ささやかな幸福論
私は、日本のとある田舎に暮らしている。特別な経歴はないし、華やかな人生を送ってきたわけでもない。ただ、生きてきた。そして今、静かに、しかしはっきりとこう思っている。
私は、十分に幸せだ。
この言葉を、特別な背景を持たない誰かが真顔で言うと、多くの人は驚くかもしれない。だが、私は誇張でも強がりでもなく、本当にそう感じている。
成功も、地位も、名声も、別にあってもいい。でも、なくてもいい。
それらを追いかけて、得て、守って、失う。
そんな流れの中にいる人もいるだろうし、それがその人にとっての生きがいであるならば、もちろん、それでいいと思う。
私の話は、それを否定するものではない。
ただ、私はこういう生き方もあるよ、と伝えたいだけだ。
お茶を一杯飲むだけでも、私は幸せを感じる。
今日の一日を無事に終えられたというだけで、満ち足りる。
そういう小さな幸せに気づくことこそが、心の設計法の本質なのだと思っている。
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人はみな、自分の内側からしか選択できない。
「誰かのために」と思って行動していても、それを選んだのは自分自身だ。
欲望、義務感、あるいは自己肯定のため――動機はどうあれ、行動の出発点はすべて自分だ。
それは、エゴではない。
人間の構造そのものなのだ。
だから私は、表向きは矛盾しているような感情――「人間は愚かだ」と見下す気持ちと、「人間は素晴らしい」と尊敬する気持ち――その両方を自分の中に持っている。
それでいいと思っている。
人は矛盾する存在だ。
それを矛盾だと断じて切り捨てるのではなく、抱えたまま立つことが大切なのだと思う。
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私は、何かに属して生きているつもりはない。
社会の中心にいるわけでもなく、誰かに頼られ続けているわけでもない。
ただ、物事を少し離れたところから見るのが癖になった。
そうして世界を見ていると、色々なことが分かってくる。
構造がある。
どんな感情にも、どんな不幸にも、どんな迷いにも、生まれる背景=構造がある。
そしてその構造は、大抵の場合、整えることができる。
怒りや不安に支配されたときは、「その感情が生まれた構造」を一歩引いて見る。
そうすれば、自分の心が過去の思い込みや、狭い前提にとらわれていることに気づく。
気づいた瞬間、余裕が生まれる。
余裕が生まれれば、目の前の一杯のお茶の香りに気づけるようになる。
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立ち止まり、振り返り、そして小さな幸福を認識する。
それだけで、人は少しだけ強く、穏やかに生きられる。
世界は変わらないかもしれない。
でも、自分の視点が変われば、感じ方は変わる。
幸せは「ある」か「ないか」ではなく、「見えるか」「見えないか」なのだ。
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私は田舎者だ。誇りも劣等感もない。
ただ、こうして言葉にすることで、同じように生きている誰かの“心の余白”になれたら、それで十分だと思っている。
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