5 魔法使いアトラントの襲来
ブルネロが角笛を吹き、姿を眩まして逃げ出した後。
カレナ山頂にある真鍮の城から、飛び立つ影があった。
頭が鷲の形をした馬で、巨大な翼が生えた幻獣ヒポグリフ。
その背中には、黒いフードを纏った人物が跨っていた。右手に謎めいた呪文書と、左手に朱色の布に覆われた円形楯を構えている。
ヒポグリフは猛スピードで空を駆け、角笛の吹かれた方角を目指した。
やがて見えてくる。峡谷の狭苦しい道合いに、馬に乗った白い意匠に身を固めた騎士の姿が。
「……貴様か。無謀にして新たなる挑戦者は! 我が名はアトラント。
今まで幾人もの騎士がワシの虜囚を解き放たんと挑んできたが、そのことごとくは我が魔術の前に敗れ去った。
貴様の名を聞こう。捕えた後、我が城の住人となった時のためにな!」
ヒポグリフの乗り手は上空を漂ったまま、眼下の騎士に嘲るように叫んだ。
白い騎士――ブラダマンテもまた、負けじと声高に宣言する。
「我が名はブラダマンテ!
クレルモン家エイモン公の娘。貴様の悪行を正さんとここまで来た!
邪悪なる魔法使いよ。覚悟するがいい!」
堂々たる名乗りを上げた騎士が女だと知って、頭上の魔法使いは少しだけ驚いた様子だったが……
やがて口元をニヤリと歪め、高度を保ったまま右手の呪文書を紐解き、不気味な詠唱を始めた。
「――剣よ、槍よ。雨となれ。
青天の霹靂のごとく、春先の遠雷のごとく。
手向かう者の、肉と魂の全てを削ぎ落とすべし!」
魔法使いアトラントの呪文と共に、彼の周囲に何十もの剣や槍が出現し――文字通り雨あられの如くブラダマンテに降り注いだ!
「くッ…………!?」
恐るべき術だ。ブラダマンテが懸命に槍を振り回すと、彼女を切り刻まんとした幾本かは叩き落とす事ができたが……それでもなお、魔術で生み出された武器が次々と迫る!
女騎士の乗っていた馬や、彼女の鎧を掠め、無数の細かい負傷を作り出した。
「まだまだ序の口ぞ。――剣よ、槍よ!」
アトラントはさらに呪文を唱え続ける。
間断なき剣や槍の雨が、容赦なくブラダマンテに叩き込まれた。
空飛ぶ術を持たぬ彼女は反撃できず、防御するより他ない。
卑劣極まりない魔術の力に晒され、見る間に追い詰められていった。
(ええええ、ちょっと……この戦術はないんじゃない!?
こっちの武器が届かない空から延々、剣や槍を降らすなんて……
そんな事されたら、どんなに強い騎士だって敵いっこないじゃない!)
とうとうブラダマンテの馬は力尽き、その場にどうと倒れ伏す。
ブラダマンテはどうにか命を奪われず、必死で防戦していたが――いかな歴戦の女騎士といえど、こうも一方的に攻め立てられては、どうする事もできない。
邪悪なるアトラントはヒポグリフに乗ったまま、遥か上空に留まったままなのだから。
「……はあッ、はあッ……卑怯者め!
今まで貴様に挑んだ騎士のことごとくを、このような不名誉な手を使い、嬲ってきたのかッ!?」
「生憎と、ワシは騎士ではないのでな」アトラントは無慈悲に言い放った。
「貴様らが勝手に決めた、騎士道などというごっこ遊びのルールなど知った事ではない。
単純な理だ。貴様にはワシに勝てるだけの力が無かった。それだけの事よ!」
冷酷なる魔法使いは呪文書を懐にしまうと、今度は己の楯に被せた朱色の布に手をかけた。
「だが安心しろ、殺しはせぬ。女とはいえ、これだけ長い時間『剣の雨』をしのぎ切った騎士だ。
我が息子ロジェロの傍に仕えさせるに、相応しい逸材は他におるまい。今ここで楽にしてやろうぞ!」
(えっ、息子……!? この魔法使い、ロジェロの親御さんだったの?)
アトラントは勝利を確信し、円形楯の布を剥ぎ取った。
たちまち楯から目映い輝きが放たれる!
ブラダマンテは咄嗟に目をつぶったが、間に合わなかった。
アトラントの魔法の楯の光を浴び、意識を保つ事ができず力なく地面に転がってしまう。
「くくくッ。他愛ない事よ」
アトラントはヒポグリフを地上に走らせ、ゆっくりと地に降りた。
そして背中から銀色の鎖を取り出す。気絶させた騎士はこれを使って拘束し、己の城へと連れ去るのだ。
魔法使いが倒れたブラダマンテまで、あと5歩まで近づいた――その時だった。
突如、岩陰から小さな人影が飛び出す!
不意を突かれたアトラントは一瞬で押し倒された。
「へっへっへ! 久しぶりですなぁアトラントの旦那!
敵が一人とは限らない! 油断大敵ってヤツですぜェ!」
奇襲をかけたのはサラセン人の小男――大泥棒ブルネロであった。
一旦ブラダマンテから逃走した後、こっそり戻り、身を潜めつつ――アトラントが捕虜を得ようと降り立つ一瞬の隙を、じっと待ち構えていたのである。
倒れた拍子にアトラントの黒いフードが外れた。齢七十にもなりそうな年老いた男の素顔であった。
「がはッ……貴様、おのれェッ……!」
「おおーっと、無駄な抵抗はしなさんな、非力な老いぼれめ!
あっしにはどんな魔術も無効にする素晴らしい指輪がある。旦那があっしに抗う術は何一つありやせんぜ!」
ブルネロの右の中指に嵌まった金の指輪を見て、アトラントは絶句した。
彼も噂には聞いていたのだろう。無敵の魔法の指輪の事を。
「……貴様、何が望みだ……!」
「ロジェロさんを返していただきましょう。他、旦那が今まで捕えたサラセン人の騎士全員も解放していただきたい。
旦那は派手にやり過ぎたんですよ。魔術の力で次々と騎士を捕える手腕は見事なものでした。
しかしロジェロさんは、我が主・アフリカ大王アグラマンにとって、フランク王国を征服するための大事な手駒なんです。あんな辺鄙な城に閉じ込められちゃ困るんですよ」
ブルネロの勝ち誇った物言いに、老人アトラントは悔し涙を流した。
「うう……ワシは哀れな息子、ロジェロの行く末を占ったのだ。
すると息子は、キリスト教に改宗して間もなく、むごたらしい奸計を受けて死に至ると出た。
ワシはただ、息子に告げられた残酷な死の運命を避けたかった。それだけだったのだ……」
アトラントの言葉は、ブルネロにとって世迷言にしか聞こえなかった。
自分と同じイスラム教徒が、占いに頼って息子の死の運命を悟った?
それを回避したいだけのために、これだけ大掛かりな誘拐事件を引き起こしたというのか。
「アトラントの旦那。元々あなたにはキナ臭い噂がありましたが……どうやら事実だったようですね。
あなたもイスラム教徒の端くれなら、よーくご存知のはずだ。
正しき未来を告げるのは、ただ神のみであると。
全ての運命は神により定められている。それを人の身で覆そうなどという考え自体が、おこがましいのですよ」
「……どうやら、そのようだな。もういい、疲れた――ワシの命が欲しくば、好きにするがよい」
魔法使いの老人は全てを諦めた様子で、捨て鉢に言った。
「ええ、そうさせて貰いますよ。旦那は我が帝国にとって邪魔な存在でしかない。
あなたの命と、数多くの虜囚の解放を以て、あっしはさらなる褒美を大王から授かるとしましょう」
* 登場人物 *
アトラント
老魔法使い。ロジェロの育ての親。




