身分違いの恋の話
「リーディア・クランベル嬢、生徒会に入りませんか」
入学式から1週間、リーディアのクラスを突然訪ねてきた人物にクラス中が注目していた。漆黒の髪に海を想像させる澄んだ青い瞳、この世のものとは思えない程に整った顔立ち。そんな美丈夫に声をかけられたリーディアが黙っていると、「ああ、失礼」と感情を読み取らせない無表情のまま口元だけ緩めた。
「突然知らない男に話しかけられたら怖いですよね。初めまして、俺はレオン・ジルベスターと言います」
「存じ上げておりますわ」
「今年の入学試験トップの才女に認識してもらえているとは、光栄です」
「貴方様のことを知らない者はこの学園にいないかと」
噂に疎いリーディアもレオンと彼の従兄弟である第二王子の名前と顔は知っているのだが、もしや馬鹿にしてるのかと穿った見方をしてしまう。しかし、彼の様子を見る限りあくまで社交辞令として口にしただけかもしれない、と思った。リーディアは読んでいた本を閉じ、座ったままでは失礼かと立ち上がって自分より頭ひとつ分大きいレオンを見上げると軽く礼をした。
「改めまして、リーディア・クランベルです。ジルベスター様、私を生徒会にとは態々勧誘をしにいらっしゃったのですか」
「はい、生徒会は新しい仲間を求めているのですが是非クランベル嬢に入っていただきたい、と」
「生徒副会長直々にスカウトしに来て下さるとは、嬉しいです」
うふふ、と微笑んでいるがリーディアの目は笑ってない。リーディアは内心面倒なのが来た、と毒付いていた。リーディアは自他共に認める面倒臭がりだ。基本的にやりたいことしかしないし、興味がないものには全くの無関心を貫く。入学試験トップだったのは本好きが高じて何でもかんでも知識を得た結果なのであり、リーディアが望んだものではない。昨今女性の地位向上を掲げ、女性が学問に邁進することが好ましいとされてきているものの、やっかみの対象にならないわけではない。
リーディアは雑音は完全無視するし、度が過ぎる場合はきっちりやり返すタイプだが進んで面倒ごとに首を突っ込みたい訳ではない。生徒会には王族公爵子息公爵令嬢といった、将来国を担う方々が所属しているので在校生、新入生共にお近づきになるチャンスを虎視眈々と狙ってる。そんな雲の上な集団の1人に勧誘されたリーディアが周囲からどういう目で見られるか、馬鹿でも分かる。
誘いに乗っても断ってもどうしたって角が立つのなら、平穏を選ぶリーディアであった。
「お誘いはとても嬉しいのですが、私のような身分が低い頭が少し良いだけの者が生徒会に入るなど、恐れ多いです。選ばれし高貴な方々が所属する生徒会に私は相応しくありません」
「…ほう、誰かが貴方に直接そのようなことを言ったのですか?成績優秀なことと男爵家出身であることを揶揄し、侮辱したのですか?名前を教えてください。そいつらは処分します」
「はい?」
急にレオンの周囲の温度が下がり、彼の口から放たされた言葉に耳を疑った。温厚そうなレオンから処分などという物騒な言葉が飛び出したからだ。
「優秀な者に悪意をぶつける奴は大して努力もしてない癖に妬み、僻み相手を傷つけて鬱憤を晴らすゴミ以下の人間ですし、身分で人を判断する奴も同じ。身分関係なく平等を謳う学園には相応しくないので謹慎のち退学にしましょう」
淡々と紡がれるレオンの言葉を聞いたクラスの人間の顔色がみるみるうちに青褪めていく。心当たりがあるのだろう。レオンの口調が冗談に聞こえないから怯えているようだ。
「ジュード殿下は常々身分を笠に着て爵位が下の者に横柄に振る舞う者が多く、高位貴族が優遇される学園の現状を憂いていました。これからは身分に関係なく優秀な者を取り立てていくことになったのです」
リーディアに声を掛けた理由に納得がいった。これほど都合の良いモデルケースも居ない。
「ですので、クランベル嬢に雑音を吹き込む輩がいた場合、教えてもらえれば対処します。他に生徒会に入る上で懸念することはありますか?生徒会に入ると進学留学就職に有利で奨学金も」
「入ります」
リーディアは食い気味に答えた。レオンは満足気に微笑む。
こうしてリーディアは生徒会に入ることになった。
それからリーディアのクラスメイトを始め、10人ほどの生徒が暫く学園を休んだ。どうにも身分で人を判断し、下の者に辛く当たっていた生徒ばかりだったようだが、復帰するとすっかり人が変わったように大人しくなった。
リーディアは興味がないので知ることはない。
生徒会の新メンバーにはリーディアの他に2人、男子1人女子1人。直接スカウトされたリーディアと違い彼らは入学試験の成績から推薦された何十人かの中から生徒会メンバーの面接を経て、選ばれた強者である。
「いや、副会長がスカウトした人に強者と言われても」
「何か複雑なのよね…」
とリーディアが珍しく自分から話しかけると、こんな反応をされた。だがそれで2人との仲が微妙になったとか、そういうことはなく。リーディアはやはり近づきがたいと思われていたようだが、自分から話しかけるしこちらを馬鹿にしたような態度も取らない、良くも悪くも平等に接するので警戒心が解けたらしい。特に新入生メンバーのカリナ・ファルテ子爵令嬢はリーディアによく話しかけるようになった。
リーディアは自分の協調性の無さを自覚してたのでカリナは兎も角、上級生とうまいことやっていけるか心配していたが杞憂だった。誘った張本人であるレオンが物凄く世話を焼いてくれたからだ。レオンは初対面の時は敬語だったが、正式に入ってからは砕けた口調で話すようになり仲を深める、という名目でランチや放課後何処かに出かける際誘ってくれるようになった。
「クランベル嬢、良ければ一緒に昼食を摂らないか?他のメンバーも誘っている」
「クランベル嬢、放課後予定が無ければ街に行かないか?王都にまだ慣れていないと聞いたから案内する。勿論他のメンバーも来る」
レオンと新メンバーだったり、3年2年を交えた大所帯で行くことが殆どだったが、1ヶ月を過ぎたあたりから何故か他の面々に「急用」が出来ることが増えていった。
「ジルベスター様、殿下とカルテ様は」
「殿下は急な公務、カルテは飼ってる猫が急病で来られなくなった」
「ジルベスター様、他の方は」
「飼ってる兎が産気づいたり、犬が変な物を食べて体調を崩して病院に連れて行くから来れないと連絡が来た」
結果的にレオンと2人で行くことになることが多くなった。生徒会室で顔を合わせると急用が出来た人達が何故か皆何か言いた気な顔でリーディアを見たり、気の毒そうな目を向けてくる。リーディアは細かいことは気にしない性質だが、流石に引っ掛かりを覚えるようになっていった。しかし、誰も何も教えてはくれない。
「リーディア・クランベル嬢、俺は君のことが好きだ」
レオンからこんなことを言われたのは放課後に誘われた、とあるカフェの一室だ。あと2人来る予定だったが、例の如く急な腹痛頭痛で来られなくなってしまったので2人でカフェに来たのだ。リーディアは普通の令嬢なら顔を赤らめて喜ぶ台詞を聞いても、はぁ、と微妙な反応をする。
「好き、とは人間としてでしょうか」
「いや、恋愛的な意味だ」
でしょうねぇ、とリーディアは心の中で呟く。レオンの告白はリーディアからすると青天の霹靂なのだが、表情に出にくいので驚いているように見えない。
「他の人が狙いすましたように急用が出来てたのは」
「俺が頼んだ。2人きりなんて、確実に断られるのが目に見えていたからな」
不自然かつ強引な作戦だが、直前で他の人が来れないのなら辞めましょう、と断るのも気が引けるしリーディアはレオンが案内する店を見るのが結構好きだった。疑わしい部分に目を瞑り、自分の欲望を優先させたので文句を言うつもりはない。
「そうですか。ジルベスター様は私のことが恋愛的な意味で好きなんですね。申し訳ありませんが私は恋愛的な意味で好きではありません」
「これから好きになる可能性は?」
「未来のことは分かりませんけど、今のところ可能性はないですね」
レオンは見目麗しく文武両道、公爵家の嫡男で性格も物腰柔らかい。婚約者が居ないため多くの令嬢達がハイエナのような目で狙ってる競争倍率の高い方だが、リーディアはそういう目で見た事がない。はっきり言うと流石にレオンはショックを受けたように表情を歪めた。
「全く?一ミリも可能性はない?」
捨てられた犬のような目で見つめられると、こちらが悪いことをした気になってくる。しかし、嘘を吐くわけにはいかない。
「ないですね。そもそも何故私なのですか?ジルベスター様ならもっと美しくて性格の良い令嬢を選べるでしょう」
リーディアは亜麻色の瞳に亜麻色の髪の普通の容姿だ。絶世の美少女でも無いし、性格が良いわけでもない。思ったことはすぐに口に出すし、世の男性が好まないタイプだ。
「何故?君は可愛いだろう?入学式で初めて見た瞬間好きになった。勧誘したのだって下心があったからだ」
更なる告白と新事実。リーディアを勧誘したのは完全なる私情だったようだ。意外な一面に驚く。
「性格だって何でもはっきり言ってくれるのは好ましい。表では良い顔をして裏では平然と人を貶める人間より、ずっと良い」
レオンの口調には隠しきれない苦労が滲み出ていた。女の争いは恐ろしいと聞くので、そういった女性に苦労させられたのかもしれない。そういう経験をしているとリーディアのようなタイプが物珍しく感じても仕方ないと思う。レオンは改めてリーディアを見据えた。
「クランベル嬢にとっては迷惑だと分かっているが、どうしても諦められない。チャンスをくれないだろうか」
「チャンス、ですか。具体的には?」
「例えば…お試しで付き合ってみる、とか」
レオンの提案を聞いてリーディアはふむ、と考えてみる。リーディアはレオンのことは嫌いではない。話題の引き出しが少ないリーディアの話にも乗ってくれて、つまらなそうな態度は決して取らない。薦めてくれた店のスイーツは全部リーディアの好みに合致しているので、食の好みも合っているはず。
リーディアは恋愛経験皆無だが、告白されて初めて男女交際というものに興味が湧いてきたのである。そしてリーディアを好きだというレオンの趣味嗜好も気になり出した。
「分かりました、良いですよ」
「ほ、本当か」
完全なる好奇心だが、リーディアはレオンの提案を受け入れた。レオンは端正な顔を思い切り破顔させ、喜びを露わにする。徐に席を立つとリーディアの隣に移動して、リーディアの両手を強く握り締めてありがとう、と感謝の言葉を告げた。お試しでも、OKしてもらえた事が相当に嬉しいらしくレオンは浮かれていると自己申告した。
その後、リーディア自身がどうしても無理になったら交際関係を解消。手を繋ぐ、といった身体に触れる行為はリーディアの許可を得た上で決して無理強いしない、等細かい取り決めを交わしてこの日は別れた。
次の日の朝、レオンが馬車で迎えに来て両親と兄、使用人が全員腰を抜かした。そんな人々を華麗にスルーしたリーディアは悠々と馬車に乗り込んで登校する。当然ながらリーディアとレオンが同じ馬車から降りると騒ぎになった。特に女子生徒の悲鳴が凄まじく、リーディアは女子の射殺すような視線をバシバシ浴びながら、平然とレオンと歩き教室前で別れた。
1人の勇気ある生徒がレオンにリーディアとの関係性を尋ねた。するとレオンは「リーディアに告白して断られたが、どうしても諦められず頼み込んで、お試しで付き合ってもらえることになった」と嘘偽りなく明かし、周囲は騒然となった。リーディアがレオンを振ったことも、レオンが諦め悪くリーディアに縋った立場であることも信じられない、と。この事実はレオンのプライドに関わることなのに彼は隠すつもりは皆無だった。そして性格が変わったのか?と不可解なレベルでレオンはリーディアへの好意を隠そうともしなくなった。対してリーディアは普段と変わらず淡々と、レオンの求愛を当然のものとして受け入れている。
気に食わない者が出てくるのは、火を見るより明らかだった。
「あなた、自分がレオン様に相応しいと本当に思ってますの?主席なのに、あまり頭がよろしくないのね?」
「身の程が分からない人って嫌よね。どれだけレオン様に恥をかかせているのか、理解してないんだから。そんな地味な見た目で良くレオン様の隣に立てるわね。ある意味尊敬するわ」
「リーディアさんて男爵家の出身でしょ?こういっては何だけど…公爵家嫡男のレオン様と釣り合ってませんわよ。別に意地悪で言ってる訳ではありませんわ。リーディアさんの為にも身を引くべきだと申し上げているのです」
カリナとカフェテリアでランチを摂っていると3人の令嬢が急に話しかけていた。全身から敵意を剥き出しにし、あからさまにリーディアを蔑みの目で見ながら親切にご忠告してきたのである。
リーディアはこの手の輩が来ることは予想していた。レオンとリーディアは見た目も出自も何もかも釣り合っていない。納得出来ない者がいて当たり前なのだ。カリナは一方的にリーディアに嫌味をぶつける3人に言い返そうとしたが、リーディアは止めた。彼女達は侯爵家と伯爵家。下手に言い返したらカリナが逆恨みされかねない。
「つまり、あなた方は私にレオン様と別れて欲しいと」
「そんな直接的な言い方はしてませんわ、ただレオン様のことを思うなら身を」
「分かりました別れます」
「え」
被せるように放たれたリーディアの発言に3人の令嬢は勿論、カリナも聞き耳を立てていた生徒も固まった。困惑しつつもリーディアから言質を取った3人は満面の笑みを浮かべた。
「…分かればよろしいのです。早速レオン様にお伝えしなくては」
「けど、この程度で別れるなんてリーディアさんは薄情ですわね。レオン様がお可哀想」
「そこをアリー様が慰めれば良いのですわ」
満足した3人はさっさと出て行った。シーンと静まり返る中カリナが話しかけた。
「わ、別れるって本気?」
「本気、私が面倒事嫌いなの知ってるでしょ?ああいう人達に逆らっても良いことないもの」
交際期間1日とは短すぎるが仕方ない。こちらは吹けば飛ぶ弱小男爵家。あの手の令嬢は平気で親の権力を振り翳してくる。リーディアは保身の方が大事なのだ。薄情だが事実だった。
それから5分も立たないうちにカフェテリアに誰かが駆け込んで来た。その人は一目散にリーディアの元へやって来て、その後ろに「レオン様!」と叫ぶさっきの令嬢達が息を切らして付いてくる。
「…リーディア」
「レオン様」
レオンはリーディアと目線を合わせる為にその場に跪く。突然のレオンの行動に付いてきた令嬢も成り行きを見守っていた生徒達もギョッとした。
「…俺と別れると言ったそうだが本当か」
「本当です」
「何故?朝態々迎えに行ってご両親と兄君に挨拶したのが鬱陶しかった?周囲に付き合ってると喧伝したのがうざかった?そもそもしつこく縋ったのが不快だった?何が気に食わなかった?教えて欲しい直すから。だから別れるなんて言わないでくれ」
息継ぎせず捲し立てるレオンの様子に後ろの令嬢達は目を見開いて愕然としている。レオンは約束通りリーディアに指一本触れてないが、圧と勢いが凄まじい。リーディアを見つめる青い瞳は輝きを失い、底なし沼のように暗く澱んでいた。レオンの変貌にリーディア以外の生徒が息を呑む。
「レオン様に気に食わないところは何もありません」
「では何故」
「後ろにいる方々が、勉強は出来るけど頭が悪く不細工で身分も低い私はレオン様に相応しくないから別れろと」
「なっ!私達そんな言い方は!」
「あ?全員目が腐ってるのか?くり抜いてやろうか眼球ごと」
地の底から響くような低い声で猟奇的な台詞を吐き捨てながら、レオンは立ち上がり令嬢達の方を向いた。ひっ!と令嬢達の顔色が悪くなりガタガタと震え出す。何なら蚊帳の外の生徒も怯えてるので相当怒っているようだ。
「この方々は私が拒否したらご自分のお父様辺りに泣きついて私、もしくは家族に圧力をかけて脅すくらいのことはするでしょうね。今の私は家族や自分の身の方が大事なんです。だから別れると言いました。薄情でごめんなさい」
「いや、それはしょうがない。俺よりご家族や自分のことを取るのは当然だ」
分かってる、と笑いながらレオンの声は暗く空虚な響きを孕んでいる。そのアンバランスさに周囲のどよめきが増していく。
「つまり、リーディアはうるさい害虫を駆除すれば別れるなんて言わないってことだな」
リーディアが答える前に1人納得したレオンは令嬢達に近づいた。全身から殺意を発するレオンを前に令嬢達はすっかり萎縮し切ってプルプルと震えている。
「アリー・シャルテン、イオーナ・パドル、ウィリム・ライナー。君達は俺とリーディアが付き合うことに不服だそうだが、何故全く関係のないの他人に口を出されなければいけない。非常に不愉快だ。今すぐありとあらゆる罵詈雑言をぶつけたいのを、リーディアに女に暴言を吐く醜い姿を見せたくないから我慢してるんだ。この場にリーディアが居ることに感謝しろ」
何の感情も籠っていない淡々とした言い方が逆に恐怖心を煽り、令嬢達は震えるだけで何も言えない。が、勇気を振り絞り1人が叫ぶ。
「わ、私はただレオン様のためを思って!だって男爵令嬢ですよ!次期公爵が遊びとはいえ付き合う相手では」
「俺のため?そういう恩着せがましい奴がこの世で1番嫌いなんだ、反吐が出る。遊び?遊びで付き合うわけがないだろう、本気だ。次期公爵?この肩書きがリーディアと付き合う上で足枷になるのなら後継の座なんて要らない。弟にくれてやる」
「レ、レオン様!何てことを!」
令嬢は悲鳴のような声を上げた。突然の嫡男を下りる宣言にざわめきが最高潮に達する。レオンと令嬢のやり取りを眺めていたリーディアが空気を読まずに口を挟む。
「私詳しくは知りませんけど、跡を継ぐ為にずっと努力し続けていたのではないのですか?そんな簡単に捨ててしまってもいいんです?」
「生まれた時から将来を決められていて、特にやりたいこともないから続けていただけだ。親の敷いたレールに沿う生き方に何の疑問も抱いてなかった。面白くもないし、つまらなくもない。そんな人生を送ると思っていたのに、リーディアに会った瞬間灰色だった俺の人生が色づいたんだ。だからリーディアと別れなきゃいけないなら全部捨てる」
周囲の生徒は呆然とレオンを見つめていた。レオンの闇より暗い青の瞳はリーディアしか見てないし、この場で平然としているのはリーディアだけだ。
平然としているように見えてリーディアは過去最高に興奮していた。
リーディアはレオンに対して関心は抱いていたが、未知のものに対する探究心のようなものでレオンが己に抱く恋愛感情とは程遠い。今、リーディアの中に芽生えた感情もそうだ。
リーディアはレオンのことを、なんて可哀想な人なのだろうと哀れに思った。見た目も頭脳も血筋も、輝かしい将来も約束されている。生まれた時から何もかも持っていて、何もかもを手に入れるだけの能力がある男が、身分が低く美しくもない、薄情を通り越して人として大事なものが欠けているリーディアを愛し、リーディアの為なら約束された地位も名誉も捨てると宣言している。
そんな愚かで哀れな男と、どうして別れることが出来ると思ったのか。リーディアは簡単に別れると言ったことをとても後悔した。レオンがリーディアに抱いてる盲目的とも言える恋情は抱いてないが、簡単に手放したくないという執着心のようなものは芽生え始めていた。リーディアは立ち上がるとレオンに近づき、瞳をじっと見つめる。
「レオン様が突然跡を継がないと言い出せば、ご実家は大変な騒ぎになってしまいます。学園に行けるかどうかも分かりませんし、そうなれば私を迎えに来ることも話すことも出来なくなります」
「それは困るな」
「私はレオン様の地位には関心がありませんが、幼い頃から努力してきたものを簡単に手放すのは良くありません」
「リーディアがそう言うなら、跡を継ぐのを辞めるのを辞める」
レオンはあっさりと自分の発言を撤回したが、己の地位に執着してるわけではなくリーディアに宥められたから撤回しただけだと、皆気づいている。カフェテリアには異様な空気が広がっていた。
「レオン様、別れると言ったこと撤回しますわ。あなた自身に興味が湧きました。こんな私ですが、これからもよろしくお願いします」
とはいえリーディアの本質は変わらない。レオンと付き合うことに対してデメリットがメリットを上回れば「別れる」という結論になるだろうし、レオンもリーディアの性質は理解してるはずだ。
「リーディア…嬉しいよ。ありがとう。付き合ったらやりたい事が1000個以上あったのに、別れることになったら悲しみのあまり何もするか自分でも分からなかった。原因を作った奴らが不慮の事故に遭うように願っていたよ」
暗い瞳に不釣り合いなほど明るい声で話すレオンに、すっかり蚊帳の外になった令嬢達はガタガタと震え、ボロボロと涙を流しながらカフェテリアを逃げるように出て行った。成り行きを眺めていた生徒の顔色も一様に悪くなっている。
が、リーディアとレオンの周りだけは明るい雰囲気に包まれていた。
カフェテリアでの一件は瞬く間に学園中に広がった。しかし、あまりに普段のレオンの言動とかけ離れていたため冗談と受け取られることが殆どだった。直接見た生徒は「本当だって」と訴えても「嘘吐くな」「あり得ない」と信じてもらえない。そんな態度を取られると段々話す者も減っていき、数週間も経つとレオンの奇行について触れる者は誰も居なくなった。リーディアとレオンの交際についても、表立って非難する者は現れない。
何故なら生徒会長であるジュード殿下が2人の交際を応援する旨の発言をしているからだ。王族が認めてることに異議を唱える命知らずはそういない。
「リーディア嬢を生徒会に誘えって言ったの俺だからね。キューピットみたいなものだ、感謝してくれて良いぞ」
「アリガトウカンシャシテル」
「うっわ、こんなに心篭ってない謝罪初めてだわ」
というやり取りがリーディアの前で度々繰り広げられる。従兄弟だけあって仲が良い。ジュードはレオンが男爵令嬢と付き合うことに対して思うところが無いのか、聞いてみたところ。
「反対?しないよ。あのレオンが誰かに執着したの初めてだし、俺は応援する」
「あの、とは?」
「あー、リーディア嬢は知らないか。レオンて子供の頃から、大体のことは何でも卒なくこなしてたんだよ。周りから羨望の眼差しで見られても、誰にでも分け隔てなく接して決して驕らない、そんな奴だったんだ」
子供の頃から?それはまた…かなり大人びていたと言える。少し前までのレオンを思い出すと納得出来るが。すると話しているジュードの表情が少し陰った。
「誰にでも平等って、裏を返せば誰にも無関心てことだろ。レオンの中は空っぽだったんだ。俺と兄上、あいつの両親も気づいてたと思うけど、どうしようも出来なかった。あいつがあのままだったら、周りに言われるままに結婚して父親の跡を継いで空っぽのまま年取っていったんだろうな。それが悪いとは言わないけど…入学式の後からレオン、人が変わったように何かを調べ出してさ。あ、当然リーディア嬢のことだよ。何企んでるんだって詰め寄ったら、リーディア嬢のことが気になるって言う。学年主席で男爵令嬢、丁度良かったから生徒会に勧誘しろって発破かけたんだよ」
丁度良いとは身分関係なく優秀な者を取り立てるというジュードの計画のことだろう。リーディアは本当に都合が良かったのだ。
「まあ、仮にリーディア嬢の成績が下の方でもあいつことだ、理由を付けて接触してたと思うよ。従兄弟のことよろしく。君ならあいつと上手くやれるよ、きっと」
含みのある言い方をするジュード。空っぽだったレオンに芽生えた執着心、それを一身に向けられても恐怖を覚えないリーディア。どちらも「普通」という枠に押し込められない。ある意味似た者同士だから上手くいくと思っているのか。
「…上手くやっていけたら良いのですが」
リーディアは曖昧な返事に留めておいた。けどジュードはリーディアの態度を気にした様子はない。ハハハ、と軽快に笑う。
「大丈夫、大丈夫…ちょっと大変だろうけど」
「?ちょっと大変、とは」
物凄い小声でボソッと囁かれた言葉を拾ったリーディアが聞き返すと、「…え」とジュードがポカンとした。聞こえてるとは思わなかったのだろう。
「…何で聞こえたんだ」
「私耳が良いのです。それで、ちょっと大変、とはどういう意味なのでしょうか」
ジュードはレオンを慕う令嬢にリーディアが絡まれたことも、それを発端にしたレオンの一連の言動を当然把握してる。これからもあの手の輩が出てくるから気をつけろ、と忠告したつもりなのか。真意を知りたいリーディアがじーっと見つめると、観念したようにジュードはふぅ、と溜息を吐く。
「…黙っててもいつかバレるか。俺の末の妹のこと、知ってるだろ」
「アンジュ第二王女殿下のことでしょうか。今年中等部に入学された」
この学園は中等部から大学部まである。リーディアは領地の邸で家庭教師に教わってたので高等部から通っている。人脈作りや箔を付けるために高等部から入学する者の方が中等部から通う者より多い。教育熱心な貴族は自分の子供を幼少期は家庭教師、中等部からはより高度な教育と将来の人脈作りのために王都の学園に通わせる。王族であるアンジュ殿下も中等部から通い、同世代の令嬢令息達との交流を楽しんでいるという。
「アンジュ殿下がどうかされたのですか」
「…あいつは子供の頃からレオンに懐いていた。そして末っ子ということもあり両親も、俺達も甘やかしてしまった。第一王女の姉上は他国に嫁いだからアンジュは国内の貴族に降嫁させることが決まっている」
ジュードが何を言いたいのか分かってきた。アンジュとレオンの婚約の話が持ち上がっているのだろう。しかし、正式に決まっていればレオンの性格上リーディアに告白していないはずだしジュードも応援するなんて無責任な発言はしない。
「アンジュは中等部に入学する前にレオンと婚約したいと父に強請り、父は王命という形で婚約を命じようとしたが兄と母が止めた。兄はレオンのことを良く知ってるから、アンジュがレオンと結婚しても幸せになれないと分かっている。母はレオンの父上の姉だ、ジルベスターに王女が嫁げば権力が集中しすぎて、貴族間のパワーバランスが崩れることを恐れた。父も娘に甘いところはあれど、為政者としては真面だ。結局アンジュとレオンの婚約は無かったことになったが…」
「…諦めていらっしゃらないのですね」
「アンジュの耳にレオンとリーディア嬢のことが入らないよう俺が手を回している。アンジュの取り巻きも妹がレオンを慕っていることを知っているから協力してくれてるが…そろそろ限界だ。アンジュが2人のことを知った場合突撃する可能性が高いが、失礼な言動をしたら遠慮なく言い返してくれて構わない。俺が許可する、だからレオンを見捨てないでくれ」
「…はあ」
面倒事が次から次へと、とリーディアはこめかみを抑えたくなった。リーディアはアンジュと面識はないが、蝶よ花よと育てられた国王夫妻の末娘と国民の間では有名だ。アンジュが入学する年の中等部の入学希望者が殺到し、中等部の生徒で彼女に憧れない者は居ないと言う。
(甘やかされたということは我儘なのかしら?そういう話は流れてこないから人前では猫を被っている?)
王族だから感情のまま振るまってはならないと幼い頃から言い聞かされているのだろう。その反動で身内や親しい相手には我儘に振る舞うのだ。レオンの口からアンジュの名前が出たことは一度たりともない。つまりそういうことだ。アンジュが気の毒に思えてくるが、彼女はリーディアにだけは同情されたくないはずだ。
(殿下の口ぶりからしてアンジュ殿下にバレるのは時間の問題)
そもそもカフェテリアの出来事から2週間経っているのに隠し通せたのが奇跡に近い。中等部と高等部は違う建物とはいえ同じ敷地内にあるにも関わらず。周囲の人間がレオンのことを知ったアンジュがどんな行動に出るか、そしてその行動の結果どんな影響が出るかを理解しているから、隠しているのだ。
厄介なことになりそうだ、というリーディアの懸念が当たったことが分かるのは2日後のことだ。
「リーディア・クランベル様ですね」
「…そうですが」
昼休み、教室にいきなり見覚えのない令嬢が2人入って来た。2人が来ているのは中等部の制服。そして平静を装っているが、リーディアを見る目には敵意が篭っている。
リーディアは席にいるカリナにアイコンタクトを送った。受け取ったカティアは席を立ち慌てて教室を出て行く。周りの生徒も気づいているが、呼び止めない。
「とある方があなたのことをお呼びです。私達について来てください」
問いかける形ではなく命令形。リーディアが断るとは思ってないし、そもそも断らせないという圧を感じた。2人は使いパシリの役割を担わせたとは思えない程堂々とした態度だ。彼女達に頼んだ人間は彼女達より身分が高いのだ。それでいてただ人を呼びに行くだけの「お願い」をまるで崇高な使命かのように思わせている。
頼んだ人間が誰か、分かりやす過ぎた。
「分かりました」
リーディアはあっさり承諾し、2人について行く。3人を見送ったクラスメートは、気の毒そうな目で見ていた。
高等部から通うリーディアは中等部の建物に入るのは初めてだ。やはり高等部の制服を着たリーディアは目立つのかジロジロ見られる。だが注目されてる理由はリーディアの前を歩いてる2人の令嬢だろう。「アンジュ殿下の…」「後ろの人誰?」「あれじゃない?ジルベスター様の…」。リーディアが呼ばれた理由は中等部の生徒にバレているようだ。態々人を使って呼び出した手間が無駄になっているが、リーディアには関係ないことだ。
案内されたのは王族専用のサロンだ。名前の通り王族と招かれた者しか入れない場所。王族が在籍してない時はサロンの鍵は王家で厳重に管理され、特殊な技能で作られた鍵は絶対に合鍵を作れない特注品。勝手に忍び込んだら厳しい処罰を受ける。
高等部のサロンにはジュード殿下の誘いで入ったことはあるが、物が少なく装飾品も必要最低限。中等部のサロンは全体的に明るく、可愛らしい小物やレースで飾り付けられている。アンジュの趣味だろう。ドアを開けサロンに入ると中央にあるテーブルに誰かが座ってお茶を飲んでいた。輝くような金髪に淡い青色の瞳、ただお茶を飲んでいる姿ですら絵になるその人こそ、アンジュ第二王女殿下だろう。入ってきたリーディアに気づいたアンジュがニコリ、と微笑む。
「まあ、連れてきてくださったのね。さあさあ、こちらに案内して差し上げて」
鈴が鳴るような声で後ろにいる令嬢に命じる。この距離なら案内はいらないが、一々言うことでもないので黙ったままテーブルに向かう。触るよう促されたのでおずおずと椅子に座るとクッション部分がフカフカしていた。王族専用サロンの椅子、硬い椅子なんて置かないのだろう、と状況も忘れて椅子の座り心地を確かめている。
そしてリーディアはアンジュに視線を合わせる。身分が上の者から話しかけるというルールの元、アンジュが口を開くまで待つ。アンジュは13歳ながら淑女の笑みとも呼べる、完璧な微笑みを貼り付けたままリーディアを見ている。一切の感情を笑顔で覆い隠しているため、真意が読めない。少なくとも、表面上は連れて来た令嬢達のように敵意は感じることはない。
まあ有効的な理由で呼び出した訳でないのは明白なので、リーディアは相手の出方を窺う。
「突然呼び出して申し訳ありません。初めまして、アンジュ・ラインヘルツですわ」
「お初にお目にかかります、クランベル男爵家長女リーディア・クランベルと申します」
「リーディアさんね、わたくしあなたにずっとお会いしたかったのよ。レオンお兄様を誑かした人がどんな人なのか気になって」
友好的な態度を取るつもりはないらしく、早速仕掛けて来た。アンジュの纏う雰囲気が声音が一気に低くなると共に変わる。さっきの令嬢と同じか、それ以上の怒りと侮蔑と嘲笑に満ちた笑みと視線がリーディアに向けられた。
「知っていると思うけれど、わたくしとレオンお兄様は幼い頃から仲が良いのです。両親やお兄様達より少し厳しかったけど、優しくて頼りになる方で物心付いた時には好きになってました。ずっと結婚して欲しいとお願いしてましたが本気にしてもらえかったので、今回お父様に強請ったのです。なのに、レイドお兄様(王太子)とお母様が余計なことを言って婚約の話は無かったことにされて…諦めきれずにお兄様にアタックを続けていたら突然付き合ってる人が居るから婚約は絶対出来ないと…今まで自分では相応しくない、もっとわたくしに合った人がいるという理由で断ってたのに…どんな方かと思ったら美しくもない、しかも男爵令嬢ですって?わたくし、こんなにコケにされたの初めてですわ」
ティーカップを待つ手が震えている。怒りを堪えるのに必死なようだ。そのうち中身をこちらにかけてくるかも、と身構える。湯気が出ている熱い紅茶だ、かかったら確実に火傷をしてしまう。
「リーディアさん、あなた他の令嬢達にもレオンお兄様に相応しくないと言われたそうですわね。わたくしも同意見です。何もかも釣り合ってない、あまつさえお付き合いするなんて、烏滸がましいにも程がありますわ。わたくしがどんなに説得してもお兄様は聞く耳を持ってくれない。あんなお兄様初めて見ましたわ、ねぇあなたどうやってお兄様を誑かしたの?」
コテン、と首を傾げる仕草は可愛らしいが目が全く笑ってない。
「…恐れながら、私は誑かしてなどおりません。何もしていないのです」
「嘘吐かないでください。何もしてないのに、堅物で令嬢を寄せ付けなかったお兄様があんなふうになるわけありませんわ!」
興奮しているのかアンジュは声を荒げる。リーディアが怯えもせず平然としてるから、苛立ちを抑えられなくなっているようだ。
「嘘ではありません。正直私の何が良かったのか、私自身も分からないのです」
「…それは自慢ですか?惨めに振られたわたくしを馬鹿にしてるのね?」
目を吊り上げて思い切り睨みつける。被害妄想が激しい。こちらはアンジュを見下す発言は一切していないのに。何を言ってもアンジュの逆鱗に触れる気がする。そしてアンジュは何の脈絡もなく笑い始めた。後ろ、扉の前に見張りとして立っている令息達が戸惑っている気配が伝わってくる。
「…このわたくしが、生まれながらに高貴なわたくしが男爵令嬢如きに負けるなんて許されませんわ。子供の頃からレオンお兄様と結婚するのはわたくしの中で決まっていたこと、今更他の殿方に嫁ぐなんて…絶対嫌よ」
今度は目に薄らと愉悦の感情を滲ませながらアンジュはリーディアに笑いかけた。
「レオンお兄様の説得は諦めました、ですからあなたの方から別れを切り出してくださらない?わたくしがレオンお兄様以外に嫁がない、とお父様に泣きつけばお父様は無理矢理にでもリーディアさんとお兄様を引き裂くでしょう。お父様はわたくしをとてもとても可愛がってくださってるから、お母様達が止めても強行するわ。その前にあなた自らの意思で別れて欲しいのよ。これでも譲歩しているの」
強者のオーラを放つアンジュは虫も殺さない顔をしながら、この国1番の権力者の権力を振り翳し脅して来た。何とも予想通りな行動しか取らない王女様である。
「ちなみに、断った場合は」
「クランベル男爵家の方々に不幸が訪れるかもしれませんし、リーディアさんもお兄様どころか誰ともお付き合い出来なくなるような怪我を負うかもしれません。ああ、誤解しないでくださいませ。わたくしが何かする訳ではなく、わたくしのためを思って何かをする者が出る危険があるのです。わたくしの憂いを取り除くために」
妖精のようだと評されるアンジュ王女だが、中身は妖精とは程多いようだ。
(断ったら家族を危険に晒し、私をならず者にでも襲わせるつもり?これが殿下の本性、自分の思い通りにならないことが許せないのね)
レオンへの思いがそれだけ強いとも取れるが、目的のためならどれだけ残酷な手段を取っても構わないと思っているのだ。冗談でも本気でもこういうことを口にする性根に将来が心配になる。自分の立場を理解していないのか。この場には取り巻きしかいないとはいえ、軽率としか言いようがない。
陛下がアンジュを溺愛してるのは有名な話。そんなアンジュがレオン以外に嫁がない、と宣言すればどんな手を使っても願いを叶えようとするだろう。病弱でもない王女が嫁がずにずっと王族に残るのは醜聞に繋がるし、かといって適当な相手に嫁がせることもしたくないはずだ。親馬鹿な権力者を甘く見てはいけないのは歴史が証明している。そして父親が娘に甘いというのは一般常識と聞く。ジュードの話では一度は引き下がったようだが、アンジュに泣いて「お願い」されれば…。想像するだけで面倒臭くて溜息を吐きたくなる。ジュードは遠慮なく言い返せ、と許可してくれたが国王を味方に付けたアンジュに太刀打ち出来るとは思えない。ならば。
「分かりました別れます」
「そうよね別れな…え?」
あっさりと別れると口にしたリーディアにアンジュは呆気に取られた顔をした。次期公爵であるレオンの恋人という立場をおいそれと手放す訳がない、と思っていたのだ。普通ならそうだろう、寧ろ反対されるほど燃え上がるのが恋、らしい。しかしリーディアは自らに降りかかるデメリットがメリットを上回ったと判断すれば別れようとする。何も変わってない。絡んで来た令嬢達とは比べるまでもなく、アンジュの厄介度は桁違いだ。流石にこの国の国王を敵に回す真似は出来ない。アンジュはリーディアを嘲笑するように口角を上げた。
「…話に聞いた時は信じられなかったけど、少し反対されただけで別れると言うのは本当なのね。あなたのお兄様に対する気持ちはその程度なの?あれだけお兄様がご執心だというのに…失望したわ。あなたみたいな冷たい人にお兄様は勿体無い。早速だけど、リーディアさんの口から直接お兄様に別れを告げてちょうだい?わたくしの目の前で」
ティーカップを置くとアンジュは悠然と立ち上がる。このままレオンの元に向かうつもりのようだ。アンジュの口から伝えても良い思うが、直接リーディアの口から言わなければレオンが諦めないと見ているのだ。正直リーディアの口から別れを告げられても前回と同じことになる。前回は相手が相手だからどうにかなったが、今回は相手が悪過ぎる。陛下とレオンは伯父と甥という関係だが、だからこそ身内贔屓もしないし容赦なくアンジュとの婚約を命じる予感がしていた。
レオンが毎日送り迎えに来て昼食を共に摂るのは当たり前、放課後は街に出かけたりリーディアの家に遊びに来るのだ(お茶を運ぶメイドが毎回緊張しているのは少し可哀想だった)。ちなみに「居心地が良く無い」という理由からジルベスター邸に行ったことはない。別に行きたいと思わないから何も言わなかった。世間一般の恋人ってこんな感じか、と新鮮な気持ちでこの数週間過ごしていた。レオンはやはりリーディアにご執心なので絶対別れないと反対するのは明白。
拗れたら拗れただけアンジュの怒りが倍増し、プライドが傷付けられリーディアは当然として、レオンにも害が及ぶかもしれない。愛は何かの拍子にあっという間に憎しみに変わると本で読んだ。アンジュはレオンのことを本当に好きなのだ、だからこそ完全に拒絶されたら何をするか分からない爆弾のようなもの。
別れると言ったらレオンは悲しむだろう。前回と同じがそれ以上に。リーディアは面倒事を嫌うだけで、別れを告げられたレオンが悲しみ嫌がり、縋る様を好き好んで見たい訳でも、そんなレオンを見て優越感に浸りたい訳でもない。しかし、自分の言葉を撤回する気もない。
リーディアは軽率な自分の選択を初めて後悔していた。こうなることは想像出来た筈だ。一時の好奇心に負けてレオンの申し出に頷いてしまった。何と言われようときっぱりと断っておけば、悪戯に何度もレオンを悲しませることはなかったのに、とリーディアが重い腰を上げた時だった。
「こ、困ります!アンジュ殿下が誰も入れるなと」
「誰に物を言っている?妹が好き勝手しているのなら諌めるのが兄の役目だろう、良いからどけ」
バン、と勢いよくサロンのドアが開かれた。アンジュは突然のことに驚き瞠目するが、入って来た人物を見て目の色を変えた。
「レオンお兄様!どうしてここに、わたくしに話が」
血相を変えて入って来たレオンは話しかけるアンジュを完全に無視し、一目散にリーディアの元へと向かった。「…え」とレオンに居ない者のように扱われたアンジュはピシリ、と文字通り固まった。後から入って来た人物…ジュード殿下は冷ややかな表情のままアンジュに近づいて行く。
「リーディア大丈夫か?暴力を振るわれてないか?暴言を吐かれてないか?そのテーブルにある紅茶をかけられて火傷してないか?取り巻きに怪我をさせられてないか?」
レオンはリーディアの肩に手を置き、息継ぎすることなく捲し立てる。息が薄らと乱れて額にも汗が滲んでいた。さっき令嬢2人が教室に来た際カリナにアイコンタクトを送り、レオンに呼び出されたことを知らせに行って貰った。カリナはレオンの変貌っぷりを普通に受け入れている。「恋は人を変えるんだねー」と呑気なことを言っていた彼女を他の者は尊敬の眼差しで見ていたことを思い出す。
「レオン様、私は何もされてませんから落ち着いてください」
アンジュの身を案じて脅されたことは黙ったまま、宥めるように言うとレオンは徐々に落ち着きを取り戻して行く。しかし瞳には怒りの炎が燃えていた。誰に対して怒っているのか、考えるまでも無い。リーディアはチラリとアンジュの方を見た。彼女はレオンに暴力を振るうような人間だと言われたショックで顔色が悪い。青白く今にも倒れそうなほどだ。
「お、お兄様。わたくしがそんな酷いことをするわけないでしょう!ただリーディアさんとお話ししたくてお呼びしただけですわ!」
「お話し、ね?お前の侍女がリーディア嬢とレオンを何としてでも、父に頼ってでも引き剥がすと言っていたと報告しに来た。散々リーディア嬢を罵ったらしいな?侍女も聞いていて気分が悪くなったと言ってたぞ」
「な、何で!わたくしを裏切ったのね!」
「お前が何かやらかしたら自分達にも類が及ぶからな。懸命な判断だと思うよ。アンジュ、俺は何度も言ったよな。レオンはお前の手に負える男じゃないから諦めろ、と。そもそもジルベスター公爵家に王女が降嫁したら貴族間の権力バランスが崩れる、父上に泣きついたところで叶うはずがなかったんだ」
淡々とジュードに嗜められてもアンジュは顔を真っ赤にして叫ぶ。
「嫌ですわ!わたくしはずっとレオンお兄様と結婚するのが夢だったのに!お兄様だってわたくしのことを可愛がってくださった!一時の気の迷いで男爵令嬢なんかに現を抜かしてるだけで、いずれ目を覚まして」
「アンジュ!それ以上口を開く」
「…男爵令嬢なんか?」
氷点下以下の冷たい声がサロンに響く。決して大きい声ではないのに。声の主…レオンはごっそりと表情が抜け落ちたままアンジュに視線を向ける。アンジュはレオンの視線を受けた瞬間恐ろしいものを見たように可愛らしい顔を引き攣らせ、ガタガタと震え出した。
「アンジュ殿下、今リーディアを侮辱しましたね?」
一切の温度を感じさせない声で淡々と尋問するレオンに怯えていたアンジュはキッ、と何故かリーディアを睨みつけながら声を上げた。
「侮辱じゃないわ!事実を言っただけよ!次期公爵とただの男爵令嬢、釣り合わないじゃない!リーディアさんと付き合ったところでお兄様には何の利益もない、誰からも祝福なんてされませんわ!わたくしなら身分も見た目も利益も、お兄様に釣り合うもの全てを持ってます。貴族間のバランス?そんなのわたくしに関係ないわ…レオンお兄様、従兄だからと勘違いされてるのではなくて?わたくしは王女、あなたは臣下。わたくしの申し出を断ることなんて許されませんのよ?」
王族として無責任かつ横暴な発言をするアンジュにリーディアは耳を疑った。アンジュは状況も忘れて勝ち誇ったように笑う。レオンの周囲の空気とジュードの己を見る目がどんどん冷ややかになっていることに気づいてない。
「お父様にレオンお兄様以外には絶対嫁がないと宣言します。お父様だってわたくしがずっと王族に残るのは困るでしょう?」
同意を求められたジュードは思い切り顔を顰めた。
「お前、それは脅しているのか?馬鹿馬鹿しい、そんな我儘が通る訳ないだろう」
「通るわよ。お父様はわたくしを、いえわたくしだけを可愛がっているんだから。お母様がどれだけ反対しようとお父様が命じれば何でも叶うのよ」
アンジュの自分勝手な理論を聞いたジュードは眉間の皺を深くしたまま黙ってしまった。反論しないということはアンジュの言う通りになる可能性があるということ。
(王太子殿下と王妃様が反対しても、最終的に押し通す力が陛下にはあるものね…)
ここまでアンジュが強気な態度でいられるのは父親が自分のお願いを聞くと疑っていないからだ。ジュードの言葉からアンジュだけを可愛がったように聞こえる。国王一家にはリーディアが知る由もない家族間の複雑な事情があるのかもしれないが、ここで兄弟喧嘩を始められても困る、と思っていると。
「…そうですか、やりたければやれば良い。あなたみたいな方には周りが何を言っても無駄なようですからね」
黙って話を聞いていたレオンが話に入って来た。その表情も声もゾッとするほど冷たい。
「王命で俺とアンジュ殿下の婚約を命じたとして、殿下は陛下に泣きついて自分の願いを叶えさせた我儘王女と揶揄され、陛下も娘可愛さに簡単に王命を出して貴族間の権力バランスを崩したと臣下から白い目で見られることになるでしょうけど、仕方ないですね」
「に、にいさま…」
抑揚のない声で言葉を紡ぐレオンの異様な雰囲気にアンジュが強気な態度を崩し始めた。ジュードも何処か不安げな様子で成り行きを見守っている。
「自分の我儘が原因なのですから、たとえ婚約期間に俺が命を落としたとしても受け入れてくださいね」
「兄様!何をおっしゃってるの!」
突然恐ろしいことを言い出すレオンにアンジュが悲鳴のような声を上げた。ジュードはこめかみを抑えて天を仰いでいる。
「何を?リーディアと別れた俺が長く生きる訳ないでしょう?何もする気も何も食べる気も起きない、そんな状態では殿下と正式に婚姻する前にくたばります。そうなれば殿下は間接的に人を殺したことになりますけど、仕方ありませんね、ご自分の我儘が原因なのですから責任は取らなければいけません」
「自分達の行いが原因で筆頭公爵家の嫡男が死ぬなんてなったら、お前も父上もタダでは済まないだろう。周囲の風当たりは強くなるし、あっという間に人が離れて行くんだろうな?お前に耐えられるか?」
瞳に真っ暗な闇を覗かせるレオンと彼に乗っかったジュードがアンジュを追い詰めて行く。
「ひ、ひとごろ…わ、わたくしが…お、お兄様はわたくしと結婚するくらいなら死んだ方が良いと思って…」
13歳で甘やかされて苦労を知らないであろうアンジュは投げつけられた容赦無い言葉を前にパニックを起こしている。従妹と妹に惨い、とリーディアは少しアンジュに同情した。
「死んだほうがマシだと思ってる訳ではありません。俺の中で人間はリーディアかそれ以外かに分類されているので、リーディアと離れると生きる目的を失い勝手に衰弱する、それだけですよ」
アンジュは訳が分からないと言いたげな困惑した表情でレオンを見つめている。何なら味方のはずのジュードですら引いているのが分かった。
(何それ初耳)
リーディアは引いていないがレオンの生殺与奪を自分が握っているらしいと知らされ、アンジュとは別の意味で困惑している。今にも泣きそうなアンジュにジュードが一転して優しい声をかけた。
「分かっただろ?アンジュがダメな訳じゃない、レオンはリーディア嬢じゃなきゃダメなだけだ。ずっと泳いで無いと死ぬマグロみたいなものなんだ」
例えるにも他にあるだろうと口を挟みたくなったが、そんな空気では無いから黙っている。アンジュは美しい瞳から大粒の涙を流しながらレオンに向き直った。
「…お兄様、リーディアさんはすぐにお兄様と別れると言い出す薄情な方ですわ。それにお兄様のことが好きなわけでは無いのでしょう?リーディアさんと違いわたくしはお兄様のことを愛してますわ」
ハッキリと自分の気持ちを告げるアンジュはリーディアには眩しく見えた。しかしそんなアンジュの告白をレオンは一蹴する。
「申し訳ありませんが、俺は殿下のことを愛しておりません。俺が愛しているのはリーディアだけですし、例え彼女が俺を愛することがなくてもこの気持ちは変わりません。リーディアを愛したまま一生を終えるつもりです」
リーディアがレオンを愛さない前提で話をされていることに複雑な気持ちになった。まあ、そうなる可能性もなくは無い。
「その言い方だと私が酷い女のようですね」
「まああの堅物をここまで変えたんだから、魔性の女かもしれないな」
余計なことを言うジュードを鋭い目つきで睨む。
「…レオン様、私には愛とか恋とか良く分かりませんが…少なくとも男性の中で1番好意を抱いているのはレオン様で」
最後まで言い終わる前に感極まったレオンに力一杯抱きしめられた。我に返ったレオンが約束事を思い出したようで「あ…」と焦った声を出すも、腕の力が弱まることはない。側から見たら熱烈に抱き合っている恋人同士である。
そんな2人の様子を見ていたアンジュが呆然としたままポロポロと涙を流す。流石に居た堪れなくなったのかジュードが引き摺るようにアンジュと取り巻きを連れて出て行った。サロンにはリーディアとレオンだけが残される。
「あの、レオン様私と別れると死ぬんですか」
「ああ」
「初耳です」
「初めて言ったからな、自分でもどうかしてると思う。でも…リーディアと別れる想像をしただけでこの世の全てがどうでも良くなるし生きる気力が消える」
「あら…」
これはかなり重症である。リーディアは冷血人間でないのでレオンが死ぬのは嫌だし、もし死んだら悲しむ。レオンをここまで変えてしまった者としては責任を覚えてしまう。だが義務感という訳ではない。彼と話していて、過ごしていて楽しいし落ち着くのは本当だ。この感情はレオンの望んでいるものではないし、彼が自分に抱くものと同じだけの気持ちを返すことは出来ないけれど…。
「私、そういう意味ではありませんがレオン様のことは『好き』なので死んだら悲しいです。なので」
とても簡単なことを口にすると、レオンが嬉しいと囁きながらまた抱きしめにかかった。このくらいで喜ぶなんて、とリーディアはレオンの背中に腕を回した。
リーディアとレオンが「割れ鍋に綴じ蓋」な2人だと囁かれるようになるのは別の話。