8.真子
君からもらう、嬉しくて、楽しくて、幸せな気持ち。
そんなものはいつしか途絶える、それが恋だ。
「有岡―っ。飲み行くよー!」
赤レンガ造の門柱が、夕焼けの光に馴染んでいる。
大学名が刻印された鉛色の看板前を歩く有岡を追いかけるため、私は正門に急いだ。
「な、何。急に。珍しいな」
「全然シフトがかぶんない!」
「ハニーか」
「なんでー、もう、無理、違うこと考えたい」
「へいへい、どこ行きます?」
私のことを好いてくれてる男の子に、全開の自分をぶつける。
「どこでもいいわー、もう、ホタルイカあるとこ」
「ホ、ホタルイカ……」
「もう、『トンボ』でいいわー、『トンボ』で」
そこは個人で経営している、どれだけダラダラ飲んでいても退店を促されないという大学生に優しい和居酒屋だ。その代わり、全てのお皿がプラスチックだ。
「カルーアミルクとかないけど?」
「そんな甘ったるいアルコールでこの虚しさが埋められるかーっ」
「もう酔ってるじゃねえか」
「スムーズに酔えるように、あらかじめこのテンションで臨むのっ」
こじんまりとした建物の玄関引戸をガラガラと開けると、右側の座敷にあるテーブル三つはすでに胡散臭い男子大学生の団体で埋まっていた。洒落てないメガネ率が異様に高い。
「いらっしゃい。カウンターでいいっすか?」
「あ、はい」
「二名様ご来店―っ」
有岡とやり取りをするのは、いつも無駄に楽しそうな店主。そして厨房の奥には、寡黙で真顔のまま存在感を出す奥さん。なかなかシュールで良い。
「とりあえず生中二つ」
私は黙ったまま、「それで良し」と頷く。
「あ、ホタルイカも」
もう一度、深く頷く。
「はぁ」
私のため息から始まったサシ飲みは、いつの間にか四時間を超えていた。
「遠野さんってぇ、絶対ハニーに聞くのっ。分からないことぉ、全部ハニーに聞くのっ」
「あぁ、かもなぁ」
「わたしぃ、再来週までぇ、ハニーとかぶらないのーっ。全然会えないのーっ」
「また待ち伏せすりゃいいじゃん。古本屋の前で」
「こりぇ以上キモいと思われる可能性残したくないでしょうがぁ」
「猫かぶってんだから大丈夫でしょ」
「それは本当はキモいと言うておるのかっ?」
遠慮のないラリーに、夜が更けてゆく。時間とやり場のない感情を持て余す私たち大学生を、遠野さんみたいな大人たちはクスリと笑うのだろうか。
実るはずもないような恋の相手に、ただただ会いたいと嘆くこと。そこから生まれるものは何だろう。
「キモくても大丈夫」
「はぁ?」
カウンターに並ぶ若い男女は、至近距離で目を合わせた。
「俺は、あ、塩キャベツおかわり」
不意に、目の前にいる店主に視線を移した有岡。
「俺はぁ?」
「人として好きですよ」
そう言ってテーブルから上げられたジョッキの中では、黄金色の飲み物がたゆたう。
「人として」
再び発せられた便利な言葉が、「好き」という告白をオブラートに包んだ。
彼に、そんな半透明な膜を生じさせたのは、一体何度目なんだろう。
どんな状況でもいい、どんなやり方でもいい、好きな人の傍にいたい。
私たちそれぞれの恋に、終わりはあるの?




