320 暴走 ①
産声が、咆哮となって響き渡る。
人の姿をした怪物は、ひとしきり咆えると、突然糸が切れたかのように、その場に立ち尽くしたまま項垂れた。
冒険者や騎士たちは、パニックに陥っていた。
突如として司令塔を失ったのもあるが、何よりも、今自分たちの目の前にいるケインが、人の姿をしたナニカになってしまったと、本能的な部分が察してしまっていた。
そして、その本能は、彼らに「逃げろ」と強く警告してくる。だが、まるで鉛にでもなったかのように、彼らの足は一向に動く気配が無かった。
そんな中、一人の男が手にした得物を強く握り締める。
彼は、倒れた男の団に置ける、副隊長のような存在だった。彼は、己の信念を貫き通す姿勢を見せ続ける男を、心の底から尊敬していた。
その男が、目の前で死んだ。名誉も、尊厳も感じられない、無惨な形で。
それは、彼にとって耐え難く、強い怒りの感情を持たせる要因となった。
彼は、本心に対して怯える身体を無理矢理に落ち着かせ、警告を促す本能を無視し、怪物を強く睨み付ける。
「怯むな!見た目が変わろうが、所詮は人間!こちらの方が、依然数敵有利なのだ!この数を相手に、一人でどうこうできるわけがない!」
男は叫ぶ。そうすることで、仲間たちの戦意を取り戻そうとした。
そして、鉛のように重い身体を動かし、ソレに攻撃しようとしたその時、目の前の光景がぶれ、直後、胸部に異物を感じ取った。
「……え?」
男は、何が起きたのかを理解するのに、数秒の時間を有した。
そして、それを理解すると同時、己の血が引いていくのを感じた。
男の、ほぼ心臓に近い位置。そこに、異物が生えていた。白く美しい、鮮血で濡れた、怪物の腕が。男は鎧を着込んでいるというのに。
男は、怪物の目を見る。否、見てしまった。
「――ぁっ」
怪物の目は、濁っていた。
一点の光すらその瞳には映っておらず、怒りも、憎しみも、悲しみも、何も感じ取ることはできなかった。
そこで男は、ようやく悟る。自分が、何を相手にしようとしていたのかを。自分の身に何が起き、そして、これから何が起こるのかを。
だが、もはや声に出すことすら許されなかった。
怪物は、男の身体から腕を引き抜く。戻すのではなく、引き裂くように。
抉られ、飛んでいった肉片が、近くにいた別の騎士の鎧にベチャリと当たる。
そして、その肉片がボトリ、と地面に落ちた時、
『あ、あぁっ……あああぁぁぁぁぁっ!?!?』
冒険者たちは、騎士たちは、弾かれるように、その場から逃げ出すために駆け出した。
彼らの顔色は蒼白で、そこには恐怖しか無い。
先ほどまでは、彼らが有利な状況だった。もうすぐ訪れるであろう栄光に、僅かに野心を抱く者もいた。
だが今、彼らは自分の隣に死を感じ、逃げ出そうとしている。突然、何の前触れも無く現れた怪物に、己の死を悟ったのだ。
騎士たちが団体で逃げる中、冒険者たちは散り散りになって逃げ出す。
冒険者たちは、纏まって逃げるよりも、散り散りになった方が、一人でも生存する確率が上がるということを知っている。
だからこそ、無意識に散り散りになったのだ。
だが、怪物には関係の無いことだった。
怪物が左手を上げる。その瞬間、怪物を中心に、彼らが逃げようとしている方向、それより少し奥の位置までを、魔力のドームらしきものが包み込んでいた。
「え……な、なんだよこれ……!?」
「ま、まさか、と、閉じ込められ……っ!?」
彼らがその末端に辿り着いた時、その魔力に弾かれる。それにより、それぞれが退路を塞がれたことを察した。
突然現れたそれに、困惑する冒険者たち。
だが、彼らから離れた場所で、唖然と立ち尽くしていた一人の少女―ナヴィには、その光景に、この状況に見覚えがあった。
「セ……安息……!?」
「……え?セ、安息って、まさか、メリアさまの!?」
ナヴィが溢した言葉に、全員思わずナヴィを見やる。
ナヴィの目の中で、あの日の光景が蘇る。
目に映る全てが破壊され、目に映る生物が無惨に死んでいく、あの地獄のような日の光景が。
そして今、あの日と同じ光景が、ナヴィの目に映っていた。
だが、どういうわけか、怪物は一向に動く素振りを見せない。左手を下げ、項垂れたまま、その場に立ち尽くしていた。
その様子を見た一人の冒険者は、心の中で少しばかり安堵した。
この状況下で安堵する、というのもおかしな話ではある。
だが、理不尽な攻撃と、目で追うことすら出来なかった速度。あれらが自分にすぐには向けられないと知れば、多少なりとも安堵してしまうだろう。
まだ生きていられる。逃げられる望みが、倒せる望みがある。そう考えてしまう。
しかし、それが叶うことはない。
次の瞬間、それを考えてしまった冒険者の首は、唐突に地面を蹴り、近づいてきた怪物によって握り潰されてしまったのだから。
「ヒッ……!?」
自分たちの側に、一瞬で移動してきた怪物を見て、冒険者たちはさらに顔を青くする。なにせそれは、一種の死刑宣告のようなものだったからだ。
固まらず、散り散りになって逃げる。それ即ち、追い付かれたが最後、必ずどこかに犠牲者が出るということ。
そして、その犠牲者に、自分たちが選ばれたと、それを悟ってしまったからだ。
「くっ、クソッ!こうなったら――ッ!?」
「えっ、な――ぁッ……!?」
武器を握りしめ、抵抗しようとする冒険者たち。だが、抵抗する暇すら与えず、怪物は的確に彼らを殺していく。
それも、一芸だけではない。ある者は肺を、ある者は心臓を、ある者は頭を、ある者は首を。
異なる場所を抉られ、あるいは潰され、彼らは次々とその命を落としていく。
そして、十人程度いた冒険者たちは、一分と経たずして、全滅した。
しかし、今度の怪物は止まらない。
怪物は、足元に転がる死体を踏みつけながら、そのまま次なる獲物に標的を定める。
そして、即座に標的の元へと辿り付くと、一瞬反応が遅れた冒険者を、一撃で葬った。
『ひ、ひいっ……!?』
一人が、何の抵抗もできずに殺された、その様を見て、冒険者たちは怪物に背を向け、逃げ出そうとした。
もう逃げられない、すぐに殺される。それが分かっていたとしても、彼らの中の恐怖心が、身体に逃げろと命令を下していた。
しかし、怪物は彼らを追おうとする素振りを見せない。
かわりに、怪物は血濡れた右手ではなく、左手を突き出した。
いつの間にか手首辺りから指先にかけて、茶色く変色した左手を。
次の瞬間、左手は木が根を張るのように枝分かれをする。
そして、逃げようとする冒険者たち目掛け、まるで生き物であるかのようにうねりながら、その根は襲いかかった。
「っが……!?」
木の枝程度の細さにまでなった根は、冒険者たちの装備の隙間を縫うように入り込む。
そして怪物は、首元や脇腹、背中あたりに根を到達させると、そこに根を突き立てた。
その瞬間、彼らに異変が起き始めた。
「うぼぁっ!?な、なんぶぁごべばっ!?」
「あづっ!?がっ!?いだっ、あっ……!?ぼごぁっ!!」
彼らの皮膚が、まるで沸騰しているかのように赤くなる。それと同時に、彼らの身体が膨張を始めた。
「いだイいダイイだいッ!!」
「いぎっ……!?やガゃっ!わだ、じにぢ二ゃぐナ――ッ!!」
身体全体が膨張し、言葉すらまともに出せなくなる。
そして、彼らの身体が水風船のように膨らみきったその時、彼らの身体は、同じく水風船のように破裂した。
破裂した彼らの血が、水のようにその場に撒き散る。
そして、彼らの体内にあった、ベチョッとしたモノが、そこら中に張り付いたり、落ちたりする。
見ているだけでも吐気が止まらなくなるような、おぞましい惨劇が、そこにはあった。
そして怪物は、次なる獲物に向かって、ふらふらと動き出した。
仲間たちが手も足も出なかった怪物が、自分たちにゆっくりと近づいてくる。その恐怖は、次の獲物に見初められた者たちにとって、耐え難いものであった。だが――
「ウっ……」
「……っ、動きが、止まった……?」
「アぁ、ぐっ……!?」
怪物が獲物に近づき、再び蹂躙が始まるのかと、誰もがそう思ったその時、なぜか怪物の動きが止まった。
怪物は、血濡れた右手で顔を抑える。苦悶のような声が、怪物の口から漏れる。
狙われた冒険者たちは、その一世一隅のチャンスを逃さんとするべく、震える身体に鞭を打ち、立ち向かおうとした。
だがそれは、チャンスなどではなかった。彼らは逃げるべきだった。そうすれば、もう少し長く、生きられたというのに。
「アっ……うッ、アあぁアぁァァぁァァッ!!」
「な、何だっ……!?」
「お、おい……何だよ、あれ……!?」
怪物が、突如吠える。
その瞬間、どこか痛々しい魔力が、衝撃波のような風となって放たれる。
その風に、一瞬気圧された冒険者たちだが、すぐに持ち直し、怪物の方を見た。
そして、その顔を、更なる恐怖で歪ませることになった。
吠えた怪物は、再びだらんとした様子で、頭を垂れて立っていた。
だが、突如として、その怪物の右側頭部と左目辺りに、炎のように妖しく揺らめく魔力が吹き出す。
そして、怪物が顔を上げると同時に、その魔力は霧散するように消えた。
そこに、先ほどまでの怪物はおらず、かわりに、紫が混じった黒い眼球と、青白い瞳の左目に、右側頭部に異質なほどに妖艶さを感じさせる黒い角を生やした怪物が、そこにいた。




