12
彼は本当に頭が良かった。
なんせ、テスト返却から数日後に張り出された上位五十名の一番上に、彼の名前が載っているのだから。柚葉は貼り紙を見ながらなんとも微妙な思いであった。隣の由理も同じだろう。彼女はといえば、軽く目を見開いている。それは驚くだろうね、あんなにもチャラチャラしてそうな男子が学年一位だもの。
周りで囁かれる声もいつもより熱を帯びている。
「遊馬君、めっちゃ頭良くない!?」
「勉強教えてもらいたいっ!!」
「かっこよくて頭もいいなんて完璧でしょ」
クスクス笑いととともに彼女たちの目はうっとりとしていた。
「…ありえない」
愕然として由理が呟いた。その顔には「なんであいつが」という表情が貼りついている。
柚葉は先日遊馬と言葉を交わしたことである程度耐性がついていたものの。にしてもトップはすごいけど。
「ね…すごいよね」
さりげなく柚葉は同調すると、由理は貼り紙から目を逸らし歩き始めた。まるでこれ少しも見ていたくないというように。そんな彼女だって三十位に名前が載っていたのに。柚葉は載ってすらいない。
柚葉は由理を追いかけた。その時、後ろが不意に騒がしくなった。何事かと思い、振り返る。
騒がしいさらに奥から、遊馬が歩いてくるのがちらりと見えた。相変わらず目立っている。他の男子と違う服を着てるわけでもないのに、視線を引かれてしまうのは何故なのか。女子たちが小さく悲鳴をあげる。遊馬は隣に可愛らしい女の子を連れていた。彼女みたいだ。その彼女も周りの女子たちの嫉妬の目線を受けているにも関わらず、気にならないというように遊馬の顔を見つめている。何だか、いたたまれなくなってしまった。どうして?
「行こ、由理」
柚葉は由理の腕を引いた。半ば考え始めたその思考を遮断するように。
授業中、柚葉はぼうっとして内容が頭に入らなかった。心にほのかに小さなライトが灯るように、今朝の遊馬の姿が浮かんでいる。それに気づいて柚葉は頭を振った。変なの。どうしてあの人?あの人がどこで誰と何をしていようと私には一切関係ないはずなのに。唯一の関係としては木曜日の放課後図書室にいるくらい、なのに。変なの。
彼女は図書室のカウンターで勉強していた。
今回も数学の課題だ。集中できないからといってやらないことが続けばいつまでもこのままだし、それよりは少しでも慣れた方が良いに決まっている。
奥には遊馬がいたが、入ってきたときに挨拶だけして別れただけだった。昼間に考えたようなことはやはりありえないのだ。柚葉は首を振った。
「………」
「…………」
「……………う」
柚葉は呻いた。苦々しい思いで目の前の問題を見つめる。十分ほど前からずっとこの問題の解き方を考えるものの、全く浮かばない。模範解答を見てみたが、どうしてこの解き方を使わなければならないのかが分からない。こういうときはいつも由理に聞いているため、後回しにしようかと考えたとき、ふと思いついた。
頭いい人いるじゃん。なんの因果か、とってもかっこいいけど遊び人でずば抜けて学力が高い人が。この図書室の中に。そこまで考えて柚葉の思考は踏みとどまった。いや、でもそんな分かんないとこ聞いてもいいほど仲良くないような。うぁ、どうしよう。でも分かんないし。でも明日由理に聞けばいいだけでは。でもこの問題が分かんないとこの大問全て解けないし。解きたいし。…よし。
柚葉はテキストのノートを腕に抱えて、そっと彼のいる方へそろそろと移動した。思い返せば、勉強中の彼に一度も近づいたことがない。どこらへんで勉強してるんだろ。なぜかなるべく音を立てないように棚と棚の間を確認して歩く。
─────いた。自習用に用意された机にはおらず、そのそばの窓のサッシに半分腰掛けるようにしてテキストを読んでいた。図書室の窓は大きくて、出窓のようになっているため、下に座れるほどのスペースができてしまうのだ。
窓から差し込むオレンジがかった光が彼の姿を照らした。彼の顔にも半分光が当たっていて、残り半分の影の部分が引き立った。さらに魅力的に見える。彼のことを女の子が見たら失神しちゃいそうだな、と柚葉は思った。自分はそんなことないから、彼女たちとは違うのだと妙なところで納得する。
「あ、あのぅ…」
小さく呼びかければ、面白いほど遊馬の肩がギクリと跳ねて彼が顔を上げた。
「うわっ、何。びっくりした」
「ご、ごめん。驚かすつもりなかったんだけど…」
驚きが彼の顔に貼りついていたと思えば、既に彼はもう通常に戻っている。
柚葉はおずおずと数学のテキストを差し出した。
「あの…問題がどうしても分からなくて…。良かったら教えていただけないかと…」
学年トップだし、と付け足せば、彼はおどけたように笑った。
「俺には聞かないんじゃなかったの?」
「そ…れは、そうなんだけど!あの時はただむすっとしただけ」
「分かった分かった。で、どこが分かんないの?」
柚葉は遊馬の方へ歩み寄る。だが迷ったように彼を見た。自習椅子に座ればいいのだろうか。
彼は「そこに座って」と、そばの椅子を指し示した。
そこへ座ると、遊馬は柚葉の隣に立ったまま片腕を机について、柚葉の顔を覗き込んだ。柚葉は顔が近づいたことにどきりとする。
「どこ?」
そう言われて我に返り、分からない問題を指差した。
「ここ…なんだけど」
彼はテキストを取り上げて眺める。
「ああ、ここね。これは───」
え、ぱっと見で解法が出てくるの。自分なんて十分もかけて出てこなかったのに。
「シャーペン貸して」
遊馬はそう言って柚葉のシャーペンを持つと、サラサラと解き方をノートに書きつけた。
「ここの式を変形させて、yイコールの形にするんだ。でそれをこの式に代入する」
あ、なるほど。
「…代入する式はなるべく簡単にしてからよね」
「そうそう」
「待って、この式が簡単にできない…」
「この項をAって置くんだよ。去年の内容でしょ?」
「うぅ…はい…」
なんと去年の勉強も忘れていたとは!
柚葉はショックを受けた。しかし遊馬の教え方は上手く、分からないところをきちんと説明してくれ、フォローを入れられながらも(情けないが)解くことができた。
「できたじゃん」
「ありがと!」
そう言って笑えば、遊馬も同じように笑い返してくれた。
「じゃあ、他の問題もやってみる」
「ん」
そう言って解き始めた。
数問解いてみればなんとかなりそうだ。戻ろうとして席を立とうとした。
(お礼、言ったほうがいいよね)
そう思い顔を上げれば。
遊馬と思い切り目が合う。彼は隣から机を挟んだ前へ移動していた。勉強して俯いていたから全く分からなかった。不測の事態。あれ、これって前に似た状況な気が。
一度目が合えば逸らせなくなるのは過去の経験から分かっている。分かってるから逸らしやすくなるはずなのに。
逸らせない。いや、逸らしたく、ない────?