8 黒崎八式、司藤アイを励ます
「なんで……アンタがロジェロやってるのよッ!?」
「声が聞こえた時に、もしやと思ったが……司藤かよ……」
黒崎の顔をしたロジェロは、げんなりした様子で言った。
(ううッ……最悪! この後何をどうするのか分かんないけどッ……
原典だと、ブラダマンテってロジェロに一目惚れして、この時点で相思相愛なんだっけ?
綺織先輩とならともかく、なんでよりによって黒崎のアホなんかとッ……!)
アイが黒崎に対し、ここまでマイナスの感情を抱いているのにも理由がある。
実は彼女は――現実世界で一度、憧れの先輩・綺織浩介に想いを告げた事があった。その直後に黒崎が取った態度を、どうしても許せなかったのだ。
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アイは恥ずかしながら、まともに恋愛らしい恋愛をした事がない。
綺織浩介と知り合ったのは、家族ぐるみの付き合いでの顔合わせ。
淡い恋心を抱いたきっかけは、アイが足首を挫いた時。彼は穏やかに微笑みつつ、てきぱきと応急手当てを行った。
漫画や小説でよくあるベタな展開だなぁ、と思いつつも――彼に惹かれているのを実感した瞬間である。
わずか3年の差だというのに、綺織の落ち着いた物腰、さり気ない気遣いは、とても大人びているように思え、魅力的に映った。
父親が厳格な割には身勝手な性格であったため、アイにとって綺織のような男性との出会いは初めての体験であり、何もかもが新鮮に思えた。
しばらくしてアイは、勇気を出して綺織に自分の気持ちを打ち明けた。
『綺織先輩! わたし……先輩の事が、す、好き……なんですっ!』
『うん、僕も司藤さんの事が好きだよ』
『そ、そうなんですかっ! だったら、わたしと……つ、付き──』
『いつも一緒に遊んでくれる赤羽根くんも好きだし、社会史学の理森先生も好きだなぁ』
『…………えっ』
綺織浩介は優しい。大学生にもなって、あり得ないほどの聖人ぶりだった。
そんな優しさにアイは心惹かれた訳だが……彼の言う「好き」はラブじゃない。ライクの方だった。
結局その後、それ以上押しの告白を続ける勇気も気力も無かったアイは、先輩の笑顔に流されるまま、喫茶店でランチを奢ってもらった。
フラれた訳ではない。気づいてもらえなかっただけ。いくらでも再アタックのチャンスはある。自分にいくら言い聞かせても……精一杯、一世一代の告白のつもりであったアイの心は深く沈んだ。
(あの後、黒崎のアホがいつもの調子で、ちょっかいかけてきたのよね……
思わずブン殴ってやったわ。顔面にグーパンチで。
あんな本気で男子を殴ったの、小学生以来だわ……)
盛大に鼻血を噴き出した黒崎も、その日ばかりはそれ以上何も言わず、ただアイの下を立ち去った。
それ以来、黒崎には会っていない。そして……数日後、綺織先輩とも連絡がつかなくなった。
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本当に、この男――黒崎八式に関しては、ロクな思い出がない。
「……なんでって言われても。オレだって訳分かんねーよ。
綺織の家に押しかけてから……記憶が曖昧でさぁ。
気がついたら、この……ロジェロって名前の騎士になっちまってて」
どうにも証言があやふやだが、どうやら黒崎も魔本「狂えるオルランド」の中に引きずり込まれたようだ。
念話で文句を言った下田教授からは「精査する」と言われたきり、未だに返答はない。
不本意な展開続きではあるが、ひとしきり怒鳴り上げたアイは少しだけ平静になった。
考えようによっては――この物語の世界に自分と比較的近い価値観を持つ人間がいる事は、大きなアドバンテージに繋がる。
例えそれが、事ある毎に自分にちょっかいをかけてきた、鼻持ちならない悪友の腐れ縁であったとしても。
思い直した司藤アイは、大きく深呼吸してから口を開いた。
「わたしも、この本に引きずり込まれたのよ。ブラダマンテ役でね。
下田三郎っていう教授が言うには、物語を最後まで進めてハッピーエンドを迎えれば、また現実の世界に戻れるんだって」
「……マジかよ。っていうかその話、信用できるのか?」
「できない」
「できないのかよ!?」
「でも、他に考えられる方法もアテもないのよ。
黒崎。アンタだって、この本の世界から外に出たいでしょ?」
「……お、おう。まあな……」
「だったら協力しなさい。物語をやり遂げなきゃ、いつまで経っても本から出られない。
最悪の場合、ここで死んだりする、かも――しれない――」
突如、勝ち気だったアイの言葉が途切れてしまう。
思い出してしまったのだ。先ほどの戦いの場面を。
大泥棒ブルネロの右手を誤って斬り落としてしまった事を。そして彼が、谷底へと滑り落ちてしまった時の断末魔を。
「……司藤? 大丈夫か……?」
アイの表情が青ざめているのに気づいたのか、黒崎は心配そうに声をかけた。
「……大丈夫、やり遂げなきゃ……演技だけど、演技じゃない……
騎士の物語だもの、殺し合いだって起きる……当たり前、じゃない……
こんな事で、へこたれてたら……ダメ……」
目の焦点が合っておらず、彼女の瞳は黒崎を捉えてすらいなかった。
自分に言い聞かせるかのように、ブツブツと呟く姿は――黒崎から見ても危うさを強く感じた。
「おい、司藤……! いや、ブラダマンテ。しっかりしろッ!」
黒崎は咄嗟に、女騎士のほうの名前を呼んで、その腕を引いた。
深い考えがあった訳ではない。ただ、物語の名を呼んだ方が、彼女を勇気づける言葉を言いやすいと思った。
「ここに来るまでに、誰かと殺し合ったのか?」
「……うん……」
「それが、恐ろしかったのか。血を見るのが?」
「ううん。血そのものは、割と平気。わたしだって一応、女の子だもの。
ただ……わたしが未熟だったせいで、必要以上に相手を傷つけてしまって。
そのせいで、相手はわたしを殺そうと向かってきて――それが、怖かった」
アイは意外と素直に、自分の感情を吐露できている事に気づく。
黒崎も必死で、彼女を安心させようと考えながら話を続けた。
「……この物語が、中世の騎士道を題材にした話で良かったかもしれねえな」
「どうして?」
「騎士って連中は戦いの中にも、大惨事にならないようルールを作る為に生まれたんだ。ただ略奪したり殺戮するんじゃ、蛮族と変わらねえし」
「…………」
「困った人は助ける。貴婦人は大事にする。必要以上の戦いは求めない――
騎士道のお陰で、凄惨な殺し合いの場面って奴はそんなに多くないんだぜ」
「そう、なんだ――」
黒崎の言葉は、まるっきり気休めという訳でもなかった。
騎士道じたい、実際の歴史において成立したのは、14世紀以降――火縄銃や大砲が発明され、職業軍人としての騎士の価値が形骸化していく頃ではあったが。
「狂えるオルランド」は実際の歴史ではない。生きた騎士道が存在する世界だ。
だから馬上槍試合で打ち負かした時点で決着がついたり、命の取り合いまで発展せず身代金や代償を支払って解決、というケースも見られるのである。
「オレもこの城に囚われるまで、こっちの騎士と実際に何度かやり合った。危ない目にも遭ったさ」
「――怖くなかったの?」
「こっちを打ち負かそうと本気で武器を振り回してくる連中だ。面と向かって、怖くない訳がねえ。
だから必死だったよ。無我夢中で打ち合って――幸いロジェロって、結構強いんだな。
オレがへっぴり腰なせいで、泥仕合な時もあったけど……何とかこうして、生き延びてる」
司藤アイは、不思議な感覚に捉われた。
目つきの悪い、斜に構えた、憎たらしさしか感じなかったはずの腐れ縁の顔に……ふと見入ってしまったのだ。
「だから――その、あんまり思い詰めんなよ。
オレだって生きてこの本から脱出したい。だから……協力するよ。
もしこの先、殺し合いに発展しそうなヤバい場面になったら、オレが何とかしてやるから、よ――」
言葉の最後はぎこちなく、黒崎は目を背けてしまっていたが。
それでもアイにとって、彼の協力的な言葉は救いだった。現実世界の自分を知る者は、今までこの異世界に誰一人としていなかったのだから。
(……何よ、黒崎のくせに。ちょっとは頼もしい事、言えるんじゃない)
「……なんか、不思議な気分ね」アイは落ち着きを取り戻し――クスクスと笑って言う。
「え?」
「小学生の頃はさ。アンタが泣いてた事あったじゃない。いじめられっ子でさ。
わたしが割って入って助けてたの、思い出しちゃった。あの時と逆よね――」
「ぶうッ!? お、お、お前……! そんな大昔の事、まだ覚えてたのかよッ!?
ふざけんな! 時効だ、時効! オレは忘れた! 記憶にございませんッ!!」
今度は黒崎が顔を真っ赤にして叫ぶ番だった。
司藤アイは、気づいていただろうか。
今この時――異世界に来てから初めて、自分が心の底から笑えていた事に。
* 登場人物 *
綺織浩介
環境大学の二回生。司藤アイが淡い恋心を抱く憧れの先輩。