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一生完結しません。ほんのり同性愛的な表現があります。

 ――さて、この事件の真相は


 そこまで書きながら私の指はキーを打つのを止めてしまった。一瞬だけ軽快に音が響いた室内は今日何度目かの静寂に包み込まれた。厚いカーテンの向こうは太陽が支配しているのか月が支配しているのか分からない。どちらが支配しているにしろ、一日中室内に居る私には全くと言って良い程関係がない。まあ私一個人としては月が支配してくれていると良い。太陽の強い光は目が痛くなってしまうからだ。

 眠気覚ましの濃いハイビスカスティー――私はコーヒーが飲めないので酸っぱいこの紅茶がお気に入りだ――を淹れながらカレンダーを見た。ここしばらくのカンヅメで日付の概念がごっそり抜け落ちてしまった私には何の意味も成さないが、二週目の木曜日に赤いペンで締め切り、と書いてあった。数日振りにテレビをつけてみると、左上に六時十三分と表示されていた。にこやかなアナウンサーの顔が少しばかり憎らしい。マグカップの中で湯気をたてる紅茶はまだ飲むには熱く、冷めるまでそのアナウンサーの笑顔を見てやる事にした。ごくごくありふれたニュースの中に混じる殺人の言葉、自分でも眉間に皺が刻まれるのを感じた。日頃ミステリーやホラー小説を書いている身だが、やはり本物には抵抗があるのが人間というものだろう、死は総じて忌むべきものなのだ。ふと、耳に入った天気予報では今日は晴れらしい。今日も外には出られそうにないなと内心息を吐き、紅茶を啜った。大分温くなっていたが、酸っぱい。少し砂糖を入れれば良かった。半分ほど飲み終えたカップを揺らしながら、原稿という現実から思考を飛ばしていた私は少しの間遠くのほうで鳴る呼び鈴に気付けなかった。良くもまぁ飽きもせずに鳴らせるものだと感心してしまうくらい連打される呼び鈴。いまどき小学生でもしないだろうと突っ込みを入れながらカップをガラス製のローテーブルに置いて玄関へ向かった。もちろんその間も呼び鈴は鳴りっぱなしだ。


「……君今何時だと思ってる?」

「朝の六時半。珍しいな、ミキちゃん起きてたのか」

「ミキちゃんはやめて。起きてるも何も寝てないんだから当たり前。で、君は何をしに来たの?」


 開いたドアのその先には、可愛らしい(とは口が裂けても言えない)甥が立っていた。普段の制服である黒い詰襟姿では無く、赤シャツに黒いジャケット、ジーンズとなかなかにラフな服装だった。首元に光るのは高校合格時に買ってやったドッグタグで、少しだけ嬉しかった。まあ入れ、と促がしてやると、足を踏み入れるや否や勝手知ったる何とやらでてきぱきと自分のコーヒーを淹れ始めた。コーヒーが苦手な私の家にそれがあるのも、ひとえにこの甥のせいなのだ。


「ミキちゃん朝飯」

「俺が家事出来ないの知ってるでしょ、そもそもまだ仕事終わってないんだから」


 コーヒーの苦い香りが部屋に漂いだした。さっきまで私が飲んでいたハイビスカスの香りは一掃されてしまったらしい。

 ここで余談だが、私は名前を三井美貴という。ミキではなくヨシタカだ。職業は小説家で、ミステリーやホラーを書いている。現在三十一歩手前。

 目の前で我が物顔でソファを占領しているこの甥は相原秋。アキではなくシュウだ。お互い読み方を変えるとまるきり女のような名前をしている。高校生である彼は、諸事情により親から離れ一人暮らしをしているのを良い事に休日はこうして私の家を訪れているのだ。大体は学校の宿題をしていたり私が持っている本を彼が読んでいたりして、原稿を終えた私が気付くと食事を残していなくなっているのだが。

 可愛げの無い事にブラックコーヒーを飲む甥は私を一瞥すると宿題を取り出すでもなく本に手を伸ばすでもなく、優雅に足を組んで口を開いた。


「ミキは空飛ぶ猫って知ってる?」

「空飛ぶ猫……? 何それ、新しいアニメかなにか?」

「……たまには生きたメディアに触れたらどうだよ? 前なんかの番組に出てたんだけど、廃マンションの間を猫が歩いてるってやつ。……本気で知らねぇの?」

「知らない」


 カンヅメになっている間は新聞以外のメディアとは極力触れないようにしているので、そういった情報は一切入ってこない。だから私が空飛ぶ猫を知らないのは当たり前だというのに、この甥ときたらまるで私が全面的に悪いというような表情を浮かべて見つめてくる。私は悪くない、締め切りなんてものを作る編集部が悪いのだ。ため息を吐いた私は偉そうに座っている甥の隣に腰を下ろした。

 やはりコーヒーの香りは苦い。座った私の右手を取り指で遊びながら甥は更に口を開いた。


「その空飛ぶ猫、俺も見たんだよね」

「…………は?」

「いや本当に。ここの近くに取り壊し予定のマンションがあるだろ、そこのベランダから少し離れた中空に猫がいたんだよ。飛んでたってよりは何も無い所を歩いてたみたいな感じだったけどな」

「それで? どうなったの」

「おしまいさ」

「は?」


 ぽかんと口を開けた私にちらりと視線を寄越して肩を竦めた甥は、残りのコーヒーを一気に呷った。ジュースや紅茶よりもコーヒーの似合う高校生というのもいかがなものだろう。若干悔しくなった私は未だに取られたままの右手を引き抜き頭を叩いてやった。少し痛そうにしていたのをいい気味だと思ってしまったのは大目に見て欲しいところだ。というより、何故私にその話をするのかわからない。あの赤いペンの締め切りという文字は甥が自分で書いたものだから、頭の良い甥が忘れるはずは無い。さっきつけたニュース番組では今日は一週目の日曜日だと言っていたからそろそろ追い込みをしなければならない時期なのだ。それを誰より熟知しているはずの甥の考えがわからなかった。私がこの原稿を落としても良いというのだろうか。問いかけて肯定されでもしたら私は暫く立ち直れなくなっているかもしれない。

 すっかり空になったカップをまだ少し残っている私のカップの隣に置いてソファの背もたれに仕事を与えるように体重を預け、それはもう暢気に大きな欠伸をする甥を横目に気付かれない程の小さなため息を吐いた。締め切りまで今日を入れて五日、日曜を完全に潰して四日。私の脳裏には水曜日電話越しに担当編集に平謝りしている自分の姿がありありと浮かんでいた。


「なあミキ、今日そのマンションに行ってみようぜ」

「嫌」


 天井を見つめたまま軽い調子で言われた言葉に私は即答を返した。日中外に出るなんて買出しくらいなのに何を好き好んで大した理由もなく外出しなければならないのか。その気持ちを込めて睨んでやると、情けなく眉を下げた甥が背もたれから身を起こして腰にしがみついてきた。しかも、


「ねえ、美貴叔父さんってばあ」


 なんて猫なで声までつける出血大サービスっぷりだ。自分より図体のでかい人間に甘えられるなど本来なら鳥肌モノだが、如何せん私はこの甥に甘い(と良く姉に言われる)。強く跳ね返すことも出来ず、私はまた流されるように頷くしかなかった。

 とはいうものの、私は着替えてもいないしお互い朝食も食べていない。しかも、よく聞くと猫が空を飛ぶのは深夜だという。まだ時計は七時を少し回ったところだ。そのことを甥に言うと、あっさりこう返された。


「ミキが着替えてる間に俺が飯作る。昼間行ったら何か発見があるかもしれないだろ?」


 私はこの好奇心旺盛な甥に、『好奇心は猫をも殺す』という言葉を教えてやりたくなった。

 だが自他共に認める料理下手な私にとって甥の作る食事は稀に食べる事の出来る美味しい手料理というもので、かなり嬉しい。お言葉に甘えて、私は着替えるために寝室へと引っ込んだ。ここ最近使われた形跡の無いベッドが徹夜続きの私を襲う。だがここで寝てしまうと食事を得られないばかりか長々と甥の小言を喰らう羽目になる。……下手をすれば昔のことまで引き合いに出して語られ、丸一日寝かせてもらえない事だってあるのだ。さあ寝てくれ、と言わんばかりのベッドから無理やり目を離し、大して大きくも無いクローゼットから適当に服を引っ張り出した。右手にクリーム色のパーカー、左手に白のロングTシャツとチェックの半袖シャツ。下はジーンズで良いとして、さてどちらにすべきだろう。優柔不断な私はいつもこうして外出時の服装に悩むのだ。部屋着であるくたびれたグレーのスウェットを脱ぎ捨て、服を持ったまま寝室を出た。


「ねえ秋、どっちが良いかな」


 洋風の朝食にするのかスクランブルエッグを作っている甥の背中へと声をかける。裸の上半身に油が散ると嫌なので少し離れた所からだったのだが、振り返った甥はフライ返しを手に目を丸くした。


「なんで上着てないんだよ、その格好で出て行く気か?」

「違うから。どっち着たら良いのか悩んでるんだけど……君はどっちがいいと思う?」

「……ちょっと肌寒いからパーカーにしとけ」


 ぱちぱちと油が音を立てるフライパンに目を戻しながらの言葉に、確かに寒そうだと納得した私は左手に持っていたシャツ二枚をソファに放り投げパーカーを着ることにした。やはり誰か自分以外がいてくれる方が物事は早く決まる。普段より遥かに早く決まり、私の機嫌は上昇した。それに止めを刺すように美味しそうな朝食の匂い、私は緩む口元を隠しもせずに食卓についた。寝室から歩いてきたときには二つのカップはなくなっていたので、恐らく甥がついでに片付けてくれたんだろうな、と思った。何かと細かいことに良く気のつく学生なのだ。


「ミキ、皿二枚出して。トースト焼けてるから付けるものも一緒に出してて、俺マーマレードで」

「はいはい」


 私はマーマレードを食べないのだが、この甥の大好物のためになぜか常にストックされている。まあそれもこの美味しい朝食やこれまでの食事代を思えば安いものだ。

 二枚の皿の上ではほかほかと湯気をたてるスクランブルエッグとベーコン(私が作ると情けない事にただの消し炭と化してしまう)。私としてはゆっくり味わって食べたかったのだが、好奇心の塊である甥が目の前に居るとそうもいかない。早く食え、早く食ってマンションに行くぞと口より雄弁な目がそう急かす。不本意ながらも私は久しぶりのまともな朝食をかき込む羽目になったのである。

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