金魚と鰐
すいのすいのと金魚が泳ぐ。ゆらゆらと動くその尾ひれは夏の優雅である。けれど水槽の世界で生きることは私には難しい。私はもっと自由に生きたいのだ。縛られていきたくはない。
「ぐぇ」
けれど私を後ろから物理的に拘束する男がいる。そいつはまさに私から自由を奪う鎖だ。夏のにおいが鼻を掠める。
「熱い汗臭い離れろ苦しい」
「やーだー、離れないー」
どうしてこうも男というものは体温が高いのだろう。男の半径一メートル圏内は湿気が割り増し状態である。こういうときだけは、目の前の金魚の水槽がとても涼しげな楽園に見える。もがいても絡みついて離れない男とともにいるよりは、水槽の閉じた空間のほうがましな気がしてきた。
「だって金魚のことばっか見てんじゃん。 俺と一緒にいるんだから俺のことだけ見ててよ」
どこの甘えただよ。おまえは小学生か、と言いたいのをぐっとこらえる。余計なことを言って余計にへばりつかれたらたまったもんじゃない。
ぐりぐりと肩口に頭を押し付けてかまってカマッテと黒髪が主張する。黒い色を見るだけで暑苦しくて勘弁していただきたい次第である。ぐりぐり、ぐりぐり。それに同調したのか、水槽の中の金魚もひらひらとこちらに向けて尾びれを振り始めた。ぐりぐり、ひらひら。
「んんん、かわいいねぇ」
勝者は金魚。理由は涼しそうだからだ。つい餌を挙げたくなってしまう。けれども餌を多めにあげてしまうとあとは肥えてしまうだけだ。不健康、駄目、絶対。なるべく長生きしてほしい。結局水槽を撫でるだけに留める。
「俺のがぁー! 俺のがかわいいしー!」
「やかましい、黙り!」
そうはいうものの、あまりのかわいさに心が暴れだす。暑い、暑い、暑いけれども可愛い! だめだ。ごめんよ金魚。見た目はごついのになんてかわいさだよ。
この男はどちらかというとワニとかそんな感じの雰囲気を醸し出しているのに、ヤーさんのような種類の見た目をしているというのに、甘えたででろでろでかわいい。正直しんどい。これでチャラそうな雰囲気と顔の男だったらベストマッチの気がするのだが、私はこのミスマッチ感が最強のかわいさだと信じている。
「あぁもう、はいはい可愛いね可愛いね! あぁぁ可愛い可愛いなんでそんなに可愛いんだよもう!」
背中にはっついている奴の頭を思いっきり撫でくりまわす。ザ・男といわんばかりの硬めの髪質は、チクチクと私の掌を攻撃してくる。それすらも可愛く思えてくるのだから末期だ。箸が転がっても面白い、ならぬ髪が硬くても可愛いだ。
「ああもう暑い! けど可愛い!」
男の腕を二三度タップする。ギブアップだ。これ以上身動きが取れないのはじれったい。私の意をくみ取ったのか、とりあえず力は弱まった腕を強引に脱出する。その時に聞こえた悲痛な叫びは聞かないふりだ。なんせ私がこれから味わうことになる熱地獄を思えば可愛いものだから。
「はい! さあどうぞ! 飛び込んでおいで!」
ガーン、といった効果音が付きそうなほどしょぼくれている男に両腕を広げる。こんなくそ暑いのに耐えきれなかったのだからしょうがない。男のわしわしとかまってやりたくなるオーラは天下一品だ。背後から抱きすくめられていたのでは存分に構うことすらできやしない。
しょぼくれていた表情は一瞬で輝くものへと変化する。まったく、敵わないったらありゃしない。全身で嬉しいと表現してくるごつい男は勢い込んで腕の中へ飛び込んできた。それはもう全力で。
「んごふっ!」
「好き!」
好き! か。そりゃあよかった。私も大好きだよ、とは衝撃で息を詰めているこの状態では口に出せるわけもなく。いたしかたなしでその短い髪をかき撫でる。ああほんと、かわいいったらありゃしない。
遠くでぴちょんと、存在を忘れたことを抗議するかのように水がはねた。
ごめんよ、優雅で綺麗な金魚さん。私にはどうやら、このごつくて厳つくて可愛い要素なんか一かけらもないこの男のほうがかわいくて仕方ないみたいだ。この腕になら、縛られてもいいかと思えるくらい。