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6.真子

 ほんの僅かな可能性、それは恋の真っ只中にいる人なら、誰しも手を伸ばしたくなってしまうものなのではないだろうか。


 もっとも、手ではなく足を延ばしているのは、春の光が眩しい古書店街をうろつく、この私。


「え、真子?」


 心の中で何度も反芻している声の響きが、現実の空気を震わせる。


 振り向くと、そこには私の想い人が、古書が入っているであろう袋を手から下げ、店先から出てきたところだった。


「ハ、ハニー!偶然っ、偶然だね!」


 湧き上がるテンションの大波を必死で体内に留めようとしながらも、隠しきれない恋の渦潮のようなものが私の全身を包む。いや、もう自分でも何言ってるか分からないっ。


 あぁ、でも本当に会えることがあるんだ、会えることが、すごい、すごいよ、そうか、この確率か、この確率なんだ、会えるのはこの確率なんだ。ハニーが昼間にこの古書店街をぶらつくことがあると聞いてから、いったい何ヶ月が経ったのっ。六ヵ月だ、六ヵ月。六ヵ月に一回は会えるんだ。


「真子、こんなとこに用あるんだ」


 も、もしかしたらハニーに会えるかも知れない、という不純な用が、ね。


「う、うーん、たまにぶらつきたくなるんだよー。えと、ハニーは、なんか買ったの?」


 基本的にラノベ専門読者の私が、きっと知らないであろう購入本について問いかける。


「これ?『死の針』」

「しのはり?」

「鳥尾敏夫の。どろどろのやつ」

「ど、どろどろ」


 相変わらず難しそうな本読んでるなぁ。温かな陽射しを後光にしている彼に、思わず目を細める。


 私たちがバイトしている書店は、午前中からお昼過ぎにかけては主婦のパートさんが多いため、私たち大学生は夕方からシフトに入る流れになっている。だからこんなに心が躍るような自然光が充満した空気の中、彼と顔を合わせるのは初めてなんだ。


「今日は、あったかいね」


 会えた、幸せ、会えた。


「うん、あったかいなー……。あ、そうだ」

「ん?」


 微睡む猫のように夢見心地な私に、彼からとどめの一撃が。


「どっかでお茶でもする?」


 かっ、神様っ……。え、今、何が、何が起こって……。


「用、あるんならいいけど」

「ないっ、ないっ、なさすぎる」


 ふ、二人で、二人、あー、だめだ、いつもバイト後にみんなで遊ぶ時は平常心を保とうと頑張ってるのに、今日だけはだめだ、頭おかしい子みたいになってる、どうか、どうかバレないでください、私の心の中。


「ここら辺で真子が好きそうなとこ、知ってるよ」


 そう言いながら、歩を進め始めたハニー。


「え、何、嬉しいっ」


 彼は私の、陽だまりだ。


 恋の執念によって二人の時間を手に入れた場所、古書店街を抜けるように、私たちは大通りの向こう側へ行こうと横断歩道を目指す。


「そういえば、私もドストエフスキー読み始めたよ」

「ああ、『罪と罰』か」


 赤く染まった人型のマークに、歩く速度を緩める。


「やっぱ、言われてたとおりなかなかテンションについていけなくて〜」

「まぁ、おかしいよな、あいつら」

「でも、いいんでしょ?」

「うん、後半の窓のシーン。そこは、すごくいい」

「すごく、か」

「うん、好きだな」


 歩みを止め、詳しく明かされない窓のシーンを胸に刻みながら、隣にいるハニーを盗み見る。あたかも春の陽気に頬を少し蒸気させているかのように、私は季節さえも利用する。


「ハニーの周りにはさ、いるの?他に。それ、読んでる人」

「いないなぁ……、真子だけかも」


 真子だけ。私だけ。私だけが、共有してるんだ。ハニーの『好き』をなぞるのは、私だけ。


 風がふわっとなり、染まる頬の前になびいた少しの横髪。指で触れて戻そうとすると同時に、少しでも頬の体温が下がらないものかと、爪先への熱の移動を試みる。


「ん?有岡から……」


 ハニーが手元のスマホに気を奪われているのをいいことに、私は深呼吸をして横断歩道の向こう側を見た。平常心、平常心、いつものように平常心に戻ろう。


 するとその時、見慣れたはずの姿が向こう側の歩道を足早に通り過ぎて行った。


 無造作に束ねられた栗色の髪がうなじ辺りで跳ねている、その違和感に私は思わず目を奪われる。


 遠野さん……?


「なんか有岡がさー……」


 ハニーが振ってくれた話に、心を戻した。


「ん?何、何?」


 遠野さんが通り過ぎて行ったことや浮かんだ違和感は、口にしなかった。


 だってハニーと遠野さんって、二人の間の雰囲気がちょっと普通じゃないんだもん。


 わざわざ聞きたくないよ、彼の口から、私にはできない近づき方をする彼女のことを。



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