9.絵画破壊事件
それからしばらくして、ちょっとした事件があった。
それは祝日の翌日、そぞろ寒い11月日。
その日はバイトが休みで、鏑木も放課後行方不明だったから、スマホにメッセージを送ったが、返事がない。まだあの時期ではないし、まあ何かあれば連絡くれるだろうと、俺は一人で帰ることにした。
いつものように裏門から帰ろうと、旧校舎の前に差し掛かった。その時、人が揉めているような声が聞こえた気がして、ふと足を止めた。
ここは鏑木と松永がやりあっていた場所で、俺もちょっと敏感になっていた。だから気がついたのだろう。
人気のない旧校舎の向こう側、まさかと思い声のするほうに行くと、そこにはそのまさかだった。
(――あれ、鏑木じゃないか? もう帰ったかと思ったのに、誰と喧嘩してんだ)
派手な金髪に短ランボンタン姿は、遠目からでもよく目立つ。今日は早々に教室からいなくなっていたから、もう帰ったのかと思っていた。
(……もう一人は松永か?)
制服ではない。背格好からして、副担任の松永のようだ。
どこかに行こうとする鏑木を、松永が懸命に後ろから引き留めようとしている。
(あいつら、また揉めてんのか?)
遠目だから状況が把握できず、様子を見るべきか迷った。
だがその間にも鏑木は、すがるように掴みかかった松永を殴り、倒れこんだところをとどめとばかりに爪先で蹴り上げる。
(ちょっとヤバそうだな)
最近は二人が揉めているところを見なくなっていただけに、安心していた。何があったのかは分からないが、これは尋常ではなさそうな雰囲気だ。
蹴られてうずくまる松永を、置いて走り去る鏑木。その鏑木を追うように、松永もまたよろよろと立ち上がって追いかけていく。
その様子を見て、俺もその後を慌てて追いかけた。
「鏑木!!」
鏑木たちが向かった先は、松永のテリトリーである特別教室棟の美術準備室。俺が追いついた時には、すでに鏑木が中で大暴れしていた。
「や、やめろ! やめるんだ! ……木嶋、鏑木を止めてくれ!」
床には散乱した銀チューブの絵の具や筆、よくわからないいろいろな画材。
その中でイーゼルを蹴り倒しキャンバスをへし折る鏑木と、それを必死で止めようとする松永。
鏑木が壊しているキャンバスはたぶん、松永が描いてイーゼルに置いていたやつだ。
懸命に取り返そうとする松永を尻目に、鏑木は容赦なくキャンバスを壁や鉄製の棚に叩きつけていた。
もう止めても無駄なくらい、無惨にキャンバスは中央が大きく破れてめくれ、枠は変形し折れている。何が描かれていたのか、もう見ても分からないだろう。
「鏑木やめろ! それ、松永先生のだろ!?」
後ろから羽交い締めにするようにして抑えこむと、俺の腕を振り払おうとしながら、鏑木があのきれいな顔をしかめ、怒りに満ちた目で俺を睨んだ。
「……なんでおめーが、この絵が松永のだって知ってんだよ」
「――え?」
「見たのか? この絵」
「な、どういう――」
「見たのかって言ってんだよ!!」
鏑木が怒りの火の粉を撒き散らすように、俺にまで掴みかかる。 ――俺にまで敵意をむき出しにする鏑木は久々で、俺は戸惑い、されるがまま胸ぐらを掴まれた。
「……は、いや、見てない。ただ、松永先生がそれを壊したくなさそうだったから――」
「鏑木、本当だ! その絵は誰にも見せていない! それに木嶋はこの準備室に一度も入ったことがない! だから木嶋から手を離せ!」
今にも俺に殴りかかりそうな鏑木を、松永が必死に宥めようとするが、松永が何か言えばいうだけ鏑木の目がつり上っていく。
「本当だ鏑木。俺はお前を止めに来ただけだ。松永先生とはほとんど話をしたことがない。ただ先生が美術の先生だから勝手にそうだと……」
俺も両手を胸の位置に上げて降参のポーズを取り、なんとか鏑木の誤解を解こうと必死になる。
(まずい。鏑木、マジキレだな。この状況をなんとかしないと)
あの絵のことは前の時間軸で得た情報だったのに、つい口に出てしまった。
このままだと俺と松永が繋がっていると誤解され、せっかく繋げた鏑木との縁が切れてしまう。
「本当だ、鏑木。俺はたまたまお前と先生が揉めてるのを見て、追いかけてきただけだ」
ゆっくりと目を見て落ち着いて、これ以上ボロを出さないよう、鏑木を宥めることに集中する。
鏑木としばらくの間睨み合うと、ようやく鏑木の手が緩んだ。鏑木は俺から顔を背けると、ドンと俺の体を突き飛ばして、チッと舌打ちをした。そしてまだ気がすまない言わんばかりに、周囲にあるものを蹴り飛ばし、この部屋から出て行く。
「鏑木!!」
俺は、床に散らばった柔らかい絵の具チューブの感触を足の裏に感じながら、鏑木を追いかけた。
「なあ、鏑木。何があったんだ」
「……」
早足で廊下を歩く鏑木を追いかけるが、何を言っても鏑木は俺を無視して返事をしない。
ペタペタと平たい靴音を響かせ、夕日が差す廊下を無言で歩く鏑木。
さっきまでのブチギレ状態はおさまったようだが、不機嫌なことに変わりはなく、俺と話をしたくないないらしい。
だが走って逃げない様子を見ると、完全に嫌われたわけではないようだ。
(……これ以上怒らせないようにしないとな……)
俺は鏑木を呼び止めることを諦め、黙って後ろをついて歩いた。このまま別れると、もう二度と口をきいてもらえなくなる気がした。だから鏑木の怒りが鎮まるまで、声をかけないことにした。
お互い黙ったまま長い廊下を歩き、玄関から外に出ようかといったとき、外に出る手前で急に鏑木が振り返った。
「……足」
「……は?」
ブスくれた顔で、俺の足元を顎でしゃくった。
「おめー絵の具踏んだろ」
「はぁ? ……って、げっ」
廊下の床には、カラフルな色と泥汚れがミックスされた、汚い靴跡が点々と残されていた。
おそらくさっき美術準備室で踏んだのだ。鏑木を追いかけようと慌てていたから、絵の具を避けて歩く頭がなかった。
「あ~……まずったな」
シューズの裏は、踏んだ絵の具のせいで、スタンプのようにソールの柄がくっきりと浮かび上がっている。ソールと足跡を照合されたら、廊下を汚した犯人が俺だってすぐ分かるだろう。
「掃除しないと怒られっかな」
「別にいんじゃね? 松永が掃除すっだろ」
鏑木がそうヒヒッと意地悪そうに笑う。
「いやー大変だろこれ掃除すんの」
「いーんだよ。あいつのじごーじとく!」
やっと怒りがおさまったのか、そこにはいつもの鏑木がいた。
夕日が傾き、薄暗くなった階段で屈託なく笑う鏑木。
「――なあ、鏑木。今日さ、うち来ねー?」
そんな言葉が思わず口をつく。
「マジで。木嶋んち行っていいの?」
「おーマジマジ。夕飯作ってやんよ」
「マジかー。メシ何作ってくれんの?」
「何がいい? 簡単なもんしかつくれねーけど」
「簡単なものってなんだよ。おにぎりとか?」
「おにぎりはあれで難しいんだよ。チャーハンとか、オムライスとか……?」
「チャーハン作れんの!? スッゲーじゃん」
「市販のチャーハンの素使うし、ちょっとベチャッてすっけどな」
「ギョーザも食いたい」
「焼くだけのでもいいか」
「なんでもいい」
「おし! ちょっと遠回りだけど激安タナカマート行ってウチに帰ろーぜ。……なんだったら泊まってくか」
「おー泊まる泊まる!」
うちに泊まるかなんて冗談も、鏑木は素直に受け止め、嬉しげに俺の左肩にぶら下がるようにして肩を組んで歩き出す。
「おい、ぶら下がんなって」
「いーじゃん、おめーのほうが力持ちだし、背が高いんだからよー」
ヒャハハと笑いながらわざとぶら下がる鏑木に、さきほどまでの緊張感は感じられない。松永に対するあのブチギレはなんだったのか。
(今日どうせ泊まるんだし、それとなく聞いてみっかな)
心の中で今頃教室を一人で掃除しているだろう松永にすまんと謝りつつ、俺は鏑木と冗談を言い合いながら汚れた靴のまま玄関の扉をくぐり、鏑木と裏門のほうに向かって歩いて行った。