血の記憶
夜風が頬を撫ででいく。
春とは言え、外はまだ少しだけ冷える。
俺は理事長室のある建物の前で、風葉を待っていた。
秘書業務の後であれば会えるとのことだった。
…夜の学園は静かだ。半分の月が昇り、長い影を映し出す。
暫くして、扉の開く音が聞こえた。
「お待たせしました」
忙しいだろうに、風葉の声に疲れは感じられなかった。
或いは、見せないように振る舞っているのか。
「いや、大して待ってないよ。忙しいのにすまないな」
「ご心配なく。いずれこうなると思っていましたから」
「早速で悪いけど、聞きたいことがある」
俺は彼女を正面に見据え、言う。
「…改まって、なんでしょうか」
「もう一度、母さんのことを聞かせて欲しい」
俺は母さんのことを、よく覚えていない。
というより、幼い時の記憶はほとんど抜け落ちている。
「……」
沈黙が長く続いた。
返答を待っていると、暫くしてから口を開く。
「私の知っている範囲であれば」
―――――――――
「何か飲むか?奢るよ」
近くの自販機で飲み物を買う。
俺はコーヒー、風葉はコーンスープを選んだ。
そのまま2人でベンチに座ると、風葉が話し始めた。
「先ほども話しましたが、楪様はとてもお優しい方でした。姉妹同士仲が良く、私たちもそれでよく会っていました。お母様から聞いた話では、楪様は神籬の当主候補に推薦されるほどの霊力を持っていたそうです」
神籬家についても聞きたいことは山程あるが、今は後回しにする。
「神籬の血には力があります。それについては、先ほどあなたには見せましたね」
いつの間にか風葉の肩に、先ほどの狸がいた。
「あっ、そいつはさっきの!」
「この子、私はポンちゃんと呼んでいます。私を守護する神使です」
カミツカイ…?聞き慣れない言葉だ。
「神籬の一族は、先祖代々この神使を継承してきました。この子は先代…つまり私の父から受け継ぎました。他にも多くの神使がおり、神籬の各家で管理されています」
「ちょ、ちょっと待ってくれ。代々受け継いだって…こいつ、普通の動物じゃないのか?」
「ポンちゃんはゆうに1500年を超え存在する、神霊です」
…頭がくらくらしてきた。しかし彼女は冗談を言っている風には見えない。
「神使は継承者の霊力により、この世界に現界します。私は生まれつき、それなりの霊力を持っていますが、使役するには修行が必要です。お母様に引き取られた後は、楪様と神籬の里で修行をしていました」
「…その時、俺も一緒にいたってことか」
「そうです。因みに疑問に思っているでしょうから言っておきますが、ポンちゃんという名前は幼い頃の私が付けたものです。この子が気に入っているのでそのまま呼んでいますが、本来は人間より遥かに高位の存在なのです。この子は特別人懐っこい性格ですが、中には荒ぶる鬼神のような神使もいます」
ポンちゃんは気持ちよさそうに、風葉の太ももの上で撫でくりまわされている。
それでいいのか、1500歳の神様よ…
「神使は霊力と引き換えに、多くの力を授けます。災害や地震、飢餓の予知、時には武力として。それ故に、神籬の一族は国家に重宝されてきたのです」
「ちなみにポンちゃんは何ができるんだ?」
「いずれお見せする時が来るかもしれません」
今はその時ではないらしい。しかし本題はそこではない。
「…だいたいわかったよ。俺と母さん、雅さんはその本家筋で、一緒に修行をしていたと」
「楪様の霊力と技能は素晴らしく、私の師匠でした。ゆくゆくはお爺様から、正式に神使を継承する予定だったのです。しかしある日突然、楪様はあなたと共に失踪しました。理由は、お母様から聞くのが良いでしょうね」
やはり、そのあたりのことは風葉も詳しく知らないらしい。
「ありがとう風葉。疲れているだろうに悪かったな」
「何度も言いますが、心配にはおよびません。それに、あなたとはずっと話がしたいと思っていました」
「え、それって…」
「私もまた、楪様のことはずっと疑問に思っていました。あなたが再び現れて、何か手がかりが聞けるかと思っていたのですが…」
「…ごめん、役に立てなくて…」
「いえ、もしかすると、楪様が亡くなったことで、記憶を失っているのかもしれないとお母様が言っていました。あなたの記憶を蘇らせることは、必ずしも良いことではないかもしれません」
「だとしても、俺は知りたい」
はっきり言い切る俺に、風葉は少し驚いたようだった。
たとえそれが辛い記憶だろうと、真実を確かめなければならない。
それに、ずっと夢に出てくる、あの光景。
朧げだが、間違いなくあれは…血だった。
大量の血。
その中に、俺はいた。
そして多分、母さんも…
春の強い風が、俺たちの間を吹き抜けていった。