二、ただ、彼女を救うため
鎌倉のとあるの古道に、一人の少女が倒れていた。輝明学園の制服とポンチョに身を包んだ、ツインリボンの銀髪少女は、息も絶え絶えに呟く。
「み、水……」
そこへ通りがかった少女は、慌てて駆け寄って少女に水と食べ物を与えて介抱し始めた。
「こ、ここは……?の、喉が渇いて仕方無いのよ……」
少女は、介抱していた少女に呟く。
「この道を通って生きているなんて、あなたが始めてかもしれないよ。だって……、大地が水を……血を求めているんですから」
そう告げると、顔を真っ青にした少女は再び意識を失う。
ここは、紅い月の下。彼女は助かったのだろうか?
その手に、ある陰陽師の写真を片手に。
予兆、というものがある。何かが起こる前の兆し、というものだ。
たとえば、新しく買った靴紐が切れたり、誰かの茶碗や湯飲みがひとりでに割れたりといったものは、不吉の予兆。それらは特に「凶兆」と呼ばれた。
この日、土御門明守にも凶兆が見られた。
もっとも、彼の場合、靴紐が切れたり茶碗や湯飲みが割れたりという、物理的な、そしてわかりやすい現れ方はしなかった。
人は夢を見る。そして、それは単なる記憶の反芻かもしれない。あるいは、これから起こることのシミュレーションなのかもしれない。または、特に意味のないものなのかもしれない。
だが、陰陽師の、いや、ウィザードたちの見る夢は何かしらの意味がある。
陰陽師であり、傷ついた仲間を癒し、補佐するヒーラーとしての役目を担う明守は、この日、不吉としか言い表せない夢を見た。
明守の視界に写っていたのは、赤。そして、花だった。
形と今の時期に咲くことを考えると、あれは紫陽花だ。その紫陽花の根元に、一人の少女が倒れていた。その少女を見下ろすような形で、鮮やかな銀髪をした、ポンチョを身にまとった少女が口を三日月の形にゆがめながら、笑っていた。
明守は、その二人の少女に見覚えがある、ような気がした。
その日、明守は鎌倉にある紫陽花寺という寺を訪問していた。
紫陽花を見に来たわけではない。土御門神社の神主であり、陰陽師の大家・土御門家の現当主であり、明守の父親であり、師匠でもある護から今回の一件はお前が対処しろと命じられてここに来た。
そうでなければ、わざわざ秋葉原から一時間近くもかかり、かつしばらく歩かなければならない場所まで単身で赴くことはない。
というわけで、任務を受けた明守は、紫陽花寺の管理人である北条まさこという女性と向かい合って座っていた。
「よく来てくれました、土御門家のお若いの。いえ、明守くん……の方が良いかしらね……今回、お願いするのは他でもありません。どうしても気になる事件がありまして、その調査をお願いしたいのです」
「……気になる、というと?」
気になること、という部分が気になり、思わず明守は聞き返した。
その言葉に、まさこは一度だけこくりとうなずき、話をつづけた。
「それは、紫陽花の頃に現れる幽霊の噂です。最近に始まったことではありませんが、ある怪談話をキッカケに行方不明者が出ているのです」
「……続けてください」
「はい、では続けましょう。その幽霊の話なのですが、よくある怪談の一つだと思われてました。しかし、この紫陽花が咲く季節になると、その幽霊が現れるというウワサを聞きつけてきた若者が肝試しと称して、とある夜の古道へと入っていくのです。ですが……」
少しばかり言いよどみ、まさこは首を左右に振り、溜息をついた。
それだけで気持ちを切り替えられたのか、明守をまっすぐに見つめなおし、話をつづけた。
「その古道に入った者達は行方不明となるか、無事帰ってこられても廃人となるか、そのいずれかの道を辿ってしまいました」
そう、どこにでもある、たちの悪い怪談のような話だ。
しかし、その程度のことなら、明守が、世界の守護者たるアンゼロットとの縁を持つ陰陽師が呼ばれるはずがない。
その証拠に、まさこは明守に一枚の写真を手渡した。
「……っ!」
それを受け取った明守は、眉をひそめ、険しい顔つきになった。
その写真に、彼は見覚えがあった。
たしか、これは輝明学園の入学式で撮った写真だったろうか。黒い長髪をした儚げな少女と明守がはにかんだ笑顔を浮かべながら、並んで映っていた。
「この写真をご覧下さい。写真に映っているのが、貴方なのです。その隣には、可愛らしい女の子が。もしかして、何かあったのでは、と思って……それも含めて調査をお願いします」
説明されなくてもわかる。写真に写っているのは自分と、幼馴染の月影桔梗だ。
そして、明守と同じく、魔術師として、そしてヒーラーとして侵魔と戦うウィザードだ。
普段なら、いや、これが見知らぬウィザードであれば、また巻き込まれたのかという程度にしか思わない。しかし、冷静沈着であることに定評がある明守にしては珍しく、動揺していることが一目見ればわかった。
明守は目を閉じ、一回、深呼吸をし、まさこに向き合った。
「……承りました。この依頼、必ず成し遂げましょう」
必ず成し遂げようなどという言葉は、明守は依頼を受けるときには使わない。しかし、そう宣言した明守の瞳には、珍しく激情がともっていた。
「……少し、協力者を募りたいので、失礼します」
「……ええ。どうぞ」
断りを入れて、明守はその場を離れた。
紫陽花寺の門のところまで、明守はその柱を思い切り右手のこぶしで殴りつけた。
殴りつけてなお、肩で荒く息をし、うつむいていた。
「……桔梗……絶対、助けるからな」
手にした写真を握りしめ、明守は苦しげにつぶやいた。
なぜなら、桔梗は明守にとって、ウィザードとしての同僚であり、学校の同級生であり、幼馴染であり……想い人であったから。
しかし、その想いは、おそらく明守が彼女に向けた一方的な感情だ。いわゆる、片思い、というやつだが、それでも、大切な人に変わりはなかった。
「……まだ、伝えてないんだ……お前のこと、好きだって……だから、絶対、助けるからな……」
今にして思えば、あの夢が予兆だったのだろう。
しかし、今更それに気づいたところで、彼女の無事が保障されるわけではない。
自分の中から浮かび上がってきた悔恨と憤りをどうにか腹の中に収め、明守はかつて任務をともにした仲間に連絡を入れた。
ただただ、想い人である彼女を救いたいがために。