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14:決別

 外を歩いてみよう。

 非番の朝、ルイスはベッドから仰いだ青空を見てそう思い立った。


 ウィリアムとの外出は、案の定、翌朝には噂になっていた。人々は見聞きした断片的な事実を元に、あれやこれやと想像力で話を膨らませていたが、当事者であるルイスの普段の不愛想さから直接噂の真相を訊ねてくる者はいなかった。ルイスとしてはやましいことは何もないので、聞かれたら「食事をしてきただけ」とありのまま答えるつもりだったが、その機会が得られぬまま、夜には王宮に勤める貴族達から仕入れられてきた行先の情報が新たな火種となり、ますます噂の誇張が加速していった。もういっそ自分からイヴあたりにあの夜の出来事を打ち明けて話を広めてもらおうか。しかし、こういう時に限って早番と遅番が重なって話す暇がない。


(……まぁ、もう、いいか)


 噂が出回り始めて二日目の夜になると、ルイスの心境はそう思うに至った。昔から噂の的にされることには慣れている。ここ王都は巨大な都市で、毎日なにがしかの事件が起きているので、明日にでもどこかの誰かの新しい噂がウィリアムとの噂を打ち消してくれるだろう。

 そうして目覚めた三日目の非番の朝、すっきりとした思考で目覚めたルイスは窓の外の青空に誘われて、営舎を出た。正門を抜けると夏の気配を孕んだ風に撫でられた。いつも鬱陶しく感じていた青空が、今はとても心地いい。過去に囚われて余計な思い出ばかり頭の中で繰り返してしまう退屈な時間が嫌いだったのに、それさえも、そよ風に吹かれて空に溶けて消えていくようだった。


 予定のない休日、景色を眺めながら歩いて城下町に下りると、警邏の任務についているアルバートに出くわした。さっそく外出にまつわる噂による弊害についての文句を聞かされたが、彼はそれ以上の追及をしなかった。顔を合わせた途端に事の真相について細々と訊かれるだろうと構えていたルイスが意外に思って黙っていると、アルバートがふっと笑った。


「嫌な思いはしなかったんだろ?」

「まあ……普通だった」

「なら、いいんだ」


 アルバートは心底嬉しそうに、濃紺の瞳を細めて言った。この男は出会った時からこういう男だった。他人を思いやり、心配りをして、共感して頷いてくれる――どうして友人でいられるのか不思議なほど自分とは正反対の、いいヤツなのだ。


「じゃあ、俺は仕事に戻るよ」

「さぼるなよ」

「ルイスも変な輩に絡まれないようにね」

「絡まれても返り討ちにする」

「せめて殺さないように」

「場合による」


 冗談めかした会話で勤務中の友人に別れを告げて、ルイスは歩みを再開させた。行く当てはなく、とりあえず道なりに大通りへと出る。平民の住宅街に近い大通りには、先日ウィリアムに連れていかれたような店とは違い、手頃な価格の品物を扱う店が立ち並び、活気に満ち溢れ、明るい顔をした人々が多く行き交っている。

 賑わいに紛れながら散策をしていると、ふと、一つの路地に目が留まった。

 そこは表通りと同じように敷石で舗装され、塵もなく清潔で、両脇の建物に日差しが遮断されて薄暗くはあるが陰湿な気配はない。――だというのに、そこは、かつて暮らしていたあの路地を彷彿とさせた。飢えて瘦せ細った孤児同士で身を寄せ合っていた、あの路地。意図せずしてルイスだけが抜け出した、あの掃き溜め。立ち尽くして見つめていた路地から、少年がひょこりと顔を出した。


『ルイス』


 少年の顔は霞がかかったようにぼやけていた。もう顔を覚えていないのだ。朧げな顔からは笑っているのか、怒っているのか、妬んでいるのか、わからない。ルイスは幻から目を逸らさず、ぐっと拳を握った。

 ずっと怖かった。人攫いに植え付けられた恐怖も、もちろんあった。だが、それよりもずっと、ルイスは置き去りにしてしまった少年の目を恐れていた。いつか再会した時、なぜお前だけがと、嫉視されることが怖かった。それが怖くて、ずっと、外を歩けなかった。もしも思いがけず彼に再会したらと思うと足が竦んだ。

 けれど、今は、


 ――君が幸せになることは、何の罪にもならないのだから。


(あんたがそう教えてくれたから)


 目を瞑る。ウィリアムの言葉を噛み締めて瞼を開いた時には、少年は消えていた。

 一つ深呼吸をしてから、ルイスは路地へと足を踏み入れた。苛まれてきた時間の長さに対して、罪悪感との決別は実に呆気なく終わった。ルイスは清々とした心地でそのまま細い道を進んだ。

 高い建物に挟まれた道は大人が一人歩くのがやっとの幅で、常に日陰のために所々に苔が生しているものの、住民達が定期的に清掃をしているのか不潔さはない。下層街では見慣れた鼠の気配もなく、当然、仕事にあぶれて昼間から酒を呷る大人もいなければ、空腹にいじける子供もいない。世の中の情勢が理解できるようになってわかったことだが、あの頃は度重なる西国サージャとの小競り合いのせいで国内も荒れており、治安が著しく悪化していたらしい。戦争で親を亡くした子供も多く、その子供達を売り飛ばす人身売買も横行していたと資料を読んだ。

 ルイスの面倒をみてくれた少年も戦争によって孤児になったのだろうか。あの頃は幼すぎて、少年の事情について、まったく知ることができなかった。知っていることといえば、市場から食べ物をくすねる手管に長けていたこと、気付いた店主に追いかけられても撒いて逃げ切れるほど足が速かったこと、一人で生きるだけでも精いっぱいなのに年下のルイスに手を差し伸べてくれるほど優しかったこと、そんな僅かなことだけだ。路地を彷徨いながら、ルイスは記憶に残る少年の面影を丁寧に思い起こしていった。

 やがて街の喧噪は遠ざかり、薄暗い空間には自分の足音ばかりが……「……」……自分の足音に、別の誰かの足音が微かに混じったのを聞き取り、ルイスはそっと剣の柄に手を当てた。

 一人、……二人、……三人。いや、もっと。

 人気の無さを確認し終えたのか、背後の気配が大胆に近づいてくる。物取り目的のゴロツキであれば全く問題がない人数だが、気配の消し方や動き方をみるに、訓練された集団のようだ。誰だ?目的は?考えを巡らせているうちに、路地と路地が交わってぽっかりと広がった場所に出た。逃げ切ることが難しいと判断したルイスは剣を振るうのに十分な広さがあるそこで立ち止まり、剣を構えて振り返った。後をつけてきていた男達も抜き身の剣をルイスに向けて、統率の取れた動きで囲い込んだ。


「……念のため聞いておくが、人違いではないんだな?」


 男達は答えなかった。無言が返答らしい。

 全部で五人。濃緑と黒の、恐らくはどこかの貴族直属の騎士服を着ている。身元に繋がる装束を惜しげもなく披露しているということは、ここで確実に目撃者でもあるルイスの息の根を止めるという自信の表れだろう。

 緊迫した睨み合いが続く。先に動いたのは圧倒的に数で有利な男達だった。連携した攻撃を、だが、ルイスは冷静に太刀筋を見極めて受けていく。


(負ける相手じゃない)


 相手は騎士とはいえ、どこかの私兵にすぎない。王室直属の騎士団は精鋭中の精鋭であり、そこで頭角を現すルイスの敵ではない。振り下ろされた刃を打ち返し、勢いで仰け反った顎に柄で一撃を加えて意識を奪い、立て続けに薙がれた剣を剣で受け止めて、かつてウィリアムにも喰らわせた強烈な蹴りを鳩尾に入れてやると、男は一瞬蹲った後ぐらりと無気力に頽れた。残りは三人。ルイスの猛攻が思いがけなかったのか、男達は少し距離を取って陣形を組みなおした。左右の二人が同時に斬りかかってくるのを、ルイスは的確に避け、右の男を足を払って転倒させて、剣を落として地面を這う手のひらに刃を突き立てる。野太い呻き声を聞き捨てて、左の男の剣を潜り、そのこめかみに振り上げた踵を打ち付ける。昏倒する男を一瞥して体勢を整えると、二の腕に僅かな痛みが過った。残る最後の一人の切っ先が、ルイスの血を纏って突き抜けていく。反射的に身を翻して避けて、突き出された腕を掴んで、男を背中に負い、思い切り地面に投げつける。石畳に頭を打ち付けて、男はぴくぴくと痙攣したまま白目を剥いた。


「ふぅ……」


 一方的に襲われたとはいえ、相手がどこの所属でどんな身分なのかわからないため殺さずにおいたが、また動き出したら面倒だ。ルイスは息を整える間もなく来た道を引き返そうとしたが、陰から現れた新たな気配に足を止めた。


「ようやく追い詰めたぞ、薄汚い平民上がりが」


 姿を現したのは、豪華な衣装を纏った若い男だった。金色の髪を後ろに撫でつけ、神経質そうに青い目を吊り上げて、機能性よりも見た目を重視してごてごてと装飾された剣を持っている。見るからに地面に転がる騎士達の主然とした男だが、見覚えはない。


「……もう一度聞いておきますが、人違いではないのですか?」

「間違うものか。その顔。私の婚約者を誘惑したその顔を!見間違えるものか!」

(そういうことか)


 ようやく合点がいき、ルイスはうんざりとした。いつだったかアルバート達と話をした、よくある悋気による理不尽な逆恨みだ。

 無駄だろうと思いつつ、一応、申し開きを試みる。


「私には身に覚えがございません。自分の身分も弁えておりますので、貴方様のような高貴なお方の婚約者様を誘惑などしておりません」

「しかしその妖しい赤い瞳で蠱惑しただろう」

「しておりません」

「まだ言うか、私のジュリエッタのハンカチを拾い、それを口実に近づいた痴れ者め!」


 ジュリエッタという名前は初めて聞いたが、ハンカチという言葉から、それが宮廷舞踏会で会ったドレスと揃いの赤い口紅が印象的だった令嬢だと、ルイスはすぐに理解した。ルイスの名前を訊ねてきた彼女がジュリエッタで、目の前の熱り立っている男が彼女の婚約者で、愛しのジュリエッタに横恋慕しているのがルイス……という男の認識らしい。あまりの事実の歪曲ぶりに堪らず溜め息を吐きそうになるも、火に油を注ぎかねないのでどうにか吞み込んでやりすごす。


「誤解です、私はあの夜職務を果たしただけですし、あれ以来、貴方の婚約者様とは一度もお会いし、て……」


 どうにかして穏便に解決できないかと弁明を続けたルイスは、不意に、舌に違和感を感じ取って言葉を切った。


「これ、あ……」


 上手く呂律が回らない。自覚と同時に眩暈が押し寄せ、たまらず膝をつく。しかし足の感覚も覚束ず、あっという間に、剣を握る手の力も抜けていく。

 驚愕したルイスの目が、じくじくと痛む二の腕の傷を捉えた。


(毒か……!)


 気を抜けば倒れ込みそうになりながらも、ルイスは剣だけは落とすまいと強く柄を握り込んだ。男はにやりと嘲笑を浮かべると軽快な足取りでルイスに近づいた。


「ようやく効いたか。即効性と聞いていたが……やはり汚らわしい場所で生きてきた者には毒も効きにくいか」

(このために……べらべらと喋って時間を稼いでいたのか……)

「さて」


 男は徐に剣先をルイスの眼前に据えた。


「評判通り腕の立つお前だが、こうなっては手も足も出まい。このまま捨て置いて苦しみながら死ぬ様を眺めるのも一興だが……やはり直々に始末した方が気が晴れるな。ジュリエッタがお前の名前を口にし、お前が拾ったハンカチを茶会で他の令嬢に見せびらかす度に私の腹の底でのたうち回っていた殺意ともこれでお別れだ。まずはその罪深い顔から――ぐあっ!?」


 上機嫌で喋る男のありありとした油断を、ルイスは見逃さなかった。気力を振り絞り、麻痺しかけている足と手を動かし、隙だらけの男の鳩尾に全力で肘を突き入れる。男は潰れた声を上げて倒れ込み、落ちた剣ががらんがらんと激しく音を立てた。


(しばらくそこで伸びてろ、クソ自己陶酔野郎……)


 男が完全に失神したのを確認して、ルイスは壁を伝って表通りを目指した。鞘に仕舞うこともできずに引きずる剣の切っ先が敷石に擦れてガリガリと鳴る。長い時間をかけて戻り、路地の先から光とさざめきが差し込んできたところで、ルイスは遂に力尽きた。


(あと……少し……)


 あと五歩、進めば。しかし、重い体は這うことすら困難だった。どうにかして、自分がここにいることを知らさなければ。

 ルイスは混濁する意識で考えた。視界に、倒れた拍子に前に投げ出した右手と、そこに握られた剣が映る。


(頼む……届いてくれ……)


 ルイスはなけなしの力を込めて剣を投げて地面に滑らせた。剣は歪な弧を描いて路地を飛び出し、――そこまで見届けて、ルイスは意識を手放した。

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