17:そんな偶然あるわけがない
ウィリアム達が出ていくと、ルイスひとりが残された部屋は途端に静かになった。
こじんまりとした救護室にはベッドが一つ、その横には見舞客用の椅子が二脚と小さな円卓が一台、格子がついた上げ下げ窓は大きくて、たっぷりと陽光を取り入れている。新緑の香りを含んだ風が吹き込むと束ねられた白いカーテンの裾が海月のように揺蕩って、ウィリアムの指先に翻弄されて火照ってしまった頬の熱も幾分か冷まされた。深呼吸で動揺していた気持ちも切り替え、目の前に上げた手を握り、広げる。力は、しっかりと入る。もちろん本調子まではいかないが、後遺症が残るような感覚はないので、食事をとって体を慣らせばすぐに元に戻れるだろう。
(左、だったか)
斬りつけられた記憶を頼りに左腕に指を這わすも、解毒とともに治癒魔法で塞がれたのか、すでにそこに傷跡はなかった。
(……あの人も同じようなところ怪我してたな)
十二年の歳月があの騎士の顔も声も朧げにしてしまったが、あの銀色の髪と怪我のことは今もまだはっきりと覚えている。この傷は名誉の勲章だ、と泣きじゃくるルイスを慰めてくれた優しい言葉も。
彼は今も騎士団にいるのだろうか。
入団からこれまで、積極的に彼を探してはいなかった。顔を覚えていなければ、名前だって知らないし、相手も些細な事件で一度会ったきりの自分を覚えてなどいないだろうから、どうやって探せばいいのかわからない。けれどもしも、もしも再会できたのなら、一言お礼を伝えたい、とは思っている。
あの日が初めての警邏業務となると新人騎士、順当にいけば歳は騎士養成学校を卒業したばかりの十八、現在は三十歳となる。銀色の髪の、三十歳ほどの騎士――そういえば、ウィリアムもそれくらいの歳ではなかろうか。
(いや!……いや、そんなはずない、だろ。上司が昔の恩人とか……そんな偶然……)
頭に思い浮かんだウィリアムの顔を慌てて振り払う。……確かに、年頃も合っているし、髪色も同じだし、生真面目そうな言動も似ているとは思う。現に先ほどあの人とウィリアムを勘違いして変なことを口走ってしまったが、あれは夢と混同してしまったための不可抗力であり、決して本気であの人かもと思っているわけではない。断じてない。
そもそも街の警邏をしていたということは第二騎士団か第三騎士団の所属で、第一騎士団のウィリアムのはずがない。……途中で異動という可能性もあるが、それならば国境警備などにあたっている第四騎士団から第八騎士団に所属している可能性だってあるわけで、退役をしていることだってあるかもしれない。
(……生きてない可能性だって……)
考えたくはない、けれど、最悪の可能性もなくはないのだ。あの人と出会ってからも、この国は度々大きな戦いがあり、その度に騎士団は前線で戦ってきた。あの人も騎士である以上、勇んで戦場に向かっただろう。そこで命を落としたとしても――なんら不思議ではないのだ。不思議ではないが、その可能性を考えると、胸が痛む。
悪い方向に転がりかけた思考を遮るように、ノックが響いた。「お食事をお持ちしました」とドアの向こうの女が言う。「入れてくれ」と返事をすると、白い前掛けをしたひっつめ髪の使用人がそそくさと食事のトレーをベッド脇の円卓に運び込んだ。彼女は頬を紅潮させながら軽く膝を折って畏まった。
「一日お食事をされていなかったので、まずはスープを飲んで胃の調子を確かめるようにお医者様から指示を受けております。こちらを食していただいて具合が悪くならなければ次にパン粥をご用意いたします」
彼女は無言で説明を受けるルイスをちらちらと窺いながらさらに続けた。
「ひとりでのお食事が難しいようでしたら介助いたしますが、……いかがいたしましょうか?」
「……自分で食べられる。後で片付けだけ頼む」
「あ、しょ、承知いたしました」
端的に申し出を断ると、彼女は素早く身を翻して出て行った。扉が閉まると、きゃあきゃあと複数で騒ぐ高い声と興奮した足取りの音が聞こえたが、すぐに遠ざかっていく。ルイスは軽くため息を吐いてから、ゆっくりと体を起こして円卓を引き寄せた。ほかほかと湯気をあげる黄金色のスープは丁寧に濾されて透き通っており、まろやかな匂いが忘れていた食欲を呼び覚ました。一気に飲み干したい衝動に駆られたが、ぐっと堪えて、備え付けられていたスプーンを握る。
「……スプーンは手前から奥へ動かす」
皿の底に当たらないようにスプーンを動かし、スープを掬い、口元に運んで、静かに流し込む。空っぽだった胃袋にスープがじんわりと染みて、ルイスの口は思わずぽつりと「うまい」と呟いていた。