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「う、あ、ああーー…」
柚葉は頭を抱えた。目の前には化学のプリント。
昨日も、やったはずなのに。全く、成果が出ていない。問題が、分からなすぎる。
「どう?」
前から覗き込んできたのは由理だ。今二人は駅前のカフェの中で勉強をしていた。カフェはファミレスよりも騒がしくなく、落ち着いているために自習には打ってつけのはず…なのだけれど。
「これ、ニクロム酸カリウムよね」
謎の文字やら数字やらで埋め尽くされたプリントを柚葉から奪い取った由理はそれを見て首を傾げた。
「Ncって何よ?」
「に、ニクロムだよ」
「ニクロムはCr」
元々元素記号に自信がなかったので、それを聞いて柚葉は机に突っ伏した。
上から由理の溜め息が降ってきた。
「…まずは元素記号とか化学式から覚えることにすれば?」
元素記号から覚える。中学生じゃあるまいし、高校二年生が言われる言葉にしてはあまりに低次元すぎる。柚葉は少なからぬショックを受けた。その原因を作っているのは無論自分なのだが。
柚葉は力なく昨年使っていたプリントを取り出し、ぶつぶつ呟き始めた。
「ヨウ素I、フッ化水素HF、シアン化水素HCN…」
「そうそう、まずは基本よ」
励ますような声がかかったが柚葉の心をさらに惨めにするだけだった。
時間が過ぎるのは早い。この間体育祭があったかと思えば、もう近くに期末テストを控えている。
三学期制なので、テストが多いのだ。
そんなわけで勉強しているものの、なかなか思うように進まない。柚葉が苦手とする理系はますます難しくなっていくばかりで復習が追いつかなくなる勢いだった。
由理がいてくれて良かった。柚葉は心から彼女に感謝した。彼女がいなければ今の自分は確実にいないだろう。より堕落していたに違いない。
それにしてもこの出来なさは、一体何なのだろう。
今思えばこうして特進クラスに入れたことは奇跡中の奇跡のような気がした。文系でカバーしてきたとはいえ、さすがにそれにも限界がある。理系を少しでも頑張って差を縮めるのが彼女の課題だった。
「はーーー…終わった」
最後の一問を解き終わるとどっと疲れが出た。
どれどれ、と由理は答え合わせをしている。彼女の目が見張られた。
「柚葉、だいたい合ってるよ」
「ほんと!?」
「応用が少し間違えてるくらいで、基本は大丈夫」
柚葉の心に安堵が広がった。これで今回の範囲はなんとかカバーできるかもしれない。
「うん。解き方は分かってるみたいだから、やっぱり基礎中の基礎が抜けてたみたいね」
ようは元素記号、化学式か。
「やればできるんじゃないー」
そう言われて頭を撫でられる。こういうとき、柚葉は由理を同級生として認識できない。まるで姉のような存在なのだ。遊馬に睨みを効かせるときとか。
彼は今回も学年一位という名誉ある座をかっさらっていくのだろうか。それでも柚葉だけは知っている。遊馬は何もしてないわけじゃない。理由はまだ分からないままだけど彼はたくさんの努力をしている。柚葉が見る限りでは、そう思う。
だからこそ、ごく最近ではあるが、彼が図書室で学習できて良かった、なんて気持ちもほんの僅かではあるが芽生えてきている。
帰宅にかかる時間の分、図書室のほうが勉強に時間を費やせる。
自分一人でいられた時間が奪われたのが悔しいのもあるけれど。相反する心情に柚葉は少し、戸惑っていた。
ある日の木曜日。
この日もいつもと変わらず、遊馬が図書室に来て勉強していた。近頃思うところもあり、柚葉は彼がいる方向をちらりと見やる。
何のために、勉強してるんだろう。
全国共通模試で三十位内に入ったなどの噂も彼には従いてまわっているようだが、その辺りの真偽も気になっていた。表面だけ見れば女をとっかえひっかえしてて(実はこの高校へ来てから彼女が三人目だった)、「今が楽しければいい」なんて思っていそうな軽い人間なのに。
その内面との差は何によって生まれたのだろう。
彼が図書室に通い始めた頃から、その疑問は大きくなっていくばかりだった。
そんな中で遊馬が柚葉に話しかけたのは突然だった。奥から遊馬が出てきて、日本史について彼女に質問したのだ。
「…こんなに頭いい人でも分からないところがあるんだね」
説明し終わった後で柚葉はわざと遊馬とおちょくってみた。実際は遊馬が授業で内容を聞き逃しただけのようだったが、彼女は言わないことにした。
柚葉は日本史が好きだったので、比較的熱心に授業を受けている。たいてい教師の言うことは覚えていた。
からかいを受けた遊馬は肩をすくめた。すっかりこの仕草は彼の一部になってしまっていた。
「天才でも分からないことはあるよ」
「天才も大変なんだね」
「まあね。伊達にいい成績取るのも簡単じゃない」
そう言って軽く彼は笑った。
「…なんでそんなに勉強するの?」
そう問いかければ遊馬の視線が彼女へと流れた。
「なんでって?」
「将来の夢とか、あるの?」
遊馬は黙った。彼が黙ることは珍しい。笑わない表情も柚葉はあまり見ないので彼が怒ってしまったのかと思った。
「ごめん、変なこと聞いた」
慌ててそう弁解すれば、彼の瞳がふっと和んだ。
「怒ってないよ。ただ…言っても笑われないかなあと思って」
「将来の夢を馬鹿にするような人は私、好きじゃないよ」
裏を返して、自分はそんな人間じゃないと言ったつもりだった。遊馬はふっと笑った。
「うん。俺も加藤さんはそんな性格じゃないと思う」分かったようなその口振りに柚葉は少し動揺した。
「なんというかね…子どもの時の話だよ」
お久しぶりです、姫ちゃんです。
テストが終わったということで、再び投稿始めようかと思います。引き続き読んでいただければ嬉しいです。今回は短めになってしまいましたが、なんというか…話の区切りがつかなくなりそうだったので。ここで切らせていただきました。