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ようやく始まりました。
投稿遅くなって申し訳ありません…。
投稿スピードもおそいですが、書き続けていきたいとは思ってますので、応援よろしくお願いします!
私はリノリウムの床をただ蹴り続け、走っていた。
周りの目線なんて気にもならず、ただ頭が真っ白で、一心不乱に走った。そうでもしなければ涙が出てしまいそうだった。普段運動が苦手な自分が、一瞬にして世界記録保持者のランナーになったかのような錯覚すら覚える。
それは束の間で、思考はすぐ目の前の廊下へと戻った。
“ここです”
あるドアをその看護士は指し示した。
ここに、彼がいるというのか。
いつも私に笑顔ばかり向けてくれていた彼が、瀕死の状態で横たわっているというのか。病室番号のプレートの下に、患者の名前が記載されているのが目に入る。彼の名前を見つけ、心臓がどくり、と打った。
“あの…?”
その声で我に返る。
何をしているのだ。こんな所で突っ立っている場合ではないのに。そう思い反射的にドアの取っ手を引いた。
中には、彼の家族と医者と看護婦、私の母がいた。
そして彼らが囲んでいるのは、頭に血の滲んだ包帯を巻いてピクリともせずベッドに横になっている一人の男。
私は知らず震えた。この情景は幻なのだろうか。だって今朝まで元気でいた彼とこの瞬間の彼には、あまりに差がありすぎる。こんなに生気のない彼を、私は知らない。普段から穏やかな人為ではあったが、それが抜け落ちてしまっているような感覚を覚えた。
私の目は彼の母に向けられる。彼女も目から涙を流して、絶望の淵にいることが窺い知れた。私のそれを受けて彼女は口を開く。
“交通事故だったの。頭を強く打って出血多量で、輸血しているけど、もう…”
彼女はそこでまた涙を零した。
嘘だ。彼が、死ぬはずはない。
頭の中で必死に否定していても、否定しているからこそ悟る、彼の死。
彼が、こんな状態にあるからには、もう逝ってしまうのだと。
ベッドに近寄り、彼の手を握る。それは生暖かくて、まだ彼が生きていることが分かる。だがそれは一瞬の安心でしかないのだとも、了解していた。
私は半ばパニックになって彼の手に縋る。唇は絶えず、彼の名を紡ぎ出していた。
“ひろ…、ひろ…”
逝ってはいや。幼なじみであったにせよ、恋人である期間が長かったにせよ、もっと二人で一緒にいたくて。高校だって別々になって会える時間が減った。その会えない時間がさらにあなたへの想いを深くしたのに。どんなに寄り添ったとしても足りないくらい、あなたのことが好きなのに。
大粒の涙が頬を滑る。泣きすぎて、目の前が不明瞭になった。
神様、私、彼を救うためなら、どんなことでもしてみせるから。何でもするから、彼をまだ死なせないで。彼みたいないい人が早く死ぬなんてこの世の中は絶対に平等じゃない。彼を死なせるのは、間違っている。お願いだから。お願いだから。
その時、自らの手で包み込んだ彼の手が、僅かに動いた。そして、所在なげに呟く声。
“ゆず…”
その一言で周りがどよめく。
“ひろっっ!!”
彼は薄く目を開いた。
そして周りをゆっくりと見渡し、私の目を捉える。
“ひろ、ひろ、お願いだから死なないで!”
掠れた声で呼びかける私に、彼は
“ゆず…、ごめん…”
と言った。
“何がごめんなの?ひろは死なないでしょ?死なないよね!?”
最後のそれはほぼ願いだった。
無理やり笑顔を作る私に、彼は手を握る力を強くした。
“そばにいてやれなくて、ごめん…。先にいなくなって、ごめん。”
“お願いだから、喋らないで。寝てたら、きっと治るわ”
彼が首をほんのわずか横に振り、微笑んだ───気がした。
“ゆず…”
その呟きが耳に届くと同時に、私の手を包んでいた力が抜け落ちる。
私は愕然として彼の名を呼び続けた。
“ひろ…、ひろ…?ひろ…!?返事して!!”
遠くで、モニター心電図が一律の機械音を発するのを、聞いた気がした。
“ひろ…っっ!!”
「嫌だああっ!!」
そう叫んで、目を見開いた。頭がぼーっとして、フラフラした。
少しすると、見慣れた天井が、目に入る。私は、荒い呼吸をひたすら繰り返していた。部屋に差し込む光も、生まれたての朝日だ。あの時の湿ったような夕日ではなかった。
私は、ベッドの中で息を長く吐き出した。
また見てしまった。あの日の夢。
いつまでこんな朝が続くのだろう。
清々しい気持ちで朝を迎えられるのは、いつのことになるのだろう。
いや、あの夢は私を一生捕らえて離さない。当時の状況の、なんと鮮やかで、生々しいことか。多分、それには私の深層心理の中でこの記憶を失いたくないというものも働いているに違いない。忘れたくないがために、その夢を見続ける。たとえそれが悪夢になってしまったとしても。
大丈夫、まだ悪夢にはならない。
私は言い聞かせた。ベッド脇に飾られている写真を目を移す。そこには、笑っている彼と私のツーショット。
今は亡き大好きな彼が、夢に出てきてどうして悪夢だと思えるだろう。
「ひろ…」
私はポツリと呟いた。彼の名を呟くことで、私の中の彼の記憶が廃るのを防いでいるような気がした。
いつまでこんな日々が続くのだろう。私は無意識のうちに、溜め息をついていた。
シリアスで始まりましたね。
柚葉ちゃん、いまだ最愛の彼を忘れられていない様子。