8:宮廷舞踏会
艶々の大理石の廊下。毛並みの良い深紅の絨毯。惜しげもなく硝子があしらわれた巨大なシャンデリア。王宮は大広間に通じるただの通路さえ煌びやかで、隙を見てはルイスを夢見心地にさせてくる。警備の仕事のためとはいえ、こんな豪奢な空間に立っているなど、幼少の自分には想像もつかなかった。そのうちに背後の扉一枚隔てた場所に国王すら現れるのだ。薄汚れた裏路地から王宮に――間違いなく、今夜この王宮において最も立身出世したのは自分だろう。
ウィリアム主導の綿密な警備計画のもと、宮廷舞踏会は開場の時間を迎えた。
騎士の正装を着用したルイスはもう一人の騎士とともに任命された通りに会場となる大広間の扉の左右に立ち、続々と訪れる国中の貴族達を出迎えている。背筋を伸ばして闊歩する紳士や夫の腕に手を絡めて静々と進む貴婦人、一糸乱れぬ身嗜みで己を誇示する青年、高級生地と宝石で美しく着飾った淑女……その誰もが澄ました顔の下でルイスを値踏みしていった。中にはあからさまに見惚れる女性達もいたが、会場前で足を止めるわけにもいかず、親や婚約者に責付かれて扉の向こうへと消えていく。中でどのような会話が交わされるのか、それはルイスの知る由のないことだった。
「ルイス」
やがてアルバートがやってきた。いつも大雑把にまとめられている青髪をきっちりと編んで横に流して、複雑な刺繍で飾られた白い衣装に身にまとった姿は、ルイスの部屋で寛いでいた人物とは別人だった。
隣にはアルバートの腕に手を添えた少女がいる。彼女は見た目にも柔らかい濃い金色の髪を結い上げて白くて細い首を惜しげもなく披露している。濃紺色の生地に星のような小さな宝石を鏤めたドレスは大人びていて、十五歳らしい幼さを残す顔立ちには少々不釣り合いのようにも見えたが、ルイスはすぐにそのドレスがアルバートの瞳と同じ色だということに気が付いた。少し背伸びをしてでも自分に見合うよう努力する少女は、きっとアルバートにとって可愛らしく思えるに違いない。今度会ったらお似合いだと言ってやろう。
仕事中のため一瞥だけすると、アルバートはにこやかに手を振った。少女も慌てた様子で小さく頭を下げる。二人はそのまま連れ立って大広間へと進んでいった。
来場者の波が引いてしばらくすると、金管楽器による高らかな小楽曲が鳴り響いた。専用通路からの王族の入場の合図である。また少し時間を置いて、今度は優雅な演奏が流れ出した。舞踏会の始まりだ。
ルイスには今流れているのが何の曲なのか、どんな踊りを合わせるのかまったくわからなかったが、一流の奏者による素晴らしい演奏なのだということだけは聞いてわかる。周囲を警戒しながらも何曲か聞いているうちに、会場内からまばらに人が出始めた。休憩室や控室、庭園に行くふりをしながら、皆入場時と同じようにルイスを見ては、囁きあっている。
――慣れている。
無遠慮に観察されること。好き勝手噂されること。他人の好奇心を満たすための『もの』にされること。
ひらり、白いハンカチが足元に落ちてきた。すぐ傍には赤いドレスの女性が立っている。明らかに彼女のハンカチであるし、あまりにも不自然な落とし物なので、求められていることはすぐに理解できた。本音で言えば無視をしたいところだが、これも仕事だと自分に言い聞かせ、ハンカチを拾い上げる。
「お嬢様、落とし物でございます」
「あら……どうもありがとう。確かに私のハンカチですわ」
女性は振り向き、口紅をさした艶美な唇で礼を述べた。ルイスは女性にハンカチを手渡した。
「あなた、お名前は?」
「……ルイスと申します」
「そう。ルイスね。覚えておくわ」
(……何のために覚えておくんだよ)
口には出せない文句を無表情の下に隠して、一礼をして元の立ち位置へと戻る。女性は友人らしきドレスの群れに合流すると、口元を扇で隠して楽し気にお喋りに興じながら庭園に続く扉を潜っていった。
ルイスはすん、と軽く鼻を啜った。強烈な香水の匂いが残っていた。
「交代の時間だ」
聞こえてくる曲が何曲目なのか数えるのを諦めた頃、ウィリアムがやってきてそう告げた。ルイスは怪訝な目で彼を見据えた。
「……団長は歩哨を行いませんよね」
「私ではない。この者達が交代する」
そう言ってウィリアムは背後に控えていた二人の騎士に目配せをした。ルイスは(じゃああんたがここに来る必要ないだろ)と胸中で呟きながら、彼らに持ち場を引き継いだ。
正直人目が多すぎて居心地が悪かったので早々に営舎に戻ろうとした、が、……なぜかウィリアムが無言でぴったり背後に付いてくる。しかも、ともに警備にあたっていた先輩騎士は何を察したのかいつの間にか姿をくらませていた。全く要らない気の回し方である。
「団長、私に何かご用ですか?」
背後の気配が気になりすぎて、ルイスはとうとうウィリアムを振り返った。
ウィリアムはやはり感情が読み取れない表情をしている。笑ったところを見たことがない薄い唇が動きかけた時、「ルイスといったか」、と不意に自分の名前が耳に飛び込んできた。声のした方向を見ると、すぐ近くの部屋の扉が半開きになっていた。中から、複数の男性の声と、葉巻の独特の香りが漏れていた。
「噂に違わぬ美しい顔だったな」
「だが、整いすぎて不気味じゃなかったか?」
「女達の話題が奴のことばかりでうんざりだったな。お前の婚約者も友人と騒いでいたようだぞ」
「ふんっ!……気にかける価値もないさ。所詮顔が良いだけの下賤な平民だろう。女達が騒いでいるのも愛玩動物を愛でるようなものだ。犬猫と一緒さ。俺は動物に嫉妬するほど狭量ではないからな、彼女があいつを飼いたいと言うのなら飼ってやってもいい」
その瞬間、ウィリアムが躊躇なく部屋に向かって歩き出した。「団長?」ルイスは反射的にウィリアムの腕を掴んだが、彼は止まらなかった。勢いよく半開きの扉を開け放つ。室内にいた男達は突如現れたウィリアムに驚愕した後、すぐにその殺気立った眼光に顔を青褪めた。
「飼うだと?」
ぞっとするほど冷たい声に、萎縮した男達の手からグラスが落ちてけたたましい音を立てて割れた。
「ルイスへの侮辱の言葉を吐いたのは誰だ」
「ウィ、ウィリアム卿……今のは、違うのです、そうではなく……」
「私はこの耳で全てを聞いたぞ」
「団長!!」
ルイスは、今にも男達を斬り捨てそうなウィリアムの腕を思い切り引っ張った。普段の冷静さからほど遠い、怒気に満ちた目がルイスを振り返る。平常の鷹揚な様子からの豹変にたじろぎながらも、ルイスは負けじとウィリアムを睨め上げた。
「私はどう言われようと構いません。もうお止め下さい」
「なぜだ。彼らは君を無暗に蔑んだのだぞ」
「いいのです。さあ、行きましょう」
ルイスはウィリアムの腕を握りしめて、頑健な体を引きずるようにして部屋を出た。物音のしない廊下を進み、角を曲がったところで、不意にウィリアムがルイスの腕を握り返した。あまりの力強さにルイスは先を急ぐ足を止めた。
「なぜ止めた。私は彼らをこのまま不問に付すことはできない」
ウィリアムの鋭い眼差しがルイスを射った。ルイスはウィリアムの腕を離した。陰口から庇われるなど、いつもならまた子ども扱いだと腹立たしく感じかねないが、ウィリアムの怒りのあまりの真剣さに、ルイスの気持ちは不思議と落ち着いていた。
「……なぜ団長が俺のためにそこまで怒るんですか?」
ルイスが問い返すと、ウィリアムは徐々に眦を和らげた。気まずげに、らしくもなく目を逸らす。
「どうしても、君への侮辱を許せなかった」
それはルイスの疑問の答えにはなっていなかったが、それ以上問い質すつもりにはならなかった。上司としての責任感なのか、人としての優しさなのか、それとも別の何かなのか……答えをはっきりさせたところで、ますます気まずくなるだけだ。
代わりに、ウィリアムの怒りを収めるべく、ルイスは口を開いた。
「あれぐらい、いつもの事です。いちいち構ってたら埒があきません」
「……いつもの事だと?」
ウィリアムは不快そうに眉を顰めた。逆効果だったか……と己の失言を悔やんでいる間にも、ウィリアムの眉間の皺はどんどん増えていく。
「――君はいつもあのような侮辱を黙って受け入れているのか」
(だから、なんであんたが……そんなに悔しそうなんだよ)
他人にそこまで感情移入するなんて、バカな奴。
(ほんとに……バカだな)
「……受け入れてるわけではありません。価値のない戯言なので聞き流してるだけです」
ルイスはありのままの心情を語った。
ウィリアムは興奮をやや冷ました面差しでルイスの言葉に耳を傾けた。
ルイスは言葉を慎重に選んで、さらに続けた。
「団長は入団書類をご覧になっているのでご存じだと思いますが、……俺は孤児です。自分の親がいたことも、自分の家があったこともありません。孤児院に保護されるまでは、汚い路地裏であなた達貴族には想像もできないような暮らしをしていたこともあります。平民にすら見下され、人間以下のように扱われて生きてきました。人攫いにあったことは一度ではありませんし、商品として売り飛ばされそうになったこともあります。侮辱されるのは日常茶飯事で、いちいち真剣に取り合っていたら身が持ちません。だからいいんです。今更あの程度のことを言われたからといって傷つくほど柔でもないですし、そもそもああいう連中に言い返しても、また権力と地位を笠に着て侮辱を返されるのがおちです。こっちの言葉なんて届かないし、あいつらの考えは絶対に変わらない。相手にするだけ無駄なんです。だからって、侮辱を受け入れているわけではありません。実害があればその場でやり返しますが、そうでなければ、俺が実力で伸し上がって後々に見返してやるだけです。俺は俺を踏み躙ろうとする人間には絶対屈服しません。相手がどんなに偉い地位にいる人間だとしても、絶対に」
言い終わる頃には、ウィリアムからはすっかり怒気が削がれていた。いつも通り、静謐な佇まいでルイスと向き合い、実直な目でルイスを見つめている。ああ、この真っ直ぐな目が苦手で、でも嫌いになれないのだ。
「……でも、先ほどは俺の代わりに抗議してくださってありがとうございました。少しすっきりしました」
ルイスが同じことを言ったところで、男達はせせら笑うだけだっただろう。あれは、彼らより上の爵位と騎士団長という肩書、そしてこれまで築き上げてきた輝かしい実績があるウィリアムが言ったからこそ、効果が絶大だったのだ。日頃の扱いを思うとウィリアムに感謝をするのは癪だが、一瞬で青褪めた情けないあの顔はなかなか爽快だったのも事実なので、ルイスは羞恥心を堪えて礼を伝えた。柄にもない素直な態度であることは自分が一番よくわかっている。どんな反応をされるのか気になって、ちらりと様子を窺うと、ウィリアムの薄い唇が――ほんの僅かに微笑んでいた。
「私は彼らの言動を許さないが、君がそう言うのならばこれ以上の言及は止めよう。――だが、忘れないでほしい。もしまた君の尊厳が踏み躙られようとした時は、これからは君自身だけではなく、私もともに君の尊厳を守るのだと」
ウィリアムは堂々と、まるで神に宣誓するかのように真剣にそう言った。微笑への驚きと真摯さへの当惑で、余計なお世話だと撥ね除けることはできなかった。
「これまでの君の道のりは険しいものだっただろう。だがどんな困難にも屈せず生き延びてきたからこそ、今ここに在る君は美しいのだな」
美しい。
言われ慣れた誉め言葉だった。
いくどもいくども、この顔を見た人々が口にした、ありふれた言葉だった。
それなのに――
(どうして、こんな……!)
ルイスは腕で顔を隠して俯いた。頬が熱い。なんなら耳も熱い。絶対に赤くなっている!
「……そういえば、何か用件があったんですよね?」
話題を変えるべく懸命に頭を回転させた結果、先ほどウィリアムが何か言いかけたままだったことを思い出した。苦し紛れに振った話題だったが、ウィリアムはすんなりと「そういえば君に伝えたいことがあったのだ」と乗ってくれた。
「今回は君を見世物にしてしまって申し訳なかった」
ウィリアムはそう詫びて頭を下げた。唐突な謝罪に、ルイスは顔の火照りを忘れてウィリアムの旋毛を見下ろした。
「……どういう意味ですか?」
「君を会場入り口に配置しただろう。君は人目を嫌っているから、本当ならばもっと別の目立たない場所にしたかったが……配置については王命で背くことができなかった。すまない」
(……王様も下らない命令を下すんだな)
ルイスが返事を言いあぐねている間も、ウィリアムは頭を下げた姿勢のまま動かない。おそらく、返事をするまでずっとこうしているつもりだろう。生真面目すぎる国の英雄に、ルイスは静かにため息を零した。
「頭を上げてください。団長のせいではないので、謝罪は要りません」
「しかし」
「陰口もそうですが、人に見られるのもいつものことなので気にしていません」
ばっさりと言い切ると、ようやくウィリアムが頭を上げた。思案の沈黙が数秒よぎる。
「わかった。では言葉で詫びる代わりに、後日何らかの形で謝罪の意を示させてもらおう」
「はい?」
「もう夜も更けてきた。営舎まで気を付けて帰りなさい。私は会場に戻る」
「ちょ、」
「おやすみルイス、よい夢を」
「ま、」
(人の話を聞け!!)
こんなことになるならば謝罪の言葉を受け取っておいた方がよかった……とルイスが気付く頃には、ウィリアムはすっかり立ち去っていた。