10 本の悪魔・Furioso(フリオーソ)★
時間はやや遡る――現実世界にて。
「と、ともかくだ。こっちでも情報を精査してみる。しばらくの間待っていてくれ――」
大学教授・下田三郎は動揺していた。
想定外の事態がアイの念話で発覚し……思わず手にしていた『狂えるオルランド』上巻のページを閉じてしまったのだ。
これまでの司藤アイの冒険の内容は、本を読む事で確認する事ができた。
だがそんな事は、下田にとって何ら気休めにもならないものだった。
(くそッ。何なんだこれは。アイ君はどうにか無事、魔法使いアトラントとの戦いを生き延びたが……
さっきから想定外の事態ばかり起こっている。泥棒ブルネロに逃げられたり、危うく殺されかけたり……!
そもそもブルネロは、原典ではただのやられ役だった。ブラダマンテに魔法の指輪を奪われるだけの存在のハズなんだ。
なのに何故、こんな危機一髪の状況に陥ったりしたんだ……?)
『狂えるオルランド』の詳細を知らない読者には、いささか分かりづらい話かもしれないが。
要するに「原典と微妙に違う展開」になっているという事である。
下田は額に冷や汗を浮かべ、本の表紙を睨みつけ――そして叫んだ。
「何なんだこれはッ! どうしてこうなった!? 説明しろォッ!!」
傍から見ればその様子は、本に向かって怒鳴りつける頭のおかしい中年の図であったが。
下田の言葉に応え、タイトルのイタリア語文字……「Orlando Furioso」のうち「Furioso」の部分が不気味に蠢いた。
Furioso。イタリア語で「激しく」「熱狂的に」といった意味を持つ単語だ。
文字の配列がかき混ぜた絵の具のように動き回り……やがて悪魔じみた顔のようになった。
『何も驚くに値しないんじゃあないかい……下田。
引きずり込まれた人間の潜在意識によって、物語の詳細は毎回異なっていくものなのさ。
誰がやっても、毎度毎度同じ話じゃあ、つまらないだろう?』
甲高く不快な、作り物めいた癪に障る声が響く。
下田にしか認識できず、下田としか意志疎通できない。この本に宿る「意思」。
下田教授がアイを選んだのは、彼の独断ではない。
この本から聞こえる声に従ったのだ。いや、従わざるを得なかったのだ。
「本の内容が面白いかつまらないかなど、どうでもいいッ!
私の目的は、本に引きずり込まれたアイ君を脱出させる事だけだッ!」
『だったらなおの事、積極的に協力してほしいね。
ボクの力添えがあったからこそ、きみはマーリンの姿を借りて彼女に事情を説明できたんだよ?
こっちの目的は、よりよい物語の過程と結末を見る事なんだからさ』
下田が押し黙るのを見て、悪魔は笑みを大きくする。
『彼女……司藤アイだっけ? なかなかの逸材じゃあないか。
ブルネロにしてやられたのに、仲間のメリッサを利用してペテンを仕掛けていたなんてね。おっとりしてる風に見えて、意外と頭が回る女の子だねェ。
彼女をみすみす死なせたくないって点じゃ、お互いの利害は一致するだろう?』
本の声は、焦る下田を煽るかのように嫌らしく囁いてきた。
死なせたくない? 恐らく本心ではあるまい。
下田にはそう確信するだけの証拠があった。
「貴様。そんな風に何人もの人間をこの本の中に引きずり込んで、殺したのか!」
『人聞きが悪いなァ。殺してなんかいないさ。
失敗した人々の魂は、ちゃんと大事に保管してある。傷ひとつつけちゃいない。
本の末尾に、名前の一覧が載っていただろう?
失敗したのに命を取らずに保護してるんだぜ、ボクは?
感謝されこそすれ、誹謗される謂れはないと思うんだけどなァ』
下田は憤りの余り歯ぎしりした。
「声」の言う通り、確かに載っていた。本の奥付の下に、見知らぬ男女の名前の一覧が。
その数なんと45人。念のためインターネットを通じ調査してみたが――皆、行方不明者として何年も、何十年も経過している人々ばかりだ。
「……悪魔だ。貴様は――この本に宿る悪魔でしかないッ……!」
『何とでも言いなよ。そんなにボクが気に食わないのなら。
いっそ、本ごとボクを燃やしてくれたっていいんだよ? それで万事解決だ。
これ以上の犠牲者は出なくなる。でも勿論……本の中に引きずり込まれた人々は皆、助からずに死ぬけどね?』
「ぐぐぐッ…………!!」
『まあそう、いきり立つ事もないでしょ。
下田三郎。ボクはきみの事は結構、気に入っているんだよ?
何しろこの本に引きずり込まれず、ボクの声を聞ける上、意思疎通が可能な人間なんて……今までいなかったんだ。
しかもブラダマンテに憑依しているアイと直接会話までできるんだぜ? 凄い事だよこれは!
きみたちのような好条件に恵まれた”読者”は初めてさ。だからボクも期待してるんだ。
状況は思ったよりも悪くない。今まで失敗した45人に比べれば――ね』
本の悪魔は猫なで声で下田に語る。だがこいつが、どこまで本当の事を言っているのやら。下田には見当もつかなかった。
『そんな素敵な下田に特別サービスで重大な情報をひとつ、教えちゃおう。
物語通りの展開――ハッピーエンドに司藤アイを導きたければ、先の展開の答えを”あらかじめ教える”行為は控えるべきだ。
今までのでハッキリしたけれど――きみが彼女に情報を与えれば与えるほど、物語の展開がご都合主義から外れ、原典よりも厳しい事態に陥る』
「なん……だと……!」
下田は絶句した。
異世界転移モノで鉄板の「知識のアドバンテージ」が使えない。
いや正確には使えるが、使えば物語の難度が上がってしまう。
『リラックスしなよ、下田? まだ物語は始まったばかりだよ?
今からそんな調子じゃ、最終歌に至るまで身体が持たないよ。
それにホラ――本の続きを読んでごらん。
司藤アイは黒崎八式の協力を得て、どうにか恋仲を演じる事ができたみたいだ』
下田はがば、と身を乗り出し、再び魔本「狂えるオルランド」を開いた。
最新ページを読むと……確かに本の悪魔の言う通り、ぎこちないながらも二人はブラダマンテとロジェロの役柄を演じ切っている。
「よかった……無事だったか。アイ君……」
下田がやっている事は罪深い。本の悪魔・Furiosoに唆されたとはいえ――本来なら無関係の司藤アイを、危険な魔本の世界へと導いた張本人は、間違いなく彼自身なのだ。
いかなる助言をしようが、彼女の安否を気遣おうが――許されたりはしないだろうし、アイはきっと下田を恨む事になるだろう。
(償いになろうがそうでなかろうが――私は為すべき事だけは、為さねばならん)
「――待たせたな、司藤アイ君!」
下田三郎は悲壮な覚悟を決め、ブラダマンテを演じるアイに向かって念話を送るのだった。
(第1章 了)
* 登場人物 *
Furioso
魔本「狂えるオルランド」に宿る悪魔的な意思。この事件の黒幕。




