18:思い出の輪郭
コンコン、というノックの音にルイスは目を覚ました。
まだ霞のかかる意識でぼんやりと窓を見ると、いつの間にか空は茜色に染まっている。円卓に視線を移すとこちらもまたいつの間にか食器が片付けられていた。スープを飲み干して、そのまま横になり、またついうとうととして――そこまで思い返したところで、再びノックの音が響いた。今度こそはっきりと眠気を振り払い、ルイスは「はい」と声をかけた。返事を受けて開いた扉から見えた顔はよく見慣れたアルバートのものだった。
アルバートは、ルイスと目を合わせた途端、ぐっと眉間に皺を寄せて口を噤んだ。大股で詰め寄り、傍で膝をついて、布団の上に投げ出されていたルイスの手を両手で握り込む。
「……よかった……」
そう呟いたアルバートの声は微かに震えていた。よく見れば、奥二重の瞼も腫れぼったくなっており、あまつさえ、今も涙が薄っすらと張って濃紺の瞳がゆらゆらと揺れている。ルイスは驚いて言葉を失った。ルイスの知っているアルバートは素直に気持ちを顔に出しはするが、常にきっちりと表に出す感情の上限を決めているような男だった。人に気安さを感じさせる程度の感情を晒しておきながらも、どこまでの底があるのかは決して見せず、明け透けのようでいて、たくさんのことを秘めている。そのように自分の感情を上手く統率できるアルバートの、こんなありのままの激情をぶつけられたのは初めてのことだった。
かろうじて涙を零すのを堪えているアルバートの瞳に見つめられては、強く握られた手の痛みを甘んじて受け入れるほかなくて、ルイスは手を振り解かぬまま彼の滲んだ目を見つめ返した。
「心配かけて、すまなかった」
ルイスが謝ると、アルバートは唇を戦慄かせてから深く息を吐いた。
「……こうして生きてくれてたら、それでいい。どんなに心配かけたって、無事でいてくれたらそれでいい」
アルバートは項垂れて、握り締めたルイスの手を自らの額に押し付けた。次に顔を上げた時、彼はもう、いつも通りに微笑んでいた。
「お前が助けてくれたと聞いた。本当に、ありがとう」
「そうだぞ、たくさん感謝してくれよ。路地で倒れてるお前を見つけて駆け寄ったら真っ青な顔して息も浅くてどれだけ心配したと思う?おまけに意識のないお前を担いで運ぶのも苦労したし……お礼はたっぷり弾んでもらわないとな」
「善処する」
軽口に至極真面目な返事をすると、アルバートは先ほどまでの深刻さを感じさせない明るい空気を纏って、ぷっと小さく噴き出した。冗談抜きで何かしらお礼をしたいと思っての返答で、笑わせる意図はなかったのだが、楽しそうなのでよしとする。
「さて、親友との感動の再会はそれくらいでいいか?」
「!?」
「はい、お時間いただきありがとうございました」
「なに気にするな」
会話に割って入られて、初めてアルバートの背後にいる人物に気が付いたルイスは、その人が誰かを認識するや否や反射的に体勢を正そうと起き上がったが、彼――第三騎士団団長であるセオドアは「そのままで」と動きを制した。
「傷の処置や解毒が済んでも体調まではまだ戻っていないだろう?横になったままで構わない」
「……ご配慮ありがとうございます」
「いや、こっちこそ病み上がりにすまないな。本当は体調が整ってからにしたかったんだが、事件の内容が内容だからな。少し事情聴取に付き合ってもらうぞ」
「はい」
「オズボーン」
セオドアが目配せをすると、アルバートは一つ頷いた。
「今回の事件の首謀者はダグラス・マイアー伯爵令息だ。彼と、お前を襲撃した配下の騎士達は全員捕縛している。押収した武器からは毒物が検出された。言い訳がましいことを並べ立ててはいるが、あちらは概ね犯行を認めている。ルイス、お前の方からも事件の経緯を聞かせてほしい」
「昨日は非番のため街へ外出していました。アルバートと会った後、路地裏を散策していたところをダグラス令息達に急襲されました」
「襲われた理由は知っているか?」
セオドアが問いかける。
「ダグラス令息自身の口から彼の婚約者を誘惑したからだと聞かされました」
ルイスの答えに、さらにセオドアが問いかける。
「事実は?」
「私は誘惑などしておりません。彼の話を聞いて、件の婚約者が宮廷舞踏会で落とし物をされた令嬢だとわかりましたが、彼女とは会場で一度お目にかかっただけで、私的に接触したことはありません」
「ルイスの証言の裏は取れています。舞踏会での令嬢とのやり取りは同じ場所の警備をしていた第一騎士団の騎士が何の不備もなかったことを証言していますし、舞踏会以降の営舎の外出記録を確認しましたが、四日前のバクスター団長との外出と昨日以外ずっと営舎内および王宮内で行動していました。ダグラス令息の婚約者が営舎と王宮を訪れた記録も、手紙の記録もありません」
「それだけ揃っていれば身の潔白を証明できるな」
「令嬢にも話を聞きましたが、彼女もルイスとの不義はもちろん、舞踏会以外で接触をしたことはないと断言しています。ただ、会場でルイスに拾ってもらったハンカチをお茶会で仲間内に自慢したらしく、ダグラス令息はそれが気に入らず事件を起こしたようです」
「そんな些細なことでよく人を殺そうとするな……くだらん」
それは俺が平民だからだろう。ルイスはすぐに思い当たった。平民を同じ人間と考えず、命を軽んじている貴族は少なくない。もしもルイスが貴族の出であれば、ダグラスとてここまで短絡的で強硬な手段には出なかったはずだ。実際、貴族が言いがかりのような理由で平民を殺しても罪に問われなかった例はいくつもある。ウィリアムは証拠があるため言い逃れはできないと言っていたが、今回の事件も権力を持つダグラス側に有利に処理されていくだろう。これまでの経験上そう確信していたからこそ、次のセオドアの言葉に、ルイスは息を呑んだ。
「それだけ証人と証拠が揃っていれば裁判で徹底的に罪に問えるな」
「え……?」
「ダグラスにはしっかりと法に則った裁きを受けてもらう。お前にも騎士団の仕事と並行して法廷に足を運んで証言してもらわなければならないが、俺達が全力で援護をするから協力してくれ」
「協力もなにも……私のことですし、それはいいのですが……裁判まで行ってもらえるのですか?」
「もちろんだ」
力強く宣言したセオドアの眼差しは真っ直ぐで、とても誠実だった。
「平民が相手だからといって貴族の罪が軽くなる慣習には俺も嫌気が差してたんだ。だから、この一件で一石を投じたいと思っている。初めから一般平民だと難しいだろうが、幸いにもお前には王国騎士団所属という肩書があるから立場を考慮してもらえるだろうし、騎士団としても全面的に支援ができるから、これまでの平民と貴族間の事件よりかなり有利に進めるだろう。禁固刑までは厳しいかもしれないが、財産の没収や慰謝料を支払わせることができれば前例になる。有罪となった事実だけでもかなり貴族としての矜持や体面を傷つけられるしな。お前を利用するようで申し訳ないが、今回の件を身分差による事件への牽制の足掛かりにしたいんだ」
なるほど、とルイスはようやくこの状況に納得した。一介の新人騎士が襲撃されただけでなぜ騎士団長が直接事情聴取に立ち会っているのか疑問に思っていたが、こうした上層部の政治的思惑が絡んでいたわけだ。
ルイスはセオドアのように社会の理不尽を正すなどという高尚な理念を掲げることはできないが、この状況をお偉方の駆け引きの道具として利用されるはごめんだと突っぱねるほど人でなしではないし、自分を殺そうとした者を制裁する機会をみすみす逃すほどお人好しでもないので、素直に頷いた。
「それは構いません。こちらこそ、ぜひよろしくお願いいたします」
「ああ。……それに」
セオドアは真剣な面持ちから一転、にこっと明るく笑った。
「ウィリアムにも頼まれたからな」
「……団長に?」
「必ずダグラスに正当な罰を受けさせろって。いつもは他人の管轄にはあまり口出ししないやつだからそう言ってきたのは意外だったが、やはりお前のことは相当気に入っているみたいだな」
「いえ、……団長は、襲撃されたのが私ではなく他の団員だったとしても同じことを言ったと思います」
「そうだろうな、あいつは仲間思いだし。だが、あそこまでの気迫に満ちたりはしなかったと思うぞ」
(どんな気迫出してたんだよ、あいつ……)
「昨日ここに駆けつけた時も相当切羽詰まった様子だったしな」
ウィリアムが自分を心配してくれたことは、目覚めるまで付き添ってくれていた時からわかっていた。それも思い上がりでなければ、かなり心を砕いてくれていたことを、ルイスは彼の言動からひしひしと感じ取っていた。けれどこうして第三者から聞かされるとどうにも恥ずかしくなってしまい、懸命に無表情を取り繕うものの、耳先に熱が集中するのだけは防ぎきれなかった。
「これだけ似た事件も起きれば、余計に親身になってるのかもな」
セオドアの何気ない一言を、ルイスは聞き逃しはしなかった。
「似た事件?」
理性が状況を把握する前に、直感が心臓をごとごとと煩く鳴らす。そんな偶然あるわけがない。でも、まさか、もしかして……。
「ああ、新人の頃にな。ウィリアムも路地裏の事件に出くわして怪我をしたことがあるんだ。確か、怪我をしたところもお前と同じ腕だったと思う。あいつの場合、毒は仕込まれてなかったし、ただの軽傷ですんだがな。騎士に着任して初めての警邏でのことだったからよく覚えてるよ」
「バクスター団長が第三騎士団所属だったのですか?」
「そうだ。途中で第一に移されてそのまま団長まで上り詰めたんだ」
「でも意外ですね、あのバクスター団長が新人の頃とはいえ市中の事件で怪我を負うなんて」
「子供を庇って負ったらしい。勲章だなんだと言って治癒魔法で治すのを拒んでたから、今も傷跡が残っているかもな」
セオドアとアルバートの会話が遠ざかる。代わりに聴こえてくるのは、あの日の彼の声だった。
――怪我はないか?
――この傷は名誉の勲章だ
――今日は私の初めての警邏業務なのだ
――ルイス
そんな偶然があるわけがないのに。
曖昧だった思い出が、今やはっきりとした輪郭を取り戻した。それはウィリアムの慈愛を秘めた浅葱色の瞳であり、生真面目に引き結ばれた薄い唇であり、大きく無骨なのに優しく触れて安心を与えてくれる手であった。
あの人は、彼だったのだ。
「ルイス?どうかしたのか?」
「……なんでもない」
「なんでもないって……顔が真っ赤じゃないか。熱が出てきたのか」
「大丈夫だ、放っておけば治る」
「病み上がりなのに大丈夫なはずないだろ。熱冷ましの薬をもらってくるよ」
ルイスはどうにか耳先に止めていた熱が顔中に広がってしまった訳を正直に打ち明けるわけにもいかず、結局、アルバートが用意した熱冷ましを促されるまま飲むはめになってしまった。「しっかり休めよ」と釘を刺してアルバート達が帰った後も、発覚した事実への驚きと困惑に動悸が治まらないルイスの熱はしばらく冷めなかったのだった。