醜女と蔑まれた私を、目の見えない旦那様だけが美しいと言う
短めです
私の顔の左側には、蝶の羽のような形をした赤黒い痣がある。
生まれつきのもので、こめかみから頬にかけて片羽を広げたように広がっている。羽の付け根のあたりに、ひとつだけ小さな黒子まであって、それがまるで虫の胴体のようだと、妹は幼いころから私を「蛾姫」と呼んだ。
社交界での呼び名はもう少し直截だった。
「ローエン伯爵家の醜女」
十六で初めて夜会に出た日、扇子の陰で囁かれたその言葉を私は今も覚えている。それからというもの、私は顔の左半分をベールで覆い鏡を見るのをやめた。
だから、父から縁談を告げられたときも驚きはしなかった。
「相手はルーカス・ヴェルトハイム卿だ。元騎士団長で先の戦で目をやられた。今は北の辺境で暮らしている」
父はそこで気まずそうに咳払いをした。
「……お前には、ちょうどいい相手だろう」
ちょうどいい。その意味がわからないほど私は子供ではなかった。
目の見えない男なら妻の顔など気にしない。そういうことだ。
*
ヴェルトハイムの屋敷は、古い水車小屋と小麦畑に囲まれた飾り気のない石造りの建物だった。
玄関で出迎えてくれたのは、白髪まじりの執事と礼儀正しい侍女がひとり。そして――
「遠いところをよく来てくれた。ルーカスだ」
背の高い人だった。
黒い髪を短く刈り、肩幅は屋敷の扉より広いように見えた。けれど、その灰色の瞳はどこかをぼんやりと見つめていて、私のいる場所から少しだけずれていた。
ああ、本当に見えていないんだ。
そう思った瞬間、胸の奥でなにかがほどけた。
「エルザ・ローエンでございます。本日より、よろしくお願いいたします」
頭を下げた拍子になぜか涙がこぼれた。
悲しかったのではない。山を越えて、もう誰にも顔を見られない場所に来たのだと思ったら張り詰めていた糸が切れたように力が抜けたのだ。
「……泣いているのか?」
声でわかったのだろう。ルーカス様が戸惑ったように眉を寄せた。
「申し訳ございません。ただ、安心してしまって」
「安心?」
「……こちらでは、誰にも顔を見られずに済みますから」
言ってからひどく失礼なことを口にしたと気づいて青ざめた。この人の目が見えないことを喜んだようなものだ。
けれどルーカス様は、気を悪くした様子もなくただ静かに「そうか」とだけ言った。
そして、空を探るように大きな手を差し出した。
「屋敷を案内したい。といっても、俺は壁を伝って歩くから案内されるのは俺のほうかもしれないが」
その手は、剣だこだらけで、温かかった。
辺境での暮らしは、思っていたよりずっと穏やかだった。
朝はルーカス様と食卓を囲み、届いた手紙を私が読み上げる。昼は屋敷の裏のラベンダー畑を世話し、夕方には彼の腕を取って、小麦畑のあぜ道を散歩する。
そのどこかで、必ず一度、彼は言うのだ。
「エルザ、君は美しいな」
初めて言われたのは嫁いで三日目のことだった。厨房で皿を割って青ざめていた若い女中に「怪我はない? 私もよく割るのよ」と声をかけたそのすぐ後。
「……私の顔をご存じないから、そうおっしゃるのです」
「顔の話はしていない」
「では、何の話ですか」
「君の話だ」
その返事があまりにも当たり前のような調子で、私は何も言い返せなかった。
それから彼は毎日のようにそれを口にした。
私がラベンダーを摘んだ日には「君の手はいい匂いがする」と。古い戦友からの手紙を読んで涙声になった日には「他人のために泣けるのは、美しいことだ」と。
そのたびに私は、少しだけ嬉しくて、そして少しだけ胸が痛んだ。
この人は私の顔を知らない。
だからこそ彼の「美しい」は優しくて、そして、どこか信じきれなかった。
「奥様、またそんな顔をして。旦那様はお世辞を言える方じゃありませんよ」
そう言って笑うのは侍女のマルタだ。少し口うるさいけれど、初めて私のベールの下を見ても眼をそらさなかった人。
いつしか私は屋敷の中ではベールを外すようになっていた。
ここには私を笑う人はいない。そして、何よりも見られたくない人には――見られる心配がない。
そのことに救われている自分を、私はもうごまかせなかった。
嫁いで半年が経つころには私はルーカス様を好きになっていた。
不器用で、口数が少なくて、冬の陽だまりのような人。そして何よりも、私を私として扱ってくれる人。
この暮らしがずっと続けばいいと思っていた。
王都から一通の手紙が届いたのは、秋のはじめだった。
いつものように封を切り、声に出して読んでいた私は三行目で言葉に詰まった。
「……エルザ?」
「申し訳ございません。続けます」
手紙は、彼のかつての部下からだった。新しく大聖堂に迎えられた聖女様は古い傷による失明をも癒やせる力をお持ちだという。団長の目も、きっと――。
読み終えたとき、私の声は自分でもわかるほど震えていた。
「……よかったですね、ルーカス様」
そう言うのが、精一杯だった。
ルーカス様はしばらく黙っていた。そして「ああ」とだけ短く答えた。
その夜、私は自分の部屋でマルタにすべてを打ち明けた。
「喜ばなきゃいけないのは、わかってるの」
膝の上で握りしめた自分の手がひどく冷たかった。
「あの方が光を取り戻せるのなら、それは素晴らしいことだわ。……でも、目が見えるようになったら、あの方は私の顔を見るのよ」
「奥様……」
「そうしたらもう『美しい』なんて言ってもらえない。あの方は優しいから、嫌だなんてきっと言わない。でも、空気が変わるのはわかるわ。私、それが一番怖いの」
実家でも、夜会でも、ずっとそうだった。誰も口には出さない。けれど、私が部屋に入った瞬間に空気がほんの少しだけ凍る。
あの人の前でそれを味わうくらいなら――
「……治療が終わる前に、私は出ていったほうがいいのかもしれない」
マルタがなぜか扉のほうへちらりと目をやった。
廊下の床板が、きし、と小さく鳴った気がした。けれど、そのときの私は古い屋敷が風で軋んだのだろうとしか思わなかった。
一週間後、ルーカス様は執事を伴って王都へ発った。
私は屋敷から出ていくことはできなかった。荷物をまとめようとしてはラベンダー畑に水をやらなければと思い、女中たちの縫い物を手伝い、そうしているうちに日は過ぎていった。
せめて、もう一度だけ「美しい」を聞いてから。そう自分に言い訳しながら。
ひと月が経った初雪の朝。
馬車から降りてきたルーカス様は発った日と同じように、執事の肩に手を置いていた。
灰色の瞳はやはりどこも見ていないように空を向いている。
「……駄目だったよ。傷が古すぎたらしい」
彼はそう言って少しだけ笑った。
「結局、俺は今までどおりだ。すまないエルザ」
「……謝らないでください」
私は彼の手を取った。その手は雪で冷えていたけれどちゃんと私の手を握り返してくれた。
「お帰りなさいませ、ルーカス様」
――よかった。
胸のどこかでそう思ってしまった。
そのことに私は気づかないふりをした。
王都から戻ってきてからルーカス様は少しだけ変わったような気がした。
たとえば居間の椅子。
女中が掃除のついでに少し動かした日、私は「あ、」と声を上げかけた。けれど彼は何事もなかったようにその椅子をよけていつもの場所に腰を下ろした。
「……位置が変わっていたのに、よくおわかりになりましたね」
「脚が床を擦る音がしたからな」
そういうものなのだろう。騎士だった人は耳がいい。
たとえば食卓。
私が袖で引っかけて倒しそうになった水差しを向かいに座る彼の手が、すっと支えた。
「……今のも、音ですか?」
「勘だ」
そう答えた彼の耳が少し赤かったのは、たぶん暖炉のせいだ。
それに、屋敷の人たち。
執事もマルタも王都でのことを一切口にしなかった。治療が失敗したのだから気を遣ってくれているのだろう。私はそう思っていた。
そして、何より――
「エルザ、君は美しいな」
そう言うとき、彼の灰色の瞳がほんの一瞬だけ、まっすぐ私の顔に向くことがあった。
左の頬。痣のあるあたりに。
そのたびに私はどきりとして、そしてすぐに偶然だと思い直した。声のするほうを向けばそこに顔があるのは当たり前だ。
冬の終わり、私の誕生日に、ルーカス様は小さな包みをくれた。
開けてみると銀細工の手鏡が入っていた。
「……鏡、ですか」
うまく笑えたかどうか分からない。私はもう何年も、自分の顔をまともに見ていない。
「細工が美しいと商人が言っていた」
ルーカス様はそう言ってから、少しだけ言い淀んだ。
「……いつか、それで自分の顔を見てほしい。少しずつでいいから」
私は何も答えられず、手鏡を伏せたまま引き出しの奥にしまった。
春が来て、ラベンダー畑に新しい芽が出そろったころ。
自分のお腹に新しい命が宿っていることを知った。
それを告げたときのルーカス様の顔を私はその後もずっと忘れなかった。
あの沈着な人が子供のように顔をくしゃくしゃにして、私を抱きしめたのだ。
「……ありがとう、エルザ。ありがとう」
彼の肩越しに見える窓の外で小麦畑が風にそよいでいた。
この人の子供を産める。それが泣きたいほど幸せだった。
――そのときはまだ気づいていなかったのだ。
この人が、この子の顔を見ることはないのだということに。
娘が生まれたのは、一年前と同じ初雪の朝だった。
長い夢を見ていたような一夜が明け、産婆が自分の腕に小さな重みを乗せてくれた。
赤くて、しわくちゃで、一生懸命に泣いている。
「……かわいい」
それ以外の言葉が出てこなかった。
うっすらと生えた黒い髪はルーカス様にそっくりで、小さな鼻の形は私に似ている。
そして――左の頬にほんのうっすらと、薄い赤い痣があった。
蝶の片羽のような形をした私と同じ痣が。
「……ああ」
腕の中の小さな顔が、にじんだ。
この子もいつか笑われるのだろうか。蛾姫と呼ばれ、ベールの下に顔を隠して鏡を見なくなるのだろうか。
そう思ったけれど、すぐにそれよりもずっと大きなものが胸に押し寄せてきた。
こんなにもかわいいのに。
こんなにも美しいのに。
この子の顔をあの人は一生見られない。
*
産婆とマルタが下がり、部屋に入ってきたルーカス様は寝台の横に膝をついた。
「……よく頑張ったな、エルザ」
その声を聞いたとたん、堤が切れた。
「ルーカス様、ごめんなさい。ごめんなさい……」
「エルザ? どうした、どこか痛むのか」
「この子、とてもかわいいんです。あなたに似た黒い髪で、ほっぺが柔らかくて、今、あくびをしたんですよ。……それを、あなたに見せてあげられない」
涙で娘の顔がにじむ。
「私、ひどい人間なんです。治療が駄目だったと聞いたとき、ほっとしたんです。これで顔を見られずに済むって。あなたが光を取り戻せなかったのに、私、自分のことばっかり……」
自分の顔など、どうでもよかったのに。
この人にこの子を見てもらえるなら、私の顔などいくらでも見られてよかったのに。
ルーカス様は、長いあいだ黙っていた。
やがて彼はそっと両腕を差し出した。
「……抱かせてくれるか」
震える手で娘を渡すと、彼はまるで壊れ物を扱うようにその小さな体を抱きとった。
そしてじっと娘の顔を見つめた。
探るようにではなく。まっすぐに。
「……左の頬に小さな痣があるな」
息が止まった。
「蝶の片羽みたいな形だ。君と同じだ。……君のには、羽の付け根に小さな黒子があるが、この子にはまだないな」
その形を、私はこの人に話したことがない。
一度も。
「……どうして」
彼は娘から目を上げて、私を見た。
灰色の瞳が、私の瞳をまっすぐに。
「治療は、成功していたんだ」
王都へ発つ前の夜、彼は廊下で私とマルタの話を聞いていたのだという。
「治療はやめようかとも思った。だが、それでは君が自分を責めるだろう。だから……治して黙っていることにした」
「そんな……」
「君が出ていくくらいなら、一生見えないふりをするつもりだった。執事とマルタには口止めをしていた。すまない」
椅子も、水差しも。あの一瞬の視線も。
全部そういうことだったのだ。
「……じゃあ、あの初雪の朝から、ずっと」
「ああ。馬車を降りたとき、門の前で雪をかぶって立っている君が見えた。……思っていたとおりの人だと思った」
「嘘です」
「嘘じゃない」
彼は少しだけ笑って、そしてすぐに真剣な顔になった。
「俺は君にひとつ嘘をついた。だがそれだけだ。あの日から毎日言った『美しい』は、全部君の顔を見て言ったものだ」
私は、彼の胸を拳で叩いた。娘を起こさないようにとても小さく。
「ひどい人」
「ああ」
「私、あれからずっと、毎日見られていたんですね。寝起きの顔も畑で土だらけになった顔も」
「ああ。どれも美しかった」
「……そういうところが、ひどいんです」
怒っているのに涙が止まらなかった。水差しを支えてくれた手も「勘だ」と赤くなった耳も、あの手鏡も。思い出すもの全部が、今になって別の意味を持って胸に降ってくる。
この人は一度も嘘の「美しい」を言わなかった。
見えなかったころも、見えるようになってからも。
「……この子も、いつか誰かに何かを言われるかもしれません」
私がそう言うと、ルーカス様は腕の中の娘を見下ろした。
「そのときは、俺たちが毎日言えばいい」
「何をですか」
「美しい、と。他の誰が何を言おうと、この子が自分でそう信じられるようになるまで」
それから彼は、娘をそっと私の腕に戻して痣のある私の頬に触れた。
そこに触れられるのは生まれて初めてだった。
「君だってそうだ。……それとな、エルザ」
「はい」
「この一年で、君が一番美しかったのは今日だ。この子のために泣いている、今の君だ」
その夜、私は引き出しの奥から銀細工の手鏡を取り出した。
隣では娘が眠っていて、その向こうではルーカス様が椅子に座ったままうたた寝をしている。
伏せたままの鏡をゆっくりと返す。
そこには、左の頬に蝶の片羽をもつ女がいた。
痣は何も変わっていなかった。十六の夜会の日と同じ形、同じ色をしている。
それなのに、なぜだろう。
泣きはらした目で少しだけ笑っているその女を、私は不思議と醜いとは思わなかった。
美は見る者の目に宿る、という。
だとしたら、長いあいだ私の顔を醜くしていたのは、きっと他の誰でもない私自身の目だったのだ。
鏡の中の私は、あの人が毎日見つめていたのと同じ顔で笑っていた。
美は見る者の目に宿る、とい言葉が好きです
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