4.真子
地上より遥かに高い位置で、ベンチの座面を背に晴れ渡った空を見ている。
私は明るい空の下で、あなたがどんな表情をして過ごしているのか知らない。
目に映るあなたの表情を照らすのは、ひしめく本を浮かび上がらせる蛍光灯、そして夜更け前のやけに目立つ街の明かり。
外気のぬるさや袖の長短が変わっていく中で、ただただ日々を繰り返す、繰り返す。気持ちはどこで何をしようともせず、ただ時に浸る。
「真子さん、パンツ見えますぜ」
わざとらしい丁寧語で思考が遮られた。
「嘘つけ」
ベンチに寝転がってはいるけれど、ちゃんとスプリングコートで隠れているはずだ。でも、なんとなく上体を起こす。
「有岡、ハニーは今何してるんだろう」
二人きりになると開口一番、これだ。
「知らね。とりあえず今日は入ってない」
「そんなことは知ってる」
真顔で答える。シフトはチェック済み。片想いをなめないで。
ここは大学の総合学生会館である蘭風館屋上。一階が事務所、二階が食堂、三階が購買店や書籍店。私たちがいる四階の楕円形になっている屋上は全面芝生で、ところどころにベンチが設置されている。
アルバイト同士の中で唯一同じ大学に通う私と有岡は、共に講義のない時間が重なると、よくこうして屋上で落ち合った。約束もしていないのに。何かに導かれるように。なんて、嘘。本当は。
「有岡、ハニーってね、ちくわをわさび醤油につけて食べることにハマってるんだって」
「渋っ」
「だよね、おじさんみたい。でも私、家でそれしてみたんだ。そしたらね、美味しかった」
「あっそ」
有岡が勝手に私のところに来ているだけだ。そして。
「あと、ハニーね、最近『罪と罰』読み始めたんだって。ドストエフスキーのね」
「ああ」
「そしたらね、奇人ばっかり出て来るって。テンションについていくのが大変だって言ってた。でも、私も読もうかな」
「うん」
そんな有岡を利用しているのは、この私だ。
「あ、それと、この前のカラオケで、俺の中でぐっすぴはもはや真子の声って言ってた」
「よく歌ってんもんな」
「そう、それがすごく」
春の陽気が渦を巻いて。
「嬉しかったの」
私はまるで目の前にいる彼を、傷つけるかのように、甘える。
「んで、それ、今日も吹いてくれるの?」
「しょうがねーなー」
ここに来る時は当たり前のように腕の中にある、使い古されたグレイのセミハードケースのチャックを有岡は惜し気もなく開ける。そこから脱皮するかのように顔を覗かせるのは、日の光に照らされて鈍く輝く金管楽器だ。
「トランペットも喜んでるね。毎回、私のおかげで日の目を浴びて」
「俺はお前に聴かせるために、中高練習してきたわけじゃねーぞ」
嘘、半分そうでしょ。なんて、図々しいにも程があるか。
「切ないやつ」
曲の雰囲気をリクエストする。そして、スプリングコートの形状を毛布のように整えながら、また空を見上げるように背中を固い座面に預けた。
「そんなことは知ってる」
先程の私の口真似をした唇を、そのまま真鍮製のマウスピースにあて、震わせる。
華のように開いたベルから響く憂いのある音が、空間を柔らかに支配していく。
あ、ぐっすぴだ……。
耳に届く音色に沈むようにこの世界からフェードアウトいていく私は、目を閉じる。
生暖かい風が、日の光を巻き込んで、少し染まった頬を撫でる。
私はハニーが好きだ。
好きで、好きで、どこにいても、何をしていても、私の思考はあなたに繋がる。
ごまかせない、息が出来ない、心が不安になる。
ねえ、そういう時、どうやって心を落ち着けるか知ってる?
私はね、利用するの。
私のことを好いてくれてる男の子の演奏を、利用するの。