさまはソフィアから見てもドキッとするくらい色っぽかった。

「そう、少年……さ。人間に対して優しいし、自分の心の中で、どうしようもなく譲れないものを持っている。それが、ハシリウスの場合、人への優しさだね。男も女もない、誰に対しても優しいから、女の子にとってはやきもきするし、勘違いさせてしまうことだってある。けれど、ハシリウスにとってはそれが自然な感情の発露なんだろうね……」

「……何となく、分かります……」

「だから、ハシリウスは、フローラのことも好きだったと思う……人間でも、妖精でもなく、“愛すべきもの”としてね……」

ソフィアはうなずく。ハシリウスは、たとえ相手がモンスターでも、悪いことをしていない者には優しくできる――子供のころから――不思議な性格の持ち主だった。

「だから、すぐに感情に流される。同情が横滑りするタイプだね」

デネブの言葉に、ソフィアはくすっと笑った。ジョゼが同じことを言っていたことを思い出したのだ。

「でも、あんたたち、『日月の乙女たち』に対しての感情は別だよ。あたしには分かる。あんたたちはハシリウスにとって必要な女性であり、特別な女性さ……ただ、まだ、ハシリウスの中ではそこまで意識されていないし、あるいは母のような女性として意識されているのかもしれないけどね」

「そう……ですか……」

少しがっかりした表情のソフィアだが、そこには少しの安堵も見えた。星将デネブは意地悪く聞く。

「お姫様、あんた、ハシリウスに純潔を捧げるつもりはあるかい?」

ソフィアは顔を耳まで赤くしたが、小さくうなずき、つぶやくように言った。

「彼以外に……考えられません。……幼い時からそうでした……」

「そうかい……。お姫様、それじゃ、お姫様とあのジョゼっていう幼なじみさんは、甲乙つけがたいライバルだね」

「そうでしょうね……。ジョゼだって、彼のことを愛していますから……私以上に……。彼女だって、ハシリウス以外の男性に純潔を捧げるつもりはさらさらないでしょうから、最大のライバルですね」

そう言うソフィアを優しく見つめながら、ふと星将デネブは笑ってしまった。怪訝そうなソフィアの視線に気づいたデネブは、笑いながら言う。

「悪いね、笑ってしまって。でも、あんたたちがそんなに恋焦がれているのに、当のハシリウスの鈍さ加減を思いだしたら、つい笑っちまったのさ。あいつがもっと成長するためには、女の子の気持ちへの鈍さを改善しないといけないだろうね」

★  ★  ★  ★  ★  ★  ★  ★

木の月25日、ロード・アルテミスは久しぶりにヘルヴェティカ城に参内し、叔母でもあるエスメラルダ女王と久しぶりに腹蔵なく語り合った。

女王は、ロード・アルテミスの忠誠心を改めて確認できたし、ロード・アルテミスにしてみれば、女王が自分に対して抱いている気持ちを確認し、さらに肉親としての親愛の情がわいたということである。

また、『花の谷』に対して侵攻準備をしていたクロイツェン王国軍――ヤヌスル軍3万とマルスル軍1万の計4万――は、大元帥カイザリオン自ら5人のマスター――筆頭マスター・アキレウス、マスター・オデュッセウス、マスター・ペリクレス、マスター・テミストクレス、マスター・エパミノンダス――すべて『戦上手』の折り紙が付いたものばかり――とともに5万のレギオンとヨーマンリーの連合軍7万を率いて出てきたことで、勝負をあきらめて撤退した。ヘルヴェティア王国軍には、フローラ王女の復仇に燃える『花の谷』のヨーマンリー2万、うち妖精軍1万が加わっていたことが、ヤヌスルやマルスルに勝負をためらわせた最大の理由であった。


「ねぇ、ハシリウス」

ジョゼは、久しぶりに会うハシリウスに、ベッドからそう呼びかけた。

「何だよ」

ハシリウスはどことなく元気がない。それはハシリウスが『花の谷』から帰ってきた日から感じていたことだった。不思議に思ったジョゼは、ソフィアに、『花の谷』での出来事を詳しく聞いた。そして、フローラが亡くなったことを聞き、ショックを受けたのである。

『ハシリウスも、フローラとの5年前の約束を思い出して、ナーバスになっています。星将デネブは時間が解決してくれると言っていますが、それまで私たちは彼の心の傷を癒してはあげられないのかなと思うと、私はつらいんです』

ソフィアはそう言って眉を寄せた。

――フローラは、ハシリウスが事件を解決したから、『花の谷』で幸せに暮らしているもんだとばかり思っていた。

でも、ジョゼは思う。最後に、ハシリウスとの恋がかなったんだったら、フローラは幸せだったんじゃないかなと……ボクなんて、ハシリウスにまだ告ってもいないのに……。

「元気ないね……『花の谷』で何かあったの?」

ジョゼがそう言うと、ハシリウスはひきつった笑いを浮かべて言う。

「そ、そんなに元気なく見えるか?」

ジョゼは、ハシリウスの笑顔が痛々しくて、ついつい口調が強くなってしまう。

「ああ、見えるね。まるで大切なものを失くしてしまったお子ちゃまのように見える」

「そうか……」

ハシリウスは、深いため息をついて言う。普段なら『お子ちゃま』と言われたらむきになって突っかかってくるハシリウスなのに、今日は本当に打ちひしがれているように見える。

「ハシリウス、フローラのこと、好きだった?」

ジョゼは、惨いとは思いながら、そう訊いてみた。もちろん、心の中でハシリウスには謝っている。

ハシリウスは、フローラの名を聞いた途端、びくっと体を震わせる。そして、その目をはるか『花の谷』の方に向けた。

「ボク、訊きたいんだ。ハシリウスの部屋にフローラがいた時、ボク、正直に言うと、少~し嫉妬しちゃったんだ。キミのことを信じていないわけじゃないけれど、やっぱり、その、男の子と女の子じゃんか? だから、今回、キミが元気をなくしているのを見て、やっぱりキミ、フローラのこと好きだったんじゃないかなって……」

しどろもどろに言うジョゼの声を、背中で聞きながら、ハシリウスはぽつりと言う。

「好きだったとしても……しょうがないさ……」

ジョゼはハシリウスに言う。

「しょうがなくなんてないよ! キミがフローラのことが好きで、フローラのこと忘れられないくらい苦しんでいるとこ見るの、ボクもソフィアもたまらないよ!」

「だったら、どうしろって言うんだよ! もう死んでしまったフローラのことを、思い出して泣いててもみっともないだけだろ? どうしたらいいって言うんだよ!」

ハシリウスは、突然そう言って、ジョゼを見つめる。その目には涙が潤んでいる。

「お前のそのケガだって、僕がさせたようなもんだろ? お前やソフィアは『日月の乙女』ってだけで、僕のいろいろな事件にも首を突っ込まざるを得なくなってるし……。僕のせいでお前たちの人生が狂っているみたいで……そんなお前たちに、僕が苦しいからって、どうして甘えられるんだよ!」

「ハシリウス……」

ジョゼは、涙を流して椅子に座りこむハシリウスを、とても愛しく感じた。そうか、ハシリウスは、フローラのことだけで落ち込んだんじゃないんだ。もっと大きい、自分の運命に対して何か文句が言いたくなったんだ。

「ハシリウス……いたっ!」

「ジョゼ!」

ジョゼがベッドから立ちあがって、ハシリウスのところに歩こうとしてよろける。ハシリウスはジョゼの身体を抱きしめた。

「ジョゼ! 何だってそんな無茶するんだ! お前、まだ歩いちゃいけないんだぞ!」

「ご、ゴメン……こんなに身体の自由が利かなくなってるって思わなくって……でも、ボクはハシリウスにはもっと甘えてほしいんだ」

「え?」

ハシリウスはジョゼの身体の重みをしっかりと受け止めながら訊く。

「ボクだって、今、ハシリウスに支えてもらっているよね? ほんとはこんな体勢って、ボク、鳥肌が立つほど恥ずかしいんだけど、でも、ハシリウスに甘えてる……だから、哀しかったら泣けばいいんだ。ボクやソフィアはいつだって聞いてあげるよ……そんなことしかできないけどさ?」

「ジョゼ……」

ハシリウスは、耳元でささやくジョゼの言葉を、しっかりと聞いている。

「ボクね、ハシリウスが大君主になった時、とても寂しかった。なんか、ボクやソフィアから手が届かないところにキミが行っちゃう気がして……。だから、ソフィアもそうだと思うけれど、ボクは『太陽の乙女』であることに不満を感じたことなんてないよ?」

「ジョゼ……」

「ボクはね、ずっとキミとの腐れ縁が続いたとしても、結構幸せなんだ。だって、キミは、その、大切な幼なじみだからねっ!」

「ジョゼ……」

ハシリウスは、ジョゼを抱く腕に思わず力を込める。

「は、ハシリウス……少し苦しい」

「あ、ご、ゴメン」

ハシリウスは、無意識にそうしていた自分にびっくりして、腕の力を抜く。

「ハシリウス、ボクの純潔がほしいなら、いつでもあげるよ?」

ジョゼがそう耳元でささやくとハシリウスは真っ赤になって言う。

「ば、ばば、ばか! そんなこと軽々しく言うなよ。お前らしくないぞ!」

そう言いながら、ハシリウスは優しくジョゼをベッドに腰掛けさせた。

「はは、冗談だって、冗談だよ。ボクだって結婚するまでは純潔でいたいからね。でも、ハシリウス、キミにそう言ってくれる子――それが妖精だったとしても――がいたことは、覚えておいてほしいし、ボクが言ったことも忘れないでほしいな」

ジョゼはハシリウスに手伝ってもらってベッドに横になりながら言う。ハシリウスは聞き返した。

「ジョゼが言ったこと?」

「ボクやソフィアは、『日月の乙女たち』であることを後悔したことはないってことさ。ボクたちは、きっと女神アンナ・プルナ様が、腐れ縁が続くようにしてくださっているんだと思うよ? 少なくとも、ボクはそう思っている」

「……」

黙り込んだハシリウスに、ジョゼは冗談めかして言う。

「ねえハシリウス、妖精とでも本気の恋ができるキミのこと、ボク、大好きだよ。そして、その子のことを女々しく思い出しているような優しいとこも、大好きだよ」

「……それは、褒めてもらってるんだろうか?」

ハシリウスが言うと、ジョゼは今度はまじめになって言う。

「もちろんだよ。だって、それがキミってキャラクターでしょ? お子ちゃまで、鈍感で、先天性の女ったらしで、でも優しくて、強くって……あ~あ、とんでもないヤツがボクの幼なじみだったもんだ」

「とても褒めているようには聞こえないぞ……」

ハシリウスは苦笑した。そして、いつ間にか心が軽くなっていることに気づいた。きっとジョゼが、フローラのことを悲しんでもいいんだよって言ってくれたからに違いない。そのことに気づくと、ハシリウスはこの幼なじみが、いつだって自分のことを気にしてくれていたことを思い出した。

ジョゼは、ハシリウスの目の色と顔色が元通りになったことに気づき、飛び切りの笑顔を見せて言った。

「ねえ、ハシリウス。ボク、リンゴが食べたいな~❤ むいて食べさせてくれないかな~❤」

「お腹をやられてて、リンゴなんて食べてもいいのか?」

ハシリウスが心配そうに訊くと、ジョゼは笑って言う。

「大丈夫、刺されたところは胃じゃないもん♪ だから、早く食べさせてぇ~❤」

ジョゼが可愛くおねだりする。ハシリウスは苦笑しながらリンゴを手に取ると言った。

「はいはい」

そんなハシリウスを、優しい目で見ながら、ジョゼは真っ赤になって言う。

「……ハシリウス、万が一さ、万一、ボクとキミが結婚することがあったら、ボク、キミにこうやって毎晩、リンゴをむいてもらおうかなあ……」

ハシリウスは、少し赤くなったが、いつものジョゼの軽口だと思い、それに乗ってあげることにした。リンゴに夢中でジョゼの顔を見ていなかったせいもある。

「はいはい、万が一お前と結婚するようなことがあったら、逆にお前をむいてやる……おっと、リンゴって、むきにくいな……」

ハシリウスは、ジョゼにリンゴをむきながら言う。ジョゼは、危なっかしい手つきでリンゴをむくハシリウスがとてもかわいく思えて、ついつい軽口を言ってしまう。

「ボクをむくんなら、その危なっかしい手つきをどうにかしないとね? そんな手つきじゃ、その気になれないかもよ?」

二人がそんな軽口をたたいている時に、ソフィアが病室に入ってきた。今までの二人のやり取りを聞いていたんだろう、ソフィアはいきなりハシリウスに言う。

「ハシリウス~、私、あなたが言うことが、時々とてもいやらしく聞こえてならないんです? どうしてでしょうか?」

「え? 何か僕、いやらしいこと言ったっけ? ねえ、ジョゼ?」

ハシリウスがそう言うと、ジョゼはあろうことかソフィアに寝返ってしまった。

「言ってたじゃないか。ボクのように淑やかな乙女の前で『女の子をむく』とか。あ~嫌だなあハシリウスったら、アマデウスのビョーキが感染っちゃったんじゃないか?」

「だっ! ジョゼ、いまさらソフィアに寝返るか?」

「だって、ハシリウスには何を言っても許されるけど、ソフィアは親友だから大事にしないとね?」

ジョゼがそう言ってソフィアを見ると、ソフィアも苦笑して言う。

「くすくす……やっぱりお二人さんは仲がいいんですね。なんだか妬けちゃいます」

「え? ソフィアって、ジョゼのこと、愛してるのか?」

「なんでそうなるんですかっ!」

ハシリウスが言うのに、思わずソフィアが叫ぶ。

そんな二人とのやり取りで、心が晴れたハシリウスは、ぽつりとどちらにともなく言った。

「僕、お前たちと幼なじみでよかったよ、ありがとう」

それを聞いたジョゼもソフィアも、とたんに照れてしまう。

「い、いえ……私こそ、あなたと知り合いになれて、とても幸せです」

「そ、そうだね。ボクだってキミみたいに変わったキャラクターと過ごせて、毎日が楽しいよ」

★  ★  ★  ★  ★  ★  ★  ★

「……そうか、ハシリウスが妖精の王女と……」

セントリウスは、星将ベテルギウスからの報告を聞き、目を閉じた。ハシリウスは人に優しいだけではなく、なべてすべての生きとし生けるものへの優しさがある。

今回も、人間と妖精という、本来であれば結びつくことがない二人の気持ちが通い合っている。それは、ハシリウスにとって大きな長所ではあるが、一方では致命的な短所となる可能性がある。

本来、大君主とは、大宇宙の意識を感じ取り、星々の運行という手段で森羅万象の栄枯盛衰を司ることが役目である。そこには、宇宙全体の意思と、個々人の意識の調和がなされねばならない。

ハシリウスが自己の感情に負けてしまった時、逆にその感情はハシリウスの行動を規制し、ハシリウスの能力まで規制してしまう。ハシリウスがルモールとの戦いの場に『月の乙女』を同行しなかったのは、ハシリウスが感情に負けてしまったからであり、逆にルモールの恥も外聞もない哀願に眉一つ動かさず、神剣『ガイアス』を打ち下ろしたのは、ハシリウスの正義を貫く心が揺るがなかったからである……セントリウスは、星将デネブのそのような報告に疑問を感じていた。

「ハシリウスが『大君主』にふさわしいかどうか、もう少し見ている必要があるのう……」

セントリウスのつぶやきに、星将シリウスが怪訝な顔をする。

「どういうことだ、セントリウス?」

星将シリウスの言葉に、セントリウスは難しい表情で答えた。

「ハシリウスは、もっと冷たくなれなければならぬ。『日月の乙女たち』も、自分の命すらも、客観的に、定量的に考慮・分析し、何が正義かを信念として持ったうえで戦い方を選べねばならない……。今のハシリウスには、まだ、それができそうにないと思える」

「しかしセントリウス、大君主としての生き方に、一つの定型的なものはない。ハシリウスはハシリウスらしく大君主として生きていけばよいのではないか?」

星将シリウスの言葉に、セントリウスは答えた。

「ハシリウスの生き方は、王道を行こうとしている。それは正しい。しかし、王道とは時に自分自身の生き方を不利にするものでもある。特に相手が覇道の場合はそうじゃ。これからのハシリウスの戦い方に、目が離せなくなったのう……」

セントリウスはそう言うと、窓の外を見てパイプを吹かした。

【第4巻 終了】

最後までお読み頂き、ありがとうございました。

今回登場したフローラは、後々ハシリウスの運命に大きく関わってくる予定です。と言うか、それは「辺境編」やハシリウスの息子であるサジタリウスの物語まで、非常にスパンの長い、そして「光と闇」というこの物語の本質的な部分に関係します。

色々あって投稿間隔が長く空いてしまいましたが、作者はもう第8話まで書いていますので、もうちょっと投稿の間隔を短くできるかなと思っています。

ハシリウスたちの物語は、今の「王都編」から「辺境編」に続きます。どうか最後までお付き合いください。

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